勇者様のお師匠様(第一部エピローグ)
帝都シムルグにあるクライフドルフ侯爵邸。
その門前には絢爛豪華な馬車が列をなし、客車からは次々と貴人達が降りて屋敷の中へと入っていく。
広間では侯爵家が出資している楽団が優雅な曲を奏で、立食形式の卓上には贅を凝らした一品や珍味が並べられている。
どの卓上にもそして壁にも生花がふんだんに飾られ、より煌びやかな印象を与える。
着飾った男女が談笑し、楽団が奏でる優雅な音楽に合わせて踊りを披露し、そんな彼らの間を給仕たちが歩き回り、客達に酒や果汁を絞った飲み物を提供していた。
クライフドルフ侯爵邸の大広間。
そこでクーデターを防いだ事への祝宴が、騎士団長であり将軍である侯爵家が主催となって開かれていた。
祝宴会場の広間の中心付近。
そこでジェイドは、多くのクライフドルフ家と親密な付き合いのある貴族達に囲まれていた。
「ジェイド殿。この度は皇女殿下をお救いになる功績を挙げられたとかで」
「さすがはクライフドルフ将軍閣下のご子息。血は争えませんなぁ」
「本当に。帝国も安泰というものです」
追従の笑い声を上げる軍閥系の貴族達に囲まれて、ジェイドは手に持った葡萄酒へと視線を落とした。
「いえいえ、皇女殿下をお救いすることはできましたが、残念ながら帝都の開放までは力及ばず、自らの無力さを思い知らされるばかりです」
「あの状況では、仕方がありませぬ。むしろ、皇女殿下をお救い申し上げただけでも、万金に値する行いですぞ」
そうだとばかりに口々に肯定する、周囲の貴族達にジェイドは心底安堵したような表情を浮かべる。
「先達である皆様にそのように仰っていただき、心から安堵しております。これからも若輩者ではありますが、どうぞ皆様のご指導の程を仰ぎたいと存じます」
馬鹿どもめ!
言葉と表情とは裏腹に、ジェイドは心の中で貴族達を嘲笑した。
まあ、そんな馬鹿な追従使い共でも使い道はある。
せいぜい、そのよく回る口でクライフドルフを讃え、吹聴して回るといい。
今回の事件でジェイドは、レムルシル帝国第一皇女コーネリア・ラウ・コール・レムルシルを、クーデター派からいち早く保護する功を立てたということになっていた。
「マズイ、マズイぞ」
「落ち着いてください。父上」
立ち上がり、ただ右往左往する父――ウェルト・ヴァン・クライフドルフ侯爵を見て、ジェイドは顔をしかめた。
首尾よく、クライフドルフ侯爵家が所有する別荘へとコーネリアを連れ出すことに成功した。
しかし、自領から召喚した騎士達ともにいざ皇女を立てて進軍しようかというその時に、クーデターが鎮圧されたという知らせが届いたのだ。
「なぜだ!? 砦の占拠。封魔結界の発動。帝都の各施設の制圧。全てが成功していながら、なぜクーデターが失敗した!?」
「どうやら、勇者メイヴィスが介入したようです」
「人間の争いに勇者が介入しただと!? 勇者は静観する、もしくは七重結界魔法陣によって動きを封じる手はずではなかったのか? 何のために魔族を差し向けたと思っているのだ! ザウナスの無能者め!」
勇者の介入を恐れていたザウナスに、部下を通じて黒フードの魔族を紹介したのはウェルトである。
信頼しているその部下が、実はウェルトと通じていることなど知るはずもなく、勇者の介入をどう防ぐかに頭を悩ますザウナスに、言葉巧みに魔族を利用した『七重結界魔法陣』の使用を吹き込んだのだ。
もちろん、ザウナスにとって仇敵である魔族の力を借りるという行為には、相当の決意が必要だったようだ。
散々迷いつつも、結局は魔族の力を借りることにしたのは、勇者であるレティシア・ヴァン・メイヴィスの埒外の力。
しかし、そこまでしても封じることはできなかったということか。
