1話 願い
善い人間がいれば、悪い人間もいる。同じように神様にも善し悪しがある。人間は悪い神様のことを悪魔と呼んで忌み嫌うが、当の悪魔と呼ばれた神様にとっては取るに足らぬことだった。人間が自分をどう呼ぼうが知ったことではない。人間は玩具に過ぎない。悪魔と呼びたければ好きなだけ呼べばいい。
人間を尊いと思ってくれるのは人間だけだ。
残念なことに、この考えは神様にも当てはまるものだった。神様は人間を玩具にするようなことはしないが、苦しんでいる人間に手を差し伸べてくれることもない。
だからこそ人間から奇跡という言葉が生み出された。これは神様が人間を見てないために生まれた言葉。数少ない奇跡の裏では、数知れない犠牲が生まれている。奇跡は偶然の積み重ねの産物に過ぎない。
神様と悪魔の頭の中を占めているもの。それは、些細なことからお互いが争わないようにしなければいけないということ。人間の扱いについて揉めて、神様と悪魔で争うなどもってのほかだった。
奇跡に神様は関与しない。
人間に神様は関与しない。
ただ、人間の中身には関与する。
「さてと、仕事をしようか」
そう言って、黒のスーツを着た一見サラリーマン風の中年の男が、少し先を歩いている帽子を目深に被った若い男に近づいて行った。
サラリーマン風の男の名前は夜魔田、本名ではなく悪魔が人間を相手にする時のための偽名。
「あ、ちょっとお時間よろしいですか?」
夜魔田は丁寧な言葉で若い男を呼び止めると同時に、無視されないように前に立ち塞がった。
男は足を止めると、夜魔田を睨みつけて、シャツの中に手を伸ばした。
「駄目ですよ、こんな所でそんな物騒な物を出そうとしては」
夜魔田は辺りを見回した。主婦や子供がまばらに歩いている昼過ぎの住宅街。ここで刃物をちらつかせれば、すぐに警察を呼ばれるのは間違いない。
男は今からコンビニで強盗をするつもりだった。男には夢があったが、その夢が叶わないと悟った。いや、悟ったというよりも叶わないと思い込み、夢を捨てた。その結果、自暴自棄になって部屋に閉じこもっているうちに生活していくための金が尽きた。
このままでは死んでしまう。嫌だ。死ぬのは。そう思った男は最終的に刃物を握った。実に短絡的で身勝手だが、それが男の性格だった。
「……お前、どうして?」
男は眉を寄せた。なぜ、夜魔田がシャツの中に隠している刃物に気づいたのか謎だった。
「不思議ですか? でもね、私には分かるんですよ」
夜魔田は刃物を持っている男に対して怖がる様子はない。
「何で俺に近づいてきた? ……警察に連れて行く気か?」
男の声は震えていた。少し冷静さを取り戻すと、警察に捕まるということが怖くなってきた。が、今から自分が犯そうとしている罪に対しての恐れはない。それだけではない、反省も後悔もない。男の頭にあるのは自分のことだけだった。
「警察に突き出したりはしませんよ。あ、申し遅れました。私、夜魔田と言います。よろしければあなたのお名前を教えてくれませんか?」
「……」
男は何も返さない。じっと夜魔田を睨んでいる。
「教えてくれませんか、それでは仕方ないですね。少し探らせてもらいますよ」
夜魔田は男の目を見据えた。
「な、おい、何のつもりだ?」
とっさに目をそらそうとするが、夜魔田の眼力がそれを許さない。目を合わせたまま数秒が過ぎた。
「はい、分かりました。あなたは高橋さんですね」
高橋と言われた男は驚いた。当たっている。
「さてと、私はあなたがシャツの中に隠し持っている物も知っていましたし、たった今、あなたの名前も当てました。マジックではないのでタネも仕掛けもありません。では、どうしてそんなことが出来たのか、それは私が人間ではないからです」
いきなり何を言い出すんだ? 高橋は困惑した。
「信じていませんね。なら、信じてないついでにもう一つ、あなたの願いを一つだけ何でも叶えてあげます、と言ったら、あなたはどうします?」
「……言ってることがさっぱり分からない」
「願いを一つ叶えてあげると言ってるんです」
「ちょっと頭がおかしいんじゃないのか。そんなこと、無理に決まっている」
「と言うことは、無理でなければ叶えてもらうのですか?」
夜魔田は高橋に詰め寄ってくる。高橋の口から明確な回答が欲しかった。
「ふんっ……叶えることが出来るものならな」
「分かりました。では、あなたの願いを叶えます。あなたの望みはさっき名前を探った時に一緒に調べさせていただきました」
さてと、後はもう一押しだ。一呼吸置いて夜魔田は言葉を続けた。
「ただですね、願いを叶えると、あなたは人間でなくなってしまいます」
「人間でなくなる?」
「はい、姿形は今と同じ人間のままです。それにもしあなたが結婚して子供を授かれば、その子供も人間です。しかし、誰にも気づかれることはありませんが、あなた自身は人間ではなくなります。これはあなたの願いを叶える代わりの交換条件です」
人間でなくなる。そうだとしても、夜魔田には高橋がこの話に乗ってくる自信があった。高橋は夢を捨て、将来に絶望していた。
絶望した人間、そして心に闇を持つ人間は、ほぼ確実に願いを叶えてやるという誘惑には乗ってくる。それで失う物の大きさは考えない。
「分かった。もし俺の願いが本当に叶うのなら、人間でなくなっても構わない」
案の定、だ。夜魔田は内心ほくそ笑んだ。
信じる、信じないを置いて、一気に話を進めたのも良かった。話の信憑性に重みを持たせなかったので、深く考えずに簡単に承諾した。高橋は半ば嘘だと思っていて、もし本当に願いが叶えば儲けものとしか考えていないのだろう。
それならそれで構わない。高橋が同意さえすれば問題ないのだから。
「それじゃ、今日はこのまま帰ってください。一晩寝て明日の朝起きた時には、今日までとは違うあなたになっています」
そう告げると、夜魔田は去って行った。
種は蒔いた。後は芽吹くのを待つ。
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