黄昏のユニコーンは駆ける、ただ一人の少女の為に
これは、ここより遠く離れたある国の話です。
皆さんはとある動物をご存じでしょうか。ユニコーンという動物です。聞いたことがあるのですね?
そう、それは美しき獣です。一言で表現するならば、一本角を持った白馬です。たてがみまでも白く、その目は青水晶の如く青い。額より伸びた角は、緩く螺旋を描いてピンと伸びています。
どこまでも美しく、どこまでも気高い獣、それがユニコーンです。
そんなことは知っている? そうですね、これは失礼いたしました。それでは始めましょう。ここより遠く離れたとある国の、一頭のユニコーンと一人の少女の物語を。
その大陸がいつからあったのか、どのように生まれたのか。そんなことは誰も知りません。
語り部の翁達はただ昔々からとだけ、幼子達に話します。そしてそれを聞いた幼子達は、嬉しそうに親に話します。「ねえ、昔々からこの大陸はあったんだって!」と、その瞳を輝かせて。
ならば、それで良いのでしょう。千年も万年も、いいえ、百万年も前からこの大陸があったとしても、それはこの物語には何の支障もないのですから。
広々とした大陸には、人が住んでおりました。人々は村を作り、町を作り、そこに集まって暮らしておりました。中には遊牧民と呼ばれる民もいました。彼等は村や町に定住しません。白い布で顔を覆い、馬やあるいは駱駝に跨がり、世界を放浪するのです。定住者が拠点を構築し、遊牧民はその拠点の隙間を埋める。そう言い換えても構いません。
それでは、その大陸には人しかいないのでしょうか。いえいえ、それは違います。人がいかに賢く、効率的にその勢力を広げたとしても、世界は更に広いのです。少しだけご紹介いたしましょうか。
そう、それは例えば。覗きこめば魂までも落ちていきそうな、深き深き渓谷でありましょう。
天を突かんばかりの岩山が連なり、天然の要害と化しましょう。
河川が入り組み、豊富な水が滔々と流れます。清らかな水の恵みは、魚を育み、海へと続く流れとなりましょう。
どこまでも、どこまでも続く砂漠もありましょう。さらさらとした砂は無限と広がり、全ての音を吸い込みます。時の流れも、砂の流れに消えていきます。
おや。一つ忘れておりました。この物語の舞台となる、森のことです。木々が鬱蒼と重なり、枯れ葉がふかふかの絨毯を形成し、獣達がのんびりと暮らす森のことです。春には草木が色とりどりの花をつけ、秋には様々な果実がなる森のことです。人里からは高き山を、荒れた台地を、広大な砂漠を隔てた森のことです。
騒がしい人里からは遠く遠く離れた、この森に。
一頭のユニコーンが住んでおりました。
† † †
白い兎が跳ね、黒い兎がその後を追います。鹿達は群れをなして水を飲みます。おや、あそこに見えるのは熊でしょうか。その近くには狐の家族もいます。森の動物達は、皆仲良く暮らしています。
異なる動物が仲良く暮らしているのです。中々見ることは出来ません。珍しいこの光景を支えているのは、ひとえにこの聖なる獣のおかげでしょう。神々しき一本角に、青水晶のような瞳。四つの蹄は大地を掻き、白いたてがみは万年雪を思わせます。あなたはこの獣の名をご存じのはず。そう、人はこの獣をユニコーンと呼びます。
人より遥かに賢く、気高い一本角の白馬。彼は――そうですね、敢えて彼と呼びましょうか――この森の王様でした。全ての獣達が、ユニコーンを敬い、その頭を下げました。
ユニコーンはそれに驕ることは致しません。彼は生まれた時から、王なのです。ただ一頭、己の記憶にすらない遥か昔より、ずっとずっと王なのです。荒ぶることも動じることもなく、静かに佇む王でありました。けれどもそれは、孤高の王でもありました。
動物達は悪くは無いのでしょう。自分達より圧倒的な力を持った存在を前にして、対等であろうということは出来ません。ただただ畏怖して、敬うだけです。本能的にひれ伏します。
それだけの神性と迫力が、ユニコーンには生来備わっておりましたから。
そう、ユニコーンはこの森の、いえ、人ならざる物が支配する領域の王だったのです。
だが、何故でしょう。ユニコーンは面白くなさそうな顔をしています。
「つまらん、誰も彼も対等な立場で話してくれない」
一本角の白馬の本音、それはただただ単純でした。ええ、彼は自分を理解してくれる友達が欲しかったのです。
† † †
いつ自分がどこで生まれたのか、ユニコーンははっきりとは覚えていません。物心ついた時には、彼は自分が特別だという事を知っていました。恐らく、数千年単位で昔のことです。両親は最初から存在しませんでした。
その頃の彼は若かった為、世界のあちこちを旅しました。草原、森、高原、湖沼地帯と生き物が住みやすそうな地域を、あてどなく。そして様々な出会いと別れを繰り返しました。
多くは動物が相手でしたが、人間とも交わりました。二本の足で歩く人間は、彼にとっては新鮮ではありました。服と呼ばれる布の組み合わせを着こみ、家と呼ばれる建物を作っていました。ああ、これは動物とは違うなと彼は理解しました。
人間達もユニコーンに興味を示しました。勇気ある者、好奇心ある者はユニコーンに近づき、果てはその背に跨がろうとしました。
ユニコーン自身もそれを受け入れようとして、けれども、結果は限定的でした。彼に触れる事が出来た者は、男性経験の無い女性だけだったのです。
「え、他の皆は乗れないの?」
