殴って、
壊して、
潰して、
消して、
殺した。
けど、最後に何かを一つだけ、救う事にした。
「……あれ?」
屋敷内にある食堂。非番だったけど特にすることもなく、ああ、そういえば冷蔵庫に黒ゴマプリンを隠しておいたな、と思い出し、昼下りにそこに足を運んだ私こと黒霧舞は、予想だにしていない状況に遭遇した。
ストレートに言うと、なかったのだ。
なにがって、私が昨日のうちに買っていた『みつや』の黒ゴマプリンが、冷蔵庫の隅に隠していたのに、キレイさっぱり姿を消していた。
で、昨日の記憶を思い出してみるけど食べた記憶なんてさっぱり無いわけで、ぶつける恨みどころを探してキッチンから出ると――
「やあ舞さん。何か探し物?」
呑気に私の黒ゴマプリンをパクついている、吊り目の坊ちゃんがいた。
「あああぁぁぁぁぁぁぁあああ!!私のプリン!!もう今日という今日はぜええぇぇっったいに許しませんよ!坊ちゃんみたいな人がいるから世の中の女の子が苦しむんです!だから私が全世界の女の子に変わって成敗します!」
「言ってくれたね舞さん!こっちも言わせてもらうと、ぶっちゃけ前に僕がとっておいて、皆で食べようと思っていた『みつや』のフルーツタルトを一人で全て平らげた罪からすれば、僕のは瑣末な問題だ!」
「あ、アレは不可抗力です!『みつや』のフルーツタルトを前にして、手を出さずにいられる女の子はいません!」
「いや……実際けっこういると思うよ」
「いません!このスケコマシ!」
我ながら自己中な発言だとは思うけど、坊ちゃんだけには負けたくない闘争心というか、ただ冥ちゃんを渡したくない嫉妬とか反発とか、そんなくだらないもののせいで、私は謝罪の一言も言えない。けどそんな自分が少し好き。
「なるほど、それじゃあ僕の失態も不可抗力で見逃してくれるわけだね」
やれやれといった感じだが、坊ちゃんはいつもの笑顔の下に、ほんの微量の安堵の表情を浮かべている。ただし、ほんの1ミクロンくらい微量だから、分かるようになったのはほんの最近なんだけど。
坊ちゃんがそんなことをする理由は、何か私たちに弱みっつーか、弱さを見られて心配させたくないらしい。いつもなら、ムッツリだのなんの言ってその壁を崩しにかかるのだが、今日はなんだか、強引に大砲でも打ち込んで爆砕しなければ気がすまなかった。
理由は……今日が、月に一度来るオンナノコの日だからだ。
「ええ、見逃しましょう。ただ……冥ちゃんのことをほったらかしにしてこんな所で油をうっているのが見逃しがたいので、少し痛い目にでもあってもらいます」
「舞さん。それ理由がムチャクチャなんだけど」
坊ちゃんは、私のことをいつもの目で眺めている。その目は同時に、
「いいのか?」と私に訊いている。
まったく、この人は、今更何を。
「それじゃあ行きますよ。せいぜい死なないように、頑張ってくださいね」
「ムチャ言うな。僕と君だと戦力が離れすぎてるだろ――!」
言うが早いか、坊ちゃんは手に持っていたスプーンを私に向かって投げ付けた。
さすが、坊ちゃんの投げたスプーンは確実に私の右目を目指している。その銀光がナイフみたいだと、冷静に思いながら、左手で払いのけた。
後には床に落としたスプーンと私だけが食堂に残っていた。坊ちゃんの姿は既にない。そして黒ゴマプリンも中身はなくなっていた。
「ふ、ふふ。ふふふふふふふふふふふふふふ……!」
殺してやる……!
久しぶりの鬼ごっこと張り切りながら、私は小動物ぐらいなら近寄るだけで殺せるようなドス黒いオーラを纏い。ゆっくりと歩き出した。
場所を絞る必要なんてないだろう。見つけただけで終わるのだから、そんなのは労力の無駄遣いにしかならないからだ。
坊ちゃんは案外簡単に見つかった。正面玄関すぐのロビーの柱に姿を隠していた。どうやら場所を移動している最中だったらしく、辺りをしきりに窺っている。
もうちょっとうまく隠れればいいのにな、と、すこーしばかり失望したが、みすみす見逃す道理はない。体は既に戦闘用にスイッチが切り替わっている。
足音を忍ばせ、気配を殺す。拳は形を作る程度でとどめておいた。坊ちゃんとの距離は五メートル。腰をかがめて、バネと化した足に力を溜め、放つ。
「み〜つけたっ!」
声をあげたのは、重傷になるのを防ぐため、不意打ちよりも、正面から殴られた方がダメージが少ないのは当然のこと。それに、私は加減していて、坊ちゃんは多少武術の心得がある。この程度の攻撃は避けれなければ、私は本当に失望しなければならないだろう。
故に、私は油断していた。
坊ちゃんは私の声に反応し、振り向かずに走り出した。そしてある程度距離をおき、後ろを振り替えると同時に拳を構えた。
私の滞空時間も終わりに近付き、坊ちゃんの上へと身を踊らせ、拳を振るう。直撃すると悟った坊ちゃんは一歩だけバックステップを踏み、足下にあった、カーペットのほんの小さなたわみに、足を引っ掛けた。
「……は?」
本来は有り得ない浮遊。坊ちゃんの体は一瞬地面と水平になるまで上がり、
「……え?」
振り上げた拳は止まらずに、坊ちゃんの腹を打ち抜いた。
肉にめり込む拳の感触。鈍器で殴られたような重い音。拳は振りぬかれ、坊ちゃんの体は床へと加速する。
ガツンと、頭骨を打ち付けた鈍い音。
静寂は一瞬だっただろうか。坊ちゃんの体は大理石で出来た床の上に、死んだように横たわっている。出血はあるのだろうか。骨は折れていないだろうか。いや、あるいは、既に――
「坊ちゃん!!」
その叫び声は、私たちがいるロビーの反対側から、ただ一人を心配して叫ばれた。
ああ、やってしまった。よりにもよって、私が一番大切にしなくてはならない人に、見られてしまった。
視線を向けるまでもない。冥ちゃんは一瞬でこちらまで駆け寄ると、坊ちゃんの容態を確認し始めた。名前を読んだり、強く打ち付けた頭から血は出ていないかなどを入念にチェックすると、急いでどこかに電話をかけはじめた。多分、病院だろう。
頭がくらくらする。なんだか、私が犯した罪とか、冥ちゃんが目の前で涙を流して坊ちゃんの名前を呼び続けていることとか、そういうものに関係する一切合切の感情が頭の中で渦巻いて、出るべき場所を失っているみたい。
「……姉さん」
「……冥、ちゃん」
俯いたまま、冥ちゃんは私の名を呼んだ。
「なんで、こんなことを……した、の」
「冥ちゃん……」
「答えて!姉さん。なんで坊ちゃ、んにこんな、ことを」
冥ちゃんの言葉にノイズが走る。
……違う。これは、冥ちゃんの……涙。
「それは……でも、わざとじゃないの!私だって――」
私だって、何なのだろう?
わざとじゃない?じゃあ何故拳を振り上げた?
傷つけるつもりはなかった?じゃあ何故喧嘩を売った?
「あ――」
もしかすると、それは私が全て望んだことなのではないか。事あるごとに坊ちゃんにつっかかり、風邪をひかせたこともあったではないか。不可抗力?ふざけるな。自分のことぐらい、自分でわかっておけ。
黒霧舞。お前は、いや、私は、目の前の少年が憎くて仕方がないのではないか。
「――違、う」
では何故こんなことをした?あの男に、それほどまでに駆り立てるなにかがあったのではないか?
