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ドクターズファミリー ケース1
作:GFJ


 斉藤絵里さんの場合


 27歳で脳神経外科医の斉藤一輝と結婚した。知り合ったきっかけは合コン。私の旦那は学生時代ラグビーをしていて体格は良い。さばさばした性格だが、意外に細かい所に気がつく。
 お酒の席では、中心的存在ではないが、浮いてもおらず、時々おかしなことを言って、場を和ませる心遣いがあった。女の子のグラスが空いたらさりげなくドリンクメニューを女の子に手渡す。そして、次のお勧めカクテルをこっそり指差して何も言わず目で笑う。
 ただでさえ「医者」と言えば、女の子は興味津々なのに、彼には特に威張ったところもなく、欠点らしい欠点が見当たらず、もてないはずがない。当然、彼を狙っていた女の子は私だけではなかった。看護婦さんにもひそかに人気があったみたいだ。
 私と付き合う前に、一時期女医の卵と付き合っていたらしいけど、卒業してお互い忙しくなるとすれ違いが多くなって自然消滅したみたい。将来、女医として仕事を続けるかどうかで相当揉めたという噂を聞いたことがあるが、どこまで本当かは知らないし、あまり、聞きたいとも思わない。
 私が彼と知り合って間もない頃、私のママは、真剣な顔つきで色々と忠告した。本当は私は彼のことが気になって気になって仕方がなかったけれど、ママのアドバイスに従って、最初はあまり気のない振りをした。着ていく服、アクセサリー、化粧、すべてママと一緒に準備した。持っている服は派手なものが多いので、少し、落ち着いた服を探しに一緒に一日つぶして歩き回ったこともあった。
 2回目に友達同士数人で食事に出かけたときも、わざと斜め前の席を選んだ。彼の隣に座ったシャギーヘアの女の子は、彼への好意をあからさまにしていた。気にはなったが、あえて直視しないようにした。そして、時折感じる彼の熱い視線に、うまくいきそうな予感を感じた。

 結婚式は盛大だった。大学の教授を始め、勤務先の院長、同僚など、あまりにも多いので、花嫁側の出席者を調整するのが大変だった。みんなに羨ましがられての結婚式だった。私自身も、ちょっとした優越感に浸っていた。ママがいなければここまで漕ぎ着けることはなかっただろう。ちょっと嫌味なところもあるママだけど、感謝しなくちゃ。もちろん彼のことは好きだけれど、医師というブランドは何物にも替え難い。彼が医師でなかったなら、正直言って、結婚しようとまでは思わなかったと思う。職業だって彼の個性の一つでしょ。
 あの時、私は幸福の絶頂にいた。結婚式のアルバムの中の私は光り輝いている。私は彼のことを何も理解していなかったし、医師という職業も、医師と結婚することがどういうことかも何も知らずにいた。