ある乙女がキョトンとした顔で呟きます。ユニコーンに触りながら、他の乙女も顔を見合わせます。自分達は出来るのに。
「ああ、俺達は駄目だった。一定距離までは寄れるけど、そこからは一歩も動けない。無理に踏み込めば、ビリビリと体が痺れる」
「あたしたちだってそうさ。いやあ、ユニコーン様は夜を知らない女の子がお好きなんだねえ。あっはっは!」
ユニコーン自身は、何とも言えないもやもやした気分でした。自分では何もしていないのに、どうやらそのような体質らしいです。これはどうすることも出来ません。一種の軽度の呪いなのでしょうか。
「仕方ないな。乗りたい者は乗ればいい」
彼の言葉に、乙女達はわっと沸き立ちました。聖なる一本角の白馬は、乙女達のアイドルとなりました。ですが、それにはとどまりません、並外れた賢明さと魔力を秘めた白馬なのですから。
旅から旅を重ねる内に、ユニコーンは伝説の神獣として語られるようになりました。尊敬の眼差しは深まり、何処に行っても丁重に扱われます。
けれども、誰一人として、彼を対等の存在としては見てくれませんでした。人間も動物達と変わりありませんでした。
いえ、場合によっては、動物より酷いかもしれません。何故なら、ユニコーンの角に秘められた魔力を求めて、悪人が近寄ることもあったからです。悪人ではなかったとしても、時の権力者がすり寄ることは幾度となくありました。
「人間って面倒くさいな」
ため息をつきました。もう世界のあらかたは見終わりました。ならば引きこもろうか。ユニコーンはそう考え、実行に移しました。とある大陸の端、深い深い森の奥を住居と見定めて。
† † †
人里離れた森の中で、ユニコーンは王様でした。遠い記憶を時おり思いだしながら、日々を静かに過ごします。静かで穏やかで、だけどどこか物足りない日々を。
一人なのです。誰も自分を理解してくれていない。そのように考えると、とても寂しくなります。
あと何年生きるのかと、ふと考える時もあります。自分の寿命など分かりません。教えてくれる人もおりません。
けれど、周りの動物達が幾世代も変わっていくことを、ユニコーンは見送ってきました。自分は不死なのかもしれません。そう、特徴的な一本角の魔力が、ユニコーンを死なせないのです。
「さしてやることもないが、死にたくもないな。まあ、流石に角が折れたら死ぬかな?」
そんなことをポツリと漏らすと、動物達に詰め寄られました。ユニコーンは全ての動物の守護者であるので、亡くなっては困るのです。なるほど、存在意義はあるのですね。けれども、どうにも息苦しい。
そんな一本角の神獣のため息は、ある日の闖入者により破られました。
どごーん、と大きな大きな音がしました。全ての動物達が耳を立て、その音を聞き取りました。
何でしょう、何か大きな物が落ちてきたような音に聞こえました。すわ、ドラゴンか、すわ、ロック鳥かと皆が騒ぎ立てました。
けれども何ということでしょう。落下点とおぼしき森の奥から現れたのは、大きな生物ではありませんでした。「いててて、何ここ。どこよ?」と顔をしかめているのは、一人の女の子でした。
旅装用に改造されたドレスを纏い、その右手には箒を握っています。濃い茶色の髪は肩口を越えて伸び、少女の綺麗な卵形の顔によく似合っておりました。
その瞳も茶色であり、きょろきょろと周囲を見渡しています。思慮深さと若さ、本来相反すべき二つの要素が、その視線には宿っています。人間の基準から言えば、かなりの美少女にあたるのでしょう。ですが、動物達にとっては、それでは済まされません。
人間です。動物達が住む森に、いきなり人間の少女が現れたのです。ここ百年余りの間、人間がこの森に現れたことはありません。彼女を遠巻きにしながら、熊も鹿も狐も兎も緊張の色をあらわにしています。
「ん、何でこんなにたくさんの動物がいるのよ、この森」
怪訝そうな顔をして、彼女は眉をひそめました。その場を一種の緊張状態が支配します。けれども、それは長くは続きませんでした。
「私が支配する森に何の用か、人の子よ」
「う、うわぁ、この馬......喋ったあああ!?」
そう、これが神獣ユニコーンと、不思議な人間の少女の出会いでありました。
ユニコーンの傍らで、少女は話し続けます。興奮気味に話す彼女をなだめながら、ユニコーンは少女の会話をまとめました。
「つまり君の名はマリーナ・オーレンと言い、歳は十六歳で」
「そう、そうそう!」
「この森から遠く離れた人の国に住んでいて、そこから飛行魔法で飛んできて」
「イエス! ザッツライト!」
「魔力切れを起こして、この森に墜落したということだな」
「うん! すごいね、ユニコーンって! 私の話が分かるなんて、あったまいい!」
「......うん」
はしゃぐマリーナを前にして、ユニコーンはため息をつきました。ざっくり要約すると、マリーナ・オーレンと名乗るこの少女は、結婚を前にして逃げ出してきたらしいのです。
ユニコーンは知りませんでしたが、オーレン家は貴族の末席に連なる家でした。その為、子供たちの結婚も親同士が決める事が普通でありました。そしてマリーナはあろうことか。
「結婚式の前に一回くらい親に逆らってみたかったんだよおお、悪いかあああ!」
「やかましいわ、小娘!」
ええ。結婚前の憂鬱であったようですね。ユニコーンは呆れました。ワガママだなとは思います。けれど、マリーナにはマリーナの気持ちがあるのでしょう。