ああ、そうだ。私は、あの人に、何かを盗られようとしたけど、結局譲ったんだ。自分は影から見守ろうと心に誓ったのに、何を誓ったか忘れてしまった。
それはきっと、今の光景に最も反する誓い――
冥ちゃんは坊ちゃんの体をゆっくりと地面に寝かせ、私に早足で近付いてきた。
覚悟は出来ている、何を言われようと、それは私の責任だ。受け止めなければならない。
冥ちゃんは俯いたまま目前で止まった。冥ちゃんから感じる気配は、殺気とは違う、異質の気配。邪気や妖気と呼ばれる類いのものだった。
冥ちゃんは伏せていた顔をキッと上げ、私を睨み付けた。
「姉さんなんて、大嫌い!!」
瞳に涙を浮かた冥ちゃんは、右手でエプロンが引き千切れる寸前まで握り締め、左手で私の右頬を、かつて退魔を生業にしていたことなど嘘のように、弱く、ただの女の子の力で、はたいた。
パン、と乾いた音。避けることは容易かった。けど、頭がそれを拒否した。軽いとは、自分でも思うけど、もし最悪の事態になった場合の罪滅ぼしのために、わざと叩かれた。
ああ、私は、なんで、こんなときすら謝れないのか。
ロビーの向かい側が騒がしくなってきた。どうやら冥ちゃんは屋敷の誰かに電話して、とりあえず来てもらおうと思ったらしい。
視界がぼやける。目頭は熱く、鼻の奥がツーンとした。
……これは、涙?
別に泣きたいわけではなかった。けれど、胸が痛くないかと言われると、痛かった。でも、一番の原因は、目の前の妹に拒絶され――
『姉さんなんて、大嫌い!』
またいっそう溢れ出した涙を感じ、私は周りも見ずに逃げ出した。
前を見ていないせいで、誰かと肩がぶつかった。でも顔を見ている余裕なんてない、そのまま走り抜ける。
「舞さん!?待ちなさい!舞さん!」
後ろから山口さんの叫び声が聞こえて、また、胸が軋んだ。
涙なんてここ数年、あの時以来一度も流していなかったのに。
「……はぁ」
既に日は暮れ、満月の淡い月光が地上を照らしていた。
冬の寒空の下。私は、屋敷の屋根の上で、自棄酒を飲んでいる。
昼間の事件、いや、犯人は私だけど、どうやら坊ちゃんに大事は無かったらしい。それは屋敷の中の空気で感じ取れた。それでも、冥ちゃんと山口さんは坊ちゃんに付きっ切りで看病しているのだろう。
嫌な考えを流すように、一気に酒を飲み干す。焼酎のあの熱湯を飲んだときとは違う独特の熱さが、喉を焼く。一瞬むせ返りそうになりながら、それをこらえた。
「……はぁ」
何度目かも分からない溜息。
目線は上へと昇り、相変わらず輝き続けている満月を映し出す。
ああ、そういえば、あの時も、こんな満月だった。
そう、アレは二年前。いずれ来たる絶望から逃げ、目前の脅威から目を背けたあの日も、こんな、何かを祝福しているような、黒い私たちには眩しすぎる満月だった――
脳裏に焼き付いているのは、両親が始めて私にかけた言葉。
初めまして。よろしく。ああ、思い起こせば、月並みすぎて反吐がでる。
けど、両親は、最後に少しだけ、変なことを言った。
ごめんなさい。
と、ちっとも謝る気がない表情で、機械的にそんなことを告げた。
この言葉の意味を知ったのは、もう、私が既に調教されつくした後だった。
だから、その時は、疑問にも思わなかった。否、疑問には浮かんだものの、その意味を追求しようとはしなかった。
だって、そんなことには意味を感じていなかったし。意味があるとも思えなかったからだ。
それが少しずつ変化したのは、ああ、きっと、冥ちゃんが居てくれたからだ――
確か、自分の置かれた状況をやっと理解できるぐらいに成長して、初めて刃物を持たせられた年代だったっけ。
汚れは知っていたけど、自覚はしていなくて、殺しはしていないけど、それが狂っていると知っていた。
それが、他人と違う生き方だと分かった私は、自分は大人なんだと信じて疑わなかった頃――
「あーあ。アニメ、見損ねちゃったな……」
「舞。少しいいかな」
「?……はい」
その日、演習の後に、顔は知っているけど名前は知らないおじさんがやってきた。
「実はな舞。お前に紹介したい『モノ』があるんだ」
「……モノ?」
「ああ、きっと喜ぶだろう」
おじさんは、何故だか知らないけど、とても歪んだ表情で笑った。
今現在そのおじさんの行方は分からないけど、顔を見たらぶん殴ってドついて地面に頭をこすり付けさせて、冥ちゃんを『モノ』扱いしたことについて謝罪させるだろう。
まあ、今それは関係ないか。
「ほら、出てこい」
で、そのおじさんの後ろから出てきたのが、
「……はい」
私よりも一歳年下の、名前も年も顔も、存在すら知らなかった冥ちゃんだった。
まだその時は髪が短く、指や顔にいくつも絆創膏が張ってあった。
「おじさん。この子誰?」
おじさんは冥ちゃんは私の血の繋がっていない妹だと説明した。わざわざそんな事言わなくても、私は『今まで一度も会っていない』妹が、どんな存在かは、大方悟っていた。
そしておじさんは最期に、
「コレは、お前の道具だ。好きに使うといい。ああ、でも冥も修練があるから、邪魔にはならん程度にな」
と言い残し、去っていった。
冥ちゃんはおじさんの姿が見えなくなると、一歩私に歩み寄って、膝をついて頭を下げた。
「ちょっと、何?」
「始めまして。空倉冥と申します」
「……空倉、冥」
「はい、何でしょう舞さま」
冥ちゃんの口から、空倉という姓を聞いて、私はやっと彼女は本当に私の妹なんだと実感した。
その時に、私は小さな頭で漠然と理解した。
ああ、この子は、私の奴隷なんだな、と。
「……冥」
「はい」
「屋敷のみんなに挨拶に行く。付いてきなさい」
「はい」
冥ちゃんは私から常に一定の位置を保って付いて来ていた。同い年の子や、陸は、いつも隣りにいるのに、彼女はいつも後ろにいる。
その時から、私の心には、立場を哀れむ慈愛ではなく、下僕を虐げる嗜虐の心しか存在しなくなった。
それからは、冥ちゃんは、私に従順に仕えていた。
私が我侭を言えば、それを実行し、私が何かを欲しがれば、どこからか手に入れてきた。私はそれが愉快で、冥ちゃんを便利屋同様に、何の感情を感じることもなく、手ごまのように扱ってきたのだ。
冥ちゃんが、その時私に何を感じていたのかは知らない。実際何も感じていなかったのかもしれない。だって、冥ちゃんは感情が無いのではなく、感情を知らなかったのだから。
そんな状況が変化したのは、それから数年後の話。
あの日は確か、よく晴れていた。前日に大雨が降って、雨雲が去り、潤んだ世界に虹がよく映えていた。そんな中に、空気を壊す無粋な叫び声が屋敷の中に響いた。
「舞!舞はいるか!」
声の主は廊下で、私のことを探しているようだった。私は多少不機嫌になりながら、廊下に顔を出した。
「はい。なんのよ――」
パン。
言い終わる前に、顔に衝撃が響いた。
ダメージは少ない。ただ、唐突の襲撃に体が反応できなかっただけ。
「お前は……なんて事をしてくれたんだ!」
目の前には男が立っていた。名前は知っていたが、思い出せない。そして、私はその男の言葉と行動に理解が出来なかった。何故私が叩かれ、何故私がそんなことを言われなくてはいけないのか。
「まずは来い!お前の処分はそこで決める!」
男は私の手を捻り上げると、有無を言わさず腕を引っ張った。
「痛ッ!ちょっと!どういうことなのかまずは話してください!」
「黙れ!お前の多少のミスがな、空倉家を崩壊にまで導いたんだよ!」
男はそれっきり、黙ったまま私をどこかへ連れて行く。私はただ最近の出来事を思い出していた。私が何をしたか、何を言ったか。大抵の事は覚えていたが、その核心に至るような出来事は思い出せなかった。
