幕間 第8話 早乙女奈緒美の野望……二年冬
秋からチマチマ精米していた二百キログラムの酒米を前に気合を入れる。
先ずは麹造り。「一麹、二酛、三造り」は作業順番でもあるし要点でもある。麹が失敗したら残り全てが台無しになる。
造る麹は黄麹と黒麹を三対一ぐらいの割合にする。黒麹で造るお酒は焼酎と酢にして酒粕も醪酢に、黄麹のお酒は日本酒と味醂を予定している。
永水(永原の自噴井の水)で洗って一昼夜ほど浸漬(水に漬ける)した米を笊に取ってしっかり水切りする。その後は小一時間ぐらいしっかり蒸し上げる。
今回の製麹工程のボトルネックがこの蒸す工程。
一回で蒸せるのが一斗(十五キログラム)ぐらいなので、今回麹にする百四十キログラムを捌くには一日三ロットとして三日がかりになる。最終ロットが蒸しあがる頃にはファーストロットは麹ができあがって発酵を止めるかどうかの判断をする辺りまで進んでいる筈。ファーストロットの蒸し始めから最終ロットのできあがりまでの五~六日間が最初の山。製麹はデリケートな作業なので現状は一人で頑張る。といってもご飯とかはみんなに頼むことになるし、夜間の室温維持は文昭くんやノリさんも手伝ってくれる事になっている。
蒸米を摂氏三十度ぐらいまで冷ましたら種切りと言って種麹を散布する。重量比で〇.一%つまり米一キログラムに対して種麹(胞子)一グラムが標準だからワンロット十五グラムぐらい。満遍なくまかないと雑菌に付け入る隙を与えてしまうので素早く丁寧に。
製麹は「在来法である麹蓋を使う蓋麹法」「蓋麹法を拡大し省スペースと省労力化を図った箱麹法」「箱を使わず全ての操作を床の上で行う床麹法」「温度、湿度、繁殖状態などを自動で調節する機械製麹法」と幾つか方法があるが、蒸米に麹菌の胞子をつけて活動に適した温度湿度を維持して大量の酵素を作らすという点において変わりは無い。
自動製麹機は無いので機械製麹は無理として、今回採用するのは箱麹法。
蓋麹法は一升分に小分けして管理するので細かい調整が効き易いが、手間暇とスペースを必要とする。スペースはあるが一人でやるには手が足りない。
蓋や箱を使わない床麹法は蒸米が五月雨式に供給されるので難しいし、一種類の麹になってしまうため見送り。
消去法で箱麹法に至る。
箱麹法の箱は一斗分だから蒸米の供給量との兼ね合いも良い。
麹菌も生物なので活動するには水分や養分や酸素が必要だし活動すると発熱もする。途中で何回も混ぜたり広げたり纏めたりをしながら高過ぎず低過ぎずの品温を維持して三日ぐらいしたらでき上がる。
でき上がったら出麹といって保温されている麹室から取り出して冷却する。そうすると麹菌の繁殖が止まるので保存できるようになる。
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今日は大晦日で冬至。
この時期にいつもノリさんが言うのが「冬至、冬中、冬始め」
一番日が短いから冬の真ん中とも言えるが、実際はこれから冬本番を向えるという意味らしい。
酒造の世界では冬至酛という言葉がある。冬至に一冬分の酒母造りをはじめる事を指すと聞いた事がある。現代だと都度都度酒母を造って仕込む事の方が多いが、昔は酒母造りが大変だったのでまとめて造ったんじゃないかって話。
現代の酒母造りは大きく分けて四つある。
一つ目は江戸時代に確立した生酛。
二つ目は明治に開発された山廃酛。
生酛で重労働であった米を櫂で磨り潰す山卸という作業を廃止して麹の酵素液を何度も蒸米に掛ける「酌み掛け」に置き換えて米を溶かす方法。山卸廃止酛の省略形で山廃と言われる。「櫂で潰すな麹で溶かせ」という標語もあった。