「いやね、私もオーレン家の娘だから、結婚がそういうものだってことは覚悟してるのよ。別に見合い結婚でも、幸せになれるとは思うし。でも、長い人生の中で一回くらい羽目を外したいのよ。結婚したら、ずっと家と家のしがらみにまとわりつかれるんだし」
「そういうものか」
「そういうものなの。だからお願い、ちょっとの間だけでいいからさ。この森にいさせてくれないかな? 私だって、ずっとここにいるのは無理だって知ってるし。息抜き出来たら、ちゃんと帰るから」
マリーナが手を合わせて拝んできます。その必死の表情に、ユニコーンも駄目だとは言い出せません。
「分かった、仕方あるまい。二週間だ。二週間だけなら、この森にいてもいい。だが、人の子よ。二週間が過ぎたら、ちゃんと国に帰るのだよ。ご両親も、あなたの婚約者も心配しているだろうからな」
「ほんと!? うわあ、ありがとう!」
満面の笑みを浮かべ、マリーナはユニコーンに飛び付きました。避ける暇も無いまま、ユニコーンはその首に抱きつかれました。マリーナの柔らかい手が首にまわり、ユニコーンは驚きました。彼をそのように抱き締める存在は、これまでいなかったからです。
「こ、こら、離れろ。危ないだろう」
「大丈夫だよ、私まだ綺麗な身体だし。だからあなたに触れても、何の問題もないって!」
「うら若き乙女が大声で言うことかね、それは!?」
一人の少女は笑います。それを見て、一頭のユニコーンは呆れます。ですが、それはけして悪い感情ではありませんでした。
マリーナ・オーレンという少女の存在は、ユニコーンにとっては謎でした。彼女は今までに会った人間とは違いました。それも色んな意味で。
「ねえねえ、乗ってもいい? 乗ってもいい? ほら、私綺麗な身体だから近寄っても平気だし」
「それは前に聞いたよ、何度も言うな。ああ、もう勝手に乗れ」
馴れ馴れしいのです、とにかく。
「ふわあ、この森ってすごく広いんだね。それに動物達がたくさんいる」
「人の手が入っていないから、動物達にとっては楽園だろう。この森を守護することは、私の責務の一つだ」
「わぁ、今キリッとした感じだった。うん、かっこいい。キリッ!」
「馬鹿にしてるのかね?」
貴族の子弟なのに、森の様子に興味を示したり。
「あら、そういえば。私、あなたの名前を聞いていなかったわ。聞いてもいい?」
「名前は無い」
「は? え、名前が無いの? おかしくない、それ?」
「そうか? ユニコーンはユニコーンだ。私の他にユニコーンはいないようだし、別に不自由じゃないさ」
「ううん、でもさ。ユニコーンって種族名でしょ。あなた個人の名前じゃないじゃない。それって寂しくないかな」
「――考えたこともないな」
「そうなんだ。じゃあ、私があなたに名前をあげる。そうね、メリンガーっていうのはどう? いい響きだと思うんだ。気品があって、優しいあなたにぴったりの」
マリーナの提案に、ユニコーンは目をぱちぱちさせました。名前。この自分に名前。一本角をふいと上げ、ユニコーンはしばし考えこみました。マリーナは「あ、気に入らなかったら別にいいんだよ」とおずおずと申し出てきます。
いえいえ、違うのです。ユニコーンは、いや、ここからは彼のことをこう呼びましょう。一人の人間の少女に与えられた名前で。
「良い響きだな。そうか、私はメリンガーという名前なのか」
穏やかな響きの声に、マリーナは元気よく頷きます。パッとその場の空気が華やぎました。
「よかった、気に入ってくれたんだね。そう、あなたの名は今日からメリンガーなの。ユニコーンという種族じゃなく、メリンガーという一つの命」
「一つの、命か」
じんわりと暖かいものが、メリンガーの胸に染み渡ります。名前、名前か。彼はこれまで、ただユニコーンとして認識されてきました。けれど、名前一つでその認識の意味は変わりました。メリンガーという一つの命、一つの存在として生まれ変わった気がしました。
「礼を言う、人の子。いや、マリーナ・オーレン」
「いいんだよ、お礼なんて。あなたが喜んでくれたなら、私も嬉しいんだから」
ほんとに奇妙な少女です。人類初のユニコーンに命名した少女なのですから。
まるで恐れることもなく、ただ楽しそうにマリーナはメリンガーと話します。若干うざったく思いながらも、メリンガーはきちんとマリーナに対応します。それはこれまでの人生――馬ですけど――に味わったことのない、新鮮な感覚でした。
マリーナが人間社会の仕来たりを話せば、メリンガーは彼が旅した国の事を話します。マリーナが服や化粧の事を話せば、メリンガーは森の動物達の事を話します。お互いがお互いの事を知りたいと思い、言葉を重ねる日々がそこにはありました。
「ほんとに妙な娘だな」
夜、疲れて草の葉の上で眠るマリーナを見ながら、メリンガーは呟きました。暖かいベッドも無いこんな森なのに、彼女の寝顔はとても満ち足りたものです。貴族の娘とはこのような生き物ではないはずなのに。
首を一振りし、メリンガーは彼女から少し離れました。長い脚を折り畳み、彼はその場に伏せました。見上げれば、満天の星空が漆黒の夜空に広がっています。この分であれば、明日は天気の心配は無さそうです。
そう。マリーナが国に帰る約束をした二週間の最終日は――明日に迫っておりました。
† † †
マリーナとメリンガーが向き合います。一人と一頭が過ごした時間は、二週間。たったの二週間、されど中身の濃い二週間でありました。