「こうなってしまっては、我々がクーデターを察知して軍を集めておきながら、まるで傍観していたみたいではないか! 更に言えば、コーネリア殿下を利用して、帝都を攻めようとしていたとこじつけることもできる!」
クーデター派によって皇族が害されるのを待ってから、コーネリア皇女を旗印として兵を挙げたともこじつけることもできるのだ。
そのこじつけだけであっても、クライフドルフ侯爵家の権力を失墜させるには十分である。
だが、焦燥の色を濃くするウェルトに反して、ジェイドは薄く笑みを浮かべた。
「違いますよ、父上。我々はコーネリア皇女を保護したのです」
「どういうことだ?」
「我々はクーデターの情報を得たが、確証は得られなかった。何せ、首謀者はこの帝国の英雄ザウナス閣下です。そこで、皇女と私が同じ班となることで密かに護衛し、いざクーデターの段階で保護。そして領地から軍を呼び寄せたのです」
「しかし……それで陛下が納得されるであろうか?」
「そうですね……祝宴を開きましょう」
「祝宴だと?」
「そうです。騎士団長である父上から陛下へとご提案し、この件で功を挙げた者達を招待します」
「ということは、勇者メイヴィスも?」
「我々がコーネリア殿下を保護し、帝都を解放するために軍を集めたが、勇者が我らに先んじて鎮圧してしまった。そこで勇者メイヴィスもこの祝宴に招待し陛下からだけでなく、父上からも感謝の言葉を与えることで、他の貴族や民衆にクライフドルフ家は勇者と共に有ったと印象づけるという筋書きです」
結局、ウェルトはジェイドの案に賛同し、この祝宴を開くことになった。
クーデターを事前に察知していたおかげで、侯爵家の縁戚関係や軍閥に属する貴族達は、帝都を離れていたためほとんど実害はない。
逆に敵対していた派閥――特に嫡男を失ったレインハート侯爵家の派閥は弱体化を迎えるだろう。
今回の事件で、派閥の有力者達の多くが生命を落としている。
最上の結果を得られることはできなかったが、クライフドルフ侯爵家としてはまずまずといった成果だった。
後は、なぜクライフドルフ派閥だけが大きな被害を被らなかったという事への釈明のみが問題である。
とはいえ、他の派閥が大きく力を削がれている以上、追求できる者もそうはいないであろうが。
念には念を入れておくべきだ。
皇族と勇者をこの祝宴に招き、クライフドルフ家が帝国の体制側であったということだけを印象づける。
取り巻きの貴族達のおかげで、今のところ印象操作は上手くできているようだった。
ジェイドは手の中のグラスに注がれた葡萄酒を一口に煽ると、次々に挨拶に来る貴族達に爽やかな笑顔を浮かべてみせた。
主だった貴族達だけでなく、友好国からの貴賓も揃った頃――
「おお! これは陛下」
広間に大きな声が響き渡る。
と、同時に広間にいた全ての人の視線が、入口へと向けられた。
にこやかな笑顔を浮かべて入ってきたのは、レムルシル帝国第十一代皇帝アレクセイ・ラウ・ルート・レムルシル。
娘であるコーネリアを伴っていた。
この祝宴の主催者であるウェルトが足早に二人の下へと赴くと、跪いて頭を垂れる。
それを合図に広間にいた全ての者たちが跪いた。
「この度は、我が邸宅にご行幸頂きまして、光栄の極みにございます」
「うむ。わが娘がご子息に助けられたそうだからな。その英雄殿の父である侯爵に招かれれば、行かぬわけにもいくまい」
「過分なお言葉を頂き、恐悦至極にございます。皇女殿下にもこの度のことは、さぞご心痛であったこととお察し申し上げます」
「いえ……侯爵閣下のおかげで、私自身は怪我もありませんでした。感謝を」
一礼をするコーネリア。
意思の力を総動員して微笑を維持し続ける。