頭が冷え、そろそろ捻られた手の感覚が無くなろうかとしていると、男が足を止めた。
「早く入れ!」
一々怒鳴る男を睨みながら、私は襖に手をかけ、一気に横へ滑らせた。
空気が凍っているとは、このことだろうか。
空気だけではない。部屋の中にいた空倉家筆頭の面々の視線。それが、私一人に向けられている。
冷たいだけの視線は、質が変わっていった。冷酷な視線は、じょじょに明確な殺意へと変質していく。
「……ぁ」
圧倒的な力量差。殺意を込めた視線は、首筋に当てられた鋭利なナイフを想像させた。
「そこに座れ」
誰かの声に、体が勝手に反応した。近くに置かれていた座布団の上に、へたりこむようにして、私は座った。
「さて、空倉舞。貴様は自分が何をしたのか理解しているのか?うん?」
「い、いえ……私が何をしたと――」
再び周囲の視線が私に集まる。萎縮してしまった私は、視線を上げる事もできない。
「ふん。どうやら予想以上に無能だったと見える。自らの失態すら把握出来ていないとはな」
嘲笑が場を埋める。ただ、私まで笑うことは出来なかった。未だに、殺意は周囲から与えられ続けているのだから。
「はてさて、処分は如何にしてくれようか。いずれ朽ちるこの身ならば、怖い物などないからなぁ……」
クツクツと嫌な笑い声。もはや、処分は避けられないだろう。ならば、せめて、真相を知らなければ。
「……処分は、受けます。けど、私が何をしたのか、教えてください」
「ふむう。真にわからぬというのか。まあよい、教えてやろう。お前はな、融資先の名家を裏切ったのだ。忘れたとは言わさんぞ。部屋にはしっかりと、丸められた書類があったのだからな」
目の前に、丸められた紙くずが飛んできた。
震える手で、ゆっくりと開いていく、そこには、要人暗殺の依頼と、融資先の主人の名前が書かれていた。
「これ……私が……?」
知らず、呟いていた。だって、ここまで見ても、私の記憶には丸めた記憶、いや、この書類を見た記憶すらなかった。
――陰謀。
それ以外に考えられない。執務部屋は完璧に片付いていて、チリ一つ落ちていない。部屋という体裁を保つために、ゴミ箱は置いてはいるが、一度も使用してはいない。それに、私は一度目を通した書類は、必ず厳重な金庫に保管するのだ。そんな状況で何故、あんなモノが見つかろうか。
「それは、本当に私の部屋で?」
「くどいぞ。過程など知らんのだよ。結果が全てだ、しかも今回はおあつらえ向きに、執務室からの発見ときた。どう弁解のしようがあろうか」
「……弁解は、」
弁解は、意味を、なさないのではないか。問答の前に、しなければならないことが、あるのではないか。
「……弁解は、しません」
「……なんだと?」
「口で言うよりも、早いことがありますから」
私は、部屋に背を向けて、歩き出した。部屋の中にいる連中はその意味を察したのか、嘲笑や罵倒は聞こえてこない。
だったら、せめてその期待に答えてやろうじゃないか。
足を武器庫へと向ける。いつもの武器と少しの道具。いつも私を生存へと導いた相棒を携え、屋敷をさっさと立ち去ろう――
「こんにちは。舞さま」
その時は、ただその存在を鬱陶しく思っていた。要は、飽きたのだ。無表情で無口。無垢ではなく無知。そんな存在に、どのような情を持てばいいのだろう。
「冥……私急いでるの。そこどいて」
「……舞さま?」
ああ、何故気付かなかったのか。この時にはもう冥ちゃんが変わり始めていたではないか。
……いや、実際には気付いていたのかもしれない。冥ちゃんの在り方が、『人形』から『人間』に変貌していく過程から、目を逸らしていた。
「……急いでるの。早く、退きなさい」
「舞さま。ですから、どこに行かれるのですか。私もお供させて――」
「――な……い」
「……え?」
「退きなさいって言ってるでしょう!」
頬を打った乾いた音が、中庭に木霊した。
景色は動かない。冥ちゃんは打たれた頬を押さえることもせずに、首を元に戻すこともしない。
「――ッ」
その空気に耐え切れなくなり、私は冥ちゃんの脇を駆け抜ける。その一瞬、
「――夏目ビル」
それが償いだとでも言うように、冥ちゃんに耳打ちをした。
そのまま武器庫へと直行し、手袋と代えのスリングを乱暴にバックに詰め、予め呼んでおいた車に飛び乗った。目的地は、夏目邸。気付かれず悟られず、一瞬で勝負を決する。
走り出した車のミラーに、冥ちゃんを見た気がしたが、さっきの出来事が頭をよぎり、確認を取ることができなかった。
闇が訪れる。
世界は静寂に包まれ、闇色に染まった私達の世界へと塗り替えられる。
「……ふぅ」
ほんの少しだけ、警戒を解くことにした。屋根裏に張り付いて、様子を伺うこと早二時間。いい加減集中力が途切れてきた。
気配は殺したままで、音を立てないように伸びをする。しかしまあ、私もよくやるものだ。
今回は依頼でも何でもなく、ただの自分の後始末だから、誰かに見られようと殺せさえすれば問題はない。
それでも、ここまで準備をするのは癖というかなんというか、失敗すれば即、死に繋がるような状況に置かれていたからの産物だろう。
「……っと、そろそろかな」
先ほどまで晩酌をしていた夏目の体が、前のめりになっている。酔いが回って寝てしまったらしい。体を起こして、天井をスライドさせる。物音を立てずに床に着地し、夏目に向かってゆっくりと足を進める。
スリングを振るう。首筋に巻き付いた鉄線は徐々に力を強め、気管を圧迫し、死へと導く。
異形ではないモノを殺めるのは久しい。だから、自分がやっていることが、時々間違っているのだと思ってしまう。
でもそれは、普通の人間の考え。異形の中に身を置き、常に殺戮を繰り返してきたのならば、殺しこそが常。その常を否とすれば、私の居場所はなくなってしまう。
いけない。殺しの最中に気を逸らすなんて、どうかしている。幸いにも、標的はぐったりとうなだれたまま動かない。なんとも呆気のない幕引だった。スリングを解き、庭から跳躍しようと足に力を込め――
突然、後頭部が衝撃に貫かれた。
「――な」
視界が紅くなる。頭は嫌ってぐらい震動して、体の末端から感覚が消失。命は危機を感知して警鐘を鳴らしているけど、その体が動かないのだから仕方ない。
揺れる意識の中、確かに首を絞めたはずの夏目が目前に立っていた。
ああ、私、殺されたな。
夏目はいやらしくニヤリと笑うと、右腕に持っていた短刀を振りかざし、後ろからの予期せぬ攻撃によって、顔面から地面に突っ込んだ。
訳が分からずに揺らぐ世界を見つめ続けていると、月をバックに武骨な鉄刀を弄んでいる冥ちゃんがいた。
なんでこんな所にいるのかと、動かない頭をフル稼働させるも、衝撃と失血で遠のく意識の中、私の体を懸命に気遣う冥ちゃんがやけにかわいく思えた――
「……あぇ?」
目が覚めると、見慣れた天井に見慣れた布団、そして――
「お目覚めになりましたか、舞さま」
見飽きた、冥ちゃんの顔があった。
「……なんで、私」
生きてるの、と言おうと、痛む額を押さえる。
そこには、水切りが不十分すぎるぐらいぐっちゃりとしたタオルが置いてあった。手に持つとよくわかる。タオルにしては異常に重いし、しばらくすると手から水滴が滴り落ちていく。
「舞さま。まだお体の調子がよくないのでは?」
「……いいえ、大丈夫。それよりも、何で私――」
そう、私はあの時、死を覚悟したのに、何故生きているのか。夏目が短刀を振り上げたところまでは覚えているのだが、どうもそこからが不鮮明になっている。間違いがなければ、確か夏目の後ろに人影を見た気がする。
