初出仕
「うん、やっぱり凄いなぁ……」
ウィンは、小さくつぶやいた。
以前、コーネリアから招待されて訪れたことがあったが、改めて見てもその巨大な建物に圧倒される。
レムルシル帝国の宮殿。
皇帝陛下が住まう帝国の中枢、その正門だ。
正門前には広大な広場が広がり、そこから貴族街へと続いている。
貴族街の外側は商人を始めとした富裕層や騎士の邸宅が立ち並び、一般市民には近寄りがたい場所でもあった。
ウィンも手紙の配達の仕事などで、貴族街へは何度か足を運んではいたが、正門前まで足を運んだことは数回程度である。
カラン、カラーン。
「あ、すみません」
背後から響いた鐘の音に、ウィンはハッと我に返ると慌てて道の端へと避けた。
鐘を鳴らした馬車がウィンを追い越して門の中へと入っていく。
ウィンは門をくぐり抜けていく馬車を見送りながら、見上げ続けて痛くなった首筋をさすった。
(大丈夫だ。何も緊張することはないはず)
グッと胸の前に右手を小さく握り、小さく「よし!」と気合を入れた。
そして、門の中へと一歩を踏みだそうとして――。
(とはいえ、やっぱり入りにくいなぁ。慣れないといけないんだろうけどなぁ)
自身が望んだとはいえ、この門から先は確実にウィンにとってこれまで考えたことのない世界が広がっているはずだった。
純血種の平民であるウィンには、敷居が高く感じられた。
一歩踏みだそうか否かまごまごしているウィンの横を、次々と馬車が抜いていった。
金ピカに輝く飾りが施され、家紋か何かなのか、立派な紋章や旗が設置されたとてつもなく巨大な馬車ばかりだ。
ウィンが街中でよく見かける行商人たちの駆る荷馬車や、街道を走る乗合馬車とは雲泥の差である。
初めて目にした時は、あんなにキラキラ光って眩しくないのかなと思いながら眺めていたものだ。
しかし、これから向かう先にはそういう馬車に乗るような人物ばかりの世界である。
(心細いけどいずれは慣れないと。それにここへいつまでもいるわけにも行かないし……)
ウィンは意を決して中へと歩を進めた。
そして数歩進んだところで、再び足を止めることになった。
(前はレティと一緒に来たから迷わずにすんだけど……)
門からまっすぐに常緑樹が延々と生え並んで伸びる並木道。
その先には勢い良く水を噴き上げている噴水を中心とした広場が見えた。
通りには宮殿に使えている者たちなのだろうか、老若男女問わず多くの人々が広場の方へ向かって歩いている。
どうやら、並木道を歩いている彼らはウィンと同様、馬車ではなく歩いて宮殿へと出仕してきたようだ。
自分以外にも徒歩で出仕している者がいたことにホッとした。
これからここに通う上で、周囲が皆あんな馬車に乗るような人々ばかりなのかと思ったのだ。
宮殿へ出仕しているもの全てが高位貴族ばかりではないことを承知していたが、ただ話に聞いていただけでは不安を払拭できない。
実際に目で見てウィンはようやく落ち着くことができた。
春を迎えて通りの端に植えられた木々の枝には、瑞々しい新芽が芽吹き、そこかしこで花が咲き乱れ、小鳥達は春の訪れを喜んで囀っていた。
優しい風がウィンの頬を撫でていく。
ウィンは、しばし目を閉じて小鳥たちの奏でる歌声に耳を傾けた。
宮殿では、鳥の声も違って聞こえるのかと思ったが、春の訪れを喜ぶ鳥の囀りは、宮殿の外でも中でも変わりは無いらしい。
並木の向こう側は森が広がっているようだ。
いや、間違いなく人の手が入っているだろうから人工林といったほうが正しいが、時折小さな横道が現れて、木々の合間から見え隠れしている建物へと続いているようだった。
ウィンはいちいち建物が見えると足を止めては、「へー」「ほぉ」と、小さく感嘆の溜息を吐きながら歩いていた。
宮殿へと訪れるのは二度目であったが、前はレティシアと一緒とはいえ周囲を観察している余裕はなかった。
広場を抜けて真っ直ぐに進み、宮殿へと続く並木道を歩いて行く。
(造りが騎士学校に似てるな。建物の配置とか)
やがて、再び城壁が見えてきた。
正門よりも一回り小さな門がある。
「止まりなさい。ここから先は武器の携帯は許可あるもののみ許される。台帳に所属と名前を記入してくれ」
門の横にある小さな詰め所まで歩みを進めたウィンは、忙しそうに次々と訪れる人々を捌いていた近衛騎士の一人から声をかけられた。
「わかりました」
「ウィン・バードと。ほう!? 君があの例の……」
その近衛騎士は台帳に目を落とすと目を丸くしてウィンを見た。
「話は聞いているぞ。武器の携帯も許可が降りている。通ってよし」
