love me do
吉村薫少年が童貞でなくなったのは、十二歳の時のことだった。
その夜、薫は廃工場の中で、たった独りでいた。傍らには、ぼろの皮鞄がある。学校から家には帰らず、ずっとここで、夜を過ごしていたのだ。
家では祖母が独り、寝込んでいた。半年前、病に倒れてからは、ずっとそうだった。
薫は、祖母がおそろしかった。寝込んでいるとはいえ、そこにいるのは鬼だった。薫は家から毛布を引っ張り出すと、半家出状態で、この廃工場に住み込みはじめた。
学校にいようと、家にいようと、この廃工場にいようと――薫はいつだって、独りだった。祖母と二人で暮らしていようと、独りだったのだ。彼を愛するものは、この世に一人だって、いなかった。
屋内は広く、機材は運び出されているので、がらんとしている。その隅、窓の下に、薫はいた。身体を毛布で包み込み、白い吐息を、両手に吐きかける。震える対の、親指の爪が、月明かりに淡く光った。目を瞑れば、波の音がする。寒く、うるさく、薫はいつまでも、眠れなかった。
そんな時だった。何の気なしに横を向いた薫は、そこで妙なものを見た。
四角く縁取られた月光の中に、女がいる。異国人のような服を着て、静かに立っている。目を凝らし、少し離れたそこを、よくよく見る。――確かにいる。
薫は毛布を手にしたまま、ゆっくりと、立ち上がった。女はしばらくすると、足音も立てずに、歩み寄ってきた。薫の中に、恐怖はなかった。近づくほどに、顔が見えてくる。
そこには、優しく、綺麗な微笑みがあった。肌は白く、透き通っていた。少し目尻の釣り上がった目、高い鼻梁、尖った顎。暗闇よりも濃い黒髪は胸元まで伸び、薄い唇は、紅かった。薫よりも身長の高いその女は、薫を見下ろしたまま、ただ黙って、微笑み続けた。
薫は初め、その女は自分の母なのではないかと、思った。顔も知らない、自分を置いて何処かへ行ってしまった母が、自分を迎えに、来たのかと。
しかしなぜだか、そうではないような気もした。なぜだかは、薫にはわからない。それは直感的で、『こんな綺麗な女が、我が子を置いて何処かへ行ってしまうような女であるはずがない』とでも、思ったのかもしれない。
しばらくそうして、黙って見つめあっていると、女は左手で、薫の頬に触れた。
その手の冷たさに、薫は一瞬震えたが、嫌がりはしなかった。誰かに触れられることなど――求められることなど、今までなかった。女は静かに跪き、目線を薫と合わせた。瞳の中に、薫は自分を見た。
女は右手で薫の頭をゆっくりと撫でて、後頭部にまで回すと、微かな力で、抱き寄せた。
女に包まれると、薫は自分の心臓の音を聞いた。持て余した両手を、やがて、女の背に回した。
薫の中で、ゆっくりと何かが、生まれようとしていた。新芽が土を押し上げて、その身を現すかのように。それは萌え出でると、本能的に求めた。女は何一つ、嫌がるような素振りも見せず、むしろ進んで、導いた。
冷たい、夜の空気の中で、二人は求めあうように、愛しあった。
それが、薫にとってのはじめてだった。はじめて知った、愛だった。
*
目を瞑り、感覚を集中させる。
――さざ波の音。むせかえるような、潮の臭い。ありありと、若き日々の思い出が、蘇る。
女は郷愁の想いに耽りながら、海岸線を歩いた。左手には海。右手には、廃工場群。
やがて女は、ある廃工場の敷居をまたぐ。――埃と、錆びの臭い。暗闇に目を凝らし、なにかを探していた。
窓の下に、ぼろの毛布に身を包んだ、少年がいる。――いた。見つけた。女は自分の感情を押し殺し、待った。
少年が、ふいに、こちらを向いた。女は無意識に、ごくりと唾を呑んだ。
やがて少年は、立ち上がる。女は自分を抑えながら、演じるかのように、一挙手一投足に気を張り巡らせながら、静かに、少年の元へと、歩いていった。