それが誰なのか、それは、手に持っていた獲物が語っていた。
無骨な鉄刀。血にまみれた剥き出しの柄に、赤黒く変色した刀身。そんなものを好んで使うのは、一人しかいないではないか。
「――冥、あなた、まさか」
冥ちゃんはバツが悪そうに視線を逸らした。その時に私が叩いた頬が赤くなっているのが見える。それが、少しおかしかった。だって、散々当り散らされた相手を看護して、自らの身を疎かにするなんて、彼女以外できなさそうだから。
「……失礼ですが舞さま。今は舞さまを助け出したのが誰かを協議していたのではありませんか?」
「そうね、でも、あなた何で私が言いたいことがわかったの?私は一言もそんなこと言ってないけど」
ああ、いかんいかん。口の端がピクピク痙攣してる。
「……それ、は」
冥ちゃんは頬に負けないぐらい、みるみる顔を赤くして、私からタオルを奪い取った。案の定、冥ちゃんはタオルを氷水につけるだけで、絞る様子は微塵も見せない。
「……冥」
「はい。なんでしょう」
ポタポタと垂れる滴を気にするでもなく、冥ちゃんは私を布団に寝かせると、ぐっちゃりとしたタオルを私の額に乗せようとして、私に腕を掴まれて動きを止めた。
「……舞さま。それではタオルが置けません」
答えずに、上体だけを布団から起こした。何事かと冥ちゃんは首をかしげている。まあ、それもそうか。さっきまで死に体だった怪我人が、いきなり真面目な顔つきで向き合ったんだから。
「空倉冥。いまから命令をします」
一瞬にして、冥ちゃんの表情が引き締まる。でも、これから私が命令することは、今まで培ってきた主従関係から、一番かけ離れた命令。
「冥。これから私を殴りなさい」
「……な」
冥ちゃんは明らかに狼狽している。ま、仕方ないかな。私が仕事以外で真面目な頼みをしたのは初めてなのに、その頼みが私を傷つけろ、ときた。うろたえるのも仕方がない。けど、
「どうしたの?早くしてよ」
「あ、でも……なんで、私が」
「なんでって……簡単に言うと気分次第だけど、今までのけじめと、清算よ」
そろそろ納得してもよさそうなものだが、まだ冥ちゃんは呆けた表情のまま固まっている。
……ああ、そうか。この娘はまだ、人の感情を知らないんだ。
だったら、私が教えよう。せめて、私の償いが終わるまでには、一人前の人として、生きれるように。
「冥……さっきの命令はいいわ。次の命令は――」
――私を、さま付けで呼ばないで。
貴女は、私の妹なんだから。私のことは、姉と呼ぶべきだ。
そんな意味の事を言ったら、冥ちゃんはやはり固まったままだった。
それから、冥ちゃんは少しづつ変わっていった。
最初は、本を読む事から。食事の時間も習練の時間も、肌身放さず本を抱えて、暇さえあれば読みふけっていた。
それからしばらく経つと、今度は将棋に興味を持った。私が一人で詰め将棋をしているのを見て、そりゃもう目を輝かせていたので、簡単にルールを説明し、試しに一勝負してみた。
まあ、結果は語らずともしれているだろう。それに懲りない冥ちゃんに、今度は飛角落ちで再戦したものの、またしても圧勝。
冥ちゃんは多少涙目になりながらも、何度も再戦を挑んできた。思わず嬉しくなって、めちゃくちゃに叩きのめしてしまったりしたけれど。
そう、本当に、冥ちゃんは変わって……
「……本当に?」
口から漏れたのは、誰が為の確認か。
例えば、言い方を変えてみよう。冥ちゃんは、私に『誘導』され、変わらざるをえなかった。
――思い出せ。
私は冥ちゃんに、好きなコトをやれだの、自分で責任がとれるコトをやれだの、表向きはもっともらしい教育者の顔だった。ただし、私の裏側の顔は、何を考えていたのだろう。
私の内面は、取り繕う外面とは程遠いのではないか。一面黒く、汚れ切っていたのではないのか。
モット利用シヤスイ道具ヲ。
……違う。
モット従順ナ道具ヲ。
……違う!
カンジョウナド不要。
生キルコトニ意味ハ問ワズ、タダ戦イノタメニ身ヲ捧ゲヨ。
「違うって……言ってるのに」
言っているのに、頭ではなく、心が言葉を受け入れない。頭の隅に蠢くのは、後悔。懺悔すべきだった彼女への思いが、震えとして体を襲う。
「……冥、ちゃん」
空虚な体を抱き締める。寒空の下で、せめて自分の体だけは、確かにしていたかった。
「それじゃあ、山口さん。あとは……」
言い淀んだ私に、山口さんは柔らかな笑顔で返してくれた。私も笑顔で返し、音を立てないように、慎重に坊ちゃんの部屋のドアを閉めた。
「ふぅ……」
数時間ぶりに、緊張した糸を解く、そこでようやく、私の体に弛緩した雰囲気が戻ってきた。軽く体を捻るだけで全身からバキバキとなるあたりからして、相当な時間同じ体勢でいたらしい。
そもそも、いつまで経っても目を覚まさない坊ちゃんが悪いのだ。医者が言うには軽い脳震蘯らしいが、いつまで経っても目を覚まさないのはどうしたことか。まあ、眠ったまま目を覚まさないのは最近読んだライトノベルによくあることだと書いてあったし、気にするなという誰かのおぼしめしだろう。
あの人はいつも体を鍛えてるようで弱いし、じゃあ逆に精神はどうなのかと言うと、ヘタレだし。ナヨナヨしてるわけではないけど、優柔不断。
まったく、そんなだからチーフとか梨本さんとかにいいようにあしらわれてしまうというのに、本人は自覚があるのかないのか、いつも飄々としたまま何も変えようとしない。
……坊ちゃんのことは、もういいか。どうせ目が覚めれば、嫌でも顔を見る事になるわけだし。
「……とりあえず」
とりあえず、喉が渇いたので、食堂に向かう事にした。あの業務用冷蔵庫のことだ、きっと奥には誰かが隠したジュースぐらいならばあるだろう。
やはりと言うべきか、冷蔵庫には隠すまでもなく、それぞれの名前が書かれた飲み物や食べ物が所狭しと置かれていて、その中から『舞』と書かれたプリンと、『坊ちゃん』と名前の上から汚く書かれた野菜ジュースを有り難く頂戴する。ついでに山口さんにも休憩が必要だろうと、『コッコ』と書かれたスイートポテトも箱ごと手に取り、再び坊ちゃんの部屋へと足を運ぶ。
しかし、あのライトノベルは、最後になんと書いていただろうか。確か、
「眠りの王子は、姫の口付けにより、目を覚ました……」
有り得ない。何故人がお互いに口付けをするだけで、呪いが解けるだろう。
考えを片手間に、再び坊ちゃんの部屋のドアを開けた。
「冥さん?さっき帰ったばかりでは……」
「はい。でも山口さんも休まないと、私も休みません。とりあえず、食べましょう?」
手に持っていた『みつや』の箱を目の高さに掲げる。途端、山口さんの動きが止まった。さすが坊ちゃん情報。完璧にすきがない。
「ああ、コッコさんね。彼女は甘い物が好きな癖に手を出さないような、ある意味ツンデレに近い存在なんだ。だから、冥さんもコッコさんを誘導したいときは、甘い物で釣ればいい。まあ、操っているとバレた時点で命の保証はできないけど」
「……何気に坊ちゃんって悪どいですよね。私は雇われの身ですから何も言いませんけど」
「ありがとう。それと、冥さん。ちなみにこのことはコッコさんとか美里さんには絶対に黙っておくように」
「え……?なんでですか?」
「はあ……あんまり僕も分からないんだけど、女性ってのは物で釣られるのはあんまり好きじゃないらしい。しかも……」
ここに来て、坊ちゃんは急に口を紡ぐ。どうやら、ここから先は察してくれということらしい。
「つまり……ヘタレということですか?」