クーデターを利用し、勢力の拡大を画策しようとしていたことはコーネリアには明白であったが、クライフドルフ侯爵は、あくまでも彼女をクーデター派から保護し、集めた軍は帝都の開放を目的としたものだと主張した。
クーデター派が蜂起した際に、クライフドルフ侯爵の派閥の貴族達が揃いも揃って、自領に戻っていたり、今回の騒動で対立派閥の貴族達に対してのみ、大きな被害が出ているといった明らかに不自然な点が幾つも見られたが、それでも彼らの思惑を追求するには至らなかった。
「今宵集めた者たちは、あの場で功績を挙げたものばかり。どうぞ殿下からも労いのお言葉でもお授けくださいますようお願い申し上げます」
「そうですね」
微笑を維持しつつも、目を伏せながらコーネリアはこの男から一刻も早く離れたいと思っていた。
「そうだな。そういった話は後にしよう侯爵。皆立つが良い。せっかくの祝宴だ。皆も楽しむが良い」
アレクセイの言葉に一同がもう一度頭を下げてから、立ち上がる。
ざわめきが広間の中に広がっていく。
ウェルトが手を挙げると、アレクセイの入室と同時に止まっていた楽団の奏でる音楽が、再び広間の中に流れ始める。
ウェルトは満足げに頷くとアレクセイとコーネリアへと向き直った。
なおも続くウェルトの挨拶の口上を聞き流しながら、コーネリアは会場内を素早く見回す。
ウィンとロックの二人が生き延びていたという報せは受け取っていたが、あれ以後、宮殿内へと閉じ込められてしまったコーネリアは二人に会うことが叶わなかった。
今日の祝宴は、あの日に活躍した者達が招待されていると聞いた。
そして、生き残った学生達――定期巡回討伐任務に参加した十数名も招待されたと聞いている。
コーネリア達が参加した部隊で生き残った学生は、彼女自身も含めてわずかに四名しかいない。
この会場のどこかに彼らもいるはずであったが、彼女の視界内にはウィンとロックの二人の姿は見えなかった。
次々と挨拶に来る貴族達によって、コーネリアはいつの間にか囲まれてしまっていた。
この機会に皇位継承権第二位を持つ皇女と繋ぎを持ちたいのであろう。
自らの子息を紹介してくる貴族もいる。
彼らの思惑が透けて見えるほどの美辞麗句に、コーネリアは崩壊しそうな笑顔を維持し続けるのに精一杯の努力をしながら、尚もその人垣の隙間から彼らの姿を探したのであった。
「なあ、俺達は何でこんなところにいるんだろうな?」
「一応、生き残ったからじゃないか? ロックはまだいいよ。様になっているから。俺なんて、こんな場所初めてで、どうしたらいいのやら」
「馬鹿。騎士を目指そうっていうなら、こういう場所の経験も必要だぞ? まあ、勉強だと思えばいいんじゃないか?」
定期巡回討伐任務に参加して生き残ることができた学生達。
ウィンとロックの部隊の生き残りは彼らを含め四人だけであったが、他の砦へと派遣された部隊でも数名ほど学生の生き残りがいた。
そしてその彼らもまた、この祝宴に招待されていた。
学生とはいえ彼らも貴族である。
この場に溶け込めるだけの衣装を身に付け、知り合いであろう貴族達と会話を交わしている。
ロックも富豪の息子である。
社交界の経験もあるため、違和感はなかった。
そんな中で唯一人、騎士学校の制服を身につけているウィンは浮いていた。
勿論、騎士学校の制服は式典などでも着ることがあるため、こういった場所で身につけることはおかしくはないのだが、ただ一人だけその格好であると逆に目立つ。
見かねたロックが服を用意しようと言ってくれたが、ウィンは制服で良いと主張し断ってしまった。
今は少し後悔している。
宴が始まった当初は一緒にいてくれたロックも、知り合いの貴族達や取引先の有力な大商人達に話しかけられてはそれを無視することもできず、挨拶に行ってしまった。
一人取り残されてしまうと、話す相手もいないウィンにはやることがない。