神獣と触れあったマリーナはもちろん、初めて理解者と言える存在に出会えたメリンガーにとっても。けれど、いつまでも楽しい時間は続きません。
「帰路は分かるな?」
「大丈夫。どっちから飛んできたかは、覚えてるもの」
「飛行魔法は使えるのだね。食糧は持ったか」
「うん、ばっちりよ」
短い言葉をメリンガーはかけ、それにマリーナが応えます。住む場所が異なり、またお互いの事情があるのです。仕方がない、そう心の中で言い聞かせながら。何でもないふりをして。
「よし。ならば行くといい。マリーナ・オーレンを待っている人達がいるのだから」
しびれを切らしたように、ほんの強くメリンガーは言いました。マリーナもまた、ほんの強く答えを返します。
「うん。ありがとう、メリンガー。結婚前にあなたに会えて......本当に良かった、楽しかったよ」
「ああ、私もだ。君がくれたメリンガーという名前は、私の一番の宝物だよ」
「嬉しいな、そう言ってくれると。ね、メリンガー。私達、友達だよね」
友達。ともだち。聞き慣れぬ単語に、メリンガーの反応が遅れます。
「......と、もだち、か。ふむ、そうか、そうかも」
「やった、メリンガーが認めてくれた! うん、もしこれから会えなくても、私はずっとメリンガーの友達だよ!」
マリーナは笑いました。けれど、その笑顔には少しだけ、切なさが混じっておりました。彼女はもうすぐ結婚します。家に入り、一人の娘から誰かの妻となるのです。それは、ユニコーンに近寄る権利の喪失と直結します。
それでも、友人と言えるのか。友人の資格があるのか。マリーナの不安を察したのでしょうか。メリンガーは、優しく彼女の頬に自分の鼻面をすり寄せました。
「案ずるな、マリーナ・オーレン。君がどうなろうと、私は君の友人であり続ける。そうありたいと願うよ」
「嬉しい。ありがとう、メリンガー。よし、行くぞ。帰ったら皆に自慢してやるんだー!」
メリンガーから離れ、マリーナは箒にまたがりました。短い詠唱の後、彼女の身体はふわりと浮きます。森の木々よりも高くなった時、彼女は大きく片手を振りました。
「じゃあね、メリンガー! 一生覚えてるよ、あなたのこと!」
「達者でな、マリーナ・オーレン」
そしてひゅうと一陣の風が舞い、マリーナはそれに乗りました。あっという間に消え去ります。彼女の飛び去った方角を、メリンガーは見つめました。そしてしばらく動かずに、ずっとずっと見送るように立ち続けておりました。
「さらばだ、友人」
† † †
一頭のユニコーンと一人の少女の邂逅から、長い月日が経過しました。メリンガーは時おり思い出します。かって一人の少女がこの森に落ちてきたことを。そして、彼に名前をつけてくれたことを。
「息災であれよ、友よ」
思い出を胸に、メリンガーは流れ行く月日に佇みます。周りの動物達が死に、その子供達が成長し、そしてその子供達もまた死んでゆく。その生死の輪廻を見送りながら、メリンガーは老いとは無縁でありました。
そう、何も無ければ、物語はここで終わったのです。けれども、五十年の月日が経過した時、メリンガーはまた一人の少女と出会うことになりました。
「はあ、はあっ、うーん、お祖母様の言う通りでしたら、多分この森なんでしょうけれど」
一人の少女が呟きました。肩に流れる髪は濃い茶色、その大きな目もまた同じ色です。旅装用に改造したドレスを纏い、その手には箒を一振り握っています。
少女は疲れているようです。だけど、森の下草をよけながら、よろりよろりと歩きます。
誰かを探しているのでしょうか。誰かを求めているのでしょうか。焦燥の色が濃いその目は、不安と意志の強さという相反する二つの要素を備えておりました。
そしてその少女は出会います。彼女の祖母が語り聞かせた、一本角の白馬に。伝説と謳われた神獣に。深緑の森の奥深く、その美しい白い体はきらきらと輝いているように見えました。
「あ、ああ、見つけた、見つけましたよ! 良かったあ!」
「っ、君はマリーナ・オーレンっ!? いや、そんなはずは」
「初めまして、メリンガー様。私の祖母が名付けたその名で、あなたを呼ばせていただく無礼をお許しください」
初めて会うはずの少女の、初めてとは思えない姿。その謎が解けました。そうか、彼女はあの自分のただ一人の友人の。
「孫娘、なのか。私の友人、マリーナ・オーレンの」
「はい、マリーシャ・オーレンと申します。メリンガー様、いきなりの訪問のご無礼をお許しくださいっ! 祖母が、私のお祖母様が、大変なんですっ!」
がくんと、マリーシャと名乗った少女の膝が落ちました。柔らかい草が生えていた為、傷ついてはおりません。
けれども、その美しい茶色の瞳からは、ぽたぽたと熱い涙が零れております。草の葉がその涙で濡れていきます。
「大変とはどういうことだね、もう少し詳しく頼む」
「率直に申し上げます。薬師からは肺を病んで、もう長くはないと告げられました。最近はずっと寝たきりなんです。だからお願いします、お願いします! お祖母様に一度でいいから、会ってあげてください! いつもあなたのことを、お祖母様は嬉しそうに話していたから、だから、もしかしたら間に合わないかもしれないけれどっ......!」
マリーシャの悲鳴のような願いは、メリンガーの心に突き刺さりました。マリーナが、彼の唯一の友人の死期が近い? それも肺を病んで?
