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  銀のMaZe 作者:fatum
第1話 はじまりの森
「圏外だし。」

パクンと携帯を閉じると、液晶の光を受けて感度を失った目を一端閉じ、闇に慣れるのを待つ。回復した視力でもう一度辺りを見回したが、やはり景色は最初と変わらなかった。
扉を開けたら目の前は森で。気付いたら先程まで握っていたはずのドアノブも、それどころか扉さえなかった。
はぁと溜息をつくと、こめかみを押さえる。
寝不足なせいで夢でも見ているのだろうか。
「とりあえずちょっと歩いてみるか。」
低いパンプスの踵が湿った土に食い込んで歩きにくいことこの上ないが、何もしないよりはマシだろう。そうしてゆっくり歩きながら、きょろきょろと辺りを観察した。どこもかしこも木、木、木。夜の闇にさらに重なるように影を落とすそれらを見ながら、梟なんかが鳴いていてもおかしくなさそうだなと、的外れなことを考える。

そうしてしばらく歩き、間違っても風流などとは言えないその景色に辟易しかけたころ。
木々の葉擦れの音に混ざる微かな水音に足をとめた。
耳を澄まし、その音に導かれるように歩みを進めると、ほどなくしてそれは見つかった。
湖、にしては水がやけに澄んでいる。音源を辿り暗闇に目を凝らすと、湖の一番奥、斜めに切り立った崖の割れ目から透明な水がその存在を主張するように溢れていた。
泉だ。
「…飲めるかな。」
実は結構前から喉が渇いていた。家に帰ってから夕食を取ろうと思っていたために食糧もない。専門書の入った重い鞄を傍らにおろす。腹を壊したらその時考えよう。薬なら少しはあるし。そう思い、そっと泉を覗きこんだ。
が、前屈みになった瞬間、湿った草にずるりと手を滑らせた。
「え、ちょ…やっ!」
ひやりとした時にはもう遅かった。やばい、という言葉を紡ぎ終わることはなく、派手な水音とともに体は泉に落ちていた。
「あー…ついてない。」
辛うじて足は付いたので溺れる心配はなかったが、見事に頭から水をかぶって濡れ鼠となった自分にもはや溜息も出ない。顔に張り付く髪を両手ではらいかけ、やめた。もう一度ざぶんと頭まで浸かり、ざばぁと勢いよく上がるとバシャリと後ろへ倒れた。
「何やってんだろ…」
水に合わせてゆらゆらと揺れる服が気持ち悪い。
温い水に体を浮かせたまま、空を仰いだ。
頭上から、自分を見下ろす赤い月。
赤い月は凶兆の前触れ。
――あぁ、だからこんな所に来ちゃったのか。
と妙に納得し、何気なく視線を横へずらした瞬間、凍りついた。

湧水溢れる崖の上。

黒々とした大きな鋭い目が複数、こちらを見ていた。

ゆっくりと水の中で立ち上がり、狼のような獣と視線を合わせたままじりじりと下がる。背中が泉の淵に当たるのを感じたと同時にざばりと勢いよく体を持ち上げ、置いていた専門書の入った鞄を抱えて駆け出した。
崖の勾配はきつい。あそこを滑り降りてくることは、いくら獣とて無理だろう。
だが人と獣の足の速さなんてたかが知れてる。土地勘もない私では、追いつかれるのも時間の問題だ。
水を吸って重くなった上着を走りながら脱ぎ捨てる。
専門書など、置いてきたほうがよかったのかもしれない。
けれどこの腕にかかる重みが、自分という存在を証明してくれているような気がして手放したくなかった。

後ろから、獣の息遣いが聞こえる。

食い殺されるのだろうか。
喉笛を食い破られ、内臓に至るまで食いつくされるのだろうか。
考えるだけで寒気がした。

(今はただ)

ただ逃げることを考えよう。
恐怖で震えそうになる足を叱咤し、鞄を抱く腕に力を込め、前を見据えてひた走った。


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