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第五話:暗躍
「それでね、余計に腹が立つのは、女生徒がまったくいないってわけでもないことなのよ」
 
 ぱくり、と白身魚を口にしながら、トゥナは憤慨した。
「え! まったくの女人禁制ではないってこと?」
 注がれたワインもそこそこに、興味深げにリュートは身を乗り出して尋ねる。それに対してトゥナは、バンッと机を叩いて、自らの怒りを表現してみせた。
「そうなのよ! 大学は貴族の娘の入学は認めてるのよ? どうせ、貴族のお嬢様なんて勉強したって医者になんかならないくせに! 結局貴族からの寄付金が狙いなのよ、あのスケベ学長!」
「まあまあ、そいつ殴って少しはすっきりしただろ?」
 止まらないトゥナの怒りを、レミルが宥める。しかし、彼女はレミルのその言葉には構わずに、憎々しげに、パンを二つに引きちぎって、口に押し込んだ。
「冗談じゃないわよ。たかだかいい縁談を得るためのお嬢様の御教養のために、なんで私が被害を被らなきゃいけないの! ああ、腹が立つ!!」
「うん、それはひどいね。地方は医師が足りないっていうのに、中央の奴らはまったくわかってないんだな」
 うんうん、とリュートは、トゥナの言葉に、大げさに頷いてみせる。
 
「リュート様」
 突然、低い男の声が響いた。
 
「ああ、そうだ、トゥナ。ガリレアの街のこと、もっと話してよ」
 低い声を無視して、リュートはさらにトゥナの杯にワインを注ぐ。
「そうそう。ガリレアはすごい都会だったわ。王宮はまあ、広くて豪華で……」
 リュートの酒に乗せられてか、トゥナはますます冗舌になった。そして、リュートはその話に、不自然なほど一生懸命に聞き入り、相づちをうってみせる。
 
「リュート様」
 再び、低い声が響く。
 
「あ、ガリレアにはすごく高い十二の塔があるって本当?」
 リュートは再び、その声を無視して、尋ねた。
「ええ、近衛十二塔ね。それはもう壮観だったわね、マリアン」
 微酔いで気分よく話している姉とは対照的に、妹は何かを憚るように、おずおずとその姉の言葉に答える。
「え、ええ、そ、それはもう立派な塔で……」
「そっか、一度見てみたいな。ね、レミル」
「あ、ああ……」
 にこっと満面の笑みで、同意を求めるリュートに、レミルは困ったような笑顔を作りながら答えた。
 
「リュート様」
 三度、低い声が響く。
 
 三度、リュートは無視して、目の前の白身魚をつついた。
「ね、ねえ、リュート」
 再び、マリアンがおずおずと話し掛ける。
「なんだい、マリアン?」
「ねえ、本当にいいの? この人達……」
 
 そう言ってマリアンが指差した先には、リュートの後ろにずらりと控える三人の男の姿があった。
 
「いいんだよ。無視して楽しい食事を続けよう」
 リュートはしれっと、そう言うと、再び、にっこりと満面の笑みを浮かべてみせる。
 
「困ります、リュート様」
 一番右端に控えていた男が言った。十分ほど前に来た男だ。
 
「そうです。あなたに来ていただかないと我々は帰るわけにはいきません」
 真ん中の男が言う。二十分ほど前に来た男だ。
 
「なんとしてでも翡翠館にいらしていただかないと」
 最後に一番左端の男が言う。三十分ほど前に来た男だ。
 
 リュートは、彼らの方を見ようともせず答える。
「行かぬ」
 断固とした拒否の言葉に、三人の男達はすがりつくようにリュートに訴えた。
「そこをなんとか」
「お願いします」
「我々の首がとびます」
 
「くどい!! さっきから何度言ったらわかる! 今は同郷の仲間と久しぶりの食事中だ。邪魔するな!」
 三人三様のその嘆願に、リュートは痺れを切らしたようにいきり立った。
 無理もない。今日は彼がかねてより楽しみにしていた、幼なじみとの久しぶりの食事会だったからだ。
 あの崩落事故での再会のあと、病院や町で何度か会ってはいたが、こうして場を設けてゆっくり話すのは今日が初めての機会なのだ。
 その楽しいひとときに水をさされただけでも不快なのに、よりによって彼らが来てほしいという場所が、リュートの怒りにより一層油をさしていた。
「いくら非番と言っても、市庁舎や鍛練所の呼び出しなら応じよう。だが翡翠館なぞには死んでもいくかと、貴様等の主人に伝えよ!」
「そ、そんな。無茶をおっしゃらないでください」
 男達は心底困ったように頭を下げる。それを見兼ねたレミルが、リュートを諭した。
「おい、この人達だってこんなに言ってるんだ。行ってやったらどうだ? あんまりわがままを言って困らせてはいけないよ」
 レミルに言われると弱いリュートだが、忙しい毎日で普段レミルとすらゆっくり話す時間が持てない彼は、この時間をなんとしてでも失いたくはなかった。断固として首を縦にふらない。
 