必然、ウィンは卓上にある食べ物に手を伸ばすくらいしかすることがなかった。
とはいえ、普段口にすることのできないご馳走ばかりである。
開き直って舌鼓をうつことにした。
「貧乏人は食べ方も卑しいな。とてもこの場に相応しいとは思えない」
食べながら、着飾った貴族達を眺めていたウィンに声を掛けてきた者がいた。
「ジェイド……」
「学校外ではクライフドルフ公子閣下、だ。まあ、平民であれば多少の失礼には目をつむるべきか」
薄ら笑いを浮かべ、ジェイドが取り巻きを連れて歩いてきた。
「それにしても、貴様も生き残ったのか」
「ゴキブリ並みにしぶといですね」
「生命力だけは、尊敬に値するな」
蔑むような視線。
だが、この場においては彼らは貴族である。
ウィンは直立不動の姿勢を取ると、一言の反論もせずに彼らの言葉を受ける。
「クーデターを起こした連中の多くは、貴様みたいな平民出身の騎士だったそうだ。やはり、平民に皇帝陛下をお守りする騎士は荷が重すぎるようだ」
「ジェイド様のおっしゃる通りですな」
「やはり、騎士という名誉ある職には、我らのような高貴な血を引くものが付くべきなのです」
取り巻き達の言葉を受けて、ジェイドが満足そうに頷く。
「そうだな。私から父上にそのように進言し、皇帝陛下にご注進申し上げてもらおう。やはり、平民に騎士という責任ある任は重すぎる、とな」
笑いながらウィンに背を向けるジェイドとその取り巻き達。
ウィンは直立した姿勢のまま、ただその背中を見つめる。
表情には出していなかったが、その両拳は強く握り締められていた。
確かに、アルド教官達は現状を変革するために力を行使するという暴挙に出てしまった。
だが、その元凶を作ったのは一体誰なのか?
ただ、クーデターを防いだだけにも関わらず、その原因には誰も目を向けようともせずにこの祝宴を開いている。
アルド達の、英雄ザウナスの気持ちが分かってしまう。
「ん? あれは……」
立ち去ろうとしていたジェイドが足を止める。
いつの間にか、楽団の奏でる音楽が止まり、広間中にいる人々の視線が入口に集まっていた
けして華美ではなく、それでいて意匠を凝らした清楚な服装に身を包み、一人の少女が広間へと入ってきた。
金色の髪を結い上げ、まだ成長途上で成熟していないにもかかわらず、そのあまりにも神懸かった美しさに、誰もが感嘆の溜息をこぼす。
先程まで衆目を集めていた彼らの国の皇帝であるアレクセイと、その皇女コーネリアでさえも、その存在を薄めてしまいそうな程の圧倒的存在感。
『勇者』レティシア・ヴァン・メイヴィス。
父であるメイヴィス公爵とその婦人、そして兄姉達と共に入室してきたところだった。
公爵家一同はアレクセイの前まで進むと、公爵を先頭にして跪き頭を垂れる。
その中にあって、レティシアだけが立ったままドレスの裾をつまみ、軽く会釈をした。
女神アナスタシアによって聖別された彼女は、立場上、人の世界の権威から独立しているため、一国の皇帝であろうと頭を下げる必要はない。
「遅くなりまして申し訳ございません。陛下にはご機嫌麗しく」
「今宵は祝宴だぞ。堅苦しくなるな、公爵」
アレクセイはメイヴィス公爵の手を取ると立ち上がらせる。
「久しぶりだな、勇者殿」
「陛下もおかわりなく」
レティシアも微笑を浮かべる。
それからコーネリアにも視線を向けると、軽く会釈をした。
コーネリアもレティシアに会釈を返す。
「これはこれは、公爵閣下。そして勇者様。我が屋敷へようこそ」
皇帝と公爵一家、そして勇者の会話の中に割り込むなど厚顔無恥なことこの上ないが、ウェルトはまるで気にした様子も見せず、両手を広げて近寄ってきた。