それは仕方ないのかもしれません。ですが、こんな小さな孫が必死で自分に訴えてくるような状況は、メリンガーに不安と疑惑をもたらしました。
「分かった。だが事情を――聞かせてくれ。マリーナは今、幸せなのか? もしや、そうではないのか?」
聞かずにはおれませんでした。
マリーシャの話を聞き終えて、メリンガーは言葉を失っておりました。マリーシャが語ったマリーナの人生は、メリンガーが想像していたものとは大きく異なっておりました。
縁組自体は無事に進められたそうです。けれども、夫となった男性は不実な男でした。新婚生活の傍らで、彼は愛人を作っておりました。家には定期的に帰ってきておりましたが、他所の女の香水を漂わせていたそうです。
それでもマリーナは我慢していたのです。家の存続の為に。自分が離婚などしたら、実家に迷惑がかかる為に。
「お祖父様とお祖母様の間には、子供は出来たの。私の父はその一人。だけど、父はよく言っていました。寒々とした家だったと、顔を歪めて。そんなだから、皆が顔を合わせる機会も無かったって」
「そのお祖母様の相手、つまり君のお祖父様は? まだ生きているのか?」
「ううん、四年前に亡くなったわ。お祖母様にとっては、お祖父様から解放されたようなもの。それは良かったんです。ようやく、愛の無い結婚から解放されたのですから。けれども、お祖母様の側には、今は誰もいなくなってしまった。冷えた関係ではあってもお祖父様が近くにいたのに、今はそれすらいません。お祖父様が亡くなった時に、使用人のほとんどは暇をもらって辞めてしまっています」
マリーシャ自身も、普段はマリーナの側にはいられないらしいのです。学生である彼女は、長期休暇を利用してマリーナを心配して訪ねてきました。そして、マリーナが病に臥せっていることを知ったのだそうです。
「――誰かマリーナと一緒に住もうとは、言い出さなかったのか」
「情けない話ですけど、うちの親も含めて誰も......お祖父様が事業で失敗したこともあって、クァーズ家には膨大な借金があります。そのせいで、おじさんやおばさんもお祖母様を引き取る余裕も無いんです」
クァーズ家という家名が、マリーナの嫁いだ家なのでしょう。マリーシャ自身はクァーズの家名を嫌い、祖母の家名を使っているらしいのです。裏を返せば、そこまでクァーズ家の世間での評判は悪いのです。
「なんてことだ」
メリンガーは苦痛に身をよじりました。まさか、マリーナがそんな目にあっているとは。
「私、無茶苦茶言っているのかもしれません。だけど、このままじゃお祖母様があまりに可哀想です。せめて、せめてお祖母様に最後に――ほんとに嬉しそうに話していた、メリンガー様の姿を見せてあげたくて!」
わっとマリーシャは泣き崩れました。小さな背中でありました。その背中を前にして、メリンガーの青い双眼は周囲へ向けられます。
いつのまにか、そこには森の動物達が集まっておりました。皆、神妙な顔をしております。マリーシャの言葉は分からなくとも、何か感じる事があったのでしょうか。
覚悟は出来たのかと、メリンガーは己に問います。出来た、と自分の中の魂が答えます。もはや決意は揺るぎません。やるべき事はただ一つ。
「皆、聞いて欲しい。急な話だが、私はこの森を離れる。かって私に名をくれた友人が、死の淵にいる。私は...... 彼女に会いに行きたい。君達を見捨てるような不義理をしていることは承知、けれども」
神獣と呼ばれたユニコーン、人ならざる存在の長。だけれど、メリンガーはただひたすらに自分の思いを素直に打ち明けました。その高貴な頭を下げて、動物達に話します。
「けれども、私は自分の心に従いたい。メリンガーという名をくれたあのマリーナ・オーレンに、会いに行きたいのだ。すまない、こんな不甲斐ない王で」
うぉん、と熊が吠えました。続いて、オオーンと狼が吠えました。ふぉーんと鹿が鳴きました。キーキーと猿が囃すように鳴きました。こーんという狐の鳴き声が、にゃあおという山猫の鳴き声がそれに唱和します。黒い兎と白い兎は、メリンガーの周りをぴょんぴょんと飛びはねます。
行ってくださいと。
僕たちはいいから、行ってくださいと。
今までありがとう、僕たちの王と。
動物達の別れと感謝と祈りの声が、森中に響き渡りました。
「感謝する。全ての森の動物達に永遠の守護を」
一声、メリンガーは答えました。背中を押された今ならば、メリンガーには躊躇う理由はもはや一つもありません。カッと蹄を鳴らし、彼はマリーシャへ話しかけます。
「マリーシャ・オーレン。案内を頼めるか。背中には乗れ――あ、す、すまない。デリカシーに欠けるようなことを」
