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とこしえの黄昏の国

雨の国

作者:朝陽 遥
 虐待に類する場面、災害についての描写を含みます。苦手な方はご注意くださいませ。
 その土地では、いつも雨が降っていた。
 月の半分は、音を立てて大粒の雨が降りしきり、残りの半分は小雨か、よくて薄曇り。晴れ間など、せいぜい月に一度か二度というところだった。
 そのような土地にも人が暮らしていると聞いて、迷わず向かっていったのは、好奇心にこの背を押されたからだ。
 なぜそのような地で、人が生きてゆけるのか。考えれば考えるほど不思議でならなかった。私の故郷は山あいの、小さな村だ。よそに比べれば、あそこも雨がそれなりによく降る地方ではあるが、それでもせいぜい二、三日に一度といったところだった。何かの拍子に天が乱れ、連日たえまなく雨が降り続くことがあれば、山肌も崩れ、作物も流されよう。川は大河となって氾濫し、家は腐って朽ちてしまうだろう。
 実際に、故郷ではそれに近いことが、稀にあった。十日かそこら雨が止まず、家財を置いて高台に逃げねばならないようなことが。
 ほとんど常に雨の降っているというその土地で、人が暮らしてゆけるというのは、いかなる神の加護か、それとも人知の結晶か。私はそれが知りたかった。そして、もし人の知恵によるものであるのなら、その片鱗なりと身につけて、故郷に伝えることができないかと、そういう思いも胸の片隅にあった。好奇心の影に隠れてしまうほどの、ほんのささやかな心積もりではあったが。


 近隣の町で教わった、その地方への道をゆくにつれて、たしかに空には徐々に、雲がかかりだした。目指す先には高い山の峰々が連なり、複雑な形に空を覆っている。その峰の向こうから、雲がときおりこぼれ出てきて、頂を煙らせている。
 それらの山々に囲まれた、険しい道を縫っていった先に、雨の国はあるという。
 道があるということは、人が行き交うということだ。誰も通らぬ道は、いずれ消える。
 だが、旅慣れている私にとっても、それはいささか、つらい道だった。
 高くそびえる山々を仰ぐ、その手前の道のりまでは、大の男の足にはなんという苦労もなかった。苦難は山道にさしかかってからのことだ。
 まず、煙るような霧雨が降り出した。途中までは谷底の道を通っていたのが、次第に斜面をのぼり、やがては岩肌ばかりが殺風景に連なる、切り立った崖道へと続いていった。
 真実、それほど雨に降り込められているのならば、道などじきに崩れた土砂に埋もれてしまわないものだろうか。行く前にはそのように思っていたのだが、いざ足を踏み入れてみれば、答えはすぐに知れた。そのあたりは土肌など影も形もない、無骨な岩山だったのだ。表面の土などは、とうの昔に流されきってしまったのだろう。
 その岩の道も、長年の風雨に削られてつるつるになっていて、気を緩めると足を滑らせる。運が悪ければ、そのまま真っ逆さまに谷底だ。
 そのような足場で、さらに雨に体力を奪われながらの、苦しい道程だった。岩の刻み目、滑り止めとして誰かが刻んでいるらしい、そのわずかな足がかりを、靴底で探り探りしながら、しっかりと踏みしめて歩く。神経をすり減らし、雨に体力を奪われながらの道ゆきだ。ほんの一刻も歩けば、もうくたくただった。
 ――どうしてこのような土地に、人が、住もうと思ったのだろう。
 途中の洞穴で体を休めながら、ちょうど行き会った隊商の男にそうぼやくと、商人は余裕を見せて、にやりと笑った。
 ――ここは、世界のはじまりというほどの昔から続く、古道なのだそうだよ。
 そういって、男は時の流れを見通そうとするように、目を細めた。かつてこの道ができたころ、この先の土地はまだ、雨の国ではなかったのだそうだ。
 人のほうが、先に住んでいた。そのあとに何かの天変地異があって、一帯の気候が変わり、そこは雨の国になった。それでも人はどうにか生き延び、生き延びた以上はその地にとどまった。そういうことらしい。


 その先の道は、隊商に混ぜてもらって、後尾をついていった。
 細かな雨の中で空を仰ぐと、薄い雲の向こう、太陽がかすかに透けている。雨が弱まったところで足を止めて、ようやく周囲を見渡せば、これほど陽射しの弱い土地でも、眼下には草木が隆々と繁っているのが、なんとも不思議な光景だった。
 濡れて冷えた手足は、とうに感覚が失せていた。保存食を齧りながら歩いていると、雨が口の中に入る。それでも何か食べていなければ、とても体がもたなかった。
 その場所に近づくにつれ、雨の勢いは増した。悪いことに、風も出てきた。ときおり足を止めてその場にかがみこみ、風が弱まるまで、じっとやり過ごさなければならないようなことまであった。
 足元で轟々と、水のうねる音がしていた。谷間で雨が激流となって、下流に押し寄せていくのだろう。
 やがて雨の厚い垂れ幕の向こうに、淡い明かりが見えた。だが疲れきった私の頭は、ああ、何か光るものがあると、そんなことを漠然と思っただけで、それが何を意味するかということに、思いを馳せるだけの力を残していなかった。
 隊商の面々もまた、何もいわなかった。そもそも彼らは、雨の音に紛れないように声を張り上げて話すのが億劫らしく、ここぞという道の節々で、後続の者にきまった合図の声を上げる以外には、ほとんど口をきかなかったのだが。
 商人たちの合図に従って段差を乗り越え、ずっと見えていた明かりがようやく間近に迫ったとき、ふっと、視界が鮮明になった。そこで私はようやく、雨がもう自分の体を打っていないことに気づいた。
 顔をあげると、岩の天井があった。そこは、洞穴の中だったのだ。
 ――やれ、ようやく着いた。
 口々に安堵の声を漏らす商人たちの間で、私はぽかんとして、阿呆面をさらしていた。
 洞穴の中は温かく、意外なほどに乾いていた。ところどころに火が焚かれている。外から見えたのは、この光だったらしい。
 隊商の代表らしい男は、顔をくしゃくしゃにして笑い、誰かと肩を抱き合って再会を喜んでいた。
 その相手は、小柄な老人だった。これは少ししてから気づいたのだが、かの地の人々は、いずれもずいぶんと体が小さかった。おそらくそれは、彼らの栄養状態の問題なのだろうが、あるいは洞穴の中で暮らしていくなかで、大きな体躯が邪魔になるからなのかもしれなかった。
 商人が珍しい客だといって、その老人に、私を紹介してくれた。雨の国の住人は、ゆっくりと微笑を浮かべると、何ごとか、くぐもった声でいった。訛りがひどく、意味を飲み込むのに時間がかかったが、どうやらそれは、歓迎の意をあらわす言葉のようだった。


 奇妙なことに、洞穴の中にはいつも、緩やかに風が吹いていた。
 洞穴の奥から入り口に向かって、風は、絶え間なく吹き上げてくるようだった。その音が反響して、外から響く雨音と重なり合い、ちょうど大勢の人々の、低い唸り声のように聞こえる。それも中にいるうちにいつの間にか聞きなれて、次第に気にならなくなっていったが、ふとした拍子に、自分が姿の見えない無数の人々に取り囲まれているかのような、妙な錯覚がしたものだ。
 狭い場所でうかつに火を焚けば、悪気あっきが篭もって毒になるという。だがその風のおかげで、あの洞穴に暮らす人々は、心おきなく火を使えるようだった。そしてそのために、洞穴の中のほとんどの場所が、温かく乾いた空気に満たされていた。
 洞穴は、驚くほど入り組んでいた。通路自体はさしたる広さもないのだが、それが延々と奥に続いて、ところどころで分岐し、また合流して、その脇にたくさんの小部屋アルコープがある。自然にできたものではなく、人々が少しずつ削っていって作ったのだろう。
 小部屋の中では誰も灯を使わず、通路から漏れる、あえかな薄明かりだけで過ごす。そのためだろうか、扉、という概念は、彼らにはないようだった。
 通路を歩いていると、いくつか、誰も使っていないようすの小部屋があった。
 何かの都合でたまたま空き部屋ができたのだろうと、はじめはそう思っていたのだが、よく気をつけてみていると、そこは何か、祠のような、特別の場所として扱われているようだった。何も形式ばった祭壇があるわけではないのだが、ただ丁寧に掃き清められていて、人々は軽々しくその小部屋に立ち入ることをしない。その前を通るとき、人々が決まって厳粛な表情を浮かべることに、私はじきに気がついた。
 ただの空き部屋に対して、それは奇妙な光景に見えた。だが信仰の形は土地ごとに異なっているものだ。私も彼らに倣って、その前を通るときには、心もち姿勢を正すようになった。
 私は彼らの客として、洞穴の中のほとんどの場所で、自由に過ごしてかまわないといわれていたが、ある場所より奥に足を踏み入れることは許されなかった。その先は危険だからというのが、彼らのげんだったが、どう危険なのかと聞いても、返ってくる説明は、どうにも要領を得なかった。
 声が反響するためだろう、雨の国の人々は、めったに大声を出すということをしなかった。だがあまりに小声だと、外の雨音に負けて相手の言葉が聞き取れない。そのためだろう、人々はいつも、ひどく近い距離で話をした。相手が若い娘だと、こちらが思わぬ誤解をしそうになるほどに。
 人々は、驚くほど人懐こく傍に寄ってきて、遠い国の話を聞きたがった。なるほど、このような土地では、遠方からの客が訪ねてくるのは、さぞ珍しいことだろう。
 広間で私が話し始めると、人々は寄り集まって狭い輪を作り、ともすれば風雨の音に紛れそうになる語りに、熱心に耳を澄ませた。私は彼らに、よその国々で見聞したものごとや、そこで聞き込んできた物語など、さまざまのことを気が向くままに話して聞かせた。
 たとえば、そう、ずっと南のほうでは海がぐらぐらと煮えたぎって、もうもうと白い蒸気を噴き上げているということを。あるいは北の最果てに、一日じゅう陽の沈まない、とこしえの黄昏の国があるという、北方の古い伝説を。またある日には、中央の草原地帯に棲むという、小山のような体躯の犀と、それを三か月に一度の定められた日に一頭だけ狩って、それで暮らしを立てる部族のことを。
 彼らは私の語る遠い異国の話を引き換えに、快く食事を分けてくれた。
 雨の弱まった隙に、男たちが外に出て崖を下り、魚や何かを獲ってくるようだったが、肉のほうは、主として蝙蝠や蛇のそれだ。また、洞穴のどこかで採れるらしい、茸や苔を使った料理もあった。最初の一口を食べるときに、躊躇がなかったといえば嘘になる。しかし贅沢をいえる環境でないのはよくわかったし、食客の分際でわがままをいうのも憚られた。
 それに、慣れてみれば、味は悪くなかった。食べてもちっとも腹いっぱいになった気がしないのが、難点だったが。


