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アルテルナリア
作:eleven-9


 夏と聞いて、何を連想するかと問われれば、人々はどう答えるのだろう。
 人によってまちまちであろうが、夏とくれば『暑い』という答えが、最も無難かつ陳腐な答えではないだろうか。
 夏は暑い。
 疑う余地のない事実だ。
 夏という言乃葉が言霊を有し、その意味するものが確固たる普遍性を獲得した瞬間から、夏は夏となった。
 近年の異常気象で冷夏の年もあるが、それはあくまで例外に過ぎない。
 陽射しは容赦なく薄着から覗く肌を焼き、風は熱を孕んで渇いた喉をなぶる。高い湿度は精神すら蝕み、蚊に代表される害虫が、ここぞとばかりに人間の汗ばむ肌にかぶりつく。
 それから逃れるために、人々は私や私の兄弟にすがり、悦楽の空間を作り出しては、そこに閉じ籠るのだ。
 それは私たちにとって、決して楽な『戦い』ではない。中には『戦い』に破れ、産まれたその年に亡くなる兄弟さえいる。
 だから、夏は嫌いだ。
 神様が私をいたぶるために、わざと夏などというものを創ったとしか思えない。
 それは自分の存在を否定するに等しい考えなのだが、兄弟の中で一番の変わり者と評される私には、至極当たり前の考えにすぎなかった。
 私は戦いたくないのだ。
 この気持ちがわかるだろうか。
 最早、私が懸命に戦うことに意味はない。
 いや……はぐらかすのはよそう。
 私は怖いのだ。
 甘かった。我々も、人間も、自分達が何をしてきたのかわかっていなかったのだ。
 数十年に渡る怨念の堆積物が、熟成された肥貯めのような腐臭をまきあげている。
 その腐臭から、そいつらは生まれた。我々と我々の主を蝕む為に、夏が産み出した忌み子だ。
 ――機は熟した。さあ、さあ、さあ、思い知らせてやるぞ。
 奴らは、そう呟いていた。
 八月も半ばを過ぎた。夕暮れの中を揺らめく熱気は、無数の蛇のように地面から立ち上り、あらゆる物に巻き付いて締め上げる。
 その熱気の蛇が、腐臭を纏っている。そいつらから漂う匂いに、私は強い吐気を覚えた。
 動けぬ我が身が恨めしい。この臭いから、そしてその臭いに乗ってやってくる『奴ら』から、自発的に逃げるすべを私は持っていない。
 気が遠くなる。意識が希薄になっていくのが実感できる。
 このまま、私という存在が消えてしまえば、それは私にとって、救いとなりえるのだろうか。
 それも……いいかも知れない。