「いえ、大丈夫です。私、男性を知りませんから! メリンガー様にもバンバン乗れます!」
マリーシャは大声で答えます。その声が記憶にある誰かさんの声に重なり、思わずメリンガーは表情を緩めました。
「全く、君がマリーナ・オーレンの孫娘だとつくづく思い知らされるよ」
† † †
マリーシャを背中に乗せて、メリンガーは森を出ました。四本の脚は軽やかに大地を蹴りつけ、彼の体を前へ前へと運びます。どれほど遠くても、どれほど困難な道程であっても、行かなくてはならないから。
楽な道ではありません。無限の砂が広がる砂漠は、方向感覚を容易に狂わせます。メリンガーの蹄が砂にもぐり、体力を削ります。けれども止まりません。砂を蹴散らして、前へ。
「待っているんだ」
高い高い山脈が、メリンガーの行く手を阻みます。薄い空気が運動能力を削り、思わずメリンガーは息を荒くします。山道は険しく、バランスを崩しそうにもなりました。けれども止まりません。山肌を蹴って、前へ。
「あの子が待っているんだ」
どろどろとした沼地が、メリンガーの行く手を阻みます。ぐちゃりとした泥がまとわりつき、その美しい白馬の身体を汚します。沈みかけながらも、そこから立て直します。メリンガーの眼は、ただただ前だけを向いていました。
「私の唯一の友人が待っているんだ」
カッと蹄が鳴りました。固い大地を掴みました。草原です。メリンガーが最も得意とする草原です。
背中にマリーシャを乗せて、神獣は走ります。一歩ごとに加速します。ほとんど休憩らしい休憩も取らないままなのに、メリンガーの脚は全く鈍っておりません。
「掴まっていろ、マリーシャ・オーレン。飛ばすぞ」
「は、はいっ!」
夕陽が大地を朱に染める中、メリンガーは駆けました。駆けて駆けて、駆け続けました。黄昏を貫く、白い光の矢となりました。間に合えとただ願いながら、生涯最速の脚を繰り出し続けました。
驚くべきことに、三日、たったの三日であの遠き森から、彼は全ての行程を走りきったのです。体のあちこちに擦り傷を作りながら、へとへとに疲れながら、走りきったのです。マリーシャの「あの町です、あの町の端っこの屋敷です!」という声に、メリンガーは最後の一足で応えます。
町の人達が驚くさまを尻目に、メリンガーは駆け抜けました。石畳を蹄が叩き、白い馬体はひたすらに走ります。マリーシャの「あ、危ないですから緩めてください、町中ですからっ!」という声に、ようやく速度を緩めました。
「何処だ、教えてくれ。マリーナは何処に」
「その角を右、そう、そっちです!」
「こっちだな?」
最後の角をメリンガーは曲がりました。見えてきたのは、一軒の屋敷です。マリーシャの言う通り、そこはこの町の端の敷地です。
屋敷までの小路を、メリンガーはだく足で歩きます。風に吹かれた柳の木が数本、ひょろひょろと立っています。その風景に、メリンガーは何とも物悲しいものを覚えました。近づくほどに明らかになる屋敷の荒れ果てた外見にも。
「着いた、お祖母様っ! どうか間に合って!」
飛び降りたマリーシャを見送りながら、メリンガーは屋敷の門の辺りで立ち止まりました。手入れのされていない庭には、枯れた花や萎れた植木しかありません。馬房を見ても、馬の一頭もおりません。マリーナの置かれた境遇を省みて、胸が締め付けられるようでした。
その時、メリンガーの耳が微かな音を捉えました。キィと鳴るそれは、木製の扉が軋む音です。ことん、ことんと響くそれは、靴が玄関を踏む音です。一本角の神獣は、焦燥に胸を焼かれます。その視線がただ一人の友人を捉えます。
ああ、いました。会えました。確かに、彼女はそこにいたのです。
「――久しいな、マリーナ・オーレン」
孫娘に付き添われ、よろめいていても。五十年の月日が彼女に老いを加え、肺の病が健康を奪っていても。
「......メリンガー、なの?」
それは彼のただ一人の友人、マリーナ・オーレンに相違ありませんでした。
記憶にあるマリーナとは、やはり違っておりました。豊かな茶色の髪は、ずいぶんと細くなっておりますし色も抜けています。老いを端的に示すのは、白と灰の中間色の髪の色。曲がった腰に、しょぼしょぼとした眼。
「大丈夫、なのか。病に臥せっていると聞いた」
「え、ええ。こうして立てるくらいには、まだね。大丈夫よ」
声も嗄れています。隣に立つマリーシャに若さを全て譲ったかのように、今のマリーナは年を取り、そして弱々しくなっておりました。肩にかけた毛糸のケープにはほつれが目立ち、それが更にメリンガーの心に刺さります。
けれども、それよりも何よりも。こんなにも近くにいるのに、一人と一頭の距離は三歩の間合いから縮まらなくて。