 珍しく空が晴れれば、人々は一斉に外に飛び出した。
 もちろん小雨や曇りの日にも、男たちは食べるものを探しに出かける。しかしそうしたときとは違い、晴れた昼間には、老若男女をとわず皆が外の岩場へと飛び出して、燦々と降り注ぐ陽光を浴びるのだった。その日の子どもらのはしゃぎようといったら、ちょっとよその町ではみられないほどだ。
 谷間に響き渡る鳥たちの声さえ、その日は心なしか、嬉しげに弾んでいた。朝にはもやの出ていた景色も、太陽が高く上る頃には晴れ晴れと澄み渡った。
 岩場に腰掛けて周囲を見渡すと、ひとつの洞穴の中に、驚くほど大勢の人々が暮らしていることが、あらためてわかった。そうした洞穴が近隣にいくつかあって、それぞれに、大小の集落を作っているのだった。
 それからこれはそのときようやく気づいたのだが、男の数が、ひどく少なかった。
 洞穴の中では得られない食糧や暮らしに必要な品、魚や肉もそうだが、たとえば断崖にへばりつくように生る滋養のある果物や、乾かすとよく燃える木の枝など、危険をおかしてそうしたものを求めるのは、すべて男の仕事と決まっていた。そのために命を落とすものが多いのだろうと、私は漠然と考えて、感慨深く、彼らの顔を見渡した。
 薄暗い洞穴の中では見なれたつもりの顔ぶれも、明るい日の光のもとでまじまじと眺めてみれば、ずいぶんと印象が違って見えるものだ。到着以来、しばしばはにかみながら声を掛けてくれていた少女が、思っていたほど幼くはない、きれいな娘であることに、私はそこでようやく気がついた。彼女も私の顔を見て、照れくさそうに微笑んだ。その瞳は、透き通った琥珀色をしていた。
 娘が私に微笑みかけていたのは、ほんのいっときの間のことだった。ふっと目を逸らすと、彼女は同年代の少女たちの間に混じって、何やら言葉を交わしあい、かろやかな笑い声をたてた。洞穴の中で聞くのとは違う、高く澄んだその響きに、私はいっとき聞きほれた。
 場は賑やかだった。洞穴の中ではひっそりと話す人々は、陽射しの下では腹の底から声を出しあって、そしてそのことを、おおいに喜んでいるようだった。
 これもまた、明るい陽の下で目にしてはじめて気づいたことだったが、男たちに比べて、女たちはまだいくらか肉がついているようだった。
 わけても育ち盛りの少年たちは、まさしく骨に皮といった様相をしていた。いつも好奇心に顔を輝かせて話をせがんでくる、顔見知りの少年たちが、それまで思っていたよりもずっと痩せこけていることに、私は気づいた。
 体の育つ盛りに、ああした食事ではとても追いつかないのだろう。そう思えば、哀れなような気がした。だが本人たちは、そんな私の視線には気がつきもしないようすで、楽しそうにはしゃぎ回っている。眼下に遥かな谷底を見下ろす岩棚だというのに、見ているほうがはらはらするほど、そこらじゅうを自在に跳ね回っていた。
 彼らの姿に目を細めながら、久しぶりの陽射しを楽しんでいると、小柄な老女がひとり、危うげな足取りで私のほうにやってきて、澄んだ微笑を浮かべた。
 会釈を返すと、老女はおだやかな声で名乗り、訛りのきつい言葉で何かふたことみこと、口にした。近くでくつろいでいた商人が、驚いたように目を見張り、慌てて腰を低くしながら、私に囁いた。このひとがこの洞穴の人々を束ねる長で、とてもえらい方だから、あまり失礼のないように。
 驚いて見つめると、老女はこぢんまりとした体で座って、気にするなというふうに、小さく片手をふってみせた。ごく気さくなしぐさだった。それでいくらか気が楽になった私は、ようやく名乗り、今度は会釈ではなく、正式な礼をとった。
 老女はもういちど、ゆっくりと言葉を発した。どうやら、この国はどうだと、訊ねているようだった。
 見るものすべてが珍しく興味深いと、私がそのようなことを答えると、老女は鷹揚おうようにうなずいて、あるかなきかのかすかな微笑みを浮かべた。
 先ほどもそうだったが、その笑みはひどく透き通っており、この世に生きるひとの浮かべるものとは思えない、滲み出すような神々しさがあった。年老いた女に対して、こうした言い方をするのも妙かもしれないが、それは、とても美しい笑顔だった。
 老女はのんびりと立ち上がりながら、気のすむまでゆっくりしていくといいと、そういうようなことをいった。その後ろ姿が遠ざかっていくのを、どこか圧倒されたような思いで見送っていると、同じ洞穴の人々が、ほとんどひれ伏すようにして、老女の小さな後ろ姿を拝んでいた。


 そのとき、わっと歓声が上がった。振り向くと、少し離れた岩棚に、ここに来て初めて目にするような、華やかな色彩が飛び込んできた。
 色とりどりの、花、花、花。これだけの数の花を、どこから摘んできたというのだろう。洞穴の中にも植物はあったようだが、ただでさえ雨ばかりのこの地で、そのうえ天井の岩の切れ目からかすかに届くばかりの弱い明かりの下では、あれほどの植物が育つとは考えづらい。ならば、このわずかな時間でそこらじゅうの岩場を駆け回って、かき集めてきたのだろう。
 どこかで女たちが、声高く歌っていた。歌詞はよく聞き取れなかったが、聴いているだけで心弾むような、おそらくは、祝いの歌だった。
 それらの花弁と歌声とに囲まれて、一組の男女が、腕を絡めあうようにして寄り添っていた。
 ふたりとも、遠目にもわかる照れくさそうな笑顔をうかべ、周りを囲む人々に、口々に話しかけられている。
 ――ああ、婚礼のようだ。これはまた、いいところに居合わせた。
 行商の男が、口元を綻ばせながらそういった。
 見れば、さきほどの琥珀色の瞳の娘も、彼女と話していたほかの少女らも、みな頬を紅潮させて、向こうの岩棚に見入っている。そうしたまなざしは、どのような土地でも変わらないものだなと、私は妙に感心して、そのようすに見入っていた。
 ――ここでは、婚礼は、晴れた日にだけ執り行なわれるんだよ。
 そう教えてくれた商人は、眩しげに目を細めて、空を仰いだ。なるほど、岩場を照らす明るい陽射しは、雨に閉ざされてばかりのこの土地で、祝福としてこのうえなくふさわしい演出だった。
 重ねて男が教えてくれたところによると、同じ洞穴に住むのは、基本的には血縁によって結ばれる一族なのだそうだ。その中に、違う洞穴から婿が迎えられるのだという。同じ洞穴に暮らすものとの婚姻は、禁じられている。
 なるほど、親族どうしで婚姻を繰り返して血が濃くなりすぎれば、生まれてくる子に思わぬ障りの出ることがあるというから、それは彼らの長い歴史の中で培われてきた、知恵のひとつなのだろう。
 琥珀色の瞳の娘は、周囲にいた少女たちに声をかけると、ぱっと身を翻した。陽射しに温められた岩を裸足で踏んで、かろやかに駆けてゆく。あっという間に姿が見えなくなったかと思えば、もう向こう側の岩棚によじのぼっている。どこをどう通ったのか、目にもとまらぬ早わざだった。
 娘は花婿に、ついで花嫁に、あふれんばかりの笑顔で話しかけた。そのどちらかが、彼女にとって親しい者なのだろう。それで祝福を述べるために、いそいで駆けていったというわけだ。
 誰かが高いところの岩棚から、花びらを振りまいた。それが風に流されて、こちらの岩棚まで舞いおりてくる。
 皆から口々に祝福を受け、あるいはひやかされながら、二人はやがて洞穴の中に姿を消すまで、ぴったりと寄り添いあっていた。