 すると、彼らが食事をしていたレストランに、また男が一人入ってきた。
 四十分ほど前に来た男で、リュートが『誰がお前のところなんか行くか、陰険黒羽野郎』と、彼の主人に伝言を与えて追い返した男だ。
「また来たのか」
 リュートの刺すような視線には構わず、男はリュートの前に跪き、言った。
「我が主人からの伝言です。『あまりてこずらせるな、山猫』だそうでございます」
 
 その言葉に、よりリュートは激昂した。
「誰が山猫だ、誰が! もう一度行って主人に伝えよ! 僕に用があるんだったら、そっちが来いと! でなければ力付くでもやってみろとな!」
 
「じゃあ、お言葉に甘えて〜」
 
 高いところから、聞き覚えのある軽薄な声が響いた。
 リュートが後ろを振り向いた直後、そのみぞおちを激しい衝撃が襲った。
「ぐふっっっ!!!」
 あまりの衝撃に倒れこむリュートを、大きな影がしっかりと抱き抱える。
「レギアス教官!」
 そう叫ぶレミルに、長身の巻き毛の男は、いつものようにへらへら笑ってみせた。
「ちょっと拉致ってくよ〜。あ、そっちの可愛い彼女達、今度俺とも一緒に食事しようね〜」
 トゥナ達姉妹に投げキッスをすると、レギアスはぐったりしたリュートを軽がると肩に担ぎ、レストランを後にして行った。
 
 その様子を残された三人はぽかん、と見送る。
「何、今の人」
「いや、うちの教官だけど。驚かせてごめん」
「うん、ちょっとびっくり。まあ、いいわ。リュートには申し訳ないけど、少し飲みなおしましょ」
 トゥナの意見に頷き、席に戻るレミルと対照的に、マリアンはいそいそと立ち上がり、荷物をまとめた。
「姉さん、レミル。私これで帰るわね。気になる病状の患者さんが病院にいるし」
「え、残念だな。せっかく会えたのに」
「ご、ごめんなさい。また会いましょうね」
「マリアン……」
 
 残念そうに、彼女の背中を見送るレミルに、トゥナは言う。
「いいのよ。あの子だってお目当てが消えたら、ここにいたってつまらないでしょうよ」
「お目当て?」
 聞き返すレミルに、トゥナは呆れたようにため息をついた。
「鈍いわねー。あの子、リュートのことが好きなのよ」
「え、ええっ!?」
「知らなかったの? 小さいときからずっとそうよ。あの夜盗が町を襲った日、さらわれそうになったあの子を助けたのはリュートだったわ。あの日から、ずっと好きなのよ」
 トゥナは、まざまざとあの日のことを思い出すことが出来る。
 あの日、リュートは危険もかえりみず、勇敢にもフライパンで男に飛びかかっていった。そのときから、リュートはマリアンの永遠のヒーローになったのだと、姉は知っていた。
「し、知らなかった」
 自分の鈍さにうなだれるように、レミルは元の席へふらふらと着席する。一息つこうと、自分の杯を手にするが、すでに空になっていた。
「まあ、鈍いのはあなただけじゃないけどね」
 とぷとぷと、トゥナがレミルの杯にワインを注ぐ。
「リュートなんか、輪をかけてそういうことに鈍いでしょ? 昔、クレスタにいたころだって、いつも『レミル、レミル』ってあなたの後ろばっかくっついて……」
 妹の苦労を哀れむかのように、トゥナはため息をついた。
「あはは、そうだったな」
 レミルは昔を懐かしむように目を細める。
「昔は俺から離れることなかったもんなぁ。よく『恐い』って言って、夜ベッドに潜り込んでもきたっけ」
 ふと、レミルの表情に陰りの色が差す。それをトゥナは見逃さなかった。
 