私の言葉に反応して、坊ちゃんの体が大きく揺れた。どうやら図星だったらしい。
「……冥さん。絶対に、秘密だからね?」
「坊ちゃん。女の子に頼みごとをするというのに、それはあんまりじゃないんですか?」
「冥さん。今度、二人っきりでみつやにデートしに行こう。つーかデートさせてください」
「はい。それじゃあ、今度の休みの日にお願いしますね♪」
ということがあったのだ。
その後は坊ちゃんが財布の中身を気にしているのを見たりもしたけど、ケーキがおいしかったので、それぐらいはご勘弁。
「……しょうがないですね。それじゃあ、一息入れましょうか。どうせ坊ちゃんはこの調子だと明日にならないと目は覚めないでしょうし」
山口さんは洗面器の中のぬるくなった水を洗面台に捨てると、手慣れた動作で戸棚からヤカンと紅茶を取り出して、紅茶の準備を始めた。どうやら本格的にお茶をするつもりらしい。さすがに途中休憩を挟まずに看病し続けたのは疲れたのだろう。
「お湯が沸くまでもう少しかかりますから、先に食べてましょう」
山口さんは部屋の隅にあるテーブルの席につくと、段々頭が下がり、あまり時が経たないうちに、寝入ってしまった。
起こさないように注意して、ヤカンの火を止める。山口さんが起きる気配がないのを確認し、坊ちゃんのベッド脇に椅子を寄せる。
さっきと変わらぬまま、坊ちゃんは静かに寝息を立てていた。
……少し、ぐらいなら。
そう思案して、苦笑する。まったく、何が少しなのだろう。ためらおうが踏み込もうが、その行為をするということ事態が変わるなんてことはないだろうに。
もう一度周囲を確認して、坊ちゃんに顔を寄せる。
坊ちゃんの寝顔は、年相応の幼さがあって、時々さらりと恐ろしい事を言うなんて到底思えなかった。まあ、そのあたりの油断を誘うのもこの人の特技だったりするんだけど。
さらに顔を近付ける。あと少し近付けば鼻がぶつかり、もう少し近付けば唇同士が触れ合ってしまう距離。
――顔が熱い。
心臓が鐘を打ち鳴らしているように血液が体を走り、息が乱れる。不必要な血液の所業か、ベッドに置いた手が震える。
周りに見てる人間はいないのに、羞恥で決断が出ない。
時が流れる。いや、むしろ今この瞬間は止まっているのではないか。何も変化しない、二人の寝息だけが聞こえる部屋。その中で私が唯一動ける存在であるならば、それは、空間を超越した現象と同格であると言えるだろう。
そんな中だったからだろうか、屋根の上から漏れる、ほんの僅かな嗚咽が聞こえたのは。
「……姉さん?」
返事はない。当然だ。屋根の上から声が聞こえるかどうかも怪しいのに、私はその聞き間違いかもしれないものに対して問い掛けたのだから。
でも、確認せずにはいられなかった。もし泣いているのが姉さんならば、私は慰めなければならない責務がある。
視線を窓の外へ。さっきまで欠けることなく浮かんでいた月は、雲の合間に姿を消していた。書き置きを残して部屋を出る。
それは、この屋敷に来る少し前。私の人形としての部分を完璧に崩壊させた、ある少年とメイドとの出会い。
初めて流した涙は嫉妬のため。でも、それを暖かく包み混んでくれたのは、姉さんの流した、後悔の涙だった――
「本を買ってきて」
その何気ない一言が、全ての始まり。今思えば、最初から最後まで、仕組まれていたんじゃないだろうか。
そんな陰謀の影など知るはずもなく、私は二つ返事で承諾し、町の本屋へと向かった。格好は血の痕が薄く残ったワンピースだったと、記憶している。それぐらい、あの時は私にとって衝撃だった。
余った金で好きな本を買っていいと言われたので、学になりそうな本の置いてあるコーナーでしばらく物色し、特にめぼしい内容の本がなかったので、姉さんから言われた本だけで支払いを済ませる。店員が血の痕がついた胸元をチラチラと見ているのを不快に思いながら、店を出た。
行きと同じ道を選び、公園の前に差し掛かる。
その声は、町の雑踏を透過して、私の耳に飛び込んできた。
「いや、だから何度も言うけど、仕方なかったんだって。アレは俺は悪くない」
「言い訳なんて聞きません。バレたくないのなら、結果ではなく過程を変えるべきです。そうすれば、結果も変わるでしょう」
「……うるせぇ。だからオマエの話なんて」
「人がせっかくお説教してあげているというのに、なんなんですか、その口の聞き方は」
「痛ッ!痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!耳もげる!もげます!離してください申し訳ありませんでした!」
少年は反抗期で、メイドさんは厳しく少年に接していた。メイドさんが何かを言うと、少年は反抗し、また頬をつねられる。それの繰り返し。
自然と、手に持っている本に力が入る。何故だかわからない。わからないけど、原因は、あの二人のよくわからない表情に違いない。
「まったく、次からこんなことしたら、口の中に画鋲詰め込んで、グーで殴りますからね。本気で」
いや、さすがにそれは死ぬのではないか。時代遅れの拷問みたいな体罰を聞かされて、ついつい内面でツッこんでしまう。
「いや、それ死んじゃうだろ。しかもアンタ本気?」
「坊ちゃん。本気と書いて、マヂと読む場合があります」
「……だから?」
「今がその時です。私は本気です」
「回りくどいんだよ!もっと素直にモノ言えねぇのかアンタは!」
「かかりましたね坊ちゃん。私は貴方を矯正……もとい、教育するためには手段を選びません。さあ、文房具屋にでも行って、画鋲を買いましょう。もちろん坊ちゃんのオゴリで。あ、帰りにみつやに寄っても……」
「なあ、アンタ楽しんでるだろ?オレが泣き叫ぶのを見て楽しんでるだろ?つーか金は絶対払わねー。アンタみたいな仕事をしないクズメイドに払う給金も小遣いも経費もねぇ」
「なるほど。そう来ますか。じゃあ、画鋲は使いません。坊ちゃん、ちょっとこちらへ」
少年の襟首を掴んだメイドは、そのままズルズルと少年を引きずりながら木と木の合間に姿を消した。
「ちょッ!コッコさん!いやコッコさま!申し訳ありませんでした!ですから怒りを治めてそのBLとかいうわけのなからないジャンルの本を朗読するのを止めていただき……え?じゃあ体罰の方がいいかって?……なんなんですか?右紋と左獄を構えていったいなにを……」
ほどなくして、木々の合間から、少年の断末魔が、消え入りそうな音量で聞こえてきた。
本が入っている袋が裂ける。
力を入れすぎたためか、中の本の表紙まで皺がよっていた。
少年と、メイドとの喧嘩を見ていただけなのに、何故私はこんなにも苛立っているのだろう。
何故、私はこんなにも悲しくなって、苦しいのか。私が見たのは、ただの――
「――ああ、なんだ。」
納得した。つまり、あの光景は当たり前のことで、世間から見たらただの喧嘩にすぎないのだ。けれど、それはあくまで世間を主軸にした観点でしかない。問題は、私の視点。
私は、思い上がっていたのだ。
最初の一歩を違ったかもしれない。生きる道を間違えたかもしれない。けど、自分が立っている場所こそが、正しい日常なのだと、信じて……いや、そう在って欲しいと願っていた。
しかしまあ、それこそが間違いだと気付いたのが今だなんて笑えないにも限度があるんじゃないか。
私は、やはり矮小な人間だ。自分の尺で物事を測り、少し人形が人間にかぶれた程度で『生まれ変わった』のだと確信していた。
所詮人形は人形。人のカタチをしているだけで、中身までは真似られないに決まっているん、じゃ、