 その晴れの日以降、あらためて意識してみると、男たちの数はいかにも少なかった。
 男のほうが命を落とすことが多いにしても、その差は、あまりに極端だった。女腹、男腹というのがあるのと同じで、男の生まれにくい土地なのかもしれない。そのときの私は、漠然とそんなふうに考えた。
 さらにある時期になると、それまでしばしば顔を合わせていた少年たちが、姿を見せなくなった。
 ある日、いつものように広間で話をしていた私は、語りに一区切りついたところで、首をかしげた。いつも目を輝かせて話に聞き入っていた二人の少年が、前の日から一度も顔を見せていないことに気がついたのだった。
 ――イアンは、今日は来ないのかな。ヤクトはどうしたんだろう。
 彼らの名を挙げて、そんなふうに訊くと、人々は少しばかり困ったような顔になって、あいまいに笑い、あるいは表情を曇らせた。
 ――あの子らは、しばらく来ないよ。
 老婆の一人が、そんなふうに呟いた。その声の調子はどこか寂しげで、それでいてよそよそしい響きがあった。それまで気さくに話をしてくれていた彼女の、突然の態度のかわりように、私は慌てた。何か悪いことを訊いたのだろうかと思ったのだ。
 ――病気でもしたのかい。それとも怪我とか。
 そう聞くと、人々はみな首を振って、そういうことではないから安心するようにと、口々にいった。
 では、何か悪さをしでかして、仕置きでも受けているのか。困惑しながらそう訊ねたのは、その二人がお調子者で、いかにも悪戯のひとつやふたつ、しでかしそうな子どもらだったからだ。人々はさざめくような笑い声をもらしたが、その響きも何か、妙にぎこちなかった。
 部屋の隅で繕いをしていたひとりの少女が、ふいに顔を上げて、口を開いた。
 ――そういう、しきたりなんです。
 ――しきたり。
 私が阿呆のように繰り返すと、声の主は視線を逸らして、うつむいてしまった。あの、琥珀色の瞳の娘だ。
 今は二人とも、人前に姿を出してはならない時期なのだと、そういったきり、娘はかたく唇を結んだ。このことは、もう訊いてくれるなというように。
 陽光の下で見たとき、あれほどきらきらと輝いていたその瞳は、いまは伏せられて、沈鬱に沈んでいた。
 広間に満ちた奇妙な沈黙に、私は戸惑った。人々はどういうわけか、彼女を咎めるような、あるいは諌めるような表情をしていた。
 戸惑いながらも、重ねて娘に話しかけようとしたとき、一人の老人が、すっと立ち上がった。老人は娘のもとへ歩み寄り、その手を取ると、苦い表情で口を開いた。
 エクドゥラァラ。そういうような音に聞こえた。意味はわからなかったが、その声には、彼女に何かを促すような響きがあった。
 それに答えて、娘もまた何事かを、小声で呟いた。それから首を振って、口元を手で覆った。
 老人はそのまま娘の手を引いて、部屋の外に連れ出してしまった。彼女がやりかけていた針仕事の道具も、その場に残したまま。
 そのとき、雨の音が急に強まって、轟々とうねりながら、洞内に反響した。それで皆、なんとなく口をつぐみ、気まずい沈黙が小部屋に満ちた。
 気にはなったが、わざわざ彼らを追いかけるのもためらわれた。迷っているうちに、先ほど声を上げた老婆が、他の話はないのかいといって、私の袖を引いた。
 促されるままに、先ほどとは別の話を語りながら、私は何度か、扉のない戸口へと視線を向けた。
 しかし娘はその日、それきり広間には戻ってこなかった。


 それから数日が経ち、雨の上がった薄曇りの朝に、商人たちは雨の国を発っていった。
 彼らは満足のゆく取引を終えたようで、持ってきた荷の多くを下ろし、それと引き換えに、このあたりでしか採れないという珍しい薬草や香木、見ただけでは何かよくわからない干物などを、それぞれに厳重に包んで、しっかりと背負っていった。
 荷馬の類をつれてくることさえできない、この土地までのひどい悪路を、人の足で延々と歩きとおしてまで商売に来るのだから、あれらの妙な品々も、よほど高価な薬になるのだろう。
 隊商の出立を見送ったあと、男たちが外に狩りにいくというので、私もついていこうとしたのだが、よほど私の足取りが危なっかしかったのか、足手まといになるから帰れと、すぐに追い払われてしまった。
 それでしかたなく、女や年寄りたちの集まって、繕いやら手仕事をしている広間に出向くと、彼らは蝋燭の明かりの下で、ぱっと明るく目を輝かせた。今日はどんな珍しい話が聞けるのかというように。
 私はその日、人の言葉を話す鳥の伝説について、彼らに話して聞かせることにした。西国に古くから伝わる話だ。
 そのあたりは豊かな森に囲まれた地域で、鳥たちの楽園とも呼ばれている。じつに様々な種類の鳥たちが空を飛び交い、いつもそこらじゅうで賑やかにさえずりを交わしているのだが、その中に、人語を話す鳥がいるという。
 ある町ではその鳥が、神の化身として語られていて、森に迷い込んだ子どもらへ、帰り道を教えて飛び去っていったという。また別の町に伝わる話では、同じ鳥が、人を殺して森に逃げ込んだ男に、嘘の道を教えて崖から足を踏み外させてしまう。
 いくつもの物語を、すっかり話し終えた頃には、男たちが水の引いた崖下に降りて、芋を採ってきていた。それを煮込んで丁寧に潰した、粥のような料理をわけてもらいながら、私はあらためて、彼らの痩せた手足を見つめた。
 芋の粥は、美味かった。雨に流されないよう、地中深くに根を張るというその芋は、味が濃く、少しの量でも滋養があるようだった。そう、この不毛の岩山を離れて、遥か下方に広がる森に、ただ足を踏み入れさえすれば、この国は本来、豊かなのだ。
 だがその森は、いつどこが氾濫した川に飲まれ、あるいは崩れた山肌に埋もれるとも知れない、危うい土地でもあるのだった。そこまでただ降りて歩き回るだけでも、大きな危険が伴う。雨が続くうちは、とても崖下まで降りられるものではなかった。
 そのような不便を強いられてまで、この土地にこだわり続ける理由が、果たしてあるものだろうか。私はあの国に滞在している間、何度となく、そのことを考えた。
 だが、生まれたときからそこで暮らしている人々にとっては、不便は不便ではなく、当然の日常なのだろう。
 たしかに、彼らは嬉々として私に異国の話をせがみ、目を輝かせてそれらを聴いた。だが後になって思い返せば、そこに行ってみたいとは、彼らはいわなかった。そのような国で暮らしたいとは、誰ひとりとして口にしなかったのだ。


 同じ日の夜だった。自分の小部屋に戻る途中、私は洞穴の奥のほうへと向かっていく、小柄な人影を見かけた。
 薄暗い明かりの下、それも遠目に見ただけで、たしかなことはわからなかった。だが、その後ろ姿は、あの琥珀色の瞳をした娘のように見えた。
 洞穴の奥は危険だから、けして足を踏み入れないように。この洞穴に来てすぐに、私はそう言い含められていた。ここよりも奥には、この洞穴の住人たちも足を踏み入れたりはしないのだと、そういって指し示されたその場所を、娘の足はすでに行き過ぎていた。
 私は慌てて、彼女の後を追った。数日前に話したときの、あの沈んだ表情を思い出すと、何ごとか思いつめているのではないかと、不安にかられたのだった。
 呼び止めようとしたが、彼女の名前を知らなかった。何と声をかけるか迷っているうちにも、娘はどんどん奥にいってしまう。あとを追いかけていった私は、途中で彼女の姿を見失った。通路は途中でゆるやかに曲がり、さらにその先で分岐していたのだ。
 道を曲がると、背後からの光は届かなくなったが、その先の通路にも、小さな明かりが灯されていた。この奥には人が立ち入らないという話が、まるきりの嘘だったことが、それでわかった。
 それでも、禁じられた場所にそれ以上入り込むことには、やはり躊躇した。それに、危険だから人が立ち入らないという話がそもそも嘘ならば、彼女の身を心配する必要も、はじめからなかったのだろう。
 そう思い、一度は引き返しかけた私の耳に、奇妙な唸り声が飛び込んできた。
 はじめ私はそれを、風の音の乱れか、あるいは反響する外の雨音かと思った。しかし、恐る恐る振り返って耳を澄ませば、それはたしかに、人の声のようだった。
 声は弱々しく、そして苦しげだった。
 誰かがこの奥で怪我でもして、身動きが取れずにいるなどということがあるだろうか。夜ふけに、このような場所で。
 疑問はあったが、放って置けば寝覚めが悪いような気がして、私は再び洞穴の奥のほうへと、足を進めた。引き返して誰かに事情を話すという考えも、頭を掠めないではなかったが、禁じられた場所に立ち入っているという負い目が、つい足を前方に向けたのだった。
 通路はそこで分岐していた。声がどちらから聞こえてきたのか、音のくぐもって反響するその場所では、正確なところは確かめようもなかった。しかたなく、ひとまず右の通路へ、私は足を踏み入れた。
 そこは洞穴の、かなり深い場所にあたるはずだったが、外で降りしきる雨の音は、そこまで届いていた。その音は、遥か後方から響いてくるようでもあったし、逆に、歩いていく先から聞こえるような気もした。常に風が吹いているからには、洞の奥は行き詰まるのではなく、どこかで外に続いているのだろう。
 さして歩かないうちに、薄暗がりの中で、道がまた分かれているようなのが目に入った。そこでようやく、道に迷う可能性が頭をちらついた。
 だが躊躇いながら近づいてみれば、何のことはない、わかれ道のように見えていたのは、小部屋の入り口だった。この国の人々が居室にしているのと同じ、壁をくりぬいて作られたアルコープだ。
 だが、そこには異様なものがあった。
 扉というものの存在しないこの洞穴で、初めて眼にするそれは、鉄格子だった。いや、鉄ではなかったかもしれない。手にふれた感触は金属か、それに近い材質のようだったが、この国で、商人たちが持ち込む以上のおおがかりな鉄製品を、ほかに見かけたことはなかった。
 ともかくそこには、格子があった。それも、かなり大仰な。そのことに気づいたとき、私はまず、ここには罪人が閉じ込められているのだと考えた。それで、よそものを近づけたくなかったのだと。
 だが、暗い牢屋の中をのぞきこんで、私は息を呑んだ。そこにいたのは、イアン、私の話をよく聴きにきていた、悪戯小僧たちのひとりだった。