この二つは乳酸発酵させて雑菌を駆除し、アルコール発酵で乳酸菌も駆除して清酒酵母の天下をつくるという方法は同じなので生酛系として括られる事もある。
米を液状にするのが「山卸」なのか「酌み掛け」なのかの違い以外は似た工程をたどるので妥当っちゃ妥当。
三つ目は山廃酛と同時期に開発された速醸酛。
これは乳酸発酵させるのではなく、他所で造った乳酸を添加する方法。乳酸発酵させるのは乳酸によって酸性にして雑菌の繁殖を抑えるためなのだが、乳酸菌がいようといまいと乳酸をいれれば雑菌は繁殖しない。じゃぁ「態々乳酸発酵させなくても乳酸入れたらよくね?」という事で乳酸を入れたら半分の時間で酒母が造れた。
生酛系だと乳酸発酵の二週間とアルコール発酵の二週間で四週間かかっていたが、速醸酛はアルコール発酵の二週間だけになるのだから速く醸せる。更に雑菌が繁殖する機会がほぼ無いので腐造のリスクもほとんどない。
良い事尽くめなので現代ではほとんどの酒蔵が速醸酛を使っている。
速醸酛は日本酒造りにおいては燦然と輝く偉業なのである。
四つ目は摂氏五十~六十度の高温で糖化させる高温糖化酛。
米と麹と水を高温にして甘酒を造り、冷ました甘酒に乳酸と酵母を添加して造る。まぁ速醸酛のバリエーションと言えるかもしれない。
ただ、平安時代から室町時代にかけて、当時最も上質で高級な日本酒とされた南都諸白は煮酛と言って高温(といっても酵母が死なない程度と思われる)にして醸していたと伝わっているので煮酛も高温糖化酛に分類されるかもしれない。煮酛から生酛が生まれたとも伝わっているので位置づけが難しい。
それと第五の方法がある。
高温糖化法とか高温液化仕込みと呼ばれる方法。
四つ目の高温糖化酛と名前は似ているが、糖化の機構が異なるので別物とした方がいい。近年大手酒造メーカーが開発した方法で、米のデンプンを高温――摂氏百度とか摂氏三百度とか――でアルファ化して酵母を添加する。
賛否両論がある方法ではあるが、労力と時間と材料の無駄を省いた近代的な手法ではある。個人的にはできたお酒はあまり美味しくない(個人の感想です)ので好きじゃない。
これらの中で美浦で造るのは生酛を採用した。
労力的には大変なんだけど消去法で生酛しか残らなかった。
朝一番に半切桶に冷ました蒸米を入れて手で押して空気を抜きつつ放冷する埋け飯と言われる作業を行う。
十分に冷めたら麹、永水の順に半切桶に仕込んでよくかき混ぜる。
二、三時間経って表面に水分が無くなったら手酛といって爪と言われる木片で均一になるようかき混ぜる作業を繰り返す。
今日はここまで。
櫂で擂る山卸は夜中から朝方の一番寒い時間帯での作業となる事が多い。
寒い方が雑菌の繁殖が抑えられるので山卸は未明に作業するという説もあるし、前処理をしていたら夜中になるという説もある。個人的には前者じゃないかと思っている。後者だとしたら段取りが悪すぎる。
◇
「明けましておめでとうございます」
「おめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします」
日付が変わって新年早朝。
文昭くんと二人で山卸をはじめる。
まだ日は昇っていない。
「ヤーレ、目出度目出度の 三輪の神様 大物主神様 少彦名神様 枝が栄えて 葉も茂る」
山卸は酛摺りとも言い、酛摺り唄という作業歌がある。
唄は杜氏や蔵元によって異なるが、テンポに合わせて声を出しながら櫂を摺る事で眠気覚ましや士気向上の効果があるとされる。