少年を前にして、女の顔がほころぶ。少年は驚いた様子で、何もいわない。
女は左手で、少年に触れた。彼は一瞬、身を強張らせるも、嫌がる素振りは見せず、女はそれを、可愛く思った。
静かに跪くと、目線があった。少年の光る、艶やかな両目に、自分の姿が写っている。それを見ながら女は、右手を伸ばし、頭を優しく撫でた。そして、抱き寄せる。
小さなその身を暖めるように、包み込むように抱いた。背中に、少年の手が、触れる。
やがて、少年は女の身体を、乳房にしがみつく赤子のように、必死で求めた。飢えた少年に全てを与えるように、女は献身的に動いた。
海の音に混じって、二つの声が響いていた。
見ていたのは、月だけだった。
*
薫が目を覚ますと、もうそこには誰もおらず、また独りだった。
着ていた服を鼻にあてがうと、あの女の匂いがした。
次の日も、その次の日も。薫は廃工場へゆき、待った。そして、寝た。
しかし、女が再び現れることは、なかった。
やがて祖母が死に、薫はほんとうに、独りになった。それでも薫は、工場で眠った。彼を生かしたのは、あの一夜だった。あの女だった。
三年後。廃工場は撤去された。薫は祖母の残した家で、相変わらず独りで暮らしていた。
ある日、学校にもいかず、家でただ起きていたときのことだった。視界の端に何かが映ったような気がして、薫はそちらを、ぐいと向いた。
そこには、祖母の鏡台があった。鏡には布をかけてあったのだが、その端が、めくれていた。
薫はおずおずと近づくと、布をめくった。そこには、伸び放題に伸びた髪を垂らした、自分の姿があった。
手を伸ばし、鏡に触れる。指先の一点が、冷たくなる。
薫は、鏡台の引き出しを開けた。そして、取り出したのは、紅だった。
蓋を開けると、中には、渇いた血の塊のようなものがある。薫はいつか見た思い出を頼りに、右手の薬指でそれに触れ、撫でた。
体温で、ゆっくり溶けてゆく。ひび割れた表面が、滑らかになる。薬指を見ると、赤く濡れていた。
少し、鏡の中の自分と、見つめ合う。やがて薫は、その右手を唇へと、持っていった。
口と右手とを能動的に動かして、色を引く。両の唇を合わせて、開く。
薫は少しの間、鏡の中の自分と見つめあった。そして静かに、両手を伸ばし、鏡の中の自分と両手を合わせると、ゆっくりと、鏡面に、顔を近づけた。
薫はそうして、自分と、口づけを交わした。
*
女が目を覚ますと、辺りは仄かに明るく、月に代わって太陽が、その身を天に昇らせようとしていた。
少年の短い髪にそっと触れると、想いを断ち切るように、すっくと立ち上がった。女は外套の襟を正し、振り向かず、早歩きで廃工場を出た。
「探したぞ」
女を、呼び止める者があった。体躯の良い男で、帽子を目深にかぶっている。
「なにをしたんだ」
男は憤りを隠さない様子で、女を問い詰めた。
「過去の自分と接触することは重罪だぞ。わかっているのか」
抑えてはいるものの、声の節々に怒りが見える。
「もちろん」
女は何食わぬ顔で、返す。
「……気付かれちゃあ、いないだろうな」
訝しげに聞く男に、女は睨みを利かせた。
「私のことは、私が一番よくわかってる」
男と女は、しばらくそのまま見つめ合った。やがて男が折れたように目を逸らすと、「わかった」と呟いた。
「行くぞ。もう、時間がない」
歩き始めた男の跡に、ついて行く女。だが女は、一度だけ振り向いた。
海の向こうで、眩しさが弾けている。空を白く染め、夜明けを告げる。
廃工場の中はまだ暗く、冷たさで満ちている。そこに残してきた少年に向かって、女は小さく、呟いた。
愛してる
誰にも聞かれなかったその言葉は、余韻も残さず、世界から消えた。
「カオルッ」男の呼ぶ声がする。女は今度こそ、一度も振り返らずに、帰っていった。