坂東蛍子、ストーカーと共闘する
「おーい理一、教科書サンキュ・・・」
川内和馬が二年B組の教室のドアを開けると、坂東蛍子が一人放課後の教室でアキレス腱を伸ばし、両手を合掌させ天高く突き上げていた。これは所謂ヨガというヤツだな、と和馬は心を平静に保つため自分に暗示をかけた。英雄のポーズというヤツだ。
川内和馬は坂東蛍子の隣のクラスの男子高校生である。マーマレード・ジャムが好きで家には常に自分専用の瓶を確保している(最近は小さい弟と妹が真似するようになったため名前を書いたラベルを貼るようになった)。今は冴えない顔をして、固まったまま顔を赤くしている蛍子のことを眺めているが、二十代の後半にはひょんなことからイタリア南部のカラブリア州で唯一の東洋人として活動するマフィアの構成員となり、地元では“ノンクリ”と呼ばれ恐れられる男となる。それ以外には特に特筆することの無い、普通の高校二年生だ。
和馬は以前蛍子が自分のジャージを着て下校するところを目撃し、慌てて追いかけたところストーカーと間違えられたことがあった。弁明する自分の声を遮り、顔を真っ赤にして和馬のジャージを着たまま走り去っていく蛍子の姿を見て和馬は思った。
「なんて豪快奔放な人なんだろう。好きだ」
翌日、和馬は隣のクラスの坂東蛍子という人物について調べ始めた。容姿も優れ文武に秀でた坂東蛍子はクラスメイトからも慕われる非の打ち所の無い人物に見えたが、彼女のそういった部分を妬み陰口を言っている勢力も少なからず存在するということを和馬は度重なるリサーチの最中に突きとめる。煌びやかな笑顔の陰で陰湿ないじめを受ける蛍子の姿を想像して和馬は思った。
「俺が守らなければ」
翌々日、和馬は同じように坂東蛍子を愛する信頼出来る友人を数名集め“坂東蛍子親衛隊(通称坂東隊)”を秘密裏に設立。蛍子を束縛しないため追いかけることを禁止する一方で、見かけた場合は可能な限り遠巻きに見守り、周囲の悪意から守るという会則を定め、同志を募った。初めは数人のメンバーであったが、一週間後には組織の規模は数十人へと膨れ上がり、現在も坂東蛍子を陰ながら悪の魔の手から守っている。和馬は蛍子にジャージを着られた過去を持つため特別な男として隊員達に尊敬され、天性の諜報能力も相まって、いざという時に頼りになる信頼出来る隊長としてその地位を確立していた。
要するにストーカーである。
坂東蛍子は素早く気持ちを切り替えると、教室へ入ってきた闖入者に鋭い声で指示を出した。
「早くドアを閉めなさい!ジャージ男!」
和馬はビクっと全身を硬直させた後、すぐに彼女の指示に従った。ドアを閉めながら、俺のことを覚えていてくれたんだな、と内心で多幸感に包まれていた。
「ミントメガネ!」と坂東蛍子は変なポーズを見られた恥ずかしさを誤魔化すために立て続けに和馬をもう一度罵った。和馬は、これは悪口なんだろうか、と頭を捻りながら、一応自分が蛍子に仇なす存在ではないことを弁明するために口を開いた。
「坂東さん、俺はただ友達に教科書を――」
シーっと蛍子が口に人差し指を当てて和馬を一層睨んだ。
「静かにして。羽音が聴こえないでしょ」
「羽音?」
「蚊がいるのよ・・・あ!」
蛍子が片足を上げ、上半身を捻って宙を叩いた。こんな感じのインドの像を見たことがあるな、さっきの姿勢も可愛かったけどこれもこれで可愛いな、などと和馬は上の空で考えていた。しかしそうか、先程の蛍子のポーズも蚊をとらえようとした際のものだったんだな。まだ梅雨にも入ってないのに季節外れな蚊もいたもんだ。
「もうっ」
