四年の思い(2)
勇者レティシア・ヴァン・メイヴィス。
わずか十歳にして勇者としての神託を授かり、剣聖、聖女、大賢者という名高き三名の仲間と共に、魔王討伐へと旅立つ。
その力は正しく勇者と呼ばれるに相応しいもので、魔力も絶大なものを誇っていた。
特に剣術の才に優れ、剣聖をも凌ぐというその剣技は彼女に『剣の神姫』の異名を与えた。
彼女はその旅の道中に幾多の戦いを経て、幾つもの国や街を救い、ついには魔王の討伐を果たす。
その事実に大陸中に住まう者たちが、所属する国々や種族に関係なく歓喜した。
様々な国や種族がその偉大なる勇者について調査を行った。
また、いまだ貴族や金持ち御用達ではあったが、各国の新聞社も彼女を記事にしようと取材を行い――。
そして、記事と同時に描かれたレティシアの絵姿に、多くのものが驚きとともに魅了されてしまった。
とても勇者として圧倒的な力を持つ人物には見えない、わずか十四歳の少女。
しかし、その類希なるその容姿とにじみ出る気品。
レティシアと直接対峙した者たちは、口々に彼女との格の違いを感じたと周囲の者に語った。
彼女の名声は大陸中に響き渡り、時には神のように崇拝され、正に生きる伝説となりつつあった。
その『神に限りなく近づきし者』ともいえる勇者レティシアは――
「レティ……そこに座ろうか」
「えっと、その……ほら、お兄ちゃんに久しぶりに会えたから、つい嬉しくなっちゃって」
「いいから座れ」
「……はい」
額に青筋を立ててベッドに腰掛けているウィンの前で、今しょんぼりと正座をしていた。
後頭部で結わえている金色の髪も、心なしか力なく垂れているように感じられた。
「おい、この子は昨日の子だよな? って、昨日は気づかなかったけど、もしかしてレティシア様!? 何で俺らの部屋に? というか、何で正座!?」
二人を見て慌てふためいているのは同室のロックだ。
腕組みをしているウィンと正座をしているレティシアを見比べて、部屋の中を右往左往している。
「えっと、紅茶でも淹れた方がいいのか?」
「落ち着けロック。どうせすぐに朝食だ」
寮の食堂からお茶を取って来ようと、寝間着のまま飛び出そうとするロックをさすがに止めるウィン。
「えっと、ロックさん? どうぞ、お構いなく」
正座したままのレティシアもまた、困ったような笑みを浮かべてロックにぺこりと頭を下げた。
「あーっ! もう、何でレティシア様が俺らの部屋にいるんだよ! 何で正座してるんだよ! もう意味わかんねぇ。説明しろよ!」
頭を抱え絶叫するロック。
「あれ? ロックはレティとは昨日が初対面だったよね? レティのことは紹介したかな?」
今にも暴れ出しそうなロックに対して、冷静に突っ込むウィン。
それを見て、ロックの表情はもう泣き出しそうだ。
「新聞を読んだことがある人間なら、レティシア様の事を知らないわけがないだろ!」
「まあ、落ち着けって」
「というか、何でレティシア様が正座することになってるんだ!? どういうことなのか説明しろよ!」
胸倉を掴みそうな勢いで迫るロックに、ウィンは仰け反りながらもレティシアと顔を見合わせる。
「それは、ちょっとこっち来て」
ベッドから立ち上がると、ウィンはロックを部屋の窓辺へと誘う。
ロックは正座したままのレティシアを気にしつつも、ウィンの横に立ってみる。
「ああっと? 何これ?」
ロックが窓からのぞき見た外――そこにはまるで台風か、竜巻でも通り過ぎたかのような、無残なまでに葉が吹き散らされ、枝が丸裸になった木々が立ち並んでいた。
「うん、いつものように朝起きて剣の訓練してたんだけど――」
ウィンは呆然として振り向いたロックに、今朝起きた事の顛末を話し始めた。
「お兄ちゃん!」
「な……レ、レティ!?」
凄まじい剣気。
建物の陰から一気に間合いを詰めてきたのは、ウィンが今の今までイメージしていたその本人。
レティシアが横薙ぎに剣を振るった。
きぃん!
「ぐっ……」
剣でその刃を受け止めただけで、体ごと持って行かれそうになる。
レティシアの剣が生み出した風圧が、どうにかこらえようとするウィンの肉体を衝撃となって打ち据えていく。
ウィンは細身であるが、幼い頃より鍛えてきたため肉体は引き締まっており、見た目以上に体重がある。
そのウィンの身体を斬撃の威力で飛ばしかねないその膂力、小柄なレティシアのあの細い腕のどこにそんな力があるというのか。
四肢を踏ん張り、どうにかレティシアの剣を受け流す。
そこから数合ほど打ち合った。
レティシアが目まぐるしく繰り出してくる、突きや薙ぎをどうにか受け流しながら、反撃の隙を伺うものの、一撃一撃が重く受け流すので精一杯。
身体を持っていかれないように耐えるだけで、とても反撃に移ることができない。
「最後に見たときより、また一段と強くなったな!」
「お兄ちゃんだって、私の剣をここまで捌ける人ってなかなかいないよ?」
楽しげに笑みを浮かべて剣を振るうレティシア。
その表情には余裕の色が浮かんでいた。
まだまだ彼女は本気を出していないのだ。
事実、一撃一撃毎にレティシアの剣速は速くなっている。
まるで上限が無いかのように――。
その剣速に必死についていきながらも、ウィンは機会を伺い続けた。
レティシアの連撃を捌く作業は、とてつもなく精神を削り続ける。
だが、今この一瞬でも気を抜いてしまえば、あっというまに叩きのめされてしまう。
だから、レティシアが一際深く踏み込み、強烈な斬撃を打ち込む瞬間を狙って――。
きぃん!