 覚悟はしていたつもりだ。彼の先輩医師や同僚からも
「大変でしょうが、頑張ってくださいね。多少寂しい思いをされるかもしれませんが、医師の宿命ですから」と言われた。
でも、多少寂しいなんてもんじゃない。家に帰ってこないじゃない。
珍しく8時ごろ帰ってきたかと思ったら、PHSが鳴って、すぐに病院へ戻る。
一体私はあなたの何なの? 
「患者のため」と大義名分を持ってこられれば、私だって口答えできない。いっつもそう。ずるいと思う。
 私がインフルエンザに罹ったときもそうだった。
39度の熱で妻が苦しんでいるというのに、旦那は私のことは放っておいた。釣った魚に餌はやらないって、このことだわ。
どうでもいい患者には(って言ったら患者に悪いけど)一生懸命に尽くして、私が起き上がれない状態なのに、その日は「今日は当直だから」と朝出かけたきり、電話の一本も寄こさず帰りは翌日の夜だった。
 勤務先に電話をしたら、事務は冷たく私に言った。
「現在手術中ですが、あとで電話をするようにお伝えしましょうか」だって。
遅いわよ、手術が終わってからじゃ。結局、高熱のまま、私は近くの総合病院に這うようにして行った。
 外来は混んでいて2時間半待たされた。
どうなってるの。具合が悪くて病院に来たのに、平気でこんなに待たせるわけ? 
旦那が医者だっていうのに、一般患者に混ざってこんな風におとなしく待っていなければならないのが、妙に惨めだった。サラリーマンの妻だったら、我慢もできたと思うのだけれど。
 あんまり待たされるので、余計に具合が悪くなり、今日はもう帰ろうかと思ったとき、ようやく私の名前が呼ばれた。
診察室に入ると、若い医者だった。
ちらと私の方を見ると、あとはカルテに向って喋りだした。
「熱が高いですね、いつからですか?」
ことば使いは丁寧で、そして、事務的だった。
私は大勢いる患者の中の一人。
同情や心配をしてくれる、という期待はしてはいけないのだろう。
「熱は今朝から。昨日からあちこち痛くって何だか……」
言いながら妙に腹が立ってきた。
「あの、ものすごく待ったんですけど、謝罪の一言もないんですか」
医師は、私の顔も見ずに言い放った。
「私も一生懸命やっています。ご理解ください。インフルエンザの検査をしますので、一旦外へ出て処置室の前でお待ちください」
外へ出ろとの言葉にカチンときた。
「主人は医者なんですけど」
医師は椅子を回して初めて私の方を見た。
「どういう意味ですか」
「……」
どういう意味って聞かれても、医者だって言っただけよ。
「あのね、医師の奥さんだったら、我々の置かれている状況は一般の方よりご存知ですよね。どんな名医の奥様か存じませんけど、次の方がイライラして待っておられますので、あなたにばかり時間を割くわけにはいきません。できれば役所の方へクレームをつけて頂けると、私たちとしても助かるんですが」
何だ、この対応。もういい。
 腹が立って黙って外へ出た。
診察の段階から気分が悪かったが、それから検査、再び診察室で「インフルエンザ」だと言われ、処方箋を渡された。
薬は院外薬局。また、そこで待たされた。
その日は一日病院ツアーをしていたようなものよ。もうへとへと。
昼前に出かけて、帰り着いたのはもう夕方だった。セブンイレブンでかったシャケおにぎりを一個食べて薬を飲んで早々に寝た。

 次の日も、ほとんど、起き上がることができず、私は一日寝て過ごした。
夕方から少し気分がよくなってきた。寝すぎで腰が痛い。
旦那は昨日から今日までの私の出来事を何もご存知ない。「幸せにするよ」なんて言ったあの言葉はウソだったのか。熱が下がったら、今度は旦那に対して無性に腹が立ってきた。
 夜8時に旦那は帰ってきた。
昨日の病院での出来事を話そうと思ったら、私に構わず「疲れてるんだ」の一言でベッドに潜り込んだ。
何、この態度? 昨日の若い医者と変わらないじゃない。いえ、もっとひどいわ。あの憎たらしい医者は一応私の方を見て喋った。
医者って何? 自分が偉いって勘違いしてるんじゃない?
涙が出た。我慢が出来なくて、ベッドに横たわる旦那に叫んだ。
「ちょっと、私の話も聞いてよ」
私に背中を向けたまま、彼はつぶやいた。
「明日にしてくれないか」
怒りが堰を切ってあふれ出た。
「あなたは、私が死んでも、きっと平気なんだわ」
最後の方は震えて声にならなかった。
旦那は起き上がると、びっくりするような大声で怒鳴った。
「いいかげんにしないか。36時間寝ずにぶっ通しで仕事してみろ。専業主婦のお前にはわからないと思うよ。一件の手術だけだって大変なストレスなのに、昨日は救急車で運ばれてきた患者の緊急オペまであった。人手が足りないんだよ。今日は朝から外来だろ、病棟回診、看護婦は指示出しが遅いってぎゃあぎゃあうるさいし。できるわけないだろ、3時までに指示出しなんて。こっちは昼飯抜きで働いてんだ。物理的に無理なことを要求してくるなよ。患者家族は患者家族で、一度に来てくれればいいものを、後から後から、何度も同じ説明を要求してくる。『奥様に説明してますから、できれば、奥様にお聞きになってください』と丁寧に言ったつもりなのに、医者の義務がどーの、傲慢なやつが主治医で可哀想だ、だの、勘弁してほしいよ。まったく看護婦といい、患者家族といい。俺だって神様じゃないんだ。家に帰れば女房までこれだ。お前のようなご身分になりたいよ。とにかく、疲れたから、今日は寝かせてくれ」
そう早口でまくし立てると、そのまま、ふとんをかぶってしまった。
 みんな、どうしているのだろう。医者の奥さんは、旦那とうまくやっているのだろうか。
旦那にとっては、時々帰ってきて寝るだけの家。二人は、違う方向を向いている。たまに帰ってきても、お互いが知らない時間を長く過ごしているから、気持ちがかみ合わないまま時間だけが過ぎていく。
 日中、薬の影響なのか熱の所為なのか、寝てばかりで過ごしたから、夜中に妙に目がさえて、処理しきれない自分の感情をどうしていいのかわからずイライラした。
午前2時、食卓のサイドボードから睡眠剤を取り出して飲んだ。30分もすると落ち着いてきていつの間にか寝ていた。
 次の日の朝、起きると旦那はもういなかった。
テーブルには空っぽになったクリームパンの袋がぱっくり口を開けて置き去りにされていた。その横に、小さなメモ用紙が置いてあった。
「すまないね、絵里」
走り書きだった。

