居場所
第二部最初にもってきたほうが良かったかも。
――死にたくない。死にたくない。死にたくない。
小さく呟き続ける。
少女は身の丈ほどもある剣を抱きしめて、地面に座り込みながら延々とただ呟き続ける。
両目から流れ落ちる雫。
あの場所が恋しい。
帰りたい。でも、帰れない。
どうしてこんな場所にいるんだろう。
どうして戦わなくてはならないんだろう。
どうして……どうして……?
手が、足が、全身の震えが止まらない。
歯の根が合わず、さっきからガチガチとなっている。
心臓が張り裂けそうなほどに鼓動を打ち、季節は夏を迎えて暑いはずなのに、寒くて寒くて堪らない。
少女は小さな体を更に小さく丸め、剣を更にきつく抱きしめる。
砦の中で見つけた小さな部屋。
物置にでも使われているのだろうか。
彼女にはなんの用途に使われるのか分からない道具が、雑然と仕舞い込まれている。
その小さな物置部屋の、隅っこでただ一人。
少女は震え続けていた。
ここならば、誰にも見つからずにひとり泣くことができた。
部屋の外から聞こえてくる、人々のすすり泣き。男たちの怒号。
平和だった村を、突然魔物達の大群が襲った。
魔王を頂点とする魔族達によって統率された魔物達が、無防備な村人達を蹂躙した。
逃げ惑う村人達――抵抗もできず、あるものは背中を鋭い爪によって切り裂かれ、またある者は、下半身を食いちぎられて地面に内蔵をぶちまけた。
村の近くに建設されていた砦から、異変を察した兵士達が救援に訪れ、おかげでどうにか砦へと逃げ込むことができた者達もいた。
しかし、その砦へと逃げ込むまでの間にも多くの犠牲者がでてしまった。
村人達をかばい、多くの兵士達が命を奪われた。
指揮を執っていた騎士達は、最後まで村人達の逃げる時間を稼ぐべく獅子奮迅の戦いを繰り広げ死んでいった。
しかし、多大な犠牲を払いながら逃げ込むことができたものの、砦の周囲は魔物達によって包囲されてしまっている。
残された兵士達の人数は少なく、そして傷を負っていない者は一人もいない。
先程から時折聞こえてくる、砦の門から響く大型の魔物の体当たりの音。
指揮を執る騎士もおらず、兵士達はいつ破られるかわからない砦の門の内側で、ただ武器を抱え込んでその時が訪れるのを待つしかなかった。
魔物達が本気でこの砦を落とそうとしているならば、空を飛ぶ魔物や、もしくは魔法を使える魔族が門を破壊すればいい。
なのになぜ、わざわざ大型の魔物の体当たりによって、門を破壊しようとしているのか。
楽しんでいるのだ。
この砦に逃げ込んだ、ちっぽけで無力な人間達の恐怖を。
愛しい者達が殺されたことに打ちひしがれる、人々の悲しみを。
魔物達が本格的に攻勢をかければ、この小さな砦とそこに逃げ込んだ僅かな戦力では満足な抵抗すらも行うこともできず、蹂躙され尽くしてしまうだろう。
この時代、こうして落とされる町や村、砦は珍しくなかった。
魔王軍による与えられる絶望の時代。
この時代ではさして珍しくない光景が、この砦でも起こる。
ただそれだけの話。
だが――
人々の目が、砦の主塔へと集まる。
そこに世界の希望となった存在が訪れていた。
帝都を旅立って数日――一夜の宿を求めて、たまたまこの時、この場所に居合わせた者がいた。
女神『アナスタシア』によって宣告された『勇者』と呼ばれる存在が。
迫り来る魔物達による蹂躙という名の死への絶望感の中で、彼女の存在が人々に僅かな希望を与えていた。
だから、その人達の希望に応えるために、少女は小さな物置小屋の中で一人、篭らざるを得なかった。
彼らと同様に、迫り来る死への恐怖に震えている姿を、彼らに見せないために。
少女は、彼らの希望なのだから――。
「……レティシア?」
物置部屋の外から名前を呼ばれた。
「レティシア、そろそろ限界に近い」