「――今、」
私は、今、何を。
以前はいつもそう在るべきだと心に決めていたのに、少し現実に近付いたから、考えを変えてしまった。
無自覚の卑下。喩えそれが意識をしていなかったとしても、私は、何物にも代えがたい誰かを否定してしまった。
「――姉さん」
私は、さっき誰にも代えがたい姉を否定したのではないか。ただの殺戮人形として存在していた私を、人目が当てれるように育ててくれたというのに、その恩すら忘れている。
この時になって、私は、初めて自らの生まれを呪った。
何故、呼吸法にも歩法にも気を使わなければいけないのか。
何故、感情を表に出せないのか。
何故、鉄塊を振りかざし、命を刈り取らねばならないのか。
何故、私の手は、こんなに血塗れなのか――
「――ッ!」
悪寒と吐き気をこらえる。
一番最初に見た殺戮の映像が網膜から直接脳に送り込まれてくる。
目の前には、砂嵐が走る視界に、肉塊と化した元人間の姿。
あの色が、あの感触が、あの断末魔が、幼い私を侵食する感覚が鮮明に蘇る。
喉の奥からこみ上げてくるものを感じて、近くにあった店のトイレに駆け込む。そのまま声を抑えることもせず、吐いた。
もう吐くものがなくなっても吐いた。口の中に手を突っ込み、無理矢理吐いた。
顎から下は自分の吐瀉物でベトベト。服にも飛び散っていて、とても外を歩ける状況ではない。でも、そんなことは些細なものだった。だって、姉さんを侮辱したのが自分の罪ならば、これぐらいの罰として裁かれなければならないからだ。いや、まだ足りないだろう。
姉さんに謝らなければ。
そう決めると、私はトイレの個室を出て、洗面台で吐瀉物を洗い流す。拭くものは持っていなかったので、腕で拭ったが、腕も濡れていたので大して変わりはなかった。仕方がないのでそのまま店の外に出る。
外に出て、公園を探したが、少年とメイドの姿は見られなかった。
突発的な行動だったので、特に執着するでもなく、タクシーを呼んで家に戻ることにした。
まあ、彼らに出会えたところで、その出会ったことをなくすために殺すだけだったから、会えなくてよかったのかもしれないと、血で紅く染まった心でそう思っていた。
「冥ちゃーーん!」
屋敷に着くと、姉さんが問答無用でロケット体当たりをかましてきた。
「なッ!?」
内面の動揺のせいで、突然の自体に対処できず、私の体は姉さんの推進力によって軽く二メートルぐらい吹き飛んだ。そのまま受身もせずに地面を転がる。体が跳ねるたびに、所々傷ついていくのがわかる。その中で一際鋭い痛みが右腕に走った。どうやら尖った石で切れたらしい。
「冥ちゃん!?」
姉さんが心配して私の身を起こそうとしてくるが、私はそれを左手で制す。
「姉さん。話が……」
「話なんて後!ああもう、こんなに血が付いてるじゃない……」
姉さんは怪我していない方の手を掴み、屋敷の中へ引っ張っていく。右手から血が滴り落ちて、地面に紅い斑点が道を作っていた。
屋敷の医務室につく頃には、血はだいぶ固まって、右腕も痛まなくなっていた。
包帯で無駄にグルグル巻きにされた哀れな右腕を眺め、姉さんは深く溜め息をつく。
「ホント……冥ちゃんどうしたの?あの程度のタックルならいつもみたいに私を上から踏みつぶしても構わないんだけど」
「姉さん。そんなことしてないでしょう」
「もう。違うでしょ冥ちゃん。だから、私は冥ちゃんは目に入れても痛くないぐらい可愛いんだ、ってのを全力でアピールしたんだから」
「…………」
私が冷たい視線を送っていると知った姉さんは、気まずそうに視線を逸らす。そんなことするぐらいだったら、最初からしなければいいものを。
まあ、そんな風に思っていることを素直に言えるのが、姉さんの美徳なんだろうけど。
だから、今までも、これからも、私は姉さんの笑顔を曇らせるようなことはしたくなかった。でも、それはただの甘え。
「……姉さん」
「なに?あ、もしかしてまだ傷が痛むとか?ちょっと待って」
「姉さん」
私の真剣な態度を感じとったのか、姉さんの顔が引き締まる。まるで、これから人殺しでもするような、冷たい瞳。
でも、私は言わなければならない。人形が人形として生まれた訳を。人形は人間として生きれない訳を。
「姉さん。何故、私はここに生まれたの?」
その質問が全て。その問いだけで、あとは必要ない。
「――な」
姉さんは目を見開いて、固まっている。
その驚きは、人形の私が人間じみたことを言ったからか、それとも、質問の意味が理解できていないのか。
「お願い。姉さん答えて。何故私はここにいるの?何故私はこんなことをしてるの?」
自分を作っていた何かが、音を立てて崩れていく。ガラガラと、ゆっくりとだけど、確実に、私は足場を失っていく。
「私は、何故色々なものを殺しているの?何故人と交われないの?」
酷い事をしていると思う。だって、姉さんは私よりよっぽど人間で、殺すのに伴う苦痛は、私より辛いに決まっているんだから。
ああ、でも、私にも、止められない感情があるのだと知る事ができた。
「何故、私の手は、こんなに血濡れなの――」
ふわりと、目の前に髪が舞う。それは、私がなんかが見た事ない、舞踏のように軽やかでしなやかな動き。
体が引き寄せられる。違う、私の体に抱き付いてきたのだ。
「姉さ――」
「ごめんなさい」
「え――」
ごめんなさい。
その一言が、最後の足場を崩した。
視界が滲む。
鼻が熱くなって、鼻水が止まらない。
喉がしゃくりあげて、指先が震える。
涙は、憎いから流れた。
震えは、怒ったから現れた。
じゃあ、この、
ゴメンナサイ。
誰に言ってるかもわからない、謝罪の言葉は、いったい、どうして。
「……ごめ、……い」
知らず、言葉を紡ぐ。
「ごめん……なさい」
指向性のない言葉。意味のない繰り返し。他人はそう感じるだろう。
姉さんは、私に対しての罪を懺悔し、私は今まで犯した罪を全て改める。
そんな時間が、今までで一番二人が触れ合っていた時間だなんて、どれほどの皮肉だろう。
お互いに身動きをとらないまま、時間だけが過ぎる。不思議と苦しくはなかった。むしろ、今まで感じたことのない心地よさまで感じるぐらいだ。
泣き続けて、流れる涙も枯れ、姉さんは私の耳元で小さく囁いた。
「この家を、出ましょう」
「……うん」
頷いたものの、まだ心残りはあった。姉さんは仮にも次期頭領だし、私も決して空倉家では不必要な存在ではないからだ。でも、姉さんは笑ったままで、
「大丈夫大丈夫。私と冥ちゃんのためだもん。許してくれるって」
そんな、姉さんの根拠のない言葉が嬉しかった。
私と姉さんは翌日空倉家を脱走したのだが、それはまた話すと長いので別の話。『これ以上は作者の身が持たないし、読者様が読みにくい』と誰かが言っていた。
しかし、今は、それよりも――
「姉さん」
屋根の上で膝を抱えて丸まっている、人影に声をかけた。
夜風が寒いぐらいに吹き付けて、視界が髪によって遮られる。
「冥ちゃん……」
姉さんはおぼつかない足取りながらも、なんとか立ち上がる。足下に転がる酒瓶を見る限り、どうやら相当酔っているらしい。
「私……私、とりかえしのつかないことをしちゃったんじゃ……!」
「姉さん落ち着いて。今ならまだ坊ちゃんに謝れば減給ぐらいで……」
済むはずもない。坊ちゃんは許すだろうが、チーフを筆頭としたメイド集団に一か月ほど苛められるであろうことは目に見えている。
「……姉さん。社会は厳しいけど頑張って!」
「冥ちゃん!?さっきまで励ましていてくれていたのに何故!?」
「…………」