 ぐったりと目を瞑っていたイアンは、私が漏らした驚きの声に気づいて、小さく肩をふるわせた。
 鉄格子の向こうには底知れない闇がひろがり、その中からイアンの半身が生えるようにして、通路から届くかすかな光の輪の中に突き出している。その腕が、数日前、最後に会ったときから、さらに痩せさらばえていることに、私は気づいた。
 洞穴の中を常に満たしている風の音が、ひときわ強まった。その音は、人の嘆き声に、よく似ていた。
 ――どうしたんだ。
 声を掠れさせながら、かろうじてそう訊いても、イアンはすぐには答えなかった。少年が、望んで口を閉ざしているのか、答えたくとも答えられないほどに弱っているのか、私にはわからなかった。
 暗がりの中で見るからというだけでなく、数日前に見た顔とは、別人のようだった。それほど遠くないうちに大人の仲間入りをするだろう、精悍さをのぞかせはじめた顔。けれどいまはまだ、無邪気に外を跳ね回っているのがいかにも似合う、子どもの顔だ。その頬が痛々しくこけ、唇は力を失って緩んでいる。
 悪さをして閉じ込められているというには、そのようすは、尋常ではなかった。子どもがこのようなしうちをうけなければならないような、どれほどの理由があるというのか。
 イアンは何度か口を開閉させた。どうやら、なかなか声が出ないようだった。
 私はかがみこんで、格子に遮られるぎりぎりまで、耳を少年の顔に近づけた。
 訪れたばかりのときよりは、いくらか彼らの訛りも耳に慣れたものの、たかだか十日かそこらをすごしただけで、すっかり言葉を理解しているわけではない。それでもその言葉の意味することを、取り違えようはなかった。
 ひもじいと、少年はいったのだった。
 ――何も、食べさせてもらっていないのか。
 問うと、イアンは頷いて、軽く頭を振った。口をきいたことで、いくらか頭がはっきりしてきたのか、少年は上体を起こして、布ひとつ敷かれていない牢獄の床に座った。
 みると、水の入った小さな器がひとつきり、格子のそばに置かれているようだった。イアンはそれを手にとって、こぼさないように慎重に、口元まで持ち上げた。その指が、たかだか木の椀ひとつを持ち上げるのに、小さく震えるのを、私は見た。
 ――なにがあったんだ。
 思わず、声を荒げていた。イアンに向かって怒ってみせてもしかたのないことだと、頭ではわかっていたが、噴き出した感情を持っていく場がなかったのだ。
 声はわんわんと反響して、風雨の音とまじり合いながら、どこかへ抜けていった。
 皆は知っているのかと、問い詰めかけて、私は言葉を飲み込んだ。知っているに決まっている。少年たちの居場所を尋ねたとき、あいまいに言葉を濁した人々の、あの奇妙な視線。
 ――決まりだから。
 イアンはそういって、小さく咳き込んだ。彼の祖母の祖母の、そのまた祖母が生きていた頃よりも、もっと昔の時代からの、長く続くしきたりなのだというようなことを、とぎれとぎれに少年は話した。この試練を乗り越えなければ、一族の男のうちには数えてもらえないのだと。
 たったそれだけのことを、少年が話しおえるまでに、ひどく長い時間がかかった。声を出すのにも消耗するのだ。
 何がしきたりだ。
 はじめに胸に浮かんできたのは、その言葉だった。
 ていのいい口減らしだ。すぐにそう思ったのは、故郷を思い出したからだった。
 私の故郷もまた、貧しかった。雨の多い土地で、ともすると水の害が出た。ときに畑が流され、あるいは日射しが足らずに麦が実らなかった。食べてゆくことができずに、子らはしばしば、食い詰めた親に捨てられた。
 ここも同じだ。子どもらを飢えさせて、それを試練だなどと、甘い言葉で言いくるめ、そうやって彼らの何人かが弱って死ぬのを、息をひそめて待っているのだ。
 この地に暮らす男たちはみな、同じ試練を乗り越えて、立派な大人になったのだと、イアンはいった。だが、本当に死んでしまうまで捨て置かれることはないのだとは、少年はいわなかった。
 ――ヤクトは。ほかの子たちもいるのか。
 そう訊くと、イアンは私の背後を、細くなった指でさししめした。
 はっとして振り返ると、たしかにそちら側にも、格子に遮られた小部屋があった。廊下の明かりの届かない、奥の暗闇から、ヤクトの痩せた手だけが、力なく突き出していた。
 ヤクトはほかの子どもらと比べても、ひときわ痩せて体が小さく、いかにも育ちきらない印象があった。いやな予感に襲われて、とっさに名を呼ぶと、格子の向こうで、細い指がぴくりと揺れた。
 まだ生きている。
 私は駆け寄って、格子の間から手を伸ばした。その先に、ヤクトの指が触れた。骨ばかりが尖って肉のない、熱い指先が。その声が細く、いまにも泣き出しそうな響きで、私の名を呼んだ。
 いっとき言葉が出てこず、ただ無言で、その手を握っていた。暗がりの奥で、少年の白目がかすかに潤んで光っているのを、私は見た。


 さらに奥の通路にも、似たようなつくりの小部屋がいくつかあったが、覗き込めば、そこは無人のようだった。たった二人きり、しかもそれぞれ別の牢に閉じ込められて、いったい何日の間を、この暗がりの中で過ごしているのだろう。それを思えば、胸がひどくふさいだ。
 ――どうにかして食べる物を、持ってくる。それまでなんとか、
 私がそういいかけたとたん、背後でイアンがばっと飛び起きて、格子を掴んだ。その激しさ、思わぬ強い反応に、とっさに呑まれて、私は振り返ったまま呆然と立ち尽くした。イアンはほとんど格子をゆさぶらんばかりにして、怒りに満ちた声を上げた。
 ――馬鹿なことをいうな。
 その後に続いた早口の罵りは、たしかには聞き取れなかったが、彼らの間で魔物だとか、邪悪なものを意味する単語が混じっていたことだけが、かろうじてわかった。
 はじめはその剣幕に、ただ呑まれていた私だったが、徐々に少年のいわんとすることを飲み込んだ。この断食は、厳しい試練には違いないが、それを乗り越えて彼らははじめて人になれる。激しい飢えに苦しみながら耐え忍んでいる彼らにとって、私はおそろしい誘惑を持ち込む魔物と、そういうわけだ。
 大声を出したことで疲れたのだろう、イアンはぐったりと、格子にもたれかかっていた。
 腹の底から湧き上がってきた怒りを、飲み込みそこねて、私は低く唸った。
 子どもらにそのような観念を植え付けたのは、誰だ。
 試練などという言葉で飾って、このようなおそろしい間引きを、黙って耐えさせて、生きて乗り越えられねば人でさえないと、そのようなことをもっともらしく言い聞かせてきたのは、いったい誰だ。
 言葉もなく振り返り、背後の暗がりを覗き込めば、ヤクトはイアンほどの激しい反応をこそ見せていなかったが、その目が、同じ種類の非難と、不安を含んでいるのがわかった。
 私は言葉を失い、もう一度手を伸ばして、その指先を強く握った。ヤクトは安心したように、その手を握り返してくれたが、その力は、ひどく弱かった。
 暗闇の中で光る、ヤクトの目を見つめ返しながら、私は言葉を詰まらせた。彼らにどう言い聞かせれば、納得させることができるのだろうか。
 お前たちのいいきかされてきたことは、何もかも間違っていると?
 試練などという口上は、口減らしのための都合のいい言い訳で、お前たちの親や同族はみな、己らが飢えに苦しまないために、お前たちが弱って死ぬのを、息をひそめてじっと待っているのだと?
 私はほとんど逃げ出すようにして、暗闇の牢獄に背を向けた。離れてゆくきわに、二人に何か、声をかけた記憶があるのだが、自分がなんといったのだったか、どうしても思い出せない。
 ほんの少しその場所から遠ざかっただけで、洞穴中に絶え間なく反響する風雨の音が、彼らの立てる物音を包み、押し流してしまった。


 己に貸し与えられた小部屋に戻り、暗闇の中で毛布に包まっても、眠りは少しも訪れなかった。
 耳の奥に、飢えた子らの呻き声が、こびりついて離れなかった。いつも人の話し声のように聞こえる風の音が、その夜はわけても、暗い悪意を含んでいるようだった。
 間違っている。
 頭の中には、その言葉が、ぐるぐると回っていた。生まれてきた子らすべてを育てきれるほど、この土地は、豊かではないのだろう。説明されずとも、それはわかった。
 だからああやって、数を減らしているのだ。飢えさせ、弱るのを待っている。体の強くないもの、生きる力の足らぬものから、先に死んでゆく。彼らにとって、それは決まりごとなのだ。
 弱いものから先に死ぬのは、道理か。
 だがそれは、獣の道理ではないのか。
 それぞれの部屋で、飢えた子供らの声も聴かずに、安穏と眠っているのだろう大人たちを、片端からたたき起こして、その胸倉を掴んでやりたかった。こんなことは間違っている、お前らはそう思わないのかと。
 だが私は、そうしなかった。
 ここでひとり騒ぎ立てて、何になるだろう。長い長い歳月の間を、そうやって頑なに掟を守って暮らしてきた人々なのだ。見知らぬ土地からやってきたばかりのよそものが、彼らの意に沿わぬ道理を説いたところで、人々がそれを聞き入れるとは、思えなかった。
 それともそれは、自身の臆病さへの、言い訳だっただろうか。己らの子さえ、それが掟だからと、あのような暗闇の牢獄に閉じ込めて、飢えて死ぬのを待つような人々だ。私は彼らのことが、恐ろしかった。
 夜明け頃、ようやくうとうととしては、風の音で何度も目を覚ました。
 いつも洞穴の中を満たしている、この風。人の唸り声のような音を立てる風は、本当に死者の怨嗟えんさではないのか。疲れた頭の片隅を、何度となく、そんな考えが掠めていった。あの暗い牢獄につながれて、定められた日まで生き抜くことのできなかった、数知れぬ少年たちの。