 私が豪勢な結婚式を挙げた頃、短大の同級生は、私に妬みの感情を持っている人もいた。いやだわって思ってたけれど、まあ、私にも彼女たちを高い所から見下してる所もあった。
こんなはずじゃなかった。結婚してからもうすぐ3年になるけれど、ほとんど二人で出かけたことがない。子供ができないことも、影響しているかもしれない。
 寂しさから、習い事を始めた。第2、第4火曜日はフラワーアレンジメント教室に通っている。生徒は、みな裕福な家庭の人ばかり。出来上がった作品は、最初のうちは、応接間や玄関に飾っていたけれど、旦那が私の作品を見ることはほとんどない。何しろ家に帰ってこないのだから。
最近は通うのが苦痛になってきた。みんな幸せそう。ご主人は忙しいとは言っても、月に一度くらいは、二人でゴルフに出かけたり、園芸店にでかけて花の苗やガーデニング用品を沢山買ってきたなんて話を聞く。イングリッシュガーデンって言うの?何だか知らないけれど、そんな名前の庭を二人で作っているんだとか。
 しばらく教室に見えなかった後藤さんがヨーロッパ旅行のお土産を持ってきたときには正直言って腹が立った。私は一体何のために医者と結婚したのよ。
 医者って金持ちなんだろうか。最近、素朴にそう思う。確かに付き合っていたころはリッチな食事をしたし、車だってBMWだった。でも、彼自慢の愛車はお父様のお金で買ったものだったし、卒業後すぐは親から仕送りを受けていたと聞く。何で?と聞くと彼は答えた。「研修医なんて1ヵ月の手取り10万円だよ。そんなんで生活できないよ」私は冗談かと思った。家からの仕送りを期待できない研修医はバイトに出るのだそうだ。おかしな制度。30近い大人が、親から仕送りをしてもらうなんて……。もっとも、今は制度が変わって、研修医はそれなりの給料を貰っているらしいけど。
確かに年収1、000万円以上の職業ってそうないと思う。うちは1,200万円。結婚当初はさすが、って思った。でもこの前時給に計算してみたら2、500円だった。これって、どうなんだろう。

 もっとショッキングなことがあった。奈津子とばったり出くわした。奈津子は短大の頃の同級生。あの頃、よく学校をサボって一緒にお茶をした友達。すぐ近くに住んでることがわかった。懐かしさからついつい喫茶店で話し込んでしまった。彼女の旦那は大手銀行の営業マン。医者を旦那に持つ私を羨ましいと言った。税金って高いわねという話から、彼女は旦那の年収が税込みで1、400万円なのにどうして手取りだとこんなに減っちゃうのかしら、と嘆いた。ドクターだと桁が違うでしょうから、税金も大きいわねって。
 ちょっと待って。冗談でしょ? 銀行マンってそんなに貰ってるの? うちの旦那は彼女の旦那より下ってこと? しかも、2〜3年もすると職場を変わる旦那は退職金がほとんど当てにできない。前回だって転勤した時は、退職金ゼロだった。
奈津子じゃないけど、医者ってサラリーマンの10倍くらい稼いでいるような気がしていた。世間の男が結構な額稼いでいるということを今日知らされたのだ。
 おバカな私は、彼女のコーヒー代を持った。
奈津子は一度は「いいわよ。割り勘でいきましょ」と言ったけれど、私がショルダーバッグの中の財布に手をかけると「じゃ、この次は私が出すね」と嬉しそうに笑った。
もう少し強引に割り勘にしてくれたっていいのに。私の方も少々意地になっていたのも事実だけれど。
最悪の日。