「……うん」
小さく頷くと、手の甲で涙を拭った。
抱え込んでいた剣を持って立ち上がる。
明かりもなく、採光窓もない部屋の中であるが、戸の隙間から差し込んでくる外の光を頼りに戸に手をかけようとして――止まらない手の震えに気づいた。
「……少し待って」
返事を返し、震える声で小さく《明かり》の魔法を唱えた。
部屋の中が明るくなると、レティシアは何度も深呼吸を繰り返す。
震える手で剣の柄を強く握り締めた。
皆の前で恐怖に震えているみっともない姿を見せることはできない。
なぜなら彼女は勇者だから。
人々の光。魔王の侵略に対抗するための人類最後の希望の剣。
それこそが、勇者レティシア・ヴァン・メイヴィスなのだから。
だが――
「帰りたいよ、助けてよぉ……お兄ちゃん」
消え入りそうな程小さな声で、ポツリと呟く。
脳裏に帝都で別れた、幼馴染の少年を思い浮かべる。
夢へと向かって、どこまでも真っ直ぐに進んでいく幼馴染。
暗闇の底にいた彼女に、光を差し込んでくれた唯一人の人物。
彼のことを思うと、恐怖に塗りつぶされそうになっていた胸の中に。ぽっと暖かいものが生まれた。
不思議と胸の鼓動が静まっていく。
目を開いて両手を見る。
手の、足の震えが止まっていた。
もう、大丈夫。
戸に手を掛けて物置部屋の外へと出る。
そこには、レティシアの旅の連れであるティアラ・スキュルス・ヴェルファが立っていた。
「門が破られる前に討って出なくては、状況は悪くなる一方」
ティアラの言葉にレティシアは頷くと、主塔の外へと向かって歩き出す。
先程までの怯えを微塵も感じさせない、しっかりとした足取りで。
「待って」
しかし、ティアラはエルフ族特有の端正な顔をわずかにしかめると、レティシアの頬へと右手を伸ばす。
「な、何?」
「レティシア……泣いてた?」
頬へと当てられたティアラの手が、微かに光を帯びると、レティシアの顔全体を仄かな温もりが包み込んだ。
「癒しの魔法は、あまり得意ではないけど。そんな顔で皆の前に立たないほうがいい」
光が消える。
泣き腫れてしまった両目を癒してくれたのだ。
「大丈夫?」
レティシアの顔を心配そうに覗き込むティアラから目を逸らし、レティシアは砦の外へと歩き出した。
「私は大丈夫。勇者だから……でも、ありがとう」
感謝の言葉を小さく呟く。
顔を真っ直ぐに向け背筋を凛と伸ばし、迷いのない颯爽とした足取りで主塔の外へと出た。
「おぉ……勇者さま――レティシア様だ」
レティシア様だ。
お助けください、レティシア様。
老若男女入り混じった村の生き残り達が、砦の兵士達がレティシアへと視線を向けた。
どの顔も外から聞こえてくる人外の者達の雄叫びに怯え、疲労の色が濃く見える。
絶望の色に塗りつぶされたその幾多の目が、レティシアへと集中した。
そして、彼らの絶望に満ちたその表情に僅かに希望の色が生まれた。
『勇者』の称号を持つとは言え、わずか十歳にしかならない少女。
だが、彼女のまだ幼さを残す美しい顔には笑みが浮かんでいた。
このどうしようもない状況の中で、微笑みを湛えて現れた『勇者』メイヴィスが、恐怖に怯える人々に僅かな希望を見せてくれていた。
彼らの前に立つと、すっと年齢に不相応な程洗練された動作で剣を抜く。
「私が先頭で討って出る! ティアラは魔法で援護。兵士達、弓が使えるものはありったけの矢を撃ち込んで! 私に続け!」
落ち着き払った静かな、そして力強い口調でレティシアが激を飛ばした。
その言葉に、人々の目に僅かに力が戻ってきたのが見て取れた。
レティシアはそれを確認すると、小さく魔法を詠唱する。
「我に力を……」
身体強化魔法が発動。
レティシアにとって、初めての生死を賭けた戦闘。
大地を一蹴りして、宙へと舞い上がる。
強化された脚力は、彼女の軽い体を容易く城門の上へと運んでくれた。