 私はその翌日から、昼間に人々と語りあう場所を、奥の通路にもっとも近い広間へ移した。
 このような土地はさっさとあとにして、何もかも忘れてしまいたいと、そう思わなかったわけではない。だが逃げ出したところで、あの風の音に、どこまでもつきまとわれるような気がした。何より、ヤクトの手を握った感触が、手のひらのなかに残っていた。あの痩せた、熱い指。
 洞穴は広く、そこで暮らす人の数は多い。これまでは話を聴きにくるのを遠慮していた奥の部屋の人々は、私の気まぐれを喜んで迎えてくれた。その好奇心に満ちた顔は、いずれもごく善良な人々のそれと見えて、私は混乱した。
 放浪の旅人に無邪気に話をねだる、素朴な辺境の人々。そして飢えぬために子どもらを間引きする、恐ろしい風習を頑なに守り続ける人々。それが頭の中で、うまく重ならなかった。
 それでも平静をよそおって、彼らに話を語りきかせながら、私は耳を澄まして奥の様子をうかがった。
 話のあいまに彼らがわけてくれる食事の、たとえば焼いた干し魚だったり、よく煮込んだ根菜だったりといったものを、食べた振りをして懐に隠しながら、私は機をうかがった。
 そのようなものを持っていったところで、また少年たちの怒りを買うだけではないか。そう思わないわけではなかったが、それでも何もしないではいられなかった。
 しかし、好機はなかなか訪れなかった。
 人々はそれとなく、奥の通路を見張っているようだった。はじめのあのときは、誰もいなかったが、そうと意識して近づくと、いつもそのあたりの通路には誰か人がいて、明かりの下で繕いをしていたり、雑談を交わしていたりするのだった。
 午後、用を足すふりをして人々の輪を外れ、人目を気にしながら奥の通路に近づくと、小部屋から小柄な人影がひとり、ゆっくりと歩み出てきた。
 それは、この洞穴の人々を束ねる長だという、あの老女だった。
 私はぎくりとして立ち止まり、何かうまい言い訳がないものかと、必死に頭をめぐらせた。
 だが老女は、何かを問いただすわけでもなく、ただゆっくりと振り返って、私を見た。そして、かすかな笑みを顔に浮かべた。
 それは、あの晴れの日に見たのと同じ、ひどく静かな、神々しい微笑だった。
 気がつけば、踵を返してその場を逃げ出していた。背中をいやな、つめたい汗が濡らしていた。老女の浮かべた笑顔が、眼に焼きついて離れなかった。あの美しい、穏やかな、どこまでも澄んだ微笑。
 途中、無人の小部屋の前を通りかかったとき、私ははっとして、足を止めた。
 誰も使わない部屋。物の置かれていない室内は、寒々しく、がらんとしている。それなのに、いつでも丁寧に清められて、人々が厳粛な表情で頭を垂れる場所。
 変わった信仰の形だと、それまではただ、そんなふうに思っていた。だが、その意味するところを唐突に理解して、私は震えた。
 かつて、あの奥の牢へと押し込められて、そのまま飢えて力尽き、戻らなかった少年たち。空けられたままの部屋は、彼らの居室だったのではないか。


 ようやく機会を捉えたのは、三日後の夜だった。
 通路に人影がないことを確認し、例の通路に足を踏み入れたとき、ちょうど風の音が高まって、私の立てる物音をかくしてくれた。
 分岐のあたりまで辿りついたところで、私ははっとした。
 静かだった。ここまで近づいても、風雨の音しかしないのだ。
 ぞっとして、私は足早に牢まで駆け寄った。
 ――ヤクト。イアン。
 少年たちの名を呼んでも、返事は返ってこない。彼らが閉じ込められて、何日めになるのか。私は間に合わなかったのだろうか。
 恐怖に襲われながら、何度目かに名前を呼んだところで、かすかに呻き声がした。
 ――イアン。
 名を呼ぶと、少年は牢の奥の闇から、にじるようにして、明かりの下に這い出してきた。次いでヤクトの入っている牢からも、弱々しく私の名を呼ぶ、細い声が聞こえてきた。
 よかった。私は安堵の息を漏らして、ほとんどへたり込むように、薄暗い通路にかがみこんだ。そしてようやく、イアンが私の胸元に強い視線を向けていることに気づいた。
 その鼻が動いて、食べ物のにおいをかぎあてたのが、はっきりとわかった。
 イアンは低い唸り声を立てた。
 それはまるで、獣の声だった。ぞっとして、私はあとじさった。イアンは這ってこちらにじりより、格子を掴んだ。どこにそのような力が残っていたのかと思うような、力強さで。
 とって食われるのではないかという、理にかなわない恐怖におされて、私はいっとき、その場に立ちすくんでいた。だがはっと我にかえると、彼の牢の前に歩み寄って、袖口に隠していた夕食の残りを、もどかしく取り出した。
 イアンの手が、格子の隙間から伸び出てきた。通路の明かりに照らされたその指は、節くれだって、骸骨のようだった。
 その手が異様な力強さで、私の手のひらから、ちいさな魚の欠片をひったくった。伸びかけた爪が、私の手にひっかき傷を残して、格子の向こうへと引っ込んでゆく。私は半ば恐怖にかられ、半ば安堵しながら、少年の口元を、じっと見つめていた。
 だがイアンは、手を止めた。
 わずかばかりの食糧を、まさに口に入れようかというその寸前で、イアンのやせ細った指は、ぶるぶると震えていた。
 本能の叫びと、掟との間で、彼は、葛藤しているのだった。
 自分が残酷なことをしているという罪悪感と、どうか食べてくれと願う気持ちが、私の中でも、ひとしくせめぎあった。頼むから、それを食べてくれ。
 その姿勢のまま、イアンは長い間、震えていた。
 手の震えはやがて、腕に、肩に、全身に広がっていった。やがてイアンは叫び声を上げて、手のひらの中の魚を、投げ捨てた。格子の隙間から、こちら側へと。ほんの小さな、けれどここではとても希少な魚。それが細かく千切れて、通路の薄明かりに照らされながら、飛び散った。
 イアンは格子を掴んで、低く唸った。それは、呪詛の声だった。
 私は何かをいいかけて、けれど結局、何もいえなかった。どうしてと、イアンを責める思いもあった。どうして食べてくれない。掟がなんだというのだ。生きることよりも、それは本当に大事なのか。
 呪詛はいつの間にか、低い嗚咽に変わっていた。その声が、引きちぎれるような声が、彼の父の名を、母の名を呼んでいるのがわかった。
 助けを求めているのか。助けに来ない彼らを呪っているのか。それくらいならば、どうしていま、食べようとしない。そんな声をあげるくらいなら、なぜ。
 胸から突き上げてきた問いかけは、私の口からこぼれることはなかった。
 やりきれない思いで彼に背を向け、私はヤクトの牢を見つめた。暗闇の奥でじっと横たわる、小さな体を。
 ――ヤクト。
 名前を呼ぶと、暗闇の中で、ヤクトがゆっくりと瞬きするのがわかった。私は顔を伏せた。彼の目を、直視できなかった。
 彼は立ち上がらなかったし、イアンのように、這い寄ってもこなかった。その力が残っていないのかもしれなかった。
 私はかがみこみ、懐に残っていたわずかな食べ物のかけらを、格子の向こう側に、そっと滑り込ませた。それからようやく顔を上げて、ヤクトの目を見た。
 少年は、身じろぎひとつしなかった。ただ静かなまなざしを、私に投げかけていた。
 彼が何かいうのを待たずに、私は立ち上がり、その場に背を向けた。ヤクトの選択を、見届けるのが恐ろしかった。
 歩き出したときには、イアンの嗚咽は、すでに止んでいた。背後から、そのほかの物音は、何も聞こえてこなかった。それが二人が身動きをしなかったためなのか、それとも風の音に飲み込まれてしまっただけなのか、私にはわからなかった。
 あのときイアンは、何を呪っていたのだろう。あとになって、そのことを何度も考えた。私をか。飢えをか。彼に飢えを強いている、掟をだろうか。それとも、掟を守るために自分を見捨てようとしている、大人たちをか。風の強い夜に、雨の降りしきる朝に。私自身が食べはぐれて、空腹にさいなまれる日に。何度も、何度も考えた。


 小部屋に戻り、うずくまって風の音を聴きながら、その夜、故郷のことばかりを思い出していた。
 故郷の村に大水が出たとき、私はイアンやヤクトよりも、まだ幼かった。
 作物がのきなみもっていかれた。間の悪いことに、その少し前から畑の出来が悪く、蓄えは、ほとんどないといってもよかった。
 増水した川の激しい流れに飲まれて、帰らなかった子どもらがいた。命を落としたわが子の名を呼び、嘆き続ける若い母親の肩を抱いて、その夫が、嗄れた声でささやいた。どのみち畑がこのありさまでは、生きていても、食わせてはやれなかっただろうよ。
 その同じ流れの中に、わが子をそっと流した親がいたことを、口にせずとも、誰もが知っていた。
 それから次の麦が実るまでのふた月は、辛かった。いつもひもじかった。森をさまよい、根という根を掘って、しまいには木の皮まで齧った。食えぬはずの草の実を食い、腹を下して苦しみながら死んでいった者がいた。私の弟も、その一人だった。
 過去に思いを馳せるのをやめて、暗がりの中で耳を澄ますと、雨の音はいや増して、どうどうと、滝の落ちるような響きをたてていた。このようすなら、男たちも明日は、外に出ることはできないだろう。
 不意にこみ上げてきた悲しみに胸を衝かれて、私は低く呻いた。
 はじめはただ、憤りばかりが胸にあった。彼らを憎んでいたといってもいい。あのような姿になってまで、頑として食事を拒むイアンの強情さを。彼にそうさせている、彼らの因習を。
 だが、そうやって暗闇の中、じっと雨の音を聴いていると、そうでもせねば食べてゆくこともままならぬ、彼らの貧しさを思った。彼らの痩せ細った手足。薄い肩。
 とりわけ痩せこけていたのは男たちだったが、女たちにしたところで、豊かに肉のついたものなど、この地にきて、一人も見かけはしなかった。ただの一人も。
 雨の弱い日に外に出て、食糧やさまざまな品を集めてくるのは、男たちの役割だったが、手足にすり傷を作りながら、洞穴の奥に棲む魚や蝙蝠や鼠を獲ってくるのは、いつも女たちだ。そうでないときは針を手にとり、あるいは男たちの集めてきた薬草や香木を乾かして、行商たちへ売るための品に、手をくわえている。
 私の話す遠い異国の情景に、目を輝かせて聴き入っているそのときでも、彼女らは針を持つ手を休めはしない。年寄りにしてもそうだ。木切れを彫って器を作り、草の実をほぐして糸を紡ぎ、油を漉して、せっせと手を動かしている。
 そうやっていても、満足には食えぬのが、この土地なのだ。
 あの悪習を、もし排することができたとして、彼らはここで、生き伸びてゆくことができるのだろうか。雨に降り込められてまともな畑も作れはしない、このような土地で。
 なぜこの場所にこだわるのか、他の、もっと豊かな土地に移り住むことは考えないのかと、そう彼らに問うのは、酷だろうか。人はみな、生まれ育った場所を、愛するものなのか。子どもらを犠牲にしてでも。