 9月26日。今日は3回目の結婚記念日。
結婚記念日の私の昼食は、冷凍のチャーハンでーす。簡単なんです。チンで済むからね。
テレビのワイドショーではIT産業の若手社長を追っかけて取材していた。
32歳か。彼らは冷凍チャーハンなんて食べないんだろうなあ。
そんな下らないことを考えていたら、電話がなった。
旦那からだった。
「今日、久しぶりに一緒に外食しようか。ウィ・マダムに8時。僕はここから直行するから。それじゃ」
医局からかな、用件だけですぐに切れちゃった。
 ウィ・マダム。結婚前よく二人で行ったフランス料理店。結婚して初めて記念日を一緒に祝う。
一年目は、受け持ちの患者さんの容態が悪いとかで何もなしだった。
婚約中は色々プレゼントをもらっていたけど、それもなしだった。
でも仕方ないかも。財布は私が握っているから。それに、自分で買っちゃった。プラダのバッグ。本当はシャネルのが欲しかったんだけど、お目当てのがなかったからプラダにした。
その頃からかな。結婚してからしばらく我慢していたお買い物をしょっちゅうするようになったのは。ブランド物の雑誌は欠かさず目を通している。特に月刊誌「ENVY」は丁寧に。英熟語に cover to cover ってあったっけ。あれあれ。表表紙から裏表紙までじっくり。
そういえば、シャネルの新作が来月に出るらしい。ちょっと楽しみ。
 去年の結婚記念日は、当直の代わりが見つからなくって駄目だった。ちょうど外科学会だっけ、それと重なったため、ドクターが出払ってた。3年目にして、ようやく結婚記念日を祝える。素直に嬉しい。何を着ていこうかな。

 ウィ・マダムに8時きっかりに行くと、旦那はまだだった。本当は先に来て待っていてほしかったのだけど。
予約席へ案内された。
こういう所に来ると、気持ちがシャンとして不思議。
音楽は耳障りじゃない程度に静かに流れていて、入り口に飾ってある豪華な花もこの雰囲気もお店の人たちのかしこまった応対も、すべてが私を結婚前の私にスリップさせてくれる。
服は、散々迷った挙句、結婚前に何度か着た服にした。ママと買いにいった服。
先月買った服も良かったけれど、こちらにして正解。気持ちが本当に昔に戻るもんね。
 15分して旦那がようやく到着。
「ごめん、ごめん。大急ぎで仕事を片付けたつもりだったけど、結局遅刻だね」
ワインで乾杯した。
アスパラガスのスープも赤貝の前菜もおいしかった。子羊のワイン蒸し、柔らかくて最高。久しぶりの贅沢。パンをちぎりながら彼は言った。
「旅行したいね。ホント、時間があったらなあ。金、貯めたら一緒に南仏で本当のフランス料理を食おうね」
冗談なのか本気なのか、さっぱりわからなかったけれど、嬉しかった。
「そうね。来年?」
「え?来年は無理だな。んー、再来年?」
「来年が無理なら再来年も無理なんじゃない?」
これって単なる言葉遊び?
 久しぶりに結婚前のあの幸せだった頃に戻りかけたとき、二人の女性が横を通り過ぎようとした。そのうちの一人、ショートヘアの女性が、突然旦那に声をかけた。
「あれー、斉藤先生?」
私と旦那は、驚いて女性を見上げた。
「え? あれ、石坂先生。昨日はどうもありがとうございました。いやー、白衣を着てないと全然わかんないですね」
旦那はフォークを手に持ったまま、立っている彼女に返事をした。
「DM(糖尿病)の患者さん、助かりましたよ。血糖コントロールめちゃくちゃだし、心配しました。おかげさまで、無事オペも済みました。先生にはいつも感謝してますよ」
「あ、いいえ、どういたしまして。こちらは先生の奥様? 噂どおりきれいな方ですね。いいなあ。私達は女同士でお食事会なんです」
褒められてもあんまりいい気持ちはしなかったけれど、一応笑顔で会釈した。
でも私の会釈は、ほとんどどうでも良かったみたい。さっさとあっちに行ってくれればいいのに、旦那にまだ喋り足りないらしい。
「術後はどうしても血糖が乱れますから、しばらく私がインスリンの指示を出しますね。水曜日は私、不在になりますけど、大塚先生にお願いしてますから、糖の方は私達にばっちり任せてください」
「いやー、助かるなあ。何から何まで、お世話になります」
これで終わるかと思ったら、また、その女、喋りだした。
「実は、外来で見ている患者さんでちょっと気になる方がいらっしゃるんです。何にもないとは思うんですが、一応、トゥモールとかルールアウトしたいので、いつか先生に相談したいって思ってたんです。MRIこちらでオーダーしてご紹介した方がいいですか?それとも、そのまま紹介させてもらっていいですか?」
「ああ、直接ご紹介ください。診察してからオーダーします。必要があればアンギオまで検査しますので」
「ああ、よかった。ありがとうございます。ごめんなさい。すっかりお邪魔しちゃって。それでは、失礼します」
お邪魔もお邪魔。そういう会話は病院ですればいいでしょ。場所をわきまえない人ね。私は蚊帳の外。何だか馬鹿にされたような気がしていた。
「いやあ、びっくりしたなあ。あれ。ふくれてるの?」
「別に」
いい感じでお料理食べてたのに、白けてしまった。
そのとき、彼のPHSが鳴った。
「あ、もしもし、斉藤だけど」
病院かららしい。しばらく相手の話に耳を傾けていたが、急に真顔になった。
「え? まじ? いや、まずいな。えーっと、まず、高岡先生に連絡して。僕もすぐ行くから。あ、ポータブルでいいから胸写撮っててくれる?それから、ラシックス、イチアン、側管からアイブイしといて。10分でそっちに着くからよろしく」
PHSを持ったまま私の方を向くと早口で言った。
「ごめん。ゆっくり食べていって。悪いね、患者さんの容態がおかしいそうなんだ。僕はタクシーで病院へ戻るから」
白けた雰囲気を取り繕うこともなしに、旦那は立ち去った。