門の上に立つ。
眼下には思い思いの姿勢で待機している魔物達の大群が溢れていた。
人型の妖魔、獣型の魔獣。
異形の魔物達がひしめくその様は、人に原始的な恐怖を与える。
だが、レティシアは表情を変えることなく魔物達を見下ろしていた。
「周囲を囲まれているから、どのくらい数がいるのかわからない」
レティシアと異なり、浮遊魔法を使って門の上へと飛んできたティアラが横に並んだ。
エルフ族特有の長い耳が、少し震えている。
さしもの彼女もこれだけの魔物達を前に恐怖を隠しきれなかった。
彼女達に遅れて、まだ戦える兵士達が城壁の上へと登ってきた。
「な、なんなんだよ。この数は……」
「勝てるわけがないじゃないか」
「嫌だ、死にたくない」
彼らの目に再び、絶望の色が宿る。
その時、レティシアがすっと息を大きく吸い込み――。
「聞け、魔の者どもよ!」
レティシアの叫び声が響き渡った。
と、同時に彼女から凄まじい威圧感が放出される。
無視できない威圧感に、人も魔物も全ての視線が彼女の下へと集まった。
城壁の上に集った弱くちっぽけな人間達の中で、一際小柄で無力そうに見える少女。
だが、それに反して放たれる強大な気配を、この場に集っていた全ての存在が無視することができなかった。
「私の名はレティシア・ヴァン・メイヴィス。魔を滅する者よ! お前達に少しでも知性が有り、この場を生きて戻ることができたなら、魔王に伝えよ! 貴様に恐怖を与える者の名を! この勇者レティシア・ヴァン・メイヴィスの名を!」
先程まで周囲に満ちていた雄叫びや、唸りすら聞こえなくなった。
知性ある妖魔でさえも、知性の無い殺戮衝動しかないような魔獣ですらも、僅か十歳の少女の放つ圧倒的な気配に呑まれてしまっていた。
静けさが周囲を支配する。
そして、レティシアが剣を持たない左手を頭上へと掲げ、小さく呟く。
掌に小さな光が生まれ、急速に巨大化していく。
次の瞬間、レティシアが手を振り下ろすと同時に光球は数十個にも分裂すると、ひしめく魔物達の頭上へと降り注いだ。
凄まじい爆発音が断続的に鳴り響く。
そして数多の魔物達の断末魔の絶叫。
「行く!」
小さく、それでいて力強い口調で呟くとレティシアは眼下へと飛び降りた。
爆発によって舞い上がった土埃の中を一直線に突っ走る。
土埃の中から現れた、蛇の胴体に狼の頭が付いた魔物の腹を一気に切り裂いた。
再び上がる魔物の断末魔の絶叫。
そして周囲に漂う、魔物の血臭。
その臭いに、周囲の魔物達がレティシアの存在に気づき、敵意が彼女に集中した。
人の身にはありえない圧倒的な迫力と、強烈な魔法によって混乱せしめられたが、魔物生来に備わっている残忍さと、闘争本能が彼女の放つ威圧感に打ち勝ち、その柔らかい肉体を噛み砕こうと牙を剥いて襲いかかる。
四足魔獣たちは、獣の姿ならではの圧倒的な機動力と、原始的な殺戮衝動に身を任せ次々とレティシアに襲いかかっていった。
また、知性ある人型に近い妖魔達も、武器や襲いかかっている仲間であるはずの魔物達に当たるのも構わずに魔法を撃ち込んでいく。
一対多数の圧倒的な物量差のある攻撃。
しかし、レティシアは飛びかかってくる魔物を逆に切り裂き、振るわれる武器を掻い潜り魔物を次々と屠っていく。
躱しきれない魔法は、飛びかかる魔物を盾にして避けた。
みるみるうちに、魔物達の体液によって、全身が濡れそぼっていく。
その血臭にさらに猛り狂った魔物達が襲いかかってくる。
レティシアの小さな体躯を圧倒的に上回る巨大な魔物達が、四足の利を生かして俊敏な動きで襲いかかってくる魔獣達が、次々と屍を晒していく。
戦いが始まって、どのくらいの時が経過したのだろうか。