「随分と、リュートは市長に気に入られてるのね」
 その言葉に、レミルは少しはっとした表情を見せたが、すぐに取り繕って、不自然なほど明るい笑顔で言った。
「いや、よくできた弟でさ。みんなにうらやましがられるよ。でも、あんまりこき使われているから、最近じゃかわいそうになってくるぐらいだぜ。うん、リュートにゃ悪いけど、ホントに俺じゃなくてよかった、なーんて……」
「ふうん……」
「俺なんか楽なもんだぜ? 普通に勉強して、訓練してるだけだし。それに比べてあいつは、秘書の仕事もやって、市長の護衛もやって、勉強も剣も弓も良くできるし。ホント、俺にはもったいないくらいの弟!」
 そう言って、レミルは笑顔で一気に杯をあおった。
 
「……レミル」
 
 顔を真っ赤にしながらも、尚もレミルは自分の杯にワインを注ぐ。
「レミル、あんた飲み過ぎよ」
「あー、もう。いいじゃんか、久しぶりに会ったんだし。まったくトゥナはホント、世話焼きだなぁ」
「ええ、あんたより一つ年上ですからね。まったく、昔からだらしないところはちっとも変わってないんだから」
 そう言って、トゥナはレミルの手から杯を取り上げようとする。しかし、レミルのもう一方の手が、それを邪魔し、トゥナの手を握りしめる形になってしまった。
「ちょっと、レミル? いい加減に……」
 
「……頼む。飲ませてくれ」
 
 振り払おうとした手をぴたりと止めて、トゥナはレミルを凝視した。
 
「レミル」
 
「頼む」
 
 それは、彼女が初めて見る男の顔だった。
 
「……わかった」
 そう言うと、トゥナは自分の杯にも、ワインをなみなみと注ぎ始める。あふれんばかりのそれをレミルの杯に、カチン、と景気よくぶつけると、彼女は、一気にそれを飲み干した。
 そして、再び、レミルと自分の杯にワインを注ぎ始める。
 
「よし、飲もう、レミル!! 今日はとことん飲みましょう!!」
 鼻息荒く、そう宣言するトゥナを見て、レミルはなんだか、本当に楽しくなって、笑った。
 

 
 彼らが飲み交わしていたレストランからすぐ、レンダマルの市内東部に、その館はあった。
 翡翠館、という名が示すとおり、そこは美しい翡翠色に彩られた屋敷だった。全体的に白を基調とした少し古風な建築であるが、差し色として柱などの要所要所に翡翠が見事なバランスで配置されている。それはただのシンプルな屋敷に絶妙な気品と華やぎをもたらしていた。
 美麗かつ豪奢なこの建築物は、他でもない東部最高位を有するロクールシエン家が所有する別邸である。郊外には大公夫妻が住んでいるさらに豪華な本宅があるものの、そこに息子であるランドルフは滅多に寄りつこうとせず、市長に抜擢されてからは、その業務も相まってそのほとんどをこの別邸で過ごすようになっていた。
 
「来年にはクレスタへ帰還する予定の、鍛練所所長付き秘書、リュート・ニーズレッチェ。ただいま参りました」
 
 仏頂面でそう挨拶する臣下へ、主人はまた呆れたようにため息をついた。
「そういうことは、いちいち言わなくてもいい」
「いちいち言わないと分かって頂けないと思いまして」
 
 あの崩落事件後の明確な拒絶の後も、何事もなかったかのように、主人であるランドルフはたびたびリュートを呼びつけては仕事をさせていた。その様子に辟易したリュートは、彼に会うときにはいつも嫌味のように、上記の台詞を繰り返して反抗を続けている。それでもランドルフは堪えることはない。
 
「この様な場所に呼びつけて、一体何のご用ですか?」
 
 この別邸、翡翠館にリュートが呼び出されたのは初めての事である。
 ここはあくまでもランドルフの私的な館であり、いつも仕事を頼まれる時には必ず市庁舎か鍛練所に呼び出される。ここに呼び出される、ということはおそらく公用な仕事ではなく、私的な用事……。それだけに、リュートはこの翡翠館に行くことを激しく嫌っていたのである。
 
「まあまあ、翡翠館へようこそ〜」
 リュートを拉致した張本人が、その手を引っ張って、館の中の一室へと導いた。
「あとで絶対一発入れますからね、教官」
 先の不覚を悔いるかの様に、リュートはみぞおちをさすりながら、きつくレギアスを睨み付ける。
「まあまあまあ、そんな怖い顔せずに〜。ほら、入って入って」
 