「今度は沈黙!?お姉ちゃん寂しい!冥ちゃんなんとか言ってよ!」
「姉さんうるさい」
「言うに事欠いてそれ!?」
あ、いや。さっきのはチーフやら山口さんとかに見つかると命の保証ができないから、と言う意味で言ったのだけど、どうやら伝わらなかったらしい。
緊張した沈黙が訪れる。私も姉さんも、ただお互いを見つめているだけ。
「やっぱり……何も、変わらないのかな」
姉さんが、自嘲気味に言う。
「私は、この屋敷に来てから、今までの日々はすごく大切なんだと思ってる。けど、大切なんだと思ってただけかもしれない。一度だけ壊そうとしたのは……興味本意と言うか……」
続ける内容はひたすらに否定。私の後ろから感じる軽い殺気を姉さんは気付いていない。
「保守的だったのは知ってた。変える必要がないのなら、能動的である必要はないから。けど、そんなに甘いものじゃなかったのかもしれない」
姉さんは、大事なことを見落としている。それは、あまりに近すぎて、姉さんの視界にも入っていない。
「願うだけで叶うなら。そうしていたかった。けれど、そうじゃないから頑張ったら、今度は根底から崩れた。皮肉よね、願いを叶えるために頑張るんじゃなくて、頑張るための口実が欲しくて願うんだから」
「でも、姉さんは頑張ってた。姉さんがいなかったらこの屋敷はとっくに……」
「でも、冥ちゃん。それはあくまで可能性の話でしょ?私がいたから偶然保てたのかもしれない。私がいなくても、保ち続けられるかもしれない」
「でも!」
「――でも、頑張った姿勢ぐらいは褒めてもらえよ」
その人は、傍観席から姿を表した。
長袖の寝間着に、ボサボサのままの頭。目を擦りながらめんどくさそうにこっちに歩いてくる姿は、昼間からは想像もつかない豹変だ。
「……坊ちゃん。体は大丈夫なんですか?」
「ああ、心配しなくて平気だ。散々眠ったから、いつもより好調だ。まあ、これからこなさなきゃいけない仕事を考えると、まだ眠っていたかったが」
ニヤリと、奥様を窺わせる表情で坊ちゃんは笑う。
「……坊ちゃん」
「よう。黒霧舞。昼間は世話になったな」
坊ちゃんは特に気にするでもなく、昼間のことを口にする。
「……怒ってないんですか?」
「いいや。怒ってるさ。ただ、それは昼間のことじゃない。今のことだ」
「そうですか。じゃあ私はその説教を聞かされる前に去りますね。一週間ぐらい有給をもらいます」
「おいおい待て。業務的な手続きは書類じゃないと認可しないって以前に言ったはずだ」
「詭弁ですね」
「ハ。以前も同じことを言ったが、経済活動ってのはそんなもんだ。いい加減礼節をわきまえろシスコンメイド」
「シスコンで何が悪いんですか。それに、そんな会話内容。ジャンキーレベルに読み返した作者ぐらいしか記憶してませんよ?」
「違いない」
以前と大差ない会話。けど、坊ちゃんは何故か怒っている。その証拠に、眼鏡を外してタバコをくわえているからだ。
「まあ、今回はちゃんと辞表とか有給許可書とかキチンと調達してきてやったがな」
坊ちゃんはポケットから何かが書かれた紙とペンを取り出して、姉さんに手渡す。姉さんはいぶかしみながらも受け取り、書類にサインした。
「了承した。これで晴れてアンタは一週間ほど自由の身だ。どこに行くなり何をするなり、好きにするといい。ただ――」
体が引き寄せられる。肩を掴まれて、強引に、体と体が密着する距離にまで近寄らされた。
「こいつは、オレが貰う」
やはりニヤリと、坊ちゃんは笑う。
「……それこそ過去の焼き増しですね。何度も言いませんでしたか?アンタみたいなヘタレに渡す冥ちゃんはないって」
「あぁ、言われたさ。けどな、今やアンタは部外者じゃないか。その書類には、一週間は屋敷から絶縁する。ってちゃんと書いてあるからな。アンタはオレとこいつの二人の甘い関係に口出し出来る権利なんざない。さぁ、行こうか。きっと甘い甘い蜜月が今夜ぐらいなら過ごせるはずさ」
坊ちゃんは私の背を押して、梯子へ向かう。その背後。
「ッの!」
姉さんの飛び蹴りが、坊ちゃんの後頭部目掛けて放たれる。
「坊ちゃん!」
坊ちゃんの体を思い切り引っ張る。姉さんの蹴りは空を切り、坊ちゃんは無事に――
「……冥さん。投げるなら、投げると言えよ。さすがの俺でも受け身ぐらいならとれる」
「あ……申し訳ありません」
「いつつ……ま、動く分だけマシか。元はと言えば、悪いのは向こうなんだし」
「……私の何が悪いんですか」
「ったく、アンタは自分の罪もわからないのか?決めた、あんまりムカつくから、一発殴る」
「ふん、言うようになりましたね坊ちゃん。でも、朝言ったばかりでしょう?私たち二人は実力が離れ過ぎてるって」
「ああ、言ったな。だが、それがどうした。実力で敵わないなら、技で戦え。それでも敵わないなら逃げろ。そんな風に教えこまれたんでね。残念ながら、ブチのめされない限り俺は逃げれない立場なのさ」
「……一つ聞ききます。どうして、坊ちゃんは私のためにそこまでしてくれるんですか?以前もそうでした。わざわざ自分の身を危険にしてまで、そこまで私に救われる価値があるんですか?」
「あるさ。だって、アンタは頑張ってるじゃないか。だったら、救われないのは嘘だ」
「――ッ」
姉さんが息を飲むのが分かる。それも当然、坊ちゃんの言ったことが本当ならば、私たちはとっくに、
「私たちは、とっくに幸せでなければならない」
「なんだそれ。今は幸せじゃない、みたいな言い方だな」
「ですね。ええ、確かに今は幸せですよ。けど、まだなんです。私は――」
「ああくそ、待たせておいてまだ勿体ぶるのか。いい加減飽きてきた」
坊ちゃんは、姉さんの言葉に割り込んで、悪態をついた。
そのまま、徒手空手で、ゆっくりと姉さんに近付いていく。
「……何してるんですか?そんなことしてたら、殴られても文句言えませんよ」
「殴られる、か。なあ、空倉舞……」
坊ちゃんは姉さんを正面に見据え、
「もう。いいんじゃないか?」
なんだか、よく意味の分からないことを口にした。
「……なんですかそれ。命乞いですか」
「だから、もういいって言ってるのに、なんでアンタはそのままなんだよ。聞きたいのはこっちだ」
二人して会話が噛み合っていない。姉さんは言葉の意味がわからなくて、坊ちゃんは何故わからないのかがわからない。
「あぁ、なるほど。こりゃ笑い話にもなりゃしないな。つまり、本当に」
自分の罪に気付いていないなんて――
坊ちゃんは俯いていた頭を上げて、少しずつ話し始める。
「なあ、なんでアンタは肩肘を張って生きてるんだ?」
「肩肘なんて張ってません。私は自分が最善であろう道を選んで、なるべく障害に当たらないようにして生きてます」
「じゃあ質問を変えよう。なんでアンタはそんなに頑張ってるんだ?」
「もちろん冥ちゃんのためです。それ以外に頑張る理由なんてありません。冥ちゃんが私の全てですから」
「それは、生かすということか?」
「はぁ?坊ちゃん頭おかしいんじゃないですか?生きているのと生きるのは違います。私は冥ちゃんに生きて欲しいんです」
「だから奔走した。だから仕事を人一倍頑張った。そう言ってるのか」
「ええ、そうです。このことは誰にも文句は言わせないし、誰にも否定させない」
「だから、そこが破綻していると、何故気付かない」
「……え?」
姉さんは目を見開いたまま固まっている。自分が正しいと信じて走ってきた道を、破綻していると言われたのだ。まともに言葉を返せるはずがない。
「妹のために奔走したのなら、それでいい。妹の幸せを願ったのなら。それは最高だ。でも、だったらどうして、アンタは妹を泣かせて、こんなところにいる」