最大の目的は作業時間を計ることにあり、何番まで歌うかで作業時間の調整をしている。
一度の山卸はだいたい八分から十分ぐらいの時間をかける。人数がいれば一回で済むけど二人なので一度に一桶しかできないから桶の数だけ繰り返す。
この作業の要点は米粒を潰して米と麹と水を均一にする事と、雑菌が繁殖する水や空気の溜まりを無くす事の二つ。
自然環境下にいる乳酸菌をとりこんで嫌気発酵させることで乳酸菌が占有するようにするのだが、今回はちょっと手を加えた。別に培養していた乳酸菌を添加している。この乳酸菌は某蔵元の酒母にいたもので蔵付きの乳酸菌といえるもの。
本当は、はじめに硝酸還元菌が増殖して亜硝酸を生成しだし、その後乳酸球菌が増殖して乳酸が増える。亜硝酸と乳酸による酸性と低温と濃糖のトリプルパンチで産膜酵母や野生酵母、硝酸還元菌などが死滅し、その環境下で生きられる乳酸球菌と乳酸桿菌の天下にする。乳酸菌が増えるまでに他の菌が蔓延ってしまうと失敗になってしまう。
ただ、乳酸菌なら何でも良いという訳ではなく、数多の菌種がある乳酸菌の中にも厄介な奴がいるのだ。
日本酒醸造の世界で火落菌や腐造菌と言われる奴らの事で、そいつらは耐酸性は当然として耐アルコール性も高くて清酒酵母がアルコールを生成しても死滅しない。そのため余計な代謝物を生成したり清酒酵母が負けたりといった事が起きる。
麹が生成するメバロン酸という餌が豊富にあって、ある程度のアルコール濃度があるところ――要は日本酒の中――が好適環境というラクトバチルス・フルクティヴォランス(L・ヒオチ)とかL・ホモヒオチは真性火落菌だけど、それ以外にも様々な菌種が火落ちや腐造を引き起こす。
彼ら(?)の名誉の為に言っておくと日本酒醸造では厄介者だけどそれ以外では非常に有益な菌もいる。その代表はL・カゼイかな?乳酸飲料によく使われる菌だから名前ぐらい聞いた事があると思うけど酒母や醪に混じると大変な事になる。
乳酸菌ではないけどもう一つ有名なのは納豆菌。
酒をはじめチーズや味噌、醤油など発酵させる所では納豆は禁忌になっている事が多い。場所によっては三日以内に食べていたら立入禁止なんて事もある。
学名バチルス・サブチリス・ナットーは死滅させるのが非常に困難なので微生物系の学徒からは悪魔の如く恐れられてもいる。育種していた菌株に富田のアホが納豆菌をコンタミしやがった恨みは一生忘れない。
ゴホン……自然環境下だと何が優占するか分からないので良い乳酸菌が居ついてくれるよう全体からすれば微量でしかないが乳酸菌を添加して少しでも成功率が上がるよう頑張る。新造の酒蔵は二、三年は醸造が安定しないらしく、前の蔵から天井や壁や床の板などを持ってくる事もあるぐらい蔵を醸造に良い菌の棲家にするのは大切。
山卸は、三時間毎に荒櫂(一番櫂)、二番櫂、三番櫂と三回行う事が多いが状況によっては二番までで終わる事もある。荒櫂は足で踏む流儀もあってその時は荒踏みとも言われる。二番櫂あたりから段々ツヤがでてきて糖化が進んでいるのが分かる。
◇
一月二日
酛寄せといって半切桶に小分けしていた物を酛桶(酒母を造る桶)に合流させる。
「いっせいのーせ(で)」
力仕事なので掛け声を掛けて移すんだけど……
「いっせいのーせ」派の私と「いっせいのーで」派の文昭くん。
ここだけは息が合わない……
混ぜ合わせて表面を整えたら「酛立て」は終了。
この後は酛桶の中で温度管理が中心になる。
打瀬といって氷水の入った桶(本当は熱伝導性からアルミタンクがよかったんだけど無いものは仕方が無い)を入れて冷やしたり、暖気入れといってお湯を入れた桶を湯たんぽにして暖めたりして管理していく。現代だったらサーモスタッド付きヒーターで暖めるんだけどね。