「この度は勇者様のご活躍のおかげで、下賎な賊共の企みを阻止することができました。いやぁ、我々も兵を率いて陛下を、帝都をお守りするつもりでありましたが、勇者様の迅速な働きのおかげで、我々はコーネリア殿下をお救いしただけで他にできませんでした。さすがは勇者様といったところですなぁ」
「勇者レティシア・ヴァン・メイヴィスの伝説に、また一つ、新たなる武勲が刻まれましたな」
「魔王を滅ぼした勇者であり、帝国を救った救国の英雄というわけですな」
周囲で彼らの様子を伺っていた他の貴族達も、口々に賞賛の言葉を並べていく。
彼らの言葉に一つ頷き、アレクセイもレティシアへと視線を向ける。
「勇者殿。此度のそなたの働きに感謝し、その恩に報いたいと思うのだが……すでに、地位も名誉も手に入れているそなたに、何を与えれば良いか余にも思いつかない。我が息子アルフレッドとの縁組への心変わりはないのか」
「陛下の私への評価は嬉しいのですが……」
レティシアは小さくうつむくと、やんわりと拒絶してみせた。
メイヴィス公爵が小さく顔を顰め、ウェルトが笑みを浮かべる。
皇太子と勇者が結ばれてしまうと、皇族の発言力が増してしまう。
それはウェルトの意図するところではない。
今回のクーデター騒ぎで、現騎士団の中枢部分をクライフドルフ派によって握ることができた。
皇族も今回の件に関する責任について追求はしてくるだろうが、あの一件で反クライフドルフ派の貴族たちは軒並み勢力を落としている。
例え、皇族や公爵といえども、これからのクライフドルフの権勢には容易には逆らうことができなくなるはずだ。
ほくそ笑むウェルトをよそに、レティシアとアレクセイの会話は続く。
「それに、この度の一件の本当の功労者は私ではございません。本当の功労者は別にいます」
「ほぅ……勇者殿がそこまで言うとは、ならば余からもその者に礼を述べたほうが良いか」
「そうですね。丁度良い機会ですし、陛下にもご紹介したいと存じます」
レティシアは踵を返すと、アレクセイの前に立って歩き出す。
(ん? 功労者? 誰のことだ?)
手に入れた権力に笑みを隠しきれないウェルトだったが、レティシアの一言に疑問を覚える。
ザウナスを討ち、騎士団とクーデター派の衝突を止めた勇者以上の功績を挙げた者。
それはまかり間違えば、クライフドルフの権勢に僅かなりとも障害となりうるかもしれない。
であれば、その功労者とやらもいずれ何らかの手を打つ必要がある。
レティシアとアレクセイの後ろに追従しながらウェルトは、思考を巡らせる。
レティシアの前から貴族達が横に退き、道が出来ていく。
横に退きながら貴族達は、勇者と彼らの皇帝陛下が向かう先へと視線を向ける。
そこには、喜悦の表情を浮かべた若き貴族の子弟達数人と学生服を来た、どこかぱっとしない風体の少年がどこか戸惑ったような表情を浮かべて佇んでいた。
美しく着飾ったレティシアと、そして皇帝陛下がウィンのいる場所へとゆっくりと近づいてくる。
(え? え? どうすればいいんだ、これ? 跪いて礼をするべきなの?)
レティシアが入室してくるのが見えたが、幼馴染の彼女はすぐに貴族達に囲まれてしまった。
どうやら、皇帝陛下と話しているようだったが、平民であるウィンにとって彼らは別世界の天上人。
最近、少し避けていたとはいえ一言くらいは声をかけたかったが、あの様子ではこの祝宴中には近寄ることもできないだろう。
それでも周囲の人々共々、皇帝陛下と勇者の会談が行われている場所へと視線を向けていたが、一瞬ざわめきが起こると同時に人垣が割れ、ウィン、そしてその前に立っていたジェイド達と、皇帝陛下と勇者を遮る人の壁が取り払われた。
レティシアが先導するようにして、皇帝陛下と一緒にこちらへと歩いてくる。
(どうすればいいんだよ!?)