 独り取り残されて、気がついたらツーッと涙がこぼれていた。
南仏旅行?笑わせないで。東京で一緒に外食することさえできていないのに。
いつまでこんな生活が続くんだろう。5年?10年?それとも20年?
 働いている人はいいと思う。自分を頼ってくれる人がいて、ありがとうって感謝されて。
私、心の中ではさっきの女医さんには敵わないって思ってる。
あの女医さんが不細工な人だったら、まだ、こんな気持ちにはならなかっただろう。街で会ったら男の人が声をかけたくなるような、きれいなお嬢さん。それに旦那と同じレベルの会話ができる。
私って、旦那が病院でどんな仕事をしているのかさえ、考えたら、何も知らない。見学させてくれたとしても、多分あんまり理解できないだろう。
 今日の私の心はまるでジェットコースターだ。途中まで有頂天、今は撃沈。気分が沈むと悪いことばかり考える。
 旦那は私と付き合う前は、女医の卵と付き合っていたんだっけ。何で私と結婚しようって思ったんだろう。
私と一緒にいたって、仕事の話はできないし、何でだろう。まあ、私とママの作戦が奏効したっていう面はあるとは思うけれど。
病院には、女医もいる。看護師もいる。事務の人とか、薬剤師とか、考えたら女性が一杯いるじゃない。不倫とまではいかなくても「心の不倫」はいつでもできる。
 デザートが一人分だけ来た。もう帰ろう。くだらないことばっかり考えてる。惨め。医者と結婚して、私、本当に惨め。
 化粧室で化粧を直してから、店を出た。来たときと同じ一人で。思いっきり強がりの笑顔で愛想を振りまいて店を出た。
店の外に出ると窓際のボックスに女医が二人、向かい合って座っているのが見えた。
窓越しに見るあの人は、ダークオレンジの明かりの中で、さっき会ったときよりも綺麗だった。
彼女が悪いわけではないけれど、憎しみのようなものが心の中に広がっていくのを意識した。
理屈じゃない。何と言えばいいのだろう、自分でも認めたくない私の中のどす黒い煙が、私を包み込もうとしていた。
私は逃げるようにその場を離れた。

 結局、その日は、旦那は帰ってこなかった。
そうです。旦那はお医者さんです。患者の具合が悪ければ、帰って来られません。
そんなの、わかってる。わかってるわよ。
誰に言われなくったって、そんなこと、わかりすぎてる。
でもね、私は、どうしてここにいるの? 何のために、ここにいるの?
 ああ、また始まった。落ち込むと、必ず、この終わりの無い思いがぐるぐる回りだす。私って、もしかして狂ってる?