 あくる日、夜はとうに明けたはずなのに、洞穴の中が妙に暗かった。外に顔を出してみれば、その理由はすぐにわかった。空を、分厚い黒雲が覆っている。
 遠くの空が鋭く光り、一呼吸を置いて、轟音が空をつんざいた。それが合図だった。
 それまでとは明らかに違う、強い雨が谷間に襲い掛かった。激しい音を立てて雨粒が斜面に叩きつけられ、その音は、谷じゅうに激しく反響して、耳をろうせんばかりになっていった。並んで様子をみていた男たちは、首をすくめ、視線を交し合って、洞穴の中へと戻った。
 雨は時間を追って、ますます強くなっていくようだった。雷は近く、遠く、ひっきりなしに鳴り響き、女たちはその度に首を竦め、幼子が泣いて母親の胸に飛び込んだ。
 いっときして再び様子を見に出ると、外は、夜のように暗かった。ろくに見通せぬ視界の中で、それでも目を凝らしてみれば、普段から轟々と流れている眼下の激流が、ひどく水かさを増しているのがわかった。
 彼らの洞穴は崖の中腹の、それもかなり高い位置にある。まさかここまで水がくることはないだろうと、はじめは高を括っていられたのが、日暮れ時になると、土地の人々の目にも、不安の色がよぎり始めた。
 洞穴のあるあたりの崖は、周辺でもとりわけ固い岩盤になっていて、地崩れが起きたことは長らくないというので、それだけが救いだった。男たちは雨にぬれながら、何度となく様子を見に外へ出て、空を覆う分厚い雲と、眼下の流れを見比べていた。
 エクドゥラァラ。不安げに顔を見合わせる人々の間で、誰かが呟いた。
 人々はみなその言葉を、繰り返し唱え、そしてときには、唱和していた。それは彼らとともに過ごすようになって、何度か耳にしたことのある言葉だった。
 はじめ私は、耳馴染みのないその言葉を、彼らの神への祈り文句か何かだとばかり思っていた。だが、何度も繰り返し耳にしているうちに、ようやく気がついた。
 イェクド(耐えよ)、そしてラーリャ(忍べ)。それは、訛りが強くて分からなかっただけで、理解してしまえばなんということはない、このあたりの地方で広く使われている言葉だった。
 彼らがその言葉を唱えていた場面を、私は思い出せる限り、思い浮かべてみようとした。運悪くろくな食べ物が手に入らなかった日、すきっ腹を抱えてぐずる子らに、その言葉を語りかける老爺がいた。またある日には、傷が膿んでいつまでもなおりきらずにいた男の手をさすり、まじない師が呟いた。人々の談笑の輪の中で、ひとり沈鬱な顔をしていた、あの琥珀色の瞳の娘に向かって、その言葉は囁かれていたのではなかったか。
 そしていま、彼らはいう。母親の不安を感じ取って泣き出した、年端もゆかぬ幼子に向かって。ほかの洞穴で暮らす兄の身を案じる娘の、細い肩を叩きながら。
 耐え忍べ。
 繰り返し繰り返し、彼らはそういっているのだった。周りの者に、そして自分に、そういい聞かせつづけているのだ。耐えていればいつかは、厄災も通り過ぎると。
 耐えているうちに取り返しのつかない何かが失われても、彼らはやはり、同じ言葉を唱え続けるのだろうか。
 次の日になっても、雨は激しく降り続いた。
 日がな一日、人々は不安げに肩を寄せ合っていた。洞穴の中だけで得られる食糧は、たかが知れている。それも食い尽くしてしまえば後がない。彼らは魚や肉を干したり塩漬けにしたりして、長くもたせる知恵をもっていたが、それでもたくわえが心もとないということは、人々が口にしていた食事の内容を見れば明らかだった。


 幸いにして、さらに次の日の夜になって、雨は唐突に弱まった。洞穴に轟々と反響する雨音が、すっと波が引くように静かになっていったそのとき、人々の顔が一様に安堵に緩んだのも、当然のことだっただろう。
 その翌朝には、雨はほとんど上がってしまった。
 晴れ間こそみえないものの、薄雲から透ける陽光だけで、外はじゅうぶんに明るかった。川の水位が下がるのを待って、男たちは外へ飛び出し、つぎつぎに崖下へとおりていった。
 水の引いた川岸には、多くの魚が銀色のうろこを光らせて、跳ねていた。男たちは籠いっぱいにその打ち上げられた魚を背負い、よくもまあ足を滑らせないものだと思うような速さで、それぞれの洞穴へと引き上げてきた。
 それを待ち受けていた女たちが、その半ばを竈へ持ち寄って、忙しく働く。手のすいているものが、残りの半分の内臓を抜いて干したり、壷に漬け込んだりと、それぞれ手を加え始めた。
 その光景は、ちょっとした祭のようだった。
 雨の音のしなくなった洞内で、人々は口々に互いを労い、顔を明るく輝かせて、忙しく手仕事をこなしていった。
 それぞれの広間で食事の支度が整い、集まった人々は、久しぶりのしっかりした食事に舌鼓をうちながら、陽気に笑いあった。彼らの神への感謝の言葉だろう、短い祈りの文句が、繰り返し囁かれた。
 彼らの輪の隅のほうで、焼いた魚をわけてもらいながら、私はどうしても、彼らと一緒になって笑うことができなかった。
 彼らはいま――飢えの恐怖から解放された、まさにいま、溢れる喜びの中で、ただ二人だけ、その喜びから切り離されている同胞のことを、ちらりとも思わないのだろうか。何の罪もないというのに暗い牢に押し込められて、冷たい床に力なく横たわる、飢えた子どもたち。いままさに、死にゆこうとしているかもしれぬ、彼らのことを。
 いまこのときに、彼らが飢え続けていなければならない理由が、どこにあるというのか。この一切れなりと、あの暗い牢に持っていって、二人に食わせてやろうとは、誰も思わないのだろうか。
 上流から押し流されてきたのだろう魚は、よく脂がのって、美味かった。自分の体がそれを美味いと感じることが、私には恐ろしかった。
 私がそうして黙りがちにしていると、人々はかわるがわる隣にやってきて、どうかしたのかと、心配げに声をかけてきた。どこか具合でも悪いのか、まじない師を呼んできてやろうか。あるいは何もかも見通したような、慰めるような響きの声で、いつものように遠い国の話をしてはくれないかと、そう呼びかけてくる声もあった。
 そう、彼らは気のいい、優しい人々なのだった。
 けして無関心で、他人の痛みのわからない、冷酷な人々ではないのだ。私の体調を気遣って、しきりに声を掛けてくれる、それと同じ人々が、どうして自分たちの同胞に、なんの罪もない子どもらに対して、あのような残酷なしうちをできるのか、私にはどうしても、理解できなかった。


 夜になって、とうとう雲が切れた。洞穴の外に出て岩場に腰掛けると、空には明るく輝く、丸い月が出ていた。
 ほかの土地で見る月よりも、それは、あざやかに白く、大きく見えた。
 洞穴の中とは違い、外の風は湿って、冷たかった。それに吹かれながらあたりを見渡せば、同じように月を見に、外に出てきている者たちがいた。恋人同士なのか、肩を寄せ合う影があり、また人々から離れた場所で一人、何か思わしげに立ち尽くして、空を見上げている者がいた。
 誰かが静かに歌っていた。そういえば、洞穴の中で誰かが歌うところを、一度も聞いたことがなかったと、そんなことに思い当たりながら、私は耳を澄ました。彼らにとって、歌は、晴れた日に屋外でだけ、歌うものなのだろうか。
 それは、単調な音律の繰り返しからなる素朴な歌で、それでいてどこか、厳粛な響きがあった。もしかすると歌ではなく、祈りの文句なのかもしれなかった。
 二人は助かるだろうか。
 そのことを考えるのは、恐ろしかった。彼らが助からなかったとき、私はこの地に暮らす人々を、そして私自身を、許せるだろうか。
 月明かりに浮かび上がる自分の手のひらを見つめながら、ヤクトの熱い手を思い出した。
 あの感触を、私は知っていた。
 いつかの幼い日、弟の手を引いて、暗い夜の森を歩いた。故郷の村は、雨が多い土地のわりに、土が痩せていた。畑の出来がよくないとき、子どもらはよく山菜や茸を探して、山に入り込んだ。
 森の奥にはときおり狼も出るし、毒をもつ蛇や虫も多かった。といって、村の近くの一帯は、すでにめぼしいものは取りつくされていて、何か食べられるものを探そうと思えば、森の深くに足を踏み入れるほかなかった。鬱蒼と茂る暗い森は恐ろしかったが、それでもそうした危険よりも、飢えに対する恐怖のほうが強かった。
 あるとき、弟とふたりで入り込んだ森のどこかで、道を見失った。もともと、あるかなきかの獣道だ。目印に、木の枝を折るなり、石をおくなり、工夫しながら進んでいたつもりが、気づくと前の目印がどこにあったのか、ちっともわからなくなっていた。
 やがて日が暮れた。明るくなるまでは動かず、どこかでじっと大人たちの助けを待つべきだと、いまならばそう思うが、そのときは恐怖に駆られて、弟と手を繋いだまま、ひたすら歩き続けた。まっすぐ歩いていれば、きっといつか知っている場所に出るはずと、そう自分に言い聞かせながら。疲れてぐずる弟の手を引いて、真っ暗な森の中を、長い、長い時間歩いた。
 途中で何度も転んだせいで、弟は膝にすり傷を作って、ほとんど足を引き摺るようにしていた。泣きべそをかきながら、それでも足を止めなかったのは、弟もまた、夜の森で立ち止まることが恐ろしかったのだろう。
 弟を背負って歩くだけの力は、私にも残っていなかった。ただその小さな手を、きつく握り締めて、ゆっくりと歩き続けた。
 そのときは奇跡的に、無事に村へ帰りつくことができた。だが弟は、それから数か月がたった頃、あっけなく死んでしまった。あの大水のあとの、飢えによって。
 いつかの夜の森、あの暗闇の中でずっと繋いでいた、小さな手。弟の手も、ヤクトと同じように、痩せて骨ばっていて、そして熱かった。
 考えに沈んでいた私の視界に、ふっと、影が差した。顔を上げると、件の娘が目の前に立っていた。
 ――どうかしたのかい。
 訊ねても娘は答えず、ただそこに立ち尽くしたまま、じっと私の目を見つめ返してきた。琥珀色の瞳は、切実な、何かを請うような光を宿していた。
 月明かりの下で見ると、前に会ったときよりも、彼女がやせ細っていることに、私は気づいた。
 いつかの晴れた昼間には、明るい笑い声を立てていたこの娘が、うち沈む様子をみせるようになったのは、少年たちがあの断食行に入ってからのことだった。彼女は二人のどちらかの、身内なのかもしれない。
 私のしたことを、彼女は知っているのだろうか。ふと、そう思った。それとも、よそものの私になら、彼らの掟に縛られず、何かできると思っているのだろうか。ほかの土地のさまざまな暮らしを知っている人間になら、ほかの人々を説得して、彼らのやり方を変えさせることができると? あるいは少年たちを連れ出して、逃げることが?
 彼女は結局、口を開かなかった。やがて長い時間が過ぎて、娘はふっと背を向け、立ち去っていった。
 その痩せた、けれどきれいな後ろ姿を見送りながら、私は自分が、彼女にかけるべき言葉を何一つもたないことに気がついた。