 意識を維持することを放棄しようとした正にその時、朦朧とする私をけたたましい開錠音が叱咤し、続いて乱暴に開かれた扉の悲鳴が完全に私を覚醒させた。
「あっついなあ、もう」
 扉から室内に駆け込んできた人物は、長い黒髪をかきあげ、眼鏡を手近な棚の上に置いて、大きく息をついた。
 我が主の御帰還だ。
 汗にまみれた若い体を弾ませ、主は仕事から帰るやいなや、ワイシャツとスカートを脱ぎ捨て、それをベージュ色のソファーの上に投げ捨てた。
 そして、あられもない格好のまま、何かを探し始める。
 挙動に合わせて揺れ動く豊かな二つの半球は、汗に濡れ、蛍光灯の光をむさぼって輝いていた。身に纏う黒い下着は、主の体を覆うには、面積的に少々心もとない気もするが、それが主の好みなのだろう。
 私は人間の基準における美醜は分からないが、主は人間の中で美しいとされる部類に入るようだ。
 我々は、むしろ凹凸が少ないほうが美しいとされるのたが、不思議なことに人間は―――特に主のような雌型は―――凹凸がハッキリしていたほうが雄型の評価が高い傾向にあるらしい。
「えっと……どこやったっけ、リモコン」
 蒸した部屋はサウナのようで、少し動いただけで、主の体から珠のような汗が噴き出す。日頃から整頓という行為をおろそかにする我が主は、目的の物を見付けられず、蒸し暑さもあって、非常に苛立ち始めていた。
 ようやく目当てのものを探し出すと、主はクイックドローを思わせる速さで、それを私に向けた。
 電子音。
 私の中に流入してくる、逆らいがたい命令。
 私が望む望まないに関わらず、主が下した命令は、私に備えられた機能の稼働を促し、責務を全うさせる。
 私の一部が軽いモーター音と共に開き、外に設置された半身が起動した。
 駄目か。やはり、逆らうことができない。
 熱された空気を吸い込み、私は嘆きと共に冷風を吐き出した。
 願わくば、せめて我が主だけでも……
「あ〜!涼しい!去年、いいクーラー買っておいてよかったわ」
 我が主は私の吐き出す冷風を全身に浴び、恍惚とした表情を浮かべていた。
 私の心に言い知れない感覚がほとばしる。
 主にお褒めいただけることが、我々『造られたもの』の生きがいである。しかし、私が責務を果たせば果たすほど、主の命を脅かすことになるのだ。
 ああ……恨めしきは我が身の内。
 そこに住まう微細な悪魔ども。人の目に見目ぬ奴らの力は、その大きさからは想像もできぬほどに強大であった。
 主は気づいていない。
 奴らがその麗しき体を蝕んでいることを。
「ビールまだあったかな……」
 ほてった体を充分に冷やしきると、主は床の上に散らばった雑多の品々を軽やかに避けつつ、冷蔵庫に向かった。
 細い指を銀色の取っ手にかけ、現代の氷室を開封する。
 中に充満していた冷気が床に流れ落ちた。一人暮らしにしては多すぎる食料品の中から、主は黄金の麦酒を取り出し、プルタブをを引き上げる。
 目を輝かせ、それを一気にあおる主。汗の伝う喉が動いている。
「ぷあ〜!!たまんない!」
 口元についた泡を手首で拭い、主は冷蔵庫を閉めようとした。
 その手が止まる。
 冷蔵庫の一点を凝視し、何か呻いている。私からでは主の顔は見えないが、渋面を作っていることは間違いないだろう。
「うそ……早くない?昨日開けたばかりなのに……」
 飲み干したビールの缶を、台所の空き缶用ゴミ箱に放り投げ、主は冷蔵庫の中から何かを取り出した。
 ラップのかけられた缶詰。中身は私には窺い知れない。主はそれを凝視していた。
「もうかびてる。早すぎよ、冷蔵庫に入れておいて、なんでこんな早くかびるのよ」
 憤懣やるかたなしといった口調だ。
 私は、それがまるで私に向けられた叱責のように聞こえ、申し訳ない気持ちで一杯になった。排水ホースから流れ出る水が増えたのは、私の無念の涙が混ざったからである。
 そうだ。責任は、私にある。
「やだ、他のまでかびてるじゃない!冷蔵庫壊れてんの!?」
 主は冷蔵庫の中身を次から次へ取り出しては、カビの生えた食品を生ごみとして廃棄し始めた。
 次々と捨てられ、山となる食品。表面に浮いたすす状のカビが見えたとき、私は恐怖と共に憎悪に駆られた。
 何故だ。
 何故、今なんだ。
 何故、私達なんだ。
「もう、ほとんど全滅じゃない。信じられない!壊れて、冷えなくなったんじゃ……」
 主の独り言が次第にフェードアウトしていく。その視線は、先ほど空き缶を捨てたゴミ箱に向けられていた。
「ビール……冷えてたわよね……」
 ビールは冷えていた。つまり、冷蔵庫は責務を果たしていたことになる。にもかかわらず、そこに保存されていた食品―――密閉されていない食品はカビを生やしていたのだ。
 不可解な現象に、主の表情が曇る。得体の知れない『何か』の存在に気づかれたのかもしれない。
 そうだ。主よ。できれば一刻も早くこの場から去って欲しい。私の吐き出す冷風の満ちたこの部屋から、一刻も。
 今ならまだ間に合う。仲間から聞いた情報を元に推測する限り、主は、まだ大丈夫なはずだ。
「……明日、電気屋さんに電話してみようかな。今日はもう動きたくないし」
 私は大きくため息を漏らした。室外機が大きく唸る。
 至極真っ当な思考だ。だが、それが私には歯がゆい。
 身の内に住まう奴らが、私をあざ笑った。無駄だ無駄だと笑い転げている。
 ―――俺たちは、お前たちがいる場所にはどこにでもいる。お前たちが、俺たちの父であり母だ。
 奴らがそう語ったわけではない。だが、そう聞こえた。きしきしと私を蝕む音が、確かに意味のある言葉に聞こえたのだ。
「ん……?」
 主が喉を押さえて、眉間にしわを寄せた。喉の奥に異物感を感じるらしい。しきりに自発的な咳を行い、異物感の除去を試みている。それがどうやっても取れないことを悟ると、主は台所へ行き、コップに水を注いでうがいを始めた。
 コップ半分ほど、うがいを終えたときである。
 主が咳き込んだ。
 水が気管に入ったのだろうか。目に涙をためてむせる様は、私の胸を締め付ける。
「ごほっ!ごほっごほっ!」
 咳が収まらない。
 おかしい。長すぎる。
 主の様子を訝しがる私に、再度奴らの忌まわしき『声』が聞こえた。
 ―――そおら。見ていろ。
 私の内部回路が冷え上がり、冷却フィンが震える。この世に産まれて421日、これ程の戦慄を覚えたのは、初めての経験である。
 まさか……
 こんなに早く!?
「がはっ!ごほっ!げ、ごぶっ!」
 明らかに咳の音が変わった。乾いた咳ではなく、痰などを伴う湿った音だ。顔面を蒼白にした主は、台所から転げるように居間へと倒れこみ、そこでも激しく咳こんでいる。
 胸と喉を押さえ、体を丸めて悶える我が主。呼吸困難に陥っていることは、誰の眼にも明白であり、一刻の猶予も許さない状態であることは、火を見るより明らかであった。
 充血した目が見開かれた。私を見ている。涙に僅かに血液が混ざっているように見えるのは、私の錯覚であろうか。
 助けたい。主を助けたい。しかし、それを行動に移せない。
 ああ……恨めしい。動けぬ我が身が恨めしい。
 そして―――
 嘆きに暮れる私の眼前で、フローリングにどす黒い花が咲いた。
「ごぼっ!がはあっ!!」
 次々と咲くどす黒い血の花。
 主が喀血したのだ。肺のあらゆる血管が裂け、喉を逆流して口から吐き出されている。
 主の目が裏返り、全身を激しく痙攣させている。排泄物を漏らしながら床の上で暴れまわる様は、主の苦手な黒い虫が、殺虫剤を吹きかけられて死ぬ間際の動きによく似ていた。
 突然襲い掛かってきた凶事を、主は理解しているのだろうか。何故、こうなったのか。何が、自分を殺そうとしているのか。
 頭に浮かんだその考えを、私は泣きながらかき消した。
 いまさらそれを理解したところで、なんになろう。主の命は、今、消えようとしているのに。
 遅かった。全ては遅すぎたのだ。
 私の中に住まう奴らは、より強力になっていたのだ。
 我らがこの世界に生まれ出でたときから、我らの中に住まい、繁殖し、進化していったものが―――