 そこでリュートは目を疑った。
 
 服、服、服。
 開け放たれたクローゼットはもちろん、ベッドの上、チェストの上、あらゆる場所に色とりどりの服の山々。
 
「なんですか、ここ……?」
 呆れたようにそう尋ねるリュートに、レギアスは嬉しそうに答えた。
「俺の私室だよ。俺ここに住んでるんだ」
 ロクールシエン家に代々武官として仕えているファー家の出身であるレギアスは、主任護衛官としてランドルフのプライベートでの身辺警護も行っている。そのため彼は、この翡翠館に一室を与えられ、ここで寝起きをすることが許されていた。
 
「はあ、それで、この服の山は……?」
 呆然とするリュートを尻目に、レギアスはその服の山々から何着か嬉しそうに選んでいる。そしてリュートを部屋の奥へと引っ張り込むや否や、その服を次々とリュートにあてていった。
「うん、この薄い青も悪くないな。いや待て、金髪に合わせて、ここは黄色。うわ、似合わないな。じゃあ黒はどうだ。……だめだめ、せっかくの美男子が台無しだ。いや、待て、この翡翠色なんかいいんじゃ?」
 ぶつぶつと独り言を言いながら、次々と服を変えてあてていく。
「ちょ、ちょっと待って下さい! これ、どういうことですか!?」
「何ってお前の衣装だよ。俺が選んであげるからさ〜」
「衣装って、何の衣装ですか!?」
 
「今度の秋の収穫祭のだ」
 
 そう言って、館の主人が部屋に入ってきた。主人は部屋の惨状と、部屋の主人に翻弄されているリュートの様子に笑いを隠せない。
 
「収穫祭? そんなの聞いていませんよ?」
「何だ、皆知ってることだぞ。市内あげての盛大な祭りだ。お前の兄や今日会っていたお前の女達も出る予定だろう?」
 主人の言葉に顔を赤くさせてリュートは反論した。
「お、お前の女って……。た、ただの幼なじみです!」
「ふうん、まあいい。レギアス寄越せ」
 ランドルフはレギアスが持っていた服を数着奪い去ると、すぐにその中から一着を選びだした。
「これに決まっているだろう」
 それは純白に近い白の長衣だった。質のよい絹で、シンプルかつ、品がいい。
「おおお、いいじゃないの。似合う似合う。これにしなって。決まりな。じゃあ、次は俺の衣裳選んで〜」
 レギアスが自分に次々と衣裳をあててポーズを決め始めたところで、ようやくリュートが言葉を発した。地の底から響くような、彼のものとも思えぬ低い声だった。
 
「よもや、こんなくだらないことで僕を呼び出したのではないでしょうね……?」
 
「だと、よかったのだがな」
 
 突然、ランドルフの表情が変わった。
「オルフェ、オルフェ! お前も来い」
 部屋の外に向かってそう呼び掛けると、眼鏡の男がすぐにあらわれた。もちろん、部屋の惨状にうんざりしながら。手にはいつものごとく、多くの書類を抱えている。
 
「リュート、お前先の『東部解放戦線』の件、覚えているか」
 服を寄せて、ランドルフがレギアスのベッドに腰掛けて、そう尋ねた。
「はい。もちろんです」
「あの時、あのラスクという男がお前達に何をしようとしたかも?」
「ええ。確か、僕達に睡眠薬入りのお茶を飲ませて、犯人に仕立てあげようとしたのでしたね」
 それは忌々しい出来事だった。忘れるはずもない。
 
「おかしいと思わんか」
 
「えっ?」
 
 ランドルフの問いに、リュートは言葉を詰まらせた。
「あの市庁舎で、私の命を狙った者達は、皆、捕まって処刑されるのを覚悟の上で決起した連中ばかりだった。なのにだ、あの男だけお前達を犯人に仕立て上げて、嫌疑を自分からそらそうとする工作を行おうとしていた。これはどうも腑に落ちんと思わんか」
 確かにそうだ。あそこで万が一、眠らされて犯人に仕立て上げられたとしても、先の市議会議員暗殺の件から、ラスクの犯行が浮かび上がるのは時間の問題だ。すぐにリュート達は解放され、ラスクに追っ手がかかっただろう。
「工作をして、少しでも自らが逃げる時間が欲しかった、ということでしょうか」
 逃げる、だろうか。仲間が決起して捕まっているのに、自分だけ逃げるだろうか。まして、あれほどロクールシエン家に敵意をむき出しにしていたラスクが。おそらくは、……逃げない。
「時間が欲しかったのは確かだろうな。捕まるまでに、何かをする時間が」
「何か、とは?」
 リュートの問いに、ランドルフは忌々しげに眉根を寄せた。
「それが分かれば苦労せんのだ。あいにく、あの男、喋る前に獄死してしまった」
 獄死……。処刑ではなく、牢で死んだのか、あの男。
 リュートは男の運命に、薄ら寒い思いに駆られる。
 