 次の日、旦那は夕方7時に帰ってきた。
「ただいま」
「……」
「何か、食べるものある? 腹減った。」
旦那の頭の中では、昨日のことは遠い出来事になっているのか? 
「お茶漬けならあるけど」
「何でもいいよ」
旦那は、冷蔵庫から缶ビールを一本出してソファに座るとテレビのリモコンをつけた。
私は、デパートで買ってきたロールキャベツがあったのを思い出して、なべに入れて暖めた。サッカーのワーッという声援が耳障り。
 旦那は、夕飯を10分で食べると、私がまだ食べてるのに、さっさとソファに戻ってサッカー観戦を続けた。
男の人はいいと思う。何これ。
後片付けの前に一言言ってやろうとソファに行くと、旦那はすでに眠りについていた。
よくもこんな騒がしい音を聞きながら眠れるものだ。
ブラジル選手のゴールが決まって、アナウンサーが大声で叫んでいる。うるさい。私はリモコンを切った。
 旦那が帰ってくる前の静寂に戻った。
旦那はそこにいるのに、私は一人ぼっち。
ほとんど会話もない。
私が昨日のことで寂しい思いをしているのにも気づきもしない。
私の頭の中に初めて「離婚」という文字が浮かんできた。
 そもそも、「結婚」って一体なんだろう。
この人のそばにいつもいたい、そういう思いで結婚した。
私のことを大事にしてくれると思ってた。医者だったら、私のこと、幸せにしてくれると思っていた。だけど、私はいつも孤独。
医者の稼ぎだって、結婚前に想像していたのとは違う。ヴィトンのキャリーバッグを買ったら、今月は何だかもう生活費だけになった。ボーナスなしだから、一般人のようにボーナス月でリベンジすることができない。銀行マンより下。うちの旦那は銀行マンより下なのだ。

 今、考えると、高校の同窓会に出席したのが間違いだったのかもしれない。
大庭隆。当時サッカー部の主将をしていた。無口な人で、私の親友が彼の熱烈なファンだった。一度、彼女の書いたラブレターを彼に渡してあげたことがあった。結局うまくいかなかったけれど。
 同窓会で会った彼は、相変わらず端正な顔立ちをしていた。当時ほど痩せておらず、昔よりいい感じになっている。高校の頃は女子とほとんど話したところを見たことがなかったけれど、いつの間にか社交的になっていて、流れた時間の長さを感じた。ライトブルーの背広は同級生の中で目立っていたが、同時に彼によく似合ってもいた。話をしながら、彼の美しい指に魅かれていく自分を意識した。
 初めて知った。高校生の頃、彼は私に思いを寄せていて、私が他人のラブレターを彼に渡したことは大変なショックだったのだということを。
こんなこと言われて、悪い気のする女性はいないだろう。
「言ってくれれば良かったのに」
「え?ホント?」
「少し、違った展開になってたかもよ。なーんちゃって」
最後は笑ってごまかした。いくら何でも、この話題を続けるのは危険だと思った。心臓が少しドキドキしていた。

 それから1ヵ月ほどいつものように経過した。
相変わらず旦那は忙しく、私はひとりぼっちだった。
今日は日曜日。旦那もお休み。
それにしても、今日の旦那は、いやに無口。朝からほとんど口を開かない。お疲れなの?
トーストにバターを塗りながら、旦那が口を開いた。
「あのさ、昨日、テーブルに通帳が置きっぱなしになってた」
旦那は、じっと私の顔を見た。
「都倉銀行だけ?他にも銀行口座作ってる?」
「え?いくつも銀行口座を作る必要があるの?」
旦那は首を横に振りながら目を閉じて黙り込んだ。
「定期預金は?」
「ううん……」
トーストをお皿に置いて、両肘をテーブルにつき顔の前で手を組んだ。何か言葉を探している様子だった。静かな声で、旦那は聞いた。
「残高は、あれだけなの?たったの150? 何にそんなにお金がかかるの?」
「何にって言われたって、部屋代とか食事代とか、電気代とか……」
いきなり、旦那がテーブルをたたいた。コーヒーカップがガチャンと音を立てた。
「ふざけるなよ。毎月80万近く入ってるはずだ。一体どうやったらそんなに金が出ていくんだ。何に使ってるんだよ」
何も言えなかった。自分でも少し使いすぎかなと思ってた。何にどれだけ使ってるのか、正確には答えられない。気がついたら、いつもほとんど使っていた。
でも、生活費だって結構かかる。そんなにめちゃくちゃ使っているつもりはないのに。
「あのさ、僕が病気したら、どうやって生活していくつもりなの? 将来、開業することも考えておきたいだろう? 毎月貯金することは、そんなに難しいことじゃないと思ってたけど」
答えようにも涙があふれて声が出なかった。
だって、保険に入ってるじゃない。病気することは、あんまり真剣に考えたことはなかったけれど、病気しても毎月生活費が出る保険にだって入ってるじゃない。お父様だってきっと援助してくださると思うし。何も、そんなに怒らなくったって……。
開業?そんなの聞いてないわよ。
 旦那は不機嫌なまま病院へ出かけた。今日は久しぶりのオフの日なのに。
しばらくテーブルで泣いた。
自己嫌悪が半分、わかってもらえない悔しさが半分。
私は旦那の何?何のためにいるのだろう。私は本当に必要な存在なのだろうか。
ああ、また、始まった。いつものぐるぐるが。
もういや。ここにいると私本当に気が狂ってしまう。
いつも一人ぼっち。ここにいると、余計に孤独。
 手紙を書いた。
「ごめんなさい。あなたの役に立たない女で。絵里」
銀行に行って50万円おろしてきた。残高1,023,045円。旦那の通帳とカードを手紙の横に置いて、私は家を出た。現金と着替えをスーツケースに詰めて。私の通帳には110万円入っている。何とか当分はしのげる。