思わず泣きたくなる。
周囲に習い、ウィンも横に退くべきなのか。
しかし、元々壁際にいたため、彼の背後には壁しかない。
陛下やレティシアが壁に用があるはずもなく、更に言えばレティシアの視線が自分を貫いていた。
こういう時に頼れるロックは近くにいない。
オロオロとするウィンを尻目に、彼の前に立っていたジェイド達がさっと膝を着き洗練された動作で頭を垂れる。
それを見て彼らに習い慌てて、ウィンも膝を着くと頭を垂れた。
心臓が激しく鼓動する。
しかし、それに反してウィンの顔は血の気が引いたように真っ青になっていた。
天上人である皇帝陛下が近寄ってくるのだ。
全身が震える。
まともに正面を向くことができない。
皇帝陛下だけでなく、その背後には高位の貴族と思われる人々も追従していた。
ウィンの耳にも彼らの会話が聞こえてくる。
「おお、勇者様のおっしゃられる第一の功労者とは、まさか我が息子のジェイドのことですかな? そうですな。皇女殿下を賊共の手からお守りしたのですからな」
「クライフドルフ侯のご子息か。我が娘を助けてもらったということだから、余も礼を言わねばと思っていたのだ」
頭を下げているウィンは気配から感じることしかできなかったが、レティシアが足を止めたようだ。
その先にはジェイド達が跪いている。
「ジェイド。こちらが勇者メイヴィス様だ。ご挨拶をするがいい」
「初めてお目にかかります。私はジェイド・ヴァン・クライフドルフと申します。勇者メイヴィス様とは御同窓になりますね」
「初めまして。クライフドルフ公子閣下」
「我が息子は、親の欲目も入ってはおりますが、今回の企てを知るとすぐさま皇女殿下をお救いした英才にございます。父である私も誠に鼻が高い息子でございますよ」
「勇者様にはこの縁を機会に、これからも御親交いただけましたらと思います」
ジェイドはこれまでにレティシアを遠目には見ていたが、近づいてくるにつれその美しさに思わず息を飲んでしまった。
まだ十四という歳ではあるが、成長すれば一体どれほどの美女となるのであろうか。
決して華美ではないドレスに華奢な身体を包みこみ、そのたおやかな姿からは、とても一軍すらをも圧倒してみせる力を身につけているとは思えない。
ジェイドの心が浮き立つ。
これで彼女との面識はできた。ここから親密となり、勇者を手に入れる。
ジェイドは柔らかな微笑を浮かべると、レティシアを見上げる。
だが――
「そうですね。ですが、クライフドルフ侯爵公子閣下。今は道を空けていただけますか?」
レティシアはジェイドに一瞬だけ微笑を送ると、すぐに視線を彼の奥へと投げかける。
その視線の先――
「……勇者様?」
ウェルトも戸惑いの声を出す。
功労者として紹介してくれるのは自分の息子ではないのか?
再びジェイドへと視線を投げかけてくるレティシア。
慌てて、ジェイドとその取り巻きの子息達が道を空ける。
勇者と皇帝陛下の歩んでいく先を固唾を呑んで見守っていた周囲の人々から、戸惑ったようなざわめきが起こった。
レティシアはゆっくりと前に進むと、そこで跪く一人の少年――ウィンの前で立ち止まり、そっとウィンの手を取った。
――誰だ? あれは?
――あの制服は騎士学校の物。生き残りの学生か?
――しかし、社交界では見たことがない。平民ではないか?
訝しむ声が周囲に広がる。
「どうぞ、お立ちください」
レティシアに促され、ウィンは立ち上がった。
その顔からは完全に血の気が引き、真っ青な状態になっている。
正面に立っているレティシアのみならず、アレクセイにも視線を向けることもできず、ただ視線を彷徨わせることしかできなかった。
パニック状態でほぼ思考停止に陥りかけているウィンに止めを刺すように、そして今日一番のどよめきが広間全体に起こった。
レティシアが、ドレスが皺になるのも省みず、跪き頭を深く垂れたのだ。
例え一国の元首であろうと、神の代弁者である大神官であろうと、唯一人その権威を前にして頭を下げない事を許された『限りなく神に近づきし存在』である勇者が。
平民である学生を前にして、頭を垂れている。
アレクセイを始め、メイヴィス公爵にウェルトも、ただ目を見開くばかりで言葉が出ない。
ジェイドもまた、その光景を呆然と見つめていた。
自分をほぼ無視の状態でスルーした勇者が、自分が見下した平民に跪き頭を恭しく垂れている。
信じられなかった。
(どういうことだ? あの平民はいったい何者なのだ!?)