「ありがとうございます」
近衛騎士に一礼すると、ウィンはおっかなびっくり門の中へと入って行く。
その後姿を詰め所にいた数人の近衛騎士たちが顔をしかめて見送っていることにウィンは気が付かなかった。
(あれが、勇者の師匠――コーネリア様の従士となった男か)
(未婚の皇女に若い男を、それもどこの骨ともわからぬ輩を近づけるとは、アルフレッド様も何を考えていらっしゃるのか。何か間違いでもあったらどうされるおつもりだ)
本来であれば、由緒正しき血統である近衛騎士の中から選ばれるべき、皇女殿下の親衛隊従士の地位。
去っていくウィンの背を嫉妬心と興味の入り交ざった視線が見送っていた。
「お久しぶりでございます。ウィン・バード様」
宮殿へ入ってすぐ、ウィンは声をかけられた。
「あっ、以前に案内をして頂きました……」
「コーネリア皇女殿下の侍女を務めています、メアリと申します。お互い皇女殿下へお仕えする身。どうぞよろしくお願い致します」
メアリと名乗った侍女はウィンの前へ立って歩き出す。
ウィンよりも二つ三つ歳上くらいだろうか。
侍女とはいえ気品の漂う整った顔立ちから、どこか高貴な家柄の娘が奉公しているのかもしれない。
柱の一本から天井や壁に至るまで、まるでひとつの作品のごとく精緻で華麗な装飾が施された宮殿内の廊下を二人は歩く。
「そういえば……親衛隊従士の制服は支給されていると思っていましたが、どうして学生服をお召しになられているのですか?」
「えっと、自分はまだ学生の身分なので……それに何ていうか、頂いた制服を見たら、自分には身分不相応な気分が強くて」
「ここ宮殿の奥、後宮へはごく一部の者しか足を踏み入れることが許されない場所なのです。服装は身分も表していますので、必ず着用するようにしてください」
「わかりました」
「慣れることも必要ですよ。最初は着慣れないかもしれませんけど、徐々に馴染んでくるものです」
「そういうものなんでしょうか?」
「そういうものです」
いつの間にか並んで歩きながら、メアリは微笑んだ。
「少しでも早く着慣れていただけないと、いざ皇女殿下の公務へ同行される際に困ります」
「えっと、メアリさんとお呼びしてよろしいんでしょうか? 自分も殿下の公務に同行することがあるんですか?」
「当然です。親衛隊従士の任務は皇女殿下の護衛ですから。とはいえ、皇族の護衛を担当する近衛騎士の方々もいますし、滅多なことはありません。ただ、近衛騎士の方々と違うことは皇帝陛下と皇女殿下以外にあなたに命令を下すことができないということかしら」
「いま一つ、よくわからないのですが?」
「近衛騎士へは、皇族方であれば命令することができますが、ウィン様に命令できるのは皇帝陛下と皇女殿下のお二方だけなのですよ」
苦笑しながら、メアリは「こちらへ」とウィンを宮殿の奥にある部屋の前で立ち止まった。
「こちらがあなたに与えられることになる部屋です。正確にはコーネリア皇女殿下の親衛隊従士詰め所ですね」
「後宮内に詰め所があるのですか!?」
「なので、きちんと制服を着て欲しいのですわ」
ウィンは自身の格好を見下ろした。
騎士学校の制服は式典にも着て出席できるしっかりとしたものだが、それだけに高価な服である。
経済的に余裕のないウィンの制服はかなりくたびれたものだ。
確かにこれでは宮殿内で、それも皇女殿下の側にお仕えする者としてはマズイかもしれない。
部屋の中には会議に使用できるような木製の大きな机と立派な椅子が何脚かあった。
まだあまり書籍が置かれていない書棚もある。
「今はまだ人員も少ないですし部屋の中も閑散としていますが、いずれ人員が配置されれば内装も充実するかと」
「想像していたのと少し違っていました。自分は宮殿外から出仕してくるものかと……」
「普段はそれでもよろしいのですが……」
ウィンが室内奥の扉を開ける。
そこには寝台が四つあった。
「状況によっては、こちらに泊まりこむこともできるようになっています。」
(うわぁ、くつろげ無さそう……)
詰め所とはいえ、さすが宮殿内の一室というところか。
貴族の子弟が寝起きする騎士学校の寮よりも、広い寝室であった。
「コーネリア殿下はいまご不在ですので、他の場所もご案内しましょう」
ウィンがあまりの部屋の広さに圧倒されている間に、一度退室したメアリは戻ってくるとウィンへ言った。
「鍛錬できるような場所はあるのでしょうか?」
「もちろん。近衛騎士も鍛錬していますので、こちらへ――」
メアリに連れられて詰め所から再び廊下へと出た。