 気づいたら横浜だった。今日はとにかく疲れた。気の向くまま適当にタクシーを降りると、少し先に背の高いホテルが見えたので、そこを目指して歩いた。
 部屋を案内してきたボーイがスーツケースから手を離したとき、私の携帯電話が鳴った。
ボーイはあわてて、ごゆっくりどうぞ、と言って出て行った。
携帯の画面には旦那の携帯番号が表示されていた。私は電源を切った。
シルクのTシャツとズボンに着替えると睡眠剤を飲んでベッドにもぐりこんだ。旅行の時用に購入していたパジャマ代わり。まさか家出で使うことになろうとは。

 翌朝、私は空腹で目が覚めた。
そういえば昨日は、昼にサンドイッチを食べただけで何も食べずに寝たんだ。
 一階のビュッフェで朝食を取った。バイキング方式の朝ごはん。何も考えずに楽しむことにした。
クロワッサンとベーコン、温サラダ。まあまあの味。
コーヒーを飲みながら、ぼんやりしていると、目の前をブルーの背広の男性が通り過ぎた。
 一瞬、びくっとした。横浜。大庭隆のいるところ。
私がそのことを意識していたのかどうか、今となっては、よくわからない。思いつきでタクシーを拾ったのはいいが、行き先を聞かれてあわてて「横浜」と答えた。同窓会で隆が横浜のベイブリッジの話をしていたのを思い出したのかもしれない。タクシーの中での自分を思い出そうとしたけれど、やっぱり思い出せない。頭が混乱していたことだけは確かだけれど。
 通り過ぎた男性の背広は少し濃いブルーだ。隆が着ていたのとは違う。体格が隆に似ていた。全然別人だったけど。
 部屋に戻ってテレビをつけると高速道路で起きたトラック横転事故のニュースを伝えていた。バッグからマイルドセブンを出そうと中を覗いたとき、バッグの内ポケットに入っている名刺に気がついた。胸が高鳴った。隆にもらった名刺。ちょっとためらったけれど、出してみた。
 小さな出版会社だが、企画部長の肩書き。ブルーのデコボコラインが二本斜めに入ったデザイン。会社の電話番号とファックス番号が書いてある。裏返すと、手書きで携帯電話番号があった。
え?書いてもらったっけ。
マイルドセブンに火をつけて口にくわえると、しばらく私は名刺を手にしたまま番号をじっと見た。
テレビが9時の時報を伝えた。その音に驚いて私は現実に戻った。
バカな私。我に返って名刺をバッグに戻した。心臓は、9時の時報から高鳴ったまま、元に戻らない。

 これからどうしよう。本当に行き当たりばったりで、こんな所まで来てしまった。
ママに電話を入れる。
「ママ? 私。元気?」
「絵里ちゃん? あなた、一体どこにいるの? 無事なのね?」
「え?ええ。どうしたの?」
「どうしたのって、一輝さんから電話があって」
ああ、そうか。旦那が連絡したのか……
「何て言ってた?」
「絵里、そちらに来てませんかって」
もしかして、捜索願いなんか出したんだろうか。
「それで?」
「それでって、あなた、一体どこにいるのよ。携帯はつながらないし、さっき、自宅に電話したのよ。もしかして帰ってるかしらと思って」
「ちょっとね。色々あって……」
 旦那は、ママに一回だけ電話を入れたらしい。あまり心配した様子でもなく、ただ、そちらに来ていませんか、来ていないなら、それでいいですけどと、それだけだったと。
私はしばらく一人旅を楽しむ予定だから心配しないでとママに伝えて電話を置いた。
今日は、月曜日。自宅に電話を入れてみた。誰も出なかった。当たり前か。旦那は病院だ。
 その日、私は、ぶらぶらして過ごした。昼前から映画を見て、その後は、ウィンドウショッピングを楽しんだ。
喫茶店で新聞を読んでいると、若い男性二人が私を見て何やら話しているのがわかった。そうよ、私だってまだ捨てたもんじゃないんだから。
ファミリーレストランで豚肉のしょうが焼きを食べてホテルに戻ると、7時だった。一日、不思議と楽しかった。部屋着に着替えてお茶を入れた。
カーテンをあけて外をみると、遠くにレインボーブリッジが見えた。
レインボーブリッジ……