「......ありがとう、メリンガー。こんなところまで来てくれて」
「いや、君の孫娘から聞いたからな。友人が窮状にあると聞き、いても立ってもいられなくなった」
「優しいんだ。そうね、あの時もあなたは私を森に匿ってくれたし......優しいのよね」
交わす言葉だけが、二人を繋ぎます。しかしあの時のように、触れ合うことは叶いません。メリンガーがあれだけの距離をひた走ってきたのに。マリーナが病に霞む目に、涙をどれだけ溜めたとしても。
子供を産んだマリーナは、ユニコーンに触れる権利が無いのです。
「優しいかどうかは分からない。けれども、私は君に会いたかった。例え私達が会話しか出来ないとしてもな。マリーシャ・オーレンから聞いたよ。君は私に会えたことを嬉しそうに語っていたと」
「優しいわよ。たった二週間しか会っていないのに、覚えていてくれたんだもの。ふふ、良かった。これで、安心して、眠れそう――」
「馬鹿を言うな、マリーナ。君は、君はまだ」
メリンガーはその声を詰まらせました。けれど、マリーナはぐらりとよろめき、マリーシャの肩にしがみついています。確かに病魔が、その命の灯を削っているのでしょう。老衰と過酷な生活が、その体力を削っているのでしょう。
ああ、なのに、それなのに。メリンガーは何も出来ないのです。千里を越えて走ってきたのに、神獣として崇められてきたのに。彼は唯一の友人に対して、言葉以上のことを何一つ。
そうでしょうか?
本当にそうでしょうか?
メリンガーはマリーナ・オーレンに、これ以上のことはしてあげられないのでしょうか? 最後に一目会うことだけが、彼に出来ることなのでしょうか?
違う。
違う。そうではありません。
違う。断じてそれは違います。
カッと何か熱いものが、メリンガーの中で燃え上がりました。血管の中を焼き尽くすかのように、その得体の知れない熱は広がります。
痛みを、これ以上は無い痛みを伴いながらも、その熱の拡散をメリンガーは止めません。ええ、止められなかったのです。
彼は一つの考えを口にします。その考えは彼に恐怖を強いるものですが、それでも口に出さずにはおれません。
「マリーナ、一つだけ私が君に出来ることがある。どうか聞いてくれないか」
マリーシャに付き添われながら、マリーナは顔を上げました。目をしょぼつかせながらも、彼女は必死でメリンガーを見つめます。その姿に心を揺り動かされ、メリンガーは勇気を奮い起こします。
「私はこの角を折る。そしてユニコーンから、ただの馬になる。そうすれば、君は私に乗ることが出来るだろう」
「っ、何を馬鹿なっ、メリンガー、駄目、止めて。私の為にそんなことしなくていいから」
「メリンガー様、それは!」
マリーナとマリーシャは声を張り上げました。けれど、メリンガーは頭を振りました。決めたのです。長い長い生涯の最後に、彼は自分が本当に求めていた存在を見つけたのです。だから、もう迷いません。
「いいんだ。それに私の角には魔力がある。上手く使えば、君の肺の病を治す薬くらいにはなるさ。マリーナ・オーレン。君は私に名前をくれた。それは私に命をくれた。ただ一人、悠久の時を生きていただけの私に......メリンガーという暖かい命をくれたのだ。それがどれほど価値あることか、今にしてようやく分かったのだから」
「やだ、止めて、止めてよ、メリンガー。駄目だよ、私は、私はあなたの命を貰うような価値なんか無い。結婚にも失敗して、こんな寂しい老後を送っている、そんな私が――あなたの命をもらうなんて」
「ある。マリーナ・オーレンは私の唯一の友人だ。それだけで、君は私の命をもらう資格がある。私のわがままを聞いてくれ、そしてもう一度、私の背に乗ってくれないか」
マリーナを説き伏せながら、メリンガーは静かにその目を閉じました。覚悟は微塵も揺るぎません。迷いの欠片もありません。
間もなく、その体が徐々に白く発光し始めました。明けの明星を思わせるその輝きが、メリンガーの体を包みこみます。
「ユニコーンでなくなれば、わたしはもうハナセナクナル。ダカラ、キミトハコレガサイゴノカイワダ」
光の中から届く言葉に、マリーナは泣き崩れました。老婆の膝は地に着かれ、その背中は小さく震えています。彼女の眼前で、いよいよメリンガーの体は輝きを増していきます。もう、止められないのでしょう。メリンガーは本当に――彼女の為に、ユニコーンを止めるのです。
「止めて、駄目、駄目だって、メリンガー」
「スマナイナ、コレシカワタシハオモイツカナイノダヨ」
メリンガーの言葉が、次第にぼやけてきます。マリーナの視界もまた、涙で霞みます。