その衝撃を利用して、ウィンは大きくレティシアから飛び離れ距離を取った。
息を整えつつ、レティシアを睨みつける。
「レティ」
「なに? お兄ちゃん」
ようやく作り出すことができたその好機――。
ウィンは両手で構えていた剣をゆっくりと下ろすと、そのままレティシアに近寄っていく。
レティシアも剣を両手で構えて、ウィンの出方を伺う。
「えっとな」
「うん?」
ウィンは左手を額に添え少し俯くと、周囲をゆっくりと見回した。
「おまえ、これどうするのさ?」
「あっ……」
ウィンの視線が示した先、そこは見事なまでにレティシアの振るった剣の風圧で葉っぱが散らされ、無残にも丸裸になった木々が立ち並び――
ウィンとレティシアはそれからの一時間ほど、剣を箒に持ち替えて掃除をする羽目になったのだった。
「とまあ、これが今朝の顛末だ」
「……ああ、まあ、何と言えばいいのか」
何とも言えない表情を作って、いまだ正座したままのレティシアを見るロック。
元は宮殿の一部だったこの寮には、様々な防御魔法が掛けられている。
また、学校として使用されることになって防音魔法も重ねがけされていた。
宮殿だった頃とは異なり、貴族の子女が住まうようになったため、ウィン程の早朝に起きて特訓するものはそうはいなかったが、それでも訓練による騒音のため、苦情が度々学校の上層部に寄せられたからである。
だから、寮には被害は出ていないし多くの者はこの事態を引き起こしたのが誰なのか知れ渡ることはなかったのだが、さすがに木々にはその恩恵はなかった。
「全く……」
ウィンがレティシアの前に立ち腕組みをする。
そんなウィンを上目遣いで見るレティシアは、年相応の少女に見えた。
そしてウィンが口を開く。
「で、何でいきなり斬りかかってきたんだ?」
「しばらくぶりに会えたんだよ? お兄ちゃんに私の力を見てもらいたくて」
「だからって、いきなり危ないことをするんじゃない!」
「うぐ」
ウィンの鋭い叱責に縮こまるレティシア。
「確かに腕は随分と上がってるけど、全然周囲が見えてないじゃないか」
そこからウィンは延々と説教を開始――それはロックが「なあ、もうその辺にしてあげろよ」と、割り込んでくるまでの半時も続いた。
うなだれて正座をしたままのレティシアが、そのロックの言葉に反応してウィンを見上げる。
「な、レティシア様も反省してるって」
ロックの言葉にブンブンと首を縦に振るレティシア。
涙目になっているその表情からは、最早勇者としての威厳は完全に失われていた。
「まあ、そろそろ朝食の時間だし、ロックがそう言うなら」
「うん、お腹が空いたね」
やっと説教が終わりそうな気配が漂いほっとしたのか、レティシアも空腹を思い出す。
何だかんだで剣の打ち合いをしたのだ。
勇者とはいえどお腹は空く。
正座のせいで足が痺れてしまい、レティシアはよろよろとしながら立ち上がる。
「ほら」
「ん、ありがと」
手を貸すウィンにレティシアが嬉しそうに笑顔を浮かべる。
「ところでさ」
ロックがそんな二人から少し下がったところから声を掛けた。
「何でウィンはレティシア様とそんなに親しそうなんだ?」
「何でって、幼馴染だから」
まだよろめいているレティシアを支えながら答える。
「四年前にレティが遠くへ旅立つまで、毎日一緒にいたからな。俺の大事な親友だったんだ」
「親友……」
一瞬、レティシアの表情が曇ったが、その小さな呟きはウィンとロックの二人には聞こえていない。
「もう会えないと思っていたけど、まさか出戻ってくるとは思わなかったよ」
「出戻る?」
魔王を討伐して帰ってきて出戻るはおかしいんじゃないか?
ロックがそう突っ込もうと口を開きかけ――。
「まあ、貴族のお姫様だとは思ってたけど、十歳で嫁いで行くとは思わなかったよ。だけど、レティ。嫁ぎ先でもさっきみたいに剣を振り回してたんだろう? あっちでいい剣の先生に巡り合えたみたいだけど、そんなだから故郷に帰されるんだぞ?」
ウィンは基本、学業が終わると学費を稼ぐために仕事をしているか訓練をしている。
そして学内では、平民である彼が親しくしている人物はロックを含め、数人しかいない。
そのため、ウィンは知らなかった。
さすがに、魔王が勇者によって討伐されたことは知っていても、その勇者の名前までは聞くことがなかった。
ましてや、金持ち御用達の新聞もまた見る機会がないので(ロックは長期休暇で実家に戻った際に新聞を読んでいた)、当然のことながら勇者の絵姿だって見ることはない。
レティシアとロックは絶句。
レティシアはまさか自分が旅に出たのが、嫁いで行ったのだと誤解されていたことに。
ロックは、そのあまりにものウィンの情報弱者ぶりに。
そして先程までのレティシアへのウィンの態度を思いだし、ロックはこう思った。
――知らないということは、時として無敵だなぁ。
とはいえ、レティシアが勇者だということを知ったとしても、恐らくはウィンの態度は変わらなかっただろうとも思った。