彼女に当たらないよう、離れたところにいる魔物達に矢を打ち込んでいた兵士達も、すでにその矢が尽きてしまい、ただその戦いを畏怖の色を浮かべた表情で見守るしかできなくなっていた。
矢以上に、強大な威力の魔法を打ち込み、多大な戦果を一人で挙げていたティアラでさえも、すでに魔力が尽きて荒い息を吐きながら、レティシアを見守ることしかできない。
屠っても、屠っても、尽きることのないように湧いてくる魔物達。
「ぐぅ……」
レティシアの左腕を魔物の鋭い爪が掠り、鮮血が滴る。
体力の消耗が激しい。
息が荒くなっている。
傷つけられた左腕の痛みが激しく、まともに言う事を聞いてくれない。
爪に毒液でも分泌されていたのだろうか。
その毒が部位の麻痺的なもので助かったと思う。
「あああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」
絶叫しながら右腕一本で剣を振るい、魔物を切り裂きながらレティシアは次の獲物を探す。
しかし――
気がつくと、周囲に魔物の姿が無かった。
いつの間にか、彼女を囲むようにしてはいるものの、彼女の剣が届かない位置に退いている。
彼女が一歩踏み出すと、ざっと踏み出した方向にいる魔物達が後ろに退いた。
殺戮衝動しかないはずの魔物達が、怯えているのだ。
信じがたい光景に、城壁の上に集った人々が固唾を呑んで見守る。
――ここだ!
レティシアの剣先に光が灯る。
開戦の合図と同様に光球が急速に膨れ上がる。
――もっと、もっと、もっと威力を!
残された全魔力を注ぎ込んだそれは、レティシアの身の丈に匹敵する大きさにまで膨れ上がった。
魔物達は本能的に悟る。
その光球に篭められた、凝縮された圧倒的な魔力に。
彼らの魔王にも匹敵、あるいは上回るかもしれないその力に。
剣先を向けられている魔物達が、ぞろぞろと後ずさり――そして、算を乱して逃げ出した。
それを合図にして、包囲していた魔物達も一斉に逃げようと動き出す。
そして――
「ああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」
レティシアの絶叫とともに放たれた光球は太い光の柱となって、レティシアの前方にいた魔物達を薙ぎ払った。
世界を凄まじい閃光が包み込む。
人の可聴域の限界を超えた轟音と、圧倒的な光量に目を灼かれる。
やがて、耳鳴りが止み視力を取り戻した人々の目に、信じられない光景が広がっていた。
真っ直ぐにどこまでも伸びていく抉られた大地。
その先にある山は中腹から頂上付近がごっそりと消失し、形が変わっている。
光の直線上にいた魔物達は遺骸すらも残っておらず、まさに消滅していた。
そして、その抉られた大地の始点に、抜き身の剣を右手に握り締めたままの少女が立っていた。
光を集めたような美しい金髪は、見る影もなくどす黒い魔物達の体液によって染められ、上等な布を使用した服も、髪と同じ色に染まっていた。
「勝った……生き延びたんだ」
誰かが小さくつぶやいた。
しかし、誰も歓喜の爆発は起こさなかった。
やがて砦へと振り向き、傷ついた左腕を押さえ、足を引きずるようにして戻ってくる、『勇者』の称号を持つ少女から目を離せなかった。
「あれは……本当に人……なの、か?」
誰かの呟き。
その声は静まり返った周囲へと、奇妙なほど響き渡った。
戦いを終えて、開かれた門を潜りレティシアは凱旋を果たす。
レティシアは人々が向ける視線が、いつか見た公爵家の人々や騎士達と同じものが向けられていることに気づいた。
――本当に人なのか? 魔物が化けているのでは? 化物……。
「レティシア、ひどい顔。洗うといい」
ティアラが清潔な布と一緒に、水の入った桶を差し出した。
無言で受け取り、布で顔の汚れを拭き取る。
水はすぐにどす黒く染まってしまったが、何度も顔や手足を拭っていく。