「くくく……」
ジェイドの背後で小さな笑い声が上がる。
振り返ると、あの平民とよく一緒につるんでいるロック・マリーンが立っていた。
「ジェイド。お前がいつも見下していたあいつこそ、『勇者様のお師匠様』ウィン・バードだよ」
小声でジェイドに言うと、ロックは再びクスクスと笑う。
(勇者の師……だと? あの下賎な平民が? あの落ちこぼれが?)
ジェイドが見つめる視線の先――状況についていけず、ほとんど泣きそうな情けない表情をした平民が周囲に視線を彷徨わせている。
あの、醜態を晒しているあの男が――
ジェイドの信じられないという思いをよそに、レティシアがゆっくりと顔を上げてウィンを見つめる。
ざわめきが徐々に引き、そして広間の中を静寂が支配していく中、レティシアの声だけが広間の中に響き渡る。
「この度の一件、我が師の力をお貸しいただき、弟子として深き感謝を。我が剣、我が往く道は師の教えのままに。これからもこの不肖の弟子をどうぞお導き頂けますようお願い申し上げます」
「あ、いや、えっと……」
あまりの展開に言葉が出ず、ただ口を開閉させるだけのウィンに、レティシアは頭を上げるとにこりと微笑んだ。
そして、跪いたそのままの姿勢でアレクセイを振り返る。
「陛下。こちらにおられるお方こそ、我が師。ウィン・バードでございます」
「……その少年が?」
「此度の件も、師が砦に設置された魔法装置を迅速に破壊したおかげで、我が窮地をお救いくださいました。彼こそ、この一件の最大の功労者でございます」
「なるほど。ならば余からも礼を言わねばならんな。感謝を。そして、魔王を倒した勇者殿の師に敬意を表させてもらおう。何か、望みはあるか?」
アレクセイの言葉に、ウィンはさらに混乱してしまい。思わず逃げ場を探すように再び視線を彷徨わせてしまう。
そして、皇帝陛下の後ろに立つコーネリアと、さらにジェイドの後ろの人垣に混ざるようにして立っているロックと視線が合わさった。
コーネリアが微笑みを浮かべ、一つ頷く。
ロックは親指を立てて、にやりと笑った。
ウィンの心に徐々に落ち着きが戻ってくる。
一瞬だけ瞑目すると、先程までの表情から一転して毅然とした表情を作ると、アレクセイを正面から見つめる。
「それでは僭越ながら陛下に申し上げます。この度の一件、ザウナス閣下達はこの帝国の行先を憂いてのものでした。閣下達が何を憂いて行動したのかをうやむやにせず、調査していただけますようお願い申し上げます」
言ってしまった。
平民という身分にも関わらず、そして騎士候補生という立場でありながら、何という身の程をわきまえない発言をしてしまったのだろうか。
後悔の気持ちが押し寄せてくる。
「な、な、何という無礼な発言だ!」
ウェルトが顔を真っ赤にして声を上げた。
「平民の分際で、大それたことを! 陛下! このような卑しい身分の者の言葉など――」
「それは我が師に対する侮辱ですか?」
声を荒げてアレクセイに注進するウェルトの言葉を遮ると、レティシアが立ち上がってウェルトを睨みつける。
その圧倒的な眼光に、ウェルトは呑まれ一歩後ろへと下がってしまう。
「陛下。師の言葉通り、この一件の根は深い。徹底的な調査と、そして誰に責任があるのか明らかにされたほうがよろしいでしょう」
レティシアの冷たい視線がウェルトに突き刺さる。
全身から放たれる気配に、この場にいる全ての者が圧倒されていた。
アレクセイですらも、その雰囲気に圧倒されてしまっていた。
「ゆ、勇者殿とその師がおっしゃられるとおりにしよう」
「侯爵閣下も、何も後暗いことがなければ問題ないのです――場の雰囲気を壊してしまいましたね。どうぞ、祝宴を続けましょう。皆さん」
レティシアの言葉に、広間にぎこちないながらもざわめきが戻っていく。
楽団もまた、緩やかに音楽を奏で始めた。
ウェルトはまだ少し呆然としていたが、やがておぼつかない足取りでそそくさと奥へと離れていく。
