新妻と怪しい男と
その日は雨続きのあとの薄曇りだった。じめじめしていて微妙に暖かく着物が肌に張り付いて気持ちが悪い。
ソヨは小間物を買った帰り、何者かにつけられている気配を感じた。
ソヨは町の長屋に住む源二の所に嫁いだばかりだった。もとは田舎に住んでいたものだから、習慣の違いに戸惑うこともしばしばである。
――町なら行き先が近ければ、偶然同じ道を歩くこともあるわよね。でも、同じ角を曲がったのはこれで四回目……なんだか気味が悪い。
ソヨが後ろを振り返ってみると笠をかぶった、羽織っているのが着物かぼろ布か判別できないほどの小汚い男がすぐそばまで寄ってきていた。
「なにか御用ですか」
ソヨは試しに話しかけてみた。男は目つきの悪い顔を向けたがこたえない。かわりにしゃがれた小声で、
「き、今日は、四日であって……いるか」
と聞いてきた。
確かに四日だったので、おそるおそるソヨは首を縦に振った。
そのあとも男は無言でソヨについてきていて、いよいよ怖くなったので、近所のおかみさん達と立ち話でもしようと寄り道をした。
男はゆっくりした足取りでそのまま道を辿っていたので、ソヨは「何だ勘違いだったの」と胸をなでおろした。
おかみさん達とああでもないこうでもないと旦那の愚痴やら、はやりの化粧やら着物の柄やらを散々話して帰路につく。
ソヨは遠くから自分の住む長屋の戸口を見て固まった。
半刻は経ったはずなのに、あの男が立っていたのだ。
ソヨは一瞬身を固くしたが、隣のおかみさんだとかが咎めないのだから源二の客かもしれぬと意を決して声をかけた。
「家の者に何か?」
男はあまりまばたきもしないで首をこくりとして返事にした。
「源二は夕方にならないと帰らないと思いますが」
男はまったく構わないという感じで草履を脱いだ。
ああ、家の中が汚れると思いながらもソヨは男を中に通した。
ソヨも草履を脱ごうとしたら男の草履以外にもう一足、ちょっと値が張りそうな履物が脱いであった。
はて、誰か客だろうか。
ソヨも男に続いて家の中に入った。
「ああ、お帰りなさい。遅かったですね」
仏壇の前で檀家の寺の和尚がにこにこと二人に笑いかけた。
和尚はすこし肥えていて人の良さそうな男だ。
男について和尚が何も言わないことにソヨは違和感を覚えた。
「和尚様? 今日は法事でしたっけ? それはさておき、ちょっと」
和尚の近くまで行ってソヨは耳うちをする。
「なんだい」
「何かおかしいと思いませんか?」
「はあ」
和尚はぼんやり判然としない返事をするばかりだった。
「和尚様、あの男に見覚えが?」
「え?」
「たぶん源二の客だと思うのですが、なんだか怪しくて、あたし、ちょっと怖いのです」
「怪しいとは」
「なんだか体の動きというか、身なりもぼろぼろだし」
「はあ」
「聞いています?」
やり取りをしていると突然男がすぐそばまで寄ってきた。
男は笠も脱がずに仏壇の前までやってきて、
「経を上げさせてもらえぬか」
と低く響く声を上げた。
その声はどこか威圧的で、ソヨはおのずと頷いてしまった。
「…………」
男は仏壇の前に正座し、数珠を取り出し経を唱え始めた。
実家と土地柄が違うからか宗派が違うのか。男の唱える経はソヨの聞き覚えのないものだったが、和尚はどう思っているのだろうか。横目で和尚を見やると、和尚はなぜか脂汗を浮かべ始めていた。
「…………! ……!」
男の経が激しくなるにつれ和尚ががたがたと震えだす。
「和尚様――」
ソヨが声を上げようとすると、男がソヨの口を腕で抱え込むように押さえた。喋るなということだろうか。
――苦しい。臭い。
「…………!」
――早く終わって。
男は最後に懐から何かを取り出すと和尚の方に投げた。
すると和尚はばたりと倒れ、背中から何か黒い靄のようなものが出てきた。
まるで水の中に焼石を入れたような激しい勢いだ。
靄はやがて形を現した。
まるで動物のような――
「…! …!」
男は靄に向かってなおも声をぶつける。もはや読経なのか怪しいぐらい激しい。
ソヨはこの状況が恐ろしくなっていた。
和尚からは変なものが出る、怪しい男には拘束され、男は今も怒鳴っている。
――源さん早く帰ってきて!
目をぎゅうとつぶって、ソヨはひたすら耐えた。
「…! ハッ!」
男が突然振り向くとふすまが開いた。
その先には人足姿の源二が目を丸くしていた。
「いけない! 逃げる!」
男はサヨを放して靄を追いかけ、土間まで裸足で駆けていき、札を投げた。
「滅!」
戸口で靄は燃え尽きるように消えた。
源二とソヨはただただ、呆然とするばかりだった。
男は何やら靄の後始末をした後、
「ぞ、雑巾を、か、借りたいのだが」
と言った。
源二は目を丸くしたあと、にこりと笑った。
「なあんだ、はす向かいにいた八吉じゃあねえか。すっかり坊主だな」
どうやら本当に源二の客だったらしい。
男は雑巾を貸し出すと足を拭き、その間に源二はソヨは手ぬぐいを用意するよう言いつけた。
男が顔を拭うとなかなかの色男であった。
彼は出家してしばらく経つようで、源二相手には朗らかな顔をし懐かしんでいるようだった。
「ああ。久しぶり源ちゃん。今日はお前のおふくろさんの命日だと思ってよ」
「すまねえな」
「突然だったから、お前の嫁さん? にもえらく怖がられちまって」
八吉は困った顔をした。
源二は首を傾げて、ソヨを見た。
「おまけに和尚は狢に取りつかれているときた」
「むじな?」
ソヨが八吉を見る。八吉はびくりとして視線を逸らした。
「ど、動物のあやかしさ」
あやかし、と聞いてソヨは顔色を悪くした。
「も、もう払ったから大丈夫さ」
八吉の喋り方は今しがたあやかしを倒したとは思えないほど、弱弱しい。
「なんでい、八吉。出家しても女がまだ怖いのかい」
「ああ、怖いね。怖いから出家したというのに、俗世を回って修行せよとは酷なことだ」
八吉がソヨ相手に言葉に詰まるのは女人が苦手だからであった。
「き、気を悪くしないでくれ」
「はあ」
「ソヨ、なんでい、その気のない返事は」
「いや、あんまりその、汚らしい恰好だったものだから、お坊様だと思わなくって」
すると源二が眉を吊り上げて声を大きくした。
「人を見た目で判断するんじゃあないよ。でもそういやあ、おめえ笠も脱いでないなあ。どうしたんだい」
八吉はハッとして笠を脱いだ。和尚からする妖気に緊張してすっかり忘れていたのだ、と説明した。
「まあ、まあ、お互いきたねえし、久々に一緒に湯屋でも行かないか?」
「ああ」
「その前にぼんくら和尚を寺に帰すか」
男二人は豪快に笑って、風呂道具と着替えをもち、和尚を背負っていった。
ソヨはほっとして二人の後姿を見つめるばかりだった。
<おしまい>