「あ、ありがとうございました。勇者様。生き残った村の衆は、みな感謝しております」
レティシアに震える声で、一人の老人が礼を言った。
恐らくは襲われた村の村長なのだろう。
礼の言葉とは裏腹に、その全身はおこりのように震えている。
頭を下げると、急ぐようにして村の人々の中へと戻っていく。
勇者様は我々とは違う。
あれは間違いなく化物だ。
本当に小さな、聞こえているとは思っていないであろう囁き声が、レティシアの耳に届く。
「ねぇ、ティアラ」
「なに?」
「明日、ここを発とう。私がいると、みんなも落ち着かないだろうし」
「レティシア……」
あまり表情を顔に出さない彼女にしては珍しく、悲しそうな表情でレティシアを見る。
ティアラよりも遥かに低い位置にあるレティシアの顔は、どす黒く濁った水桶に視線を落としたままだ。
淡々と言葉を続ける。
「それに、魔物に襲われている人々は、世界中にたくさんいる。少しでも早く、魔王を倒さないと」
「レティシア」
「それと、今度から皆の前ではメイヴィスと呼んで? 勇者メイヴィスって……」
「レティシア!」
そっと抱き寄せ、ティアラはレティシアを抱きしめた。
圧倒的な力で魔物達を蹴散らしていた人物とは思えないほど、華奢な彼女の身体。
その身体が小刻みに震えていた。
「私は――化物なんかじゃ……無い、よ」
「うん」
「レティは化物なんか、じゃない、よ……だから、勇者と呼ぶときはメイヴィスって」
「わかった」
「帰りたいよ……会いたいよ……お兄ちゃん」
ティアラに抱きしめられ、遠く離れたところから村人たちに見守られながら、レティシアは涙を零す。
レムルシル帝国にある小さな砦とその近くにある村を襲撃した魔物達の戦い。
大規模な魔物の侵攻に対して、人類が始めて勝利し都市圏への侵攻を水際で食い止めたこの戦いこそ『勇者』メイヴィスの伝説の始まりとなる戦いだった。
「はい、お兄ちゃん」
「ああ、ありがとう」
手拭いを受け取り、汗を拭いているウィンをレティシアは眩しげに見つめる。
四年前、この帝都を旅立つ前と同様、レティシアの傍らにウィンが立っていた。
ただそれだけで、頬が緩む。
勝手知ったる場所だ。
水甕から桶で水をすくうと、ウィンから手拭いを受け取り洗う。
それから軽く絞ると、再び渡した。
「冷たくて気持ちいいな。ありがとう、レティ」
「どういたしまして」
にこっと微笑む。
学校で再会した。
ウィンが現在住んでいる寮の部屋にも出入りした。
寮の中庭で、現在の技量を見て欲しくて不意打ちで飛びかかったこともあった。
だけど――
この『渡り鳥の宿木』亭の小さな裏庭こそが、彼女が戻りたかった場所。
「どうしたんだよ、レティ?」
気がつくと、目から涙が溢れていた。
頬を伝わり、細い顎から雫が落ちる。
「何かあったのか? 悩み事なら、相談に乗るけど?」
「ううん、なんでもないよ」
ごしごしと目をこする。
また、まぶたが腫れぼったくなっちゃう。
でも、今日は治癒魔法で無理やり隠さなくてもいいんだ。
「幸せすぎて、嬉しくても、涙が出ちゃうことがあるんだよ」
「そうなのか?」
「うん。でも、ただいま」
小さく呟くとウィンに微笑んで見せた。
「えっと、よくわからないけど……おかえり? レティ」
レティシアはそっと、手をウィンへと伸ばした。
四年間、ずっと触れることができなかった、愛しい人に触れたい。
その想いが抑えきれない。
「どうしたんだ、レティ?」
不思議そうに、しかし妙に近いレティシアに照れて、少し顔を赤らめるウィン。
甘えるように、寄り添おうとしたレティシアだったが、その時――。
「あ、ごめん」
彼女の鋭敏な感覚が、立ち尽くすロックとコーネリアの視線を捉えてしまった。
バツの悪そうな表情で、頭を掻く友人達の姿に、二人はピシリと固まってしまうのだった。