これからの対策を練るのだろう。
その背をしばらく鋭い目つきで見送っていたレティシアだったが、振り向くとウィンへと近寄ってくる。
「お疲れ様、お兄ちゃん」
「レティ……お、おまえなぁ」
力なく抗議の声を上げるウィンに、レティシアは小さく舌を出して悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「皇帝陛下を連れて、しかもさっきの台詞。心臓が止まるかと思ったよ」
「仕返しだよ、お兄ちゃん。最近、私のこと避けてたでしょ?」
「いや、それは……だって、レティは勇者で公爵令嬢だし、俺は平民だし」
「もう、その辺は気にしなくていいんじゃないか?」
人ごみを縫ってロックがやって来る。
「お前もこれで『勇者様のお師匠様』という肩書きがついたんだ。もう誰に遠慮することもないんだぜ?」
「そうですよ」
コーネリアもまた、父であるアレクセイに一声かけるとウィン達のところへと歩み寄ってきた。
「ウィン、ロック。二人とも無事で良かったです」
「殿下……」
「殿下は止めてください。コーネリアでいいです」
慌てて膝を折ろうとするウィンとロックにコーネリアが苦笑する。
「まさか、皇女殿下とは思わなかった」
「まあ、どこかの貴族様のご令嬢だろうとは思っていたけど、まさか皇女殿下とは思わなかった。なんでまた騎士学校に?」
「それに関しては、また日を改めて。それから勇者メイヴィス殿。この度は貴女のおかげで助かりました。本当にありがとうございました」
「いいえ、私は自分がしたいことをしただけだから」
レティシアがコーネリアに笑いかける。
「にしても、目立っているな。俺はおまけだろうけどな」
勇者にその師、そして皇女が仲良く話しているのだ。
先程までの注目は浴びせられてはいなかったが、それでも視線を集めている。
いつの間にかレティシアがウィンの腕を取ると、料理が並べられている卓へと近づいていった。
皿を手に取り、ウィンの為に甲斐甲斐しく料理を盛り付けていく勇者の姿に、再びざわめきが起こるのを見てロックが苦笑する。
ふと、隣に立つコーネリアを伺う。
彼女もまた、どこか微笑ましいものを見る目で、それでいて羨ましそうな視線を向けていた。
(こりゃあ、これからが大変だぜ? 我が親友)
ロックは小さくため息ついた。
以前、勇者が謁見の間でウィンの名前を出した時には、限られた人間しかいない場所であった。
機密性の高い情報であり、勇者の師という存在は公にはされず噂だけでしかなかった。
それが今回は、大勢の目の前で、しかも勇者であるレティシア本人がウィンの前で頭を垂れ、師であることを公にした。
これから、彼の周囲は騒がしくなってくるだろう。
様々な勢力が彼を――そして彼を通して勇者を利用しようと近づいてくるに違いない。
世慣れしていない、ウィンの進む道はどれだけの困難が待ち受けているのだろうか。
(本人はただ、騎士になりたいだけなのにな)
だが周囲は今後、彼の事を『勇者の師』として見ることになる。
そんな彼の親友であると自他ともに認める自分は、どう彼の力になればいいのか。
そして、彼が歩むその先にはどんな事が待ち受けているのだろうか。
(どっちにしろ、面白くなりそうだぜ!)
レティシアがウィンを連れ回しているその光景に、周囲も戸惑いから徐々に微笑ましいものを見るような反応をしていくのを眺めながら、これからの先の楽しくなりそうな未来を想像する。
そうロックはこれから最も彼らに近い場所から、見ていくことができるのだ。
落ちこぼれの騎士候補生であった少年が、『勇者様のお師匠様』として歩んでいくその物語を――。
これにて第一部が終了となります。ここまでお読みいただきましてありがとうございました。
第二部開始は、別作も少し書きたいのでしばらくお待ちくださいませ。