3話 高橋
「どこ行くんです? 逃げても無駄ですよ。もう、動くのも辛いんでしょう」
と、夜魔田が声をかけた。高橋は重い体を引きずりながら部屋の外へ向かう。歩くだけでよほど苦しいのか、額に汗が滲んでいる。
「……逃げたりはしない。少し待ってろ」
それだけ言うと、高橋は部屋の外に出た。どう足掻いたところで死ぬのだからと、夜魔田は追いかけたりはせずに、言うとおり部屋で待った。
「きゃあぁぁぁ!」
突然、夜魔田の耳に女性の悲鳴が聞こえてきた。それから少し時間を置いて、高橋が部屋に戻ってきた。高橋の体は血に塗れている。
「妻の沙希を……殺してきた」
「なぜ?」
「お前は魂が欲しいんだろ。なら、妻の魂を持って行け。その代わり、俺は助けろ」
死にたくない。高橋はそのことだけに執着している。そこから生まれる犠牲など取るに足らないことだった。
「悪人の魂でないと地獄には連れて行けませんよ」
「ふん、問題ない。この女は俺の画家としての名声と金に引き寄せられてきたくずだ」
「自分の奥さんをくずよわばりですか。ま、確かにあなたの奥さんは、地獄行きですけどね」
高橋の呼吸は荒い。もう、長くはない。
「おい、早くしろ。どうしようもなく苦しいんだ」
「そうですねぇ。でも、もし私があなたを見捨てたら、二つの魂を私は手に入れることが出来るんですよね。そちらのほうが得ですね」
「お前……頼む、助けてくれ。私はまだ死にたくない」
高橋は夜魔田の体にすがりつこうとしてくる
「ちょっと、ちょっと、くっつかないでください。スーツが汚れるじゃないですか」
さっと、夜魔田は体をかわした。だが、高橋は死にたくないのか、苦しいのか、その両方か、涙を流しながら追いすがってくる。
「何をしてるんですか、あなた方は」
そう言って、一人の男が部屋に入ってきた。男は夜魔田の黒のスーツとは違って、白のスーツを着ている。
「ああ、これはこれは神内さんじゃないですか。」
夜魔田は軽く頭を下げた。神内は天国に魂を連れて行く天使だった。
「今日はどうしたんですか?」
夜魔田が尋ねた。
「あなたと同じ、仕事ですよ。魂を受け取りにね」
「魂、誰の?」
高橋も、高橋の妻である沙希も地獄行きの魂だ。
神内は高橋を見た。
「この方の奥さんのお腹の中の子をね。天国まで連れて行くんですよ」
よく見れば、神内の右手には胎児の姿をした魂が握られている。これには夜魔田も驚いて高橋を見る。
「あなた……お腹に子供がいたのに、自分の奥さんを殺したんですか?」
「だからどうした? 俺が死ぬよりましだ」
後悔など微塵もなくそう言い放つ。
夜魔田は微笑した。
自分は人間から悪魔と呼ばれる存在だが、この男こそ悪魔そのものだ。悪魔という言葉自体、人間が作りだしたもの。モデルは人間と言うことか……
「何がおかしい。そんなことはどうでもいいんだ。私を助けてくれ。助けてくれさえすれば、俺が何人でも殺してやる! 地獄行き間違いない悪人をな」
高橋は叫ぶように言う。それを聞いた神内は眉をひそめた。
「夜魔田さん、あまり自然な状態からかけ離れて人間を殺せば、罰せられますよ」
「ああ、大丈夫です。そこは理解しています。高橋さん、落ち着いて。分かりました。あなたは助けましょう。面白いものを見せてもらいましたし」
その言葉に、再び神内が眉をひそめた。
「面白いもの? お腹の中の子が死んだのが? あのねぇ、胎児の魂と言うのはまだ育ってなくて、とても神様に仕えるような仕事は出来ないんですよ。だから、天国に連れて行くだけ無駄なんです。それでも回収しにきたのは、天国で別の器に入れ替えて転生させる作業をする必要があるから。これ、ノルマとは関係ないからボランティアのようなものです。分かってます、夜魔田さん? あなたのせいで私、無駄な仕事が増えたんですよ」
神内はまくし立てた。夜魔田は両手を前に突き出してなだめる。この世に生まれずにして死んだ哀れな胎児のことは誰も気に掛けない。
「ええ、それは申し訳ないと思っています。だから私も欲張らずに一つの魂で我慢しますから。ね、だからまあ、ここは穏便に」
神内はため息をついた。
「ああ、もう私は行きます。早くこれを片付けないと」
「どうも、ごくろうさまです」
申し訳なさそうに頭を下げる夜魔田を神内は一睨みすると、部屋から出て行った。
「ふう、それでは私も退散しますか。それにしても、高橋さん、あなたどうしてそこまでして生きたいんですか? 長生きしたところで地獄行きは決定ですよ」
「自分の思い通りになってまだ数年だ。こんなところで死ねるか」
「生きても、あなた自分の奥さんを殺した以上、刑務所暮らしでしょう。これからは思い通りには生きていけないと思いますけど」
刑務所暮らしと言われて、高橋は鼻で笑った。
「そこは、考えてある。俺は原因不明の病気で悩み、沙希を殺した時は心身喪失状態だったということにすれば良い。俺は加害者じゃない。被害者の一人だ。……俺はね、心を病んだ病人になるんだよ」
「……そう上手く行きますかね?」
「俺は高名な芸術家だ。俺の画を買った奴らの中には大勢の権力者がいる。簡単なことさ。」
……この男には悪魔と言う言葉も生温いか……
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