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白紙の本
作:白山菊理


人生は本に似ていると私は思う。
出来上がってはいない白紙の本。
最初のページには“(エロス)”と書いてあり、最後のページには“(タナトス)”と書いてある。
つまり「起」と「結」。
この二つの事柄は生きとし生けるもの全てに訪れるものだ。
絶対に覆せない事実は初めから本に印刷してある。

さて、問題はそれ以外のページ、つまり中身をどうするかだ。
これは書き手によって、中身は異なってくる。
御伽話のような中身になる人もいるだろうし、サスペンスのような展開になる人もいるだろう。
私はまだ18歳になったばかりであり、人生について語れるほどの歳は積んでいない。
よって、今の自分の人生が一体どのジャンルにいるのかは見当はつかない。
だから、こんな事について私が書くのは人生の先輩方からみれば失礼かもしれないが、今は私の考えについて書きたいと思う。

人は生きているうちに色々な経験をする。
悪い経験も良い経験もするがそれによって学び取ることは多いはずである。
ではこの時の「悪い経験」……「過ち」「失敗」を犯す時には人生の本は一体どういう状態になっているのか?
私の考えは次の通りである。
まず、「自ら犯した過ち・失敗」についてだが、これは本を書く際に作者が紙の上にインクを零すようなものだ。
これは誰も責める事が出来ない自分自身のミスである。
そして「自らの意に反して起こった失敗」は作者に与えられた白紙の本に問題がある。
落丁していたり、紙が破けていたりと。
作者が与えられた本は一冊だけであり、予め落丁などを確かめる事は出来ない。
だからこういった「意に反した失敗」が起こりえるのだ。
本という名の人生を書いているのは作者である自分自身だが、自分の力だけではどうにもならないことがある。
それもこの本自身の落丁によるものだと私は思う。

では次は人の記憶について考えてみよう。
人の記憶は消えていくるものである。
もし記憶が消えずに全ての事柄が鮮明に残されていたら頭がどうかしてしまうだろう。
だから記憶が消えるのは悪い事ではない。
だが、あえて記憶を全部残そうと試みたとしても、そういうわけにはいかない。
これは、古い本に似ていると私は考える。
長い年月が過ぎ、本棚のに眠った本を想像してみよう。
読みもしない本を長い間本棚に入れておくとどうなるか?
よほど良い環境で保存しない限りは、ページは黄ばみ、しばしば印刷が薄れてしまうこともある。
少しだけ似ていると思わないだろうか?
少なくとも私はそう思う。


このように人生を本として捉えている私が何故小説を書くのか?
今回は随筆なのでそれについても語りたいと思う。

私は昔…といっても10年くらい前の話だが、本を読むのが嫌いな子だった。
小説を読んでも何も思わなかったのだ。
それは私の感覚が今より未熟だったせいかもしれない。
母親からは「本を読め」としつこいくらいに言われていたが、そのことで私は本を逆に嫌っていった。
本の魅力に虜になったのは中学生くらいからである。
その頃に何があったかというと、「自分で小説を書く授業」である。
私は以前から小説は嫌いなくせに何か物語を創作するのは好きだった。
言ってしまえば、自分の居る所とは違う世界に憧れていたのだ。
この感情は誰もが抱く感情だろう。
自分が居る所と違う世界で、自分の分身でもある人物達が自分とは違うストーリを紡ぎ出す。
人物達が紡ぎ出すとは言うものの書いているのは私自身だが、それでも私は満足だった。
今までは自分の為だけに小説を書いていたが、授業ではそうはいかない。
人が読むのだからそのことを考えて筋の通った作品にしなければいけない。
どうすればよいのか?
自分の思っていることを「言葉」で文面に表すというのは難しい。
ジェスチャーなどは一切使えない、それでも言わんとしていることを読み取ってもらわなければならない。
そのためにはどうすればいいのか?
私は他の小説家から学び取る事にし、本を沢山読んだ。
自分以外の作者が書いた小説も読めば読むほど面白くなり、私は次々と小説を読んだ。
小説を書く上での勉強になり、考え方の違いを学べ、もちろん現実逃避にもなったりと、とにかく学べる事は色々有った。
読むことに専念し、私は書くことを止めてしまった。
正確に言えば高校受験で書くことが難しくなったのだ。
その後、無事に高校に入ることが出来た。
しかし高校1年生の時のクラスは私の肌に合わず、毎日が退屈だった。
退屈な日々の中に自分と別の世界を求めた結果、私はまた小説を書くことにはしった。
その時生まれた作品が「夢見姫〜堕落の少女〜」である。
あの中に出てくる歌夜は私とは別人でありながらも私自身でもあった。
歌夜が生きる意味を求めるように、私は作者として色々と考えた。
この時の小説は私が気を紛らわせるために書いたものに過ぎない。
このサイトに執筆し始めたのは高3になってからだが、先も言った「夢見姫〜堕落の少女」は高1の時に書いたものだし、「月光蝶の恋歌」は高2の時に書いたものである。
この2つは自分向きの小説であり、このサイトに載せておきながらこんな事を言うのは可笑しいが、人に見られるのは何だか自分を見られているようで照れくさい。
この2つの作品は現実逃避のための作品でありながら登場人物を自分にあえて似せている、矛盾しているとしかいいようがないが、それは自分で書いたことなのだから仕方が無いのでよしとしておこう。

さて、ここまで長々と語ってしまったが話を元に戻そう。
私はこんな事を経験した上で「人生と本は似ている」という結論にたどり着いたのだ。
自分とは別の作家の作品を読んで、そこから学び、作品にとりかかったことも、自分の周囲の人間に影響を受けて小説に走った事も、私が書いた小説と同様に「人生という名の本」の一部なのである。
今、私が紡ぎ出しているこの一瞬一瞬が自分だけの目に見えない本であると私は考えている。

突然だが私が師としている作家は星新一である。
彼の作品は母が全部持っているため私の読んでいる作家の中では一番多くの数を読んでいる。
短い話の中で「起承転結」全てを行える彼の作品は素晴らしいし、私もそんな風になりたいと思っている。
だからここで無理矢理ではあるが落ちをつけてみようと思う。
落ちないかもしれないが、こうでもしない限り終われそうにないからつけるだけであるので、痛いものを見る目で見てくれても結構だ。


この随筆に意味はない。
これは私が「大学受験」というものから逃避するために書いたものだ。














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