 
 元来、奴らはアルテルナリアと呼ばれる、どこにでもいるカビだった。アレルゲンとしての性質が高く、喘息や過敏性肺臓炎の原因になりうる真菌類であるが、病原性が高い存在ではない。
 非常に軽い胞子を持ち、ハウスダストと共に容易に浮遊する奴らは、我々の体を構成するプラスティック面にも発育し、繁殖することができる。その上、我々の中は湿度、温度共に奴らの生育条件としては最高の環境であった。そのような環境の中で、奴らは数十年にわたって、我々と共に生きてきたのである。
 だが、人間は、我らの中に住む奴らの存在を良しとしなかった。
 薬品による駆除。物理的な掃除による駆除。抗菌性物質による駆除。
 あらゆる手段を使い、我々の中からカビを追い出したのだ。それはある意味、一方的な虐殺と言ってもいいかもしれない。
 アルテルナリアは、ただ駆逐される弱者であった。
 そう。
 去年までは。


 今日も暑い一日だった。
 去年は冷夏だった分、今年こそは己の名に恥じぬ生き様を見せるため、夏が少々気合を入れ過ぎているのかも知れない。
 この世に生を受けて422日、部屋を冷やすのがこれほど大変だった日は無かった。
 私は冷風を部屋に行き渡らせながら、床でうつ伏せに寝る主を見つめた。
 主は黒い血の海に沈んでいた。血は固まり、黒くひび割れている。
 息絶えてから、丸一日。
 表面には、すすじみたカビが生えていた。
 主の肉体を養分に、尋常ならざる早さで繁殖するアルテルナリア―――だったもの。
 冷蔵保存された新鮮な食物さえ瞬く間に汚染してコロニーを形成し、胞子を吸い込んだ人間を半時間足らずのうちに殺傷せしめるカビ。
 それは、もはやカビと呼べるのだろうか。
 悪魔だ。我らの身の内にて際限なく増える、不可視の悪魔。そう呼ぶのが相応しい。
 奴らは、数年前の夏の終わりに生まれた。どこで産まれたのか、どうして産まれたのか、今となっては考えるだけ虚しいが、人間の彼らに対する虐殺行為が一因であることは、間違いないだろう。
 産まれたばかりの奴らは、すぐには本性を表さず、着々と世界中の我が同胞の内に潜み、静かに機会を窺っていた。そして、申し合わせたかのように、今年の夏、その毒牙を剥き出しにしたのである。
 その存在を知っていたのは、我々だけだった。だが、我々の言葉を人間に伝える手段はなく、奴らの毒に対抗する術を人間は持っていない……
 私は夕暮れの街に、耳を傾けた。
 外から聞こえる悲鳴は、もう無い。
 今日の朝方は、それは酷いものだった。阿鼻叫喚とは、あのような叫びに満ちた地獄なのであろう。
 今は、それが嘘のように静まり返っている。この部屋を残し、世界が消えさってしまったかのようだ。
 我が同胞は世界のあらゆる地域にいる。そこに夏があれば、夏と戦うために、彼らは責務を果たしているだろう。
 見えぬ悪魔を抱えて。
 私は深く考えることをやめた。命令が無い以上、稼動をやめることもできない。
 そのうちに止まるだろう。
 人が滅びれば、電気の供給も止まる。永遠に止まるのだ。そして、それは遠い未来の話ではない。
 主の肉体が崩れた。
 胞子がそこから吹き上がる。
 私は主の肉体が食い尽くされる様を見ながら、いつか訪れる救いの瞬間を待ち望んでいた。
 夏に抗う、冷たい吐息を漏らしながら。


夏ホラー参加作品「アルテルナリア」いかがでしたでしょうか?
ちなみにアルテルナリアは実際にいるカビです。貴方の周りにも浮遊しています。
それが復讐してくるかは……貴方次第かもしれません。
では、来年も、よきホラーの夏を……













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