「だが、一つだけ、奴は死に際にうめいた。『クローディア』と」
「クローディア?」
 
 それは女の名前だった。
「彼の恋人とか、そんな女でしょうか?」
「私も気になって、オルフェに調べさせた。この東部に今いる、クローディアという名の女をすべて」
 リュートは驚きを隠せない。
「すべてって……」
「すべてはすべてだ。神殿の出生簿、関所の記録、旅館の宿帳。ありとあらゆる名簿すべてだ」
 しれっとオルフェは言い放った。それがどれだけ膨大な作業か、リュートにも計り知れない。と、同時に市庁舎の仕事をやたら急かせていた理由もこれで得心がいく。改めて、この眼鏡の男を見直さざるをえない。
 にやり、と不敵な笑みを浮かべて、オルフェは一枚の紙を取りだした。
「調べたら、おもしろいクローディアが出てきたぞ。郊外の旅館の宿帳だ。『クローディア・オフィリス』。記載された住所は、王都ガリレアだが、この番地は実際には存在しない。もちろん、そんな女も住んではいない」
「偽名、ということ?」
「そうだ。もう一つ、おもしろいことに、この女が泊まった日とあのラスクという秘書が休みを取った日が一致している。怪しいとは思わんか?」
 限りなく、怪しい。
「その後、この名はどこにも見あたらない。ガリレアに帰る帰路の宿帳にも、この東部のどの宿帳にも。忽然とクローディアという女は消えている。明らかに、この名を使うことを憚って、自らをくらませている。ただの恋人がこんな事すると思うか?」
 
「その女が黒幕……、『東部解放戦線』のリーダーということですか?」
「もしくは……」
 
 ランドルフは言葉を濁した。確信が持てない仮説のため、言うのが憚られるのだろう。だが、リュートはその仮説を察知して言葉にしてしまう。
「あの稚拙、かつ覚悟の上の狂信的な決起。あの彼らの狂信をともにするリーダーなら、あの後、自らテロを起こしてもおかしくはない。それをしないのは何故か……。それは、彼らの狂信を信じていないからだ」
 リュートの仮説に、ランドルフは同意するように首を縦にふる。
「そう、その狂信を信じたふりをして、彼らに取り入り、彼らを煽って凶行に及ばせたものがいたとしたら?」
「彼らを利用した者、それが『クローディア』だと?」
 ランドルフは、もう一度首を振った。
 
「何のために!?」
「まあ、理由はいくつか考えられるが……おそらくは東部の混乱」
 
 ランドルフはその眉間の皺をより一層濃くして答えた。
「東部はもともと反国王勢力だった地だ。今は四大大公の一人として国王に忠誠を誓ってはいるが、未だに叩けばあいつらのような埃が出る」
「そ、そんな。わざわざ平定した東部をつついて混乱させる必要がどこにあるって言うんだ」
 より、ランドルフはその表情を強張らせた。嫌悪する、といった表情にも近い顔をして彼は言った。
 
「おそらく、宮廷。今、私の親父殿がいる毒蛇どもの巣だ」
「宮廷? ガリレアの?」
 リュートにはほど遠い世界だ。どうして宮廷がこの件に関わっているのか、まったく理解できない。
「宮廷ってことは国王陛下?どうしてそんなことを?」
「国王、もしくは……それに群がる毒蛇ども」
 さらにランドルフは忌々しげな表情を浮かべたが、その名を明確に出すことはしない。
「まあ、黒幕はともかく、この東部に未だ『クローディア』なる女がいて、何かしら画策している可能性が高い。まずはこの女の確保が最優先だ」
 
「それで僕を呼んだんですか? そういった仕事なら、オルフェさんのが得意でしょうに」
 呆れたように、リュートは首をすがめた。目の前の眼鏡の男の情報処理能力に、到底勝てる気がしないからだ。
「いや、お前でなければ困るんだ」
 ランドルフは、含みを持たせた言い方をする。
 
