虫
タイトルの通り、虫に関する話です。苦手な方はご注意ください。
わたくしの父には、虫が付いておりました。いえ、止まっていたのではありません。付き従っていたのです。
それが父の常でしたから、世間一般でも父親というのはそういう存在なのだと思っておりました。
……わたくしですか? わたくしには付いておりませんよ。わたくしにも、母にも虫はおりませんでした。三人兄弟の、兄にも弟にも虫はおりませんでした。そう、父だけなのです。
父方の祖父はわたくしが生まれる前に他界しておりましたから、詳しいことはわかりません。けれど、仏壇や墓所を拝む時には虫もそわそわしていたようですから、恐らくそういうことなのでしょう。
虫は特に何をするでもなく、常に父の肩や背に乗っておりました。本当に何もしないのです。置物のようにちょこんと乗っかって、こちらをじっと見つめているだけなのです。
父と風呂に入った時には珍しく虫が父から離れましてね。水がかからない位置に避けましたので、あ、水が嫌いなんだなと知ったのです。
戯れで虫に水をかけようとしましたら、父が酷く怒ったのですよ。普段は温厚で文句のひとつも言わないような人でしたから、よく覚えています。
小学生になると、父兄参観というのがありますでしょう。そこで初めて、よそのお父さんには虫が付いていないと知ったのです。
それはそれは驚きまして、その晩に母に聞いたのです。
母はわたくしが話すのを聞いて目を丸くしましてね。なんと、母は虫を見たことがないと言うのですよ。
あんなに大きなものを見逃すはずがないと思いまして――ああ、虫の大きさですか? 父の首を一回りするほどの巨大なイモムシでございました。太さも片手では足りないくらいでして――本当に見たことがないのかと問いただしました。
そうしていると父が来まして、実は自分も虫を見たことがないのだと告白したのです。
父は虫がいることは感覚で気付いていたようですが、姿は知らないというのです。
母さんには内緒にしていたんだよ、と父は言っておりました。母が虫嫌いでして、そこに配慮していたのだと言うんです。
思えば、父と母が疎遠になりはじめたのは、あの晩が最初だったのかもしれません。
とにかく、その巨大な虫はわたくしにしか見えませんでした。兄も弟もそんなものは知らないの一点張りです。
同級生にも同じものが見える子はおらず、わたくしは奇人扱いを受けました。
結婚をして、実家を離れた後も虫は父に寄り添っておりました。
年に何度か実家に帰ったのですが、その時も虫はおりましたね。大きさも色も何も変わりません。虫はそのままの姿で、父だけが老いの色を見せるのが不思議でなりませんでした。
ありがたいことに、わたくしも子供を授かりました。見える能力というのは、子供にも遺伝するという噂がありますでしょう? なので、子供が虫に怯えはしないかと心配をしたのです。
ところが、子供にも虫は見えませんでした。
一族の中でただ一人、わたくしだけがその姿を見られるのです。運命なのか必然なのかはわかりませんが、恐ろしいことに変わりはありませんでした。
一昨年のことです。父が他界しました。
棺に納められた父の周りを、悲しそうに虫が這いまわっていたのです。棺を食い破ろうと口を動かしていたようですが、わずかに木屑がこぼれただけであとは諦めたようでした。
喪主を務めたのは兄でして、棺に花を添える列は兄が先頭でした。父と最後の別れをする兄の肩に、虫が這いあがったのです。
兄はしばらく虫が乗った方の肩を気にしていましたが、正直に伝えても気味悪がられるだけでしょうから、わたくしは何も言いませんでした。
兄ですか? 虫が付いてから半年で亡くなりました。冬の海に落ちたのだそうです。
独り身で気ままな暮らしをしていたもので、兄が行方不明になったことに周りの者が気が付いたのはしばらくしてからでした。そこから目撃情報を探して、捜索となりましたので発見されたのは半月後ですよ。
その時には、虫の姿はどこにもありませんでした。
ああ、これで虫ともお別れできたんだとその時は安堵しましたね。水が嫌いだというのも覚えていましたから、二度と目にしないで済むと思ったのです。
ところが、兄の葬式の時、遠方から訪れた弟の肩にそれはおりました。
久しぶりに目にした虫は、心なしか、皮が張っているように見えました。今にも破れそうなほど、みっちりと詰まった革袋のような体をしていたのです。
戦慄で動けなくなっているわたくしを尻目に、弟はそそくさと焼香を済ませて帰ってゆきました。
兄のことがあり心配ではありましたが、遠方ということで顔を合わせられずにおりました。それが、先日たまたま弟の住まいの近くまで行く用事ができたのですよ。
これを逃しては会えなくなるかもしれないと思いましてね。縁起でもない話ですが、わたくしは本気でしたから、ついでで弟の家へ顔を出したのです。
弟は笑顔でわたくしを出迎えてくれました。そこに、虫の姿はないのです。
おかしいと思いながらお茶をいただき、世間話などしておりました。すると、弟の娘――わたくしの姪ですね――が袖を引っ張るのです。
おばちゃんに見せたいものがあるって。
弟夫婦は首をかしげておりましたが、わたくしは姪の部屋に連れられて行きました。
整頓された姪の部屋には、小さな箱がふたつありました。
その片方からはカサカサと音が漏れ聞こえてきましたので、生き物が入っているのだと知れました。
姪はまず、静かな方の箱を開けて見せてくれました。そこには、何かの抜け殻が入っておりました。蛇にしては太く短いそれの柄には、見覚えがありました。
お父さんに付いていた虫を突っついたら、割れて中身が出てしまったと言うんですね。確かに、背中にはぱっくりと割れた跡がありました。
姪にも同じものが見えていたことはも気になりましたが、それ以上に虫が弾けたことの方がわたくしの心を占めておりました。
しかし、脱皮したにしては裂け目が小さいのです。中身はどうなったのかと尋ねましたら、音のする箱の方を指すんですね。
姪が箱を開けると、小指の爪ほどの小さな虫が、小箱の中にみっちりと詰まっておりました。もぞもぞと動いていた虫は、光に驚いたのか動きを止めました。次の瞬間、数百とも数千とも知れない虫たちが一斉にわたくしを見たのです。
目が合ったのは、ほんの一秒にも満たないでしょう。けれど、確かに目が合ったのは感じました。
その後どうしたのか記憶が定かではないのですが、気が付くとわたくしは自宅におりました。電話で聞いたところ、悲鳴を上げ、箱を跳ね飛ばして挨拶もそこそこに逃げ帰っていたようです。
電話を切る間際に、姪が電話口に出ました。そして、虫が逃げたというんです。わたくしは平謝りするばかりでした。あれだけの数ですから、全て捕まえるのはさぞかし大変だろうと。
すると、姪はそうでもないと答えるんですね。虫はみんなお父さんにくっ付いているから、探す必要はないと言うんです。
ただ、摘まもうとすると威嚇されるようで、姪は弟に近づけなくなったと零しておりました。
その後ですか? わかりません。なにせ、昨日の出来事ですから。
……そういえば、姪が湯船に虫の死骸が幾つか浮いていて気持ち悪かったとも話していたような気もいたしますが――。