後宮を出て、長い廊下を進み幾つか角を曲がると、メアリは窓の一つにウィンを案内する。
窓の外には、二人がいる場所から少し離れたすり鉢状になっている場所で、何人かが武器を振っているのが見えた。
「ああして鍛錬されています。他にも幾つか鍛錬できる場所もございます。地下では危険な魔法を扱っても大丈夫な場所もございますよ」
「迷子になりそうです……」
力なく呟くウィンにメアリは苦笑した。
「そうですね。覚えていただくしかありませんね」
「そうですね、努力しま――」
「ちょっと、そこの君!」
案内してくれたメアリにお礼を言おうとしたウィンへ、一人の青年が声をかけてきた。
歳頃は二十代半ばくらいでメアリよりも少し背が高い。
明るい茶色の頭髪に茶色の瞳をした、まだどこかあどけなさを残す青年だった。
「貴族じゃなさそうだが、宮殿の奥にまで入ってこられるということは騎士の家系のものか? ちょうどいい。ボクの従者が逸れてしまって難儀していたところなんだ」
青年の足元にはパンパンに膨れ上がった大きな革の鞄が置かれていた。
「見てくれ。この広大にして壮麗な宮殿を。さすがは皇帝陛下がお住いになられている場所だ。だが、この広大さが今のボクには少々マズイ状態を引き起こしているんだ」
「はぁ」
青年は、言葉に合わせて、いちいち大仰に全身で指し示す。
「ボクはこの春から宮廷魔導師として任官するのだが、部屋まで重い荷物を運ぶのに疲れていたところだ。見ての通り、ボクは学級の徒だからね。力仕事には慣れていない。そこで君の従僕を貸していただきたい」
「従僕……え!? 従僕って、ええ!?」
青年の指がウィンを指していた。
指差されたウィンは目を白黒させ、それからメアリと顔を見合わせる。
コーネリアの侍女であるメアリと一緒にいたことで、彼女の従僕と勘違いしてしまったようだ。
「こちらの方は皇女殿下の従士で、いくら貴族の方であっても他の方の命令は……」
「いやぁ、君が通りかかってくれて助かったよ。さすがに初日から遅刻はマズイだろうからね」
((うわぁ聞いてない))
「というわけで、ボクの荷物を運んでくれたまえ」
「ですから……」
「うんうん、わかってるよ」
青年は任せろと言うように、右手を開いてメアリの顔の前に突き出しながら何度も頷いた。
「もちろん、ただとは言わないさ。自己紹介が遅れたね。ボクの名前はレイモンド・ヴァン・ホフマイン。こう見えてもこのボクの家は、あのクライフドル侯爵家に連なる子爵の家柄だ。ボクと親しくなっていれば、とっても有利になるよ。君はとっても綺麗だし」
レイモンドはメアリの手を取ると言った。
クライフドルフ侯爵家といえば大封の領主の家柄なのだ。
その家柄につながる子爵家とあれば、有力な貴族であることは間違いない。
手を取られたメアリが微かに顔をしかめる。
「わかりました。ホフマイン子爵公子閣下。お荷物をお運びいたします」
ウィンは肩をすくめると、レイモンドの鞄を持ち上げた。
確かにかなりの重さがある。
ほっそりとしてあまり力の無さそうなレイモンドには、なかなか辛いものがあるだろう。
「え、ウィン様」
「構いません。コーネリア殿下もまだお戻りでは無さそうですし、お荷物をお運びしましたらすぐに戻ります」
「丁重に扱うように。中の物を盗ろうと思うな? 高貴でない者は手癖が悪いからな」
「ホフマイン子爵公子閣下、それは少しお口が過ぎるかと。この宮殿内でそのような不埒を働くような人物は存在しません!」
あまりの傍若無人な言いようにメアリが口調を厳しくして、レイモンドに文句を言ったところをウィンが笑いながら手で制した。
「平気ですよ」
鞄を担ぎあげるウィンへメアリは深々と一礼する。
「君は従僕なんかに礼なんてするのか。付け上がるから止めたほうがいいよ。それにしても、ボクの従者は何をしているんだか。これだから平民は使えないんだ」
レイモンドは頭を下げているメアリを振り返って言った。
それから人当たりの良さそうな笑顔を浮かべ、手を伸ばしてきた。
「そういえば君の名前を聞いてないね」
馴れ馴れしく肩に手を回そうとしてきたレイモンド。
だが、自然にメアリは身を離し、
「あ、おい……」
「私も仕事がございますので。早めに彼も解放していただけますと助かります」
それだけを言うと、メアリはレイモンドには軽く会釈して廊下を戻っていく。
歩き去っていくメアリの後ろ姿を見送り、それからレイモンドはウィンを振り返った。
「それで、どちらへお運びすればよろしいでしょうか?」
ちっと舌打ちをするとレイモンドは「こっちだ」とウィンを伴い歩き出した。