「どういう事です?」
「今日、お前が会っていた女の一人。黒髪だそうだな」
 
 どきり、とリュートの心臓が高鳴った。確かに、トゥナは美しい黒髪をしている。
「そうですが……何か」
 リュートの睨むような目線にもランドルフは動じない。
「その『クローディア』という女、宿の親父によると、黒髪だったそうだ」
 
「……何が言いたいんですか」
 
「あの女がガリレアから来たのも、あの暗殺事件と崩落事故の間だったな」
 ここまで来れば、彼の言わんとしていることは嫌でもわかる。
 
「トゥナが『クローディア』だとでも言いたいんですか?!」
 
「可能性の問題だ。疑わしい者はすべて疑う。用心して用心しすぎることはない」
 リュートはその言葉で、ランドルフが執拗に彼をこの場に呼びつけた真意を悟った。
「だから食事会を中断させて、僕をこの場に呼びつけたのか! 僕がトゥナに余計な事を話してしまう前に!」
「そうだ。無論、私だってお前の幼なじみとやらがシロであって欲しいとは思うがな」
 リュートは今にも飛びかからんばかりの視線で、ランドルフを睨み付けた。
 
「つまり、僕にトゥナを探れと?」
「人聞きが悪いな。彼女の無実を証明するために、動いてみたらどうか、と言っておるのだ」
 
 けっ、とリュートは心の中で毒づく。
 だが、断れはしない。ここで自分が断れば、誰か別の者がトゥナを探るに違いない。
「わかりました。その任、お受けします」
 
「さしあたっては、近々催される収穫祭。ここで『クローディア』が動く可能性が高いだろう。なんといっても町中総出だからな。なにかと混乱も起きよう」
諦め、そして悟ったようにリュートは答えた。
「そこでトゥナの監視にあたれ、ということですか。わかりました。……わかりました、が! その件と、先ほどの衣装、何の関係があるので?」
 ちらり、とリュートはさっきランドルフが選んだ白い衣装を見遣る。
「ああ、困るだろう? 私の主任護衛官が収穫祭でそんな襤褸を着ていては」
 にっこりと、普段絶対見せないような笑顔でランドルフは笑った。
 
「主任護衛官って、いつからそういうことになったんですか……?」
 リュートはなるべく感情を表に出さないよう、努めて冷静に振る舞った。
「今日、今からだ」
 ランドルフがそう言うと、たった今まで彼の主任護衛官を務めていたレギアスが、笑いながら彼らの間に入ってきた。
「いや〜、実は俺さ、ちょっと不祥事おこしちゃってさ、護衛官、解任になっちゃった」
 てへ、と彼はおどけて、その巻き毛をこづいてみせる。
「ここの侍女に手をつけたんだ、こいつ」
 オルフェがバカにしたように言った。
「いやあ、可愛い子だったから、つい」
 てへへ、と再び笑った。
 
 それが、とどめだった。
 
「じゃあ、なんですか? 僕はこの人の代わりにここに住んで、あんたのプライベートも護衛しろと? そんでもって、トゥナの監視もして、鍛練所に通って、あんたの秘書もして、公的な護衛もしろと? ……ふざけんなーーーーーー!!!! 僕を殺す気かーーーーっっ!!!」
 
 翡翠館にふさわしからぬ絶叫が響き渡った。
 叫び終わり、ぜいぜいと肩をいからせるリュートに、よせばいいのにまたレギアスが声をかけた。
「まあまあ、落ち着いて〜。あ、さっきの衣装もいいけど、こんなのはどう?」
 
 そう言って、ぴらり、と見せたのは大きなフリルが施された女物のドレスだった。
 
「これ、きっと似合うよ〜。こういう服を着てた方がきっと相手も油断する……ぐふうっっぅ!!」
 レギアスのみぞおちに拳がたたき込まれた。
「先ほど、一発入れると申し上げましたよね……?」
 そう言って、リュートはばきばきと両手を鳴らす。怒りのためか、うっすらと、その碧の瞳が光って見える。
 
「なんなら、一発と言わず、何発でもその腹に叩き込んでやりましょうか? いや、僕はそのご自慢のお顔なんかがいいんじゃないかと思うんですが……」
 
「や、やめて〜〜〜〜〜〜!!!!!!」
 
 再び、翡翠館にはふさわしからぬ絶叫が響き渡った。

 その声を包み込むほどに晩夏の空は高く、涼しい風が秋の訪れを告げていた。


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