蛍子は自分の手の中に蚊の痕跡が無いことを確認し、悔しそうに机を打った。先程からかれこれ10分程蚊との格闘を続けていたが、向こうは蛍子の周りを徘徊するだけで一向に接触を図ろうとしてこない。そのために蛍子は空中戦という相手の土俵で戦わざるを得ず、終始攻めあぐねているのだった。蛍子は自分に付かず離れずの蚊の行動がとにかく癪に障っていた。「この人間の血はマズそうだけれど、他に人間もいないし、仕方ないからせめて一番美味しそうなところを探して吸おう」とでも思われているような気がしたからだ。
川内和馬は季節外れの蚊一匹ぐらい見逃してやっても良いのでは、と心中で考えたが、しかし蛍子にはこの一匹を絶対に見逃すことの出来ない理由があった。
坂東蛍子は小さい頃、幾ら退治してもいなくならない家中の夏の蚊を前に、「こいつらは分裂している」という先入観を幼心に抱いた。
(蚊は分裂することで多様性を確保し、最盛期の夏で人間と接触することでその中から最も優れた個体を選び出し、夏が終わるとその分裂前より強くなった最優秀個体が他の個体を吸収し力を蓄え冬を越す。そうやってどんどん進化しているんだ)
幼い蛍子は自分の想像の恐ろしさに一晩震えが止まらなかった。
その先入観は理科や生物の学習をした後でも変わることなく残り続け、高校生になっても彼女の中で燻り続けているのである。当然、蚊が分裂して増えるならば季節を辿れば大元の一匹目がいることになる。少女は春に現れたこの教室の蚊を見て「こいつが本体だ」と確信し、今年の日本の平和のためにも何が何でも倒さねば、と蛮勇を胸に燃やし孤独な教室にて一人誓ったのだった。
「あんた、教室に入ったからには手伝いなさいよね」
蛍子は辺りをキョロキョロ見回しながら和馬を手招きした。
「背中合わせになりましょう。どうせ蚊は向こうからやってくるんだから、こちらは必要な認識範囲を狭めることで機動力を上げるのよ」
「なるほど・・・いや、でも・・・」
早くしなさいよ、と蛍子が逡巡する和馬に歩み寄り、反転してピタリと背をくっつけた。和馬の心臓は既に破裂寸前だった。蛍子が腕を振り、柔らかい肌が触れる度に鼓動は一層跳ねあがった。彼女の長い黒髪が首筋を暗示的になぞった時などはもう呼吸が止まりそうだった。川内和馬はストーカーではあったが、それ以前に同級生に恋する一人の男子高校生なのだ。
ロクに言葉を交わしたことも無い、恐らく自分の名前も知らないであろう想い人の体温を背中越しに感じながら、このままではマズい、と和馬は思った。目がチカチカしてきた。
「ば、坂東さん、これじゃ足元を狙われたら対応出来なくないかな」
「え?」
今一腑に落ちなかった蛍子は、自分の脛辺りに手を伸ばし実践してみることにした。彼女が足元を触るために屈みこむと、その分後ろに尻が突き出て和馬が逆方向に弾き飛ばされた。
「あ、ホントだ」
「ハハハ・・・」
和馬がショートしかけていた脳みそを冷ましながら、また貴重な経験をしてしまったな、などと考えていると、蛍子が真剣な顔をしてゆっくりこちらに近づいてきた。何事かと目を白黒させている和馬に、しかし彼女はお構いなしに顔を近づけてくる。その間も和馬の顔から視線を外すことは無く、何かを訴えるようにジっと目視し続ける。綺麗な目だ、と和馬は思った。
バチン!と大きな音が放課後の教室に響き渡った。蛍子は和馬の頬から手を離す。
「やったわ!」
蛍子の手の中には、見事な魚拓のように平べったく変わり果てた蚊の姿があった。蛍子が嬉しそうに和馬の方を見返すと、予想以上に真っ赤に腫れている和馬の頬に気付く。しまった、強く叩き過ぎた。蛍子は詫びるように和馬の頬を撫で、素直に謝る代わりに彼の囮としての功績を讃えた。
「やるじゃない、川内和馬」
【川内和馬其他登場回】
・ストーカーに謝られる―http://ncode.syosetu.com/n7369by/
・静寂の極意を得る―http://ncode.syosetu.com/n8783by/