 少年たちが暗闇の牢から解き放たれたのは、それからさらに数日が過ぎた、午後のことだった。
 その日は朝から、誰もが落ち着かない様子で、何度となく洞穴の奥へと視線を投げかけていた。いつもだったら話をねだりにくる少女たちも、年寄りも、それどころではないようで、ひっきりなしに不安げな囁き声を交し合っていた。
 わっと、奥で歓声が上がった。二人の少年たちが毛布にくるまれた姿で、男たちに担がれてくる。その光景をこの目に見た瞬間、心臓が冷たく縮みあがった。ぐったりとしたふたりの少年が、すでに亡き人のように見えたのだ。
 だが、何人かの人々が駆け寄って、少年たちの痩せきった小さな体に縋りついたとき、二人の手がかすかに動いて、彼らの抱擁にこたえようとするのが、私の目にもはっきりと見えた。
 彼らは生き延びたのだ。
 人々がふたりに、そして彼らを抱きしめている彼らの親兄弟に、口々に労いの声をかけ、その肩を叩くのを、私は遠くから眺めていた。喜び合う人々の眼には、うっすらと涙が浮かんでいた。顔をくしゃくしゃにしているものもいた。
 誰も、彼らの死を願ってはいなかったのだ。
 それは私には、せめてもの救いのように感じられた。誰も、望んで子どもらを死なせようとしていたわけではないのだ。ただ繰り返されてきた掟に、逆らうことができないだけで。
 あれだけの日数を絶食したあとでは、食べ物は、まともに喉を通らないのだろう。女たちが、何か蜜のようなものを椀にいれて、慌てて運んでいく。それに道を譲りながら、私は件の娘が、ひとり、人々の輪から離れたところに立ち尽くしているのを見た。
 彼女の瞳は、喜びに沸き返る人々を、睨み据えるようにしていた。
 部外者である私よりも、彼女のほうがよほど、この因習を憎んでいるのかもしれなかった。喜びに沸き返る人々の中で、娘の姿はひとり、あたりの光景から切り離されているかのようだった。
 ヤクトの小さな体を抱えた男が、広間のなかほどにやってきて、少年の体を、敷き詰められた毛布の上に横たえた。
 隣にいた老婆に小突かれたとき、娘はようやくそれまでの緊張を緩めて、ふらふらと二人に近づいていった。
 娘はかがみこみ、恐る恐るヤクトの手を握りしめた。その手が、びくりと小さくすくむのが、薄暗い明かりの中でも、はっきりとわかった。娘は顔をゆがめて、堪えかねたように、嗚咽を漏らした。
 ヤクトはその手を握り返しながら、私のほうを、一瞬だけ見た。それは、とても静かなまなざしだった。
 そこに憎しみの色がなかったことに、私は心の底から安堵した。ヤクトはあのとき、私のおいていった食物を、口にしたのだろうかと、そのことを考えずにはいられなかった。だが、どちらでもかまわなかった。彼は生き延びたのだから。
 二人はすぐには動けないだろう。彼らの身内がせっせと世話を焼くのに背を向けて、私は広間をあとにした。今日この日ばかりは、異国の物珍しい話など、だれも必要としないだろうから。
 近々、ここを発とう。そう思いながら、私はようやく重い荷を下ろしたような気分になって、足早に通路を歩いた。そのとき、通りかかった小部屋の中で、誰かが話をしているのが、耳に飛び込んできた。
 ――いや、ヤクトは駄目かと思っていた。
 ――そうだな。本当に二人ともよく……
 その内容に、私はどきりとした。
 駄目かと思って心配していたが、助かってよかった。声の主はそういうつもりで、その言葉を口にしたようだった。だが、その会話の相手、誰と知れぬ男が答えるまでに、ほんの一呼吸、妙な間があったことに、私は気がついてしまった。
 胸に射したいやな予感を振り切るように、私はその場をあとにした。


 だが、不安は的中した。囁かれる声は、ひとつではなかったのだ。
 もちろん、ヤクトやその身内に面と向かって、そう問いかける者はいなかっただろう。だが、少しずつ回復していくヤクトに向かって、ときおり投げられる奇妙な視線に、私は気づいてしまった。
 それは私の、勘繰りすぎというものだっただろうか。自分がしたことへ、気が咎めていたからこその。
 だが件の娘も、同じことを考えているようだった。彼女はヤクトのそばについていて、誰かが少年に妙な目を投げかけるたびに、きつく睨み返していた。たったひとりで、ヤクトを守ろうとするように。だがその頑なな姿が、よけいに人々の疑惑を煽っているのかもしれなかった。
 きわめつけは、イアンの態度だった。
 はじめはヤクト同様、弱りきって体も起こせなかったイアンだが、それでももとの体格がいい分、早いうちから体力を取り戻しはじめていた。
 同じ広間に寝床をつくり、二人まとめて女たちの世話を受けながら、イアンはときおり上体を起こして、ヤクトのほうに、じっと強い視線を投げかけていた。その目の鋭さが、容赦なく私にひとつの答えを告げていた。
 彼は食べ物を、口にしたのだ。そしてイアンは、それを見ていた。手を伸ばしても届かない、格子の向こう側から。
 ヤクトはその視線に、気づいていただろうか。
 気づかないでいてくれればいいと、私は願ったけれど、それがあまりに虫のいい願いだということは、自分でもよくわかっていた。
 イアンに、彼を責めるなというのは、酷な話だろう。
 弟分のようにして可愛がっていた相手が、あろうことか魔物の誘惑に屈して、掟を破った。自分と、同じ洞に暮らす全ての人々の信頼を、裏切った。彼からしてみれば、そういうことなのだ。
 いまはまだ、はっきりとヤクトを責めるものはいなかった。だがこの先、少年たちがすっかり回復した後には、どうだろうか。そのことを思うと、やるせない思いばかりがこみ上げてきた。
 あるいはそうなっても、誰も、何もいわないかもしれない。けれどあの視線は、おそらく、いつまでも彼につきまとうのだろう。ヤクトが生きてこの洞穴に暮らしている限り。
 そう思うと、私は自分のとった行動の是非について、思いをめぐらせずにはいられなかった。
 私のしたことは、間違っていたのだろうか。
 あの日、私があのようなことをしなくても、ヤクトは自力で、どうにか生き延びていたのだろうか。
 とてもそうは思えない、あの食物がなかったら彼は命を落としていたに違いないと、そういいきれば、自分の心が楽になるのはわかっていた。そうだ、あの日に噂話をしていた男たちも、いっていたではないか。イアンはともかく、ヤクトのほうは駄目かと思っていたと。
 だがその答えのほんとうのところを、神ならぬ身で、私に知りようもなかった。
 そしてイアンとは別に、ひどく強い視線をヤクトに向ける人々がいた。彼らが何者なのか、私はあの地を去るまで、しかとは確かめなかった。そうするのが怖かったのだ。
 だが私は、答えの半ばを、すでに知っているように思う。
 彼らはかつて同じ試練を、正当に耐えて、生き延びた者たちではなかったか。
 あるいはあの断食行で、わが子や兄弟を失った人々ではなかっただろうか。
 彼らの声に出されない声が、この耳に、聞こえるような気がするときがあった。掟を破った恥知らずの手引きによって、この子は生き延びたのか。ならば自分の息子は、なぜ命を奪われねばならなかったのかと。