「もしもし。あの……」
私は携帯をかけていた。はじめから、これが目的で私はここ横浜に来たのだろうか。無意識に、と思いたいけれど、意識的にそうしてきたのかもしれない。東京でタクシーを拾ったときから。
「もしもし、大庭です」
低いトーンのおちついた声が返ってきた。
「あの、」
言葉を探していると、隆の方から喋りだした。
「え、もしかして、絵里さん?」
「え、ええ。あの、私、横浜にきちゃった」

 私の旦那、一輝はもともと優しかった。結婚してからも、彼の優しさを感じるときはあった。
私は、彼が医者だから結婚した。けれど、今考えると、彼が医者だからうまくいかなかったような気がする。
あまりにも家庭を犠牲にする生活。
医者の妻だから我慢するのが当然といった態度。
私は寂しさに耐えられなかった。
結婚しているからこその孤独。
一日中、ひとりっきりで部屋にいると、いつも絶望的な気持ちになった。
一輝を嫌いになったわけじゃない。いいえ、憎いくらい好き。
だけど、結婚は恋愛の続きじゃない。
わかってほしかった。私のつらい思いをわかってほしかった。
神様は、そんな時間も彼に与えてくれなかった。これからも多分与えられないだろう。
 一輝はいつも疲れていた。疲れて帰ってきているのに、家にいても寝ていても気持ちは病院に置きっぱなし。目の前に私がいるのに、私の方ではなく病院ばかり見つめていた。そんな彼の傍で何もしてやれない私。自分の無力さも思い知った。

 電話の後、隆は、オートバイを飛ばしてホテルまで私に会いに来てくれた。
「びっくりしたよ。まさか、電話をくれるなんて思わなかったから」
何時間、話しただろう。母親からお見合い話を次々に持ち込まれて困っている話、アパートに飼っているカメとハムスターの話、下らないジョークばかり飛ばしていた元同僚の話、部長に昇進して、今までと違う新たなストレスを感じている話。
文句を言っている割には嬉しそうに喋る。そこそこ仕事にも満足している様子。
 私は一人がけソファに、隆はベッドに腰掛けて向かい合って喋り続けた。
「一気に喋って喉が渇いちゃった。ちょっと自販機で何か買ってくるよ。」
隆がそう言って立ち上がりかけた。
 あわてて部屋に備え付けの小さな冷蔵庫を開けると、飲料水が十数本入っていた。お茶とミネラルウォーターを取り出して差し出すと、彼はお茶を受け取った。
小さなテーブルをベッド近くまで引き寄せて、私は、隆の座っているすぐ横へ座りなおした。
「ところでさ、ご主人に黙ってこんなところまで来て、大丈夫なの?」
「‥‥‥」
「ボクって絵里さんが思っているほど紳士じゃないんだよ。下心のない男なんて、この世にはいないよ」
 これまで、私は、友達にも、それにママにだって、自分の本心を明かしたことはなかった。
独身時代より結婚している方がずっと孤独になるってこと、誰も教えてくれなかった。
これまで口に出すのも怖かった。孤独だってことを口にした途端、もっと孤独になりそうな気がしていたから。
「あの人と結婚してから、私、独身の時より孤独なの。おかしいでしょ。心が壊れそうなの」
初めて本音を口に出して、私は泣いた。隆がゆっくりと私の身体を引き寄せた。

 それから一年後に、私は、正式に一輝と離婚した。


生まれて初めて小説を書いてみました。結構ありそうなパターンじゃないかなあと思いながら。ただ、私自身が少々ムリして主人公のキャラクターを作っているので、話の流れが不自然かもしれないなあと懸念しております。投稿するのってドキドキしますね。













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