静かな世界。音は聞こえない。
光は見える。物も触れられる。食べ物はおいしい。
――でも、俺には音がない。
自分の声すら、分からなくなってきた。
放課後の教室。
俺は一人、自分の席に座り、ぼんやりと外の風景を眺めていた。
グラウンドを走り回る部活の生徒達。賑やかそうな雰囲気だが、何を話しているのだろう。
そんな思考を繰り返していると、俺の肩を叩かれた。誰かと思い、振り返ると――
「か・え・る・よ」
俺に見えるように一言一言を、ハッキリと発音している女の子がいた。
女の子の名前は――絵梨。付き合い始めて1年になる俺の彼女だ。
「……あぁ」
適当に返事をして立ち上がった俺に苦笑いを浮かべながら横に立つと、一緒に歩き出す絵梨。
教室を出て廊下を見渡すが、本来なら喧騒が聞こえてきてもおかしくはないのに、俺には何も聞こえない。教室の中にも数人のクラスメイトが残っていたのに、誰一人話す声が俺の耳には届かなかった。
廊下を過ぎ、下駄箱で靴を履き替え――外に出ても、俺の耳は何も感じない……。
音がない世界。
なんて寂しい世界なんだろうか……。
きっかけは些細な事。
あの日、俺はバイクに乗って一人、気ままにツーリングをしていた。雨が強く降っていたのにも関わらず、「自分は事故に遇わないだろう……」そう思いながら、俺は自分の腕を過信していた。
その思いが俺の人生を変えた。
カーブで俺は出会い頭に車と衝突――それだけならただの事故だ。だが、それにはおまけがついてきた。
嬉しくない、欲しくなんかなかった。ベットで目覚めた俺はある感覚があった。
音が聞こえない……。
それは静かな場所だと最初は思ったほど。だが、現実は違った。
隣で何か叫んでいる母さん。目を瞑り俯いている父さん……そして涙を流している絵梨。
これだけの人間がいるのに、誰の声も聞こえない。頭の中ではみんなの声が響いているのに……聞こえていたはずの声が――。
「ど・う・し・た・の・?」
俺の顔を覗き込むようにして、絵梨が見上げる。その口が言葉を紡いでいるが、俺には聞こえない。
それでも伝わってくる絵梨の言葉。
絵梨と付き合い始めた一年前は、俺は普通の学生だった。
それが一夜でこれだ……。人生なんてどこでどうなるか、分からないものだ。
耳が聞こえなくなった原因は、事故で受けた頭部への衝撃。
神経に問題があるらしいのだが、詳しい事を聞いても分からない俺は、「治るのか、治らないのか?」を聞いた。
医師の答えは簡単明瞭――耳は完全には治らないらしい。少しは回復するかも知れないと言われたが、一向にそんな兆しはない。
当たり前の事が出来ない辛さ……それがこれほどの苦痛だとは思わなかった。
何も聞こえない事が、これだけ怖いものだとは思わなかった。音がないだけなのに、俺はここにいる事すら否定されてしまったような感覚。
世界が変わった瞬間だった。俺はもう音のある世界を歩けない。一生このままなんだと実感してしまった。
もし、俺に子供が出来ても、俺はその子の声を聞く事が出来ない。
もし、俺に助けを求められても、俺は助けられない。
もし、もし……こればかりを考えて、ノイローゼになりそうな時期もあった。だけど、そんな世界から救ってくれたのが両親であり、隣で微笑んでいる絵梨だった。
「……何でもない」
俺は首を横に振り、頭の中にある思いを追い出す。思い出すだけで、どうにも暗い気持ちになる。
結局、俺は一年経っても何も変わってないのかも知れない。それに今は新たな不安があるから。
――今の俺は、ちゃんと話せているのだろうか。耳が聞こえない――それが俺自身の声さえも、奪っていく気がしていた。
発音は正しく出来ているのか? 俺の声はちゃんと伝わっているのか?
それが怖くて話すのが嫌になってきていた……。
「な・ら・い・い・よ」
だが、絵梨は俺の考えている事など気にしない風に、笑顔で話し掛けてくれる。
その笑顔は俺を癒してくれていた。
何度、喧嘩をしたか分からない。何度、別れようとしたか分からない。
でも――その度に、俺達は仲直りをして、更に愛を深めていった……。
「は・る・み」
絵梨が俺の肩を叩いて口が俺の名前を紡ぐ。そして、ゆっくりと俺の手を掴み、大きく空に振り上げた。
「……綺麗だな」
空は赤い絵の具と塗ったキャンバスに黒い絵の具で縁取りをしたような、不思議で幻想的な色をしていた。
夕闇が足元から広がる街並みに、まだ赤く染まる空が俺達までも赤く染めている。
手を振り下ろした絵梨は俺の目を真っ直ぐに見つめているが、その頬が微かに夕日以外で染まっている気がした。
「だ・い・す・き」
両手を広げ、俺を抱きしめてくる絵梨に、咄嗟の事で俺は動けなかった。
絵梨から伝わってくる鼓動は、少し速いような振動が俺に伝わってくる。音は聞こえない……だけど、鼓動は響いていく。
まるで、”ここにいるよ”と誇示するように……。
「わ・た・し・に・は」
絵梨はそこまで言って一旦、口を噤む。
真っ直ぐと見つめる瞳から、優しい微笑が俺の中に広がり、暖かい心で満たされていく。
「は・る・み・し・か・い・な・い・の」
一音一音、ハッキリと唇がその言葉を俺に告げる。俺の顔に両手を添えて、そして俺の口に重なるもの。
温かく、柔らかい感触。それは絵梨からの気持ち……。言葉に出来ない思いをのせて俺に伝わってくる。
「俺にも……絵梨しかいない」
今の俺の声はハッキリ伝わっているのか……それが心配だ。だけど――
「う・ん」
笑顔の絵梨が頷き、俺の思いが伝わっている事を教えてくれる。
それが嬉しくて、絵梨を抱きしめていた。驚いている絵梨だが、ゆっくりと俺に腕を廻してくる。
言葉は聞こえない。でも聞こえてきた――
「ずっと、一緒だよ……晴海」
優しく響く……俺の中で、懐かしい音となって木霊する。
「私は晴海のそばに、ずっといるから……」
温かく響くのは鼓動と思い……。
聞こえなくても――
伝わる俺達の気持ち。
これが俺達の日常……これが、この先もずっと続く事を願う。 |