 二人が救い出されてから数日がたった頃、私は夜更けに足音を忍ばせて、彼らの寝起きしている広間に向かった。
 人のいないところで、一度彼らと話ができないものだろうか。そんなことを思っていた。だがその望みが薄いことも、頭ではわかっていた。誰か、女たちのうちから、夜通しで彼らにつきそっているらしいと、知っていたので。
 だがその夜は、どちらにしても眠れそうになかった。話をするのが無理でも、彼らの寝顔だけでも見られれば、少しは落ち着くだろうか。そう思い、ひとり、夜更けの通路を歩いていた。途中の通路では、誰とも行き会わなかった。
 広間についたとき、ちょうど、中から人が出てくるところだった。
 あの娘だった。
 彼女は私に気づくと、その場で立ちすくんだ。それから何かを決意するように、硬く唇を引き結んで、深く、頭を下げた。そして、足音を立てずに、暗い通路を去っていった。
 いまのは何だったのだろう。あっけにとられてその後ろ姿を見送った私は、戸惑いながら、少年たちの寝起きする広間に、足を踏み入れた。
 うす暗がりの中で、木蝋の燃えるにおいが鼻についた。
 壁にかけてある灯は、半ば消えかかっていた。その頼りない明かりを受けて、少年の影が、壁に投げかけられ、揺れている。
 イアンは半身を起こして、背を壁にもたれかけさせていた。その光る目が、少し離れた壁際で眠るヤクトの、小さな背中を見つめている。その横顔に浮かぶ表情は、苦いものではあったけれど、数日前まで見せていたような険しさは、そこには見当たらなかった。
 その顔が、ゆっくりと私の方を振り返った。どきりとして、私はその場に立ち尽くした。
 一瞬、イアンの目は憎々しげに歪められ、だがその次の瞬間には、静かに伏せられた。
 話ができればいいと思っていたくせに、どう声をかけたものか迷って、私は話を切り出しそこねた。しかたなく黙ったまま彼らのほうに歩み寄ると、イアンの視線が、そのまま追いかけてきた。
 ヤクトはまだ体力が戻らないのだろう、体を小さく丸めて、静かに寝息を立てていた。
 それでもその頬に、助け出されたその日よりは、いくらか肉がついたようで、私は安堵の息をついた。
 あらためてイアンのほうに向き直ると、まだ少年は、じっと私を見ていた。何かを見定めようとするように。
 やがて、イアンはゆっくりと唇を動かした。
 ――いつ、ここを発つ。
 ヤクトを起こさないようにだろうか、それとも人に聞かれないようにだろうか、ひそめた声で、イアンは私にそう問いかけた。それは奇妙に、感情を抑えた声音だった。ついこの前まで、あふれる好奇心にはちきれんばかりになって異国の話をせがんできた、悪戯坊主のものと、同じ人間の声だとは、とても信じられなかった。
 ――まだ決めていない。でも、近いうちには。
 ――ヤクトを、連れて行ってくれ。
 いわれた言葉の中身に、私は意表をつかれた。
 実際のところ、その選択肢は、頭の片隅をちらついてはいたのだ。このままここで暮らすことは、ヤクトのためにはならないのではないか、そういう思いはずっと、胸のどこかに居坐っていた。だがそれは難しいだろうと感じてもいたし、何より、ほかでもないイアンからそれを頼まれるとは、思ってもみなかった。
 私はすぐに答えず、振り返って、丸められたヤクトの背中を見た。その小さな痩せた背中は、ぴくりとも動かなかった。それが深く眠っているためなのか、それともただ寝ているふりをしているだけなのか、見ただけではわからなかった。
 ――掟を破った者を、置いてはおけない。
 イアンはそう囁いたが、それが本気の言葉とは、私にはどうしても思えなかった。それほど、少年の声音は静かだった。
 ――ラファから、長に、そう耳打ちしてもらう。
 そう続けながら、イアンはヤクトの骨ばった背中から、視線を外さなかった。ラファというのは、あの娘の名だろうか。たしかめようかとも思ったが、やめた。どうせすぐに去る身だ。
 ――わかった。本人が、それでいいといったら。
 ――もう、話してある。
 私は言葉を飲み込んで、イアンの目を見つめた。
 少年の表情は、静かなものだった。
 ヤクトを哀れだとは思わないのか、許してはやれないのかと、直前まで私はこの少年に、そういいたいと思っていた。私がそれをいうのはあまりに身勝手だと、承知しながら、それでもどうにか、諭すことはできないだろうかと。
 つまり、私はこの少年のことを見くびっていたと、そういうことだったのだろう。
 ほかでもないイアンこそが、誰よりも間近に、ヤクトの苦しむ姿を目の当たりにしていたのだ。たった二人きりで取り残された、あの暗い牢の中で。
 空腹を訴えながら弱っていく弟分に、励ましの声を掛け続けているイアンの姿は、容易に思い浮かべることができた。


 出発は、ヤクトの体調が戻るのを待ってからになった。
 表向きには、ヤクトがなぜ私についていくことになったかは、明らかにされないようだった。だが皆、言葉にせずとも察していただろう。中には、私やヤクトに冷たい視線を向けるものも、いないではなかったが、どちらかというと、私たちは腫れ物にさわるように扱われた。それまで異国の話をせがんできた人々も、もう私に近寄ってはこなかった。
 それでも、私には皆と同じ食事が与えられたし、女たちは口数の少ないまま、ヤクトの世話を焼いた。彼女らが人目を気にしつつ、ヤクトの痩せた手を握って力づけるところも、何度か見かけた。
 雨の弱まった朝、私たちは洞穴の外に、足を踏み出した。見送りのない、寂しい出立だった。
 ヤクトが洞穴を振り返り、私の顔を、不安げなまなざしで見上げてきた。その瞳は、洞穴の外で見れば、あの娘と同じ、きれいな琥珀色をしていた。
 ひとつ頷きを返して、私はその手を引いた。痩せた手のひらは、やはり熱かった。
 ヤクトに背負わせた荷は、ほんとうに最低限のものだったが、それでも痩せて小さな背中には、不釣合いに大きく見えた。
 滑る足元に注意を払いながら、いっとき歩いて、やがて洞穴の入り口が雨の向こうに霞んで見えなくなるころ、前方に立ちふさがる人影があった。姉ちゃん、と、ヤクトが小さく呟いた。
 件の娘だった。
 ――ヤクト。
 ただひとこと、弟の名を呼んで、娘は押し黙った。その声は、涙に歪んではいたが、洞穴の外で耳にすると、やはり高く澄んで、美しかった。
 ヤクトはわずかにためらい、けれど弾けるように駆け出して、姉の胸に飛び込んだ。
 互いの体に縋りつくようにして、二人はいっとき、固く抱き合っていた。
 女たちは本来、晴れたとき以外には、洞穴の外に出てはならないものらしかった。洞穴の通路は狭く、昼間はいつでも人が行き交っている。それをどうやって抜け出してきたのか、娘はそこにいて、弟の出立をせめて見送ろうと、おそらくは長い時間を、待っていた。雨に濡れそぼって。
 彼女が洞穴を抜け出して、この場所までやってこられたことに、意味を見出そうというのは、あまりに都合のいい考えだろうか。
 あの夜、私が初めて奥の牢に迷い込んだとき。いま思えば私を誘導するように、この娘が通路の奥に姿を消したのを、誰ひとりとして見咎めなかった。私が二度目にあの通路へ忍び込んだとき、イアンが大声を張り上げても、誰も様子を見に来はしなかった。いくら風雨の音に紛れるといっても、あんなふうに叫んだならば、誰かの耳に届きはしなかったか。あの夜、イアンが投げ捨てた魚の切れ端は、きっと次の日には臭っただろうに、そのことに気づいてさわぐ者が、誰もいなかったのは。
 それは彼らなりの、情ではなかったか。
 それともすべては、ただの偶然だろうか。彼らはただ掟にのっとって、少年らを見捨てようとしていたのか。
 いまとなっては、真偽はわからない。もう私があの国を再び訪ねることもないだろう。
 やがて姉弟は抱擁を解き、頷きあった。ヤクトが私の手につかまって、再び歩き出すと、娘はその場で硬い岩肌に膝をついて、深く、頭を垂れた。


 遠くの緑が霧雨にかすむ、灰色の景色の中を、二人、黙りがちに歩いた。ときおり鳥が寂しげな響きを立てて、低く、長く鳴いた。
 私のせいで故郷を追われることを、この少年は、どう思っているのだろう。何度かヤクトに訊ねようとして、私はそのたびに言葉を飲み込んだ。
 雨を避けられる場所を見つけて、足を休めるたびに、ヤクトは後にした故郷を振り返って、不安げな目をした。
 自らを追放した人々を怨むでもなく、ただあとにしてきた故郷の方を何度も振り返りながら、それでも戻れはしないのだと、諦めきっているようなのが、哀れだった。
 体力もずいぶん戻ったとはいえ、もともと小柄な、この痩せっぽちの少年が、あの険しい崖道を歩きぬくことが出来るのだろうか。私ははじめ、そんなふうに危ぶんでいた。
 だが、不安そうにしながらも、ヤクトは泣き言のひとつもいわず、黙って歩き続けた。
 ふいに一羽の鳥が木の梢を飛び経ち、羽ばたきの音も高く、私たちの頭上を飛びこしていった。白い羽の美しい、大きな鳥だった。
 ――あの鳥は、どこまでいくの。
 ヤクトはそういって、空を指さした。その声の調子は、思いがけず、明るいものだった。
 無理をして、明るくふるまってみせたのかもしれない。だがそこには、いつか広間で目を輝かせて話の続きをねだったときと同じ、世界への尽きせぬ興味が、たしかにあふれていた。
 ――さあ、どこまでだろう。ずっと西の国でも、同じ種類の鳥を、見たことがある。
 私がそう答えると、ヤクトはしばらく、じっと空を見上げていた。
 その横顔を見て、私は不意に思いなおした。イアンを見くびっていたのと同じように、私はこの少年のことも、ずいぶんと思い違いをしていたのではないかと。
 必要以上に、この子を哀れむのはやめよう。そのときになって、ようやく私はそんなふうに考えることができたのだった。
 何の非もないのに殺されかかったことも、生まれ育った故郷を追われなければならないことも、哀れなことには違いないだろう。だが、それでもこの子は、生きてゆかねばならないのだ。
 そして人が生きてゆくために必要なのは、おそらく、哀れみではない。


 幸いにも雨が強まることもないまま、翌日の昼、峡谷を抜けた。
 そこが雨の国との境だった。
 ようやく陽光に肌を温められながら、乾いた岩に腰を下ろして、疲れ果てた足を休めていると、ヤクトが空を見上げて、眩しげに目を細めた。
 ――雲が。
 そういって、ヤクトが指さした先には、雲の切れ目があった。高い山の峰を境に、きれいに天気がわかれている。後方にはどんよりと重い雨雲が。前方の空は青く、どこまでも澄み渡っている。
 あの山よりこちら側には、雨雲はほんのときおりしか越えてこないのだと、そう説明すると、ヤクトは目を丸くして、ふたたび空を仰いだ。それから前方に開けた平原と、通り抜けてきた峡谷とを、何度も見比べた。
 その痩せた腕から取りこぼしてしまった、多くのもののことを、ヤクトはこれから先、きっと、何度も思い返すだろう。
 できることならば、それ以上の喜びが、この少年の行く先にあるように。いま私が願うべきなのは、おそらく、ただそのことだけなのだ。
 ――行こうか。
 手をさしのべながら、私はヤクトに微笑みかけた。少年は立ち上がりながら、私の顔を見上げて、微笑みを返してくれた。
 その痩せた、熱い手を握って、ゆっくりと歩き出すと、さっき見かけたのと同じ、白い大きな鳥が、空の高いところを軽やかに横切っていった。

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