「…………」
「それはアンタが、一般人じゃなくて、モノを殺してきたからかもしれない。でも、それは言い訳だ。だって、アンタは自分が一番誇れる事を、一番ないがしろにしてるんだから」
「……私が、なにをないがしろにしてるって言うんですか」
「簡単な話だ。アンタは、たった一人の妹のために、全てを捨てた。それしか知らなかったはずの殺しまで捨てた。それだけで充分尊敬に値するのに、アンタはまだ完璧であろうと、せめて妹の前ではそう在ろうだなんて、強欲にも思ってしまった」
そこが罪。つまり、
「ねえ、舞さん。君は何も知らない、少しだけ腕っ節が強い『ただの一般人』なんだから、完璧で在ろうなんて考えなくていいんだよ。ただ、普通に同じ職場で妹と働いて、普通にドジをして笑いあう。そして時々陸くんも加えてあげて、姉弟仲良くすればいいんだ。完璧である必要なんて、どこにもない」
「――ぁ」
「そもそも、妹を救うために抜け出したなら、その救われた妹は、何もしなくていいはずがない。お互いに支えあって、生きていく。第一に、それが家族の在るべき姿だ。無償の愛に、無条件の信頼。まあ、僕が言えた事じゃないかな」
……スゴい。あの姉さんを完全に丸め込んでしまった。時々坊ちゃんは恐ろしくなるぐらい非情になれるから不思議だ。
私も、見ているだけではダメな気がしてきた。せめて、何か一言言わなければ。
「冥さん。行ってあげなよ」
坊ちゃんは、いつもの笑顔に戻っている。坊ちゃんの近くまで行き、一礼してから姉さんの所へ行こうとすると、坊ちゃんに止められた。
「ゴメン。一つだけ忘れてた。悪いんだけど、全部終わったら舞さんにこれ渡しておいてくれないかな?」
「……?はい。わかりました」
坊ちゃんが手に持っていたのは、小さな紙の切れっ端だった。私がそれを受け取ると、坊ちゃんは満足そうに帰っていった。
再び私は姉さんを見据える。呆けてしまったのではないかと心配してしまうほど、姉さんの瞳には生気が感じられない。近付くと、少し痛いぐらいの力で姉さんが抱き付いてきた。触れている指先が、微かに震えている。
「姉さん。ごめんなさい。私、自分のことしか考えてなかった。姉さんは気丈に振る舞って、私はただ側にいればいいんだと思ってた」
「冥ちゃんが謝る必要なんてない!アイツが言ってた事なんて気にしなくていいの!私は強く在るから――」
「姉さん」
「もう、いいの」
「――冥、ちゃん?」
「もう、理解されているのに強く振る舞うなんてしなくていい。それはきっと、すごく辛いことだから」
「め、いちゃん」
姉さんの声が聞き取りにくい。私の胸に顔を埋めているからか、それとも、声を発するのも困難な程まで、追い詰められていたのか。
「それでも姉さんが強く在ろうとするなら、私は止めない。でも、私は姉さんの辛さも理解して接する。けど、」
姉さんは、時々小さく頷きながら、話を聞いてくれている。だから、最後まで、私も言わなければならない。
「せめて、今ぐらいは泣いてもいいんだと思う。せめて、今ぐらいは休んでも、誰も何も言わない」
「ぅ……」
せめて、
「うああぁぁあぁあぁああ!!!」
せめて、今ぐらい。
せめて、この瞬間ぐらいは、姉さんに、一人の少女として生きていて欲しかった。
姉さんは、泣き続けている。人が泣いているというのに、ここまで気持ちが安らいだのは、初めての事だった――
「姉さん。落ち着いた?」
「う、ん」
まったく、もう少しうまく嘘がつけないものか。鼻水をすすって、しゃっくりを続けているのを見て、誰が大丈夫と思うだろう。
「……私、バカだったのかな」
姉さんはおずおずと喋り出した。
「バカだった」
それを、一言で切り伏せた私はあまりに残酷だろうか。
「……そうか。そうよね。やっぱり私バカだったんだ」
「でも、姉さんは私のために頑張ってくれてた。だから、今度は私が頑張らなきゃ」
私が自信マンマンにそう言うと、姉さんは悪戯っぽく笑う。
「冥ちゃんに私の代わりが勤まるかなー?何気にこれでも忙しい役職なんだから」
「でも姉さん。今日一日は何事もなく回ってた」
「うぐ……でも本当にハードワークなんだから」
隣りからうるさい姉さんの小さな抗議を黙殺して、空を見上げる。
ああ、なんて晴れやかな闇空。
遮光するものは皆無。月光は放たれるままに私たちを光で濡らす。
「冥ちゃん?」
いつの間にか、私は立ち上がっていた。
屋根を蹴り、軽く跳躍する。両足を水平になるまで上げ、着地と同時に片足で回転。うん、初めてで即興にしては悪くない。
「待っててね舞ちゃん。いつか、舞ちゃんの手なんか必要じゃないくらいまで成長して見返してやるんだから」
バレエもどきをしながら、そんなことを言ったら、姉さんは再び泣き出した。
けど、今度の涙は、悲しんでいるんではなくて、嬉しさのための涙だって、なんとなくだけど理解できた。
空には、先ほどまで見えなかった星たちが輝いている。キラリキラリと、幼稚な表現だけど、まるで、私たちを祝っているような、そんな気分にさせてくれた。
寒空の下、私は踊り続ける。不出来な舞踏に、不出来な役者。けど、それも不出来な観客ならば、それは、楽しめるものに違いはないから――
「はい。姉さん」
翌日。みっちりとチーフから説教を受けた姉さんに、昨日坊ちゃんから渡された紙片を渡した。姉さんは心当たりがないのか、目をパチクリしている。
開かれるのがためらわれるが、姉さんは勇気をふり絞り、ゆっくりと開いていく。そこには、こう書いてあった。
『舞さん冥さんへ
もう、グダグタと内容を書くのは面倒なので、こちらの用件だけ伝えたいと思います。
この町から南に行った所に、有名な温泉宿があります。そこの予約を一か月程取っているので、自分たちの都合のいいときに行ってきてください。つーか行ってこい。
効能は、まあ色々とありますが、舞さんがむせび泣くような効能もありましたんで、楽しんできてください。有給にはカウントしませんのでご安心を。
最後になりますが、姉妹共々水入らずなんて久しぶりでしょうから、遠慮はナシです。
文句は学校から帰ってから聞きます。あ、予約は今日から一か月間なので、今すぐ旅立たれても大丈夫です。
それでは、良い旅を
』
「これ。ドッキリじゃないよね?」
「姉さん。いくらなんでもそれはあんまりじゃ?」
「そ、そうよね!あの人にもこんな甲斐性があったなんて、驚きを通り越して飽きれちゃう!」
姉さんが何やら意味がわからないことを口走っているが、きにしない方向で行こう。
それに、さっきの手紙には坊ちゃんの遊び心が入っていると、姉さんは気付いていない。
最後の一行。ただの空欄ではなかったのだ。偶然入り込んだ光のお陰で気付けたのだが、それがなかったら、真相解明は一か月後だった。
最後の行には、
『PS.治療費は舞さんの給金から引きました』
と、物凄く小さな字で、光を透かさないと見えないように書いてあったのだ。
まあ、姉さんの不幸は今に始まった事じゃないし、面白そうだから放っておこう。
「冥ちゃーん!早くチーフに言って温泉に行こう!」
「……うん。そうね」
姉さんは勢いよく扉をノックする。不機嫌な声が中から聞こえてくるが、姉さんにはあまり効果がないらしい。
温泉なんて、どれくらいぶりだろう。せめてあと一か月は、姉さんも私も気を張らないで生活するように心掛けるとしよう――
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