酛寄せ後は三日間ぐらい打瀬をするので少し時間に余裕ができたのだが、漂流船らしき物があったそうで助力を頼むのがきつくなりそうな予感……
◇
酒母の中では低温と貧栄養の状態でも増殖力がある硝酸還元菌とリューコノストック・メセンテロイデスという乳酸球菌が増えていき乳酸で雑菌を駆逐していく。L・メセンテロイデスはザワークラウトなどの植物性発酵品に多い菌でサイレージや堆肥などでもお役立ちのお友達。
暖気入れして品温が上がってくると麹酵素による糖化が増えてきて乳酸桿菌のラクトバチルス・サケも増殖を開始する。L・サケは酒蔵のどこかに居る奴が酛桶に入ってくるのだけど、新品のここではL・サケが入って増殖するのを待っていたら火落菌が蔓延ってしまうかもしれない。なので手酛の際にL・メセンテロイデスと一緒にL・サケも入れておいた。
道具も建物も育てないと良い物はできないから促成栽培であっても何とか育てたい。
暖気入れに発酵熱も加って品温が徐々に上がり、米のヨーグルトのような状態になったら清酒酵母を添加する。この状態になるまでに十五日間ぐらいかかる。
添加する酵母は「きょうかい六号」と「きょうかい一一号」それと「焼酎用二号」の三種類。
この後は摂氏二十二~二十三度をできるだけ維持して糖化の促進と酵母の増殖発酵を促すと十日間ぐらいで酒母が完成する。酒母のアルコール度数は十度を超えていて酵母以外は駆逐されて酵母の天下になっている。
発酵でできた炭酸ガスなどで膨れ上がった酒母ちゃん。
味見したけど悪くは無い。後は五日間ほど放冷しながら寝かす。
まだまだ会心の出来にはほど遠いけど及第点には達している。
◇
一麹二酛三造りの三段階目、造りに入り醪を造る。
本当は仕込み桶に酒母を移して仕込み桶で醪を造るのだけど今回は酛桶で仕込む。
直径一メートル高さ一.二メートルの酛桶の容量は七百リットルぐらいある。だいたい四石弱といった感じ。なので二石分なら酛桶で醸せてしまう。焼酎二号が一桶、六号が二桶、一一号が一桶、六号と一一号のブレンドが一桶の合計五桶に配分する。
仕込みは三段仕込みといって三回に分けて蒸米、麹、水を加えるのだけど、入れる量は三等分ではなく倍々で増やしていく。麹や蒸米の米の量を基準に考えると酒母の量を一とすると一回目の「初添え」は二を加え、二回目の「仲添え」は四を、最後の「留添え」は七~八の量を加えて酒母の十四~十五倍の量にする。体積の方は七倍ぐらいで収まるけど……
酒母は乳酸などによる酸性と濃糖と高アルコール濃度によって酵母以外を排除しているんだけど、原料を加えるって事はこれを薄める事になるので入れすぎると酵母以外の雑菌が繁殖してしまう。だから初めは加える原料を少量にして酒母の環境が激変しないようにしている。少量といいつつ酒母の二倍の量を入れるんだけどね。
通常は四日間で三回に分けて仕込む。初添と仲添の間は「踊り」といって一日空けるので四日かける。
後は十六度前後を保って二十日間ぐらい(吟醸酒だと十一度前後で三十日間)すれば醪ができあがる。この状態は「どぶろく」だから飲めるけどね。
醪を笊や目の粗い布で濾せば「にごり酒」に、目の細かい布で濾して澱引きしたら透明なお酒になる。よく誤解される事もあるけど、にごり酒は酒税の分類上は「清酒」になる。
焼酎用の醪は蒸留して焼酎にして、酒粕は醪酢にする予定。
さて、仕込みは終わった。
この後の品温管理も大変だけどここでしくじったら台無しなのでやるしかない。