「それで、それであなたはいいの? 満足なの!?」
「コワクナイトイエバ、ウソニナル。ダガナ、マリーナ。キミガセナカニノッテクレルナラ、ソレデイイサ。ソレデワタシハマンゾクダカラ」
その言葉が響くと共に、ことんと何か別の音がしました。動けないマリーナの代わりに、マリーシャがそれに近づきました。鋭い切っ先を持ち緩い捩れを伴うそれは、見間違えるはずもありません。ユニコーンがユニコーンたる象徴の、あの一本角です。
唇を噛み締めて、マリーシャがその場を退きます。孫娘に代わるかのように、よろめきながらも、マリーナは何とか立ち上がります。こぼれ落ちる涙を袖で拭きながら、マリーナは一歩二歩と近寄りました。メリンガーは何も喋りません。ただ、ブフルと鼻を唸らせただけです。体は白いままですが、彼が最後に残した言葉の通り、ただの馬になってしまったのでしょうか。
何てことをと、マリーナは天を仰ぎます。けれど、それは後悔だけではありません。彼女も本心では嬉しかった、いや、自分が嬉しいことに気がついていたのです。
こんな自分でも求めてくれる存在がいる。ユニコーンであることを止めてまで、傍にいたいと願ってくれたメリンガーがいる。
ただそのことが――今のマリーナ・オーレンには、これ以上無い程の喜びでありました。
「バカね、あなたは。なんてバカ」
最後の一歩の距離を、マリーナはゆっくりと伸ばした手で断ち切りました。密かに恐れていた拒絶反応は無く、その指はメリンガーのたてがみに触れました。
もはやメリンガーは何も言いません。ただ、そっと目を閉じて、マリーナの指の感触を自分の中に閉じ込めるかのようにも見えました。
「メリンガー、ありがとう。本当にありがとう」
マリーナ・オーレンは、角を失った友人の首を抱き締めました。溢れる涙が、彼女の頬を、そしてメリンガーの首筋を濡らします。涙に込められた暖かな熱が、一人と一頭の心を繋ぎます。それは五十年の歳月を埋める、魂の交流でした。
そして、マリーナはメリンガーと視線を合わせました。いいよ、とでも言うかのように、白馬の青眼は瞬きます。ならば。
「乗るわよ、メリンガー」
凜とした掛け声一つ、マリーナはタン、と地を蹴りました。老いたはずの体はふわりと浮かび、華麗に白馬の背に跨がります。
折しも雲のすき間から、一条の陽光が射し込みました。その光の中に浮かび上がる光景に、マリーシャ・オーレンは息を呑みました。
「あ、ああ......」
それは静かな光でした。
それは不思議な光景でした。
一人の老婆と一頭の白馬がそこにいるだけなのに、マリーシャの目には別の光景――そう、うら若き乙女が、一本角を額から生やしたユニコーンに跨がっているように見えました。
「メリンガー、私とあなたはいつまでも友達だよ」
マリーナのこれ以上無い程の優しい声、それが合図になったのでしょうか。メリンガーは、彼女を乗せてゆっくりと走り出したのでした。これまでの空白を埋め、これからの時間を共に生きる一歩を踏み出します。角を失ったユニコーンのその蹄音は、こぅんと優しく、町中に響き渡ったそうです。
† † †
ここでお開きにしましょうか。私が見て、おっと、聞いた一人と一頭の物語はここで終わっても、十分に美しいのですから。
え、最後まで聞きたいのですか。仕方ないですね、特別ですよ。
ユニコーンの角の秘めたる魔力。それはメリンガーの言う通り、良い薬になりました。町の薬師が角を粉にして煎じた結果、肺病のみならず万病に効く薬となりました。
ええ、マリーナは当然それを飲みましたよ。死神に指先をかけられていたにも関わらず、彼女はそれから十二年も命を長らえたそうです。もちろん、彼女の傍にはいつもメリンガーがおりました。言葉が通じないはずなのに、二人はこれ以上無いほど心を通わせているように見えたそうです。
そしてマリーナがその寿命を全うした翌日、メリンガーもまたその横で亡くなっていたそうです。彼女の亡骸を守るように、メリンガーはすぐ側で立ったまま亡くなっていた。私はそう聞いております。
お祖――いえいえ、マリーナ・オーレンはきっと今も、天国で幸せに暮らしているでしょう。終生の友、メリンガーの背に乗って、雲の上をいつまでも駆け抜けてね。
さて、今度こそお仕舞いにいたしましょう。私も少し話し過ぎましたからね。え、私の名前ですか? いやですね、そんなことどうでもいいではありませんか。昔はマリーシャ・オーレンと名乗っていたとしても、それは遥か昔の話ですしね。
それでは皆様。もし再びお会いする機会がありましたら、その時は新たな物語を語らせていただければと存じます。ご機嫌よう。