孤獣の伴侶
アジアの架空の国を舞台にした、ファンタジーです。
夜空にもうもうと灰色の煙が上がり、火の粉が次々と爆ぜては闇に消えて行った。
そこは官人の住まう邸宅であったが、今やその豪奢な全ては炎に飲み込まれようとしていた。細かな透かし彫りの欄間も、螺鈿細工の施された柱も、一枚板の艶やかな床も、きしみを上げては黒く焼けおちていく。ほおずきのように連なった硝子の提灯が、天井から切れて落ちて儚い音を立てた。
「早く! 早く娘を!」
白絹の寝着姿の主人が、見開いた眼に炎を映しながら手を振り回す。主人の八歳になる娘が、邸宅の中に取り残されているのだ。数人の使用人が命に従おうとするそぶりを見せたが、中に入るのがもはや不可能であることは誰の目にも明らかだった。
恐慌状態に陥った主人は、奇跡の雨を求めて夜空を振り仰ぐ。その瞬間、大樹の梢に二つの目が光っているのを見つけた。
一頭の、獣だった。顔は熊に似ている――いや、鼻づらがやや長く狼にも見えた。頭部は長めの毛に、それ以外の上半身は短い黒い毛におおわれている。下肢は毛深く、ばねの利きそうなしなやかさを持っていて、手首から先と足首から先が大きい。
二本の足で太い枝の上に立ち、五本の指で幹に手をついているそれは、神話の時代からこの国に住むと言われる『孤獣』だった。その名は、常に一頭しか存在しないという言い伝えによるが、人の近寄れない樹海深くに住むと言われ、確かめたものはいない。
まだ幼いらしく、学舎で学び始めるころの人間の子ども程度の大きさしかない。警戒の色は一切なく、尾をゆっくりと振っているのは、おそらく火事を見物して楽しんでいるのだろう。
鋼の色のたてがみが炎の赤を映して光るのを見た瞬間、家の主人は言い伝えを思い出した。すなわち、その毛皮は火も水も弾く……と。
「炎を従える獣よ!」
主人はなりふり構わず大樹にまろび寄り、幹にすがりついて叫んだ。
「我が娘を炎の中から助け出してくれ!」
孤獣は逃げることなく、軽く首を傾げるような仕草をして主人を見下ろした。孤獣は人語を解し、またある程度は話すこともできるという。こちらの言うことはわかっているはずだが、今度は枝にひょいと腰を下ろした。動く気はないという意思表示か。
「頼む、頼む、娘が焼け死んでしまう。もしも娘を助けてくれるなら、その命はお前のものだ。娘が成長した暁には妻にするがいい!」
主人の言葉を聞いて、孤獣は大きくとがった耳を震わせた。そして燃え盛る邸宅の方を向き、耳をすませるような、匂いを嗅ぐような表情でしばらく動きを止めると、ふっと身体を浮かすようにして枝の上に立ち、体重を感じさせない動きで跳躍した。
炎の海に、鋼の獣が飛び込む。轟々と勢いを増す炎、きしみ、割け、崩れ落ちる館の悲鳴。瞬き数度の時間が、長く残酷に過ぎる。
人々があきらめかけた頃、炎を振り切りながら孤獣が飛び出した。獣は自分より身体のやや大きな少女を背負っており、人にあらざる力で軽々と運ぶと先ほどの梢にもう一度降り立った。
主人が手を差し伸べ、膝をついて木の下で泣いているのを一瞥し、孤獣の少年は少女を木の股に下ろして幹にもたれさせた。
少女は少し煙を吸い、朦朧としていた。煤けた額に、切りそろえた前髪がかかっている。寝着からのぞく細い手足は力なく投げ出されていたが、やがてピクリと動いた。ゆっくりと開かれた瞳に光が戻り、大きく咳き込むと、少女は目を見開いて孤獣を見つめた。
「……くま?」
孤獣の少年は、同じ目線でぐっと顔を寄せた。息が少女の顔にかかり、とがった歯が見えた。
「おまえは、おれがもらうことになった」
ややかすれてはいるが、人間の少年に近い声。
「おまえ、なまえは」
「……スイリン」
「しゅい……シュリンか。おまえがおとなになったら、もらいにくる」
少年はもう一度少女の腕を引いて背負うと、一気に木の下に飛び降りた。悲鳴も出ない少女を根元に下ろすと、すぐに炎の照らす場所から闇の中へと消えた。
駆け寄って来た父親に涙ながらに抱きしめられながら、スイリンは呆然と闇に映る残像を追っていた。
◇ ◇ ◇
建て直された邸宅の真新しさも、周囲の景色に馴染んで数年が過ぎた。
その日、官人の家には、近隣の住民が大勢見物に訪れていた。家の前には大きな車輪のついた輿が止められている。官人を象徴する鶴の刺繍の入った簾は今は巻き上げられ、誰かを乗せるのを待っている。
開放された間口の中、螺鈿細工の衝立の向こうから、着飾った美しい娘が現れた。長袖の白の上衣の上に、袖なしの長い青の外衣を着、腰ではしょった上に細い帯を巻いた服装は普段通り。しかしこの日の外衣は吉祥模様である蓮花や瑞雲が刺繍されたきらびやかなもので、長めに下ろした裾を侍女が捧げ持っている。見物人の間からため息が漏れるような美しさだった。
重たげに揺れるかんざしを幾本も挿した娘はうつむいて歩いていたが、輿の前で足を止めて振り返った。後からついてきていた満面の笑みを浮かべた父親に向かい、美しく整えられた眉をひそめ、紅を載せた唇を開く。
「お父様。私、やはり」
「スイリン。その話はもう済んだはずだよ。お前はこれから幸せになりに行くのだから、余計なことは忘れなさい」
「…………」
十五歳になったスイリンはため息を一つつくと、一度顔を上げてあたりを見回した。そして、耳を澄ませるような、匂いを嗅ぐような表情で少し動きを止めていたが、やがてまたうつむくと輿に近寄った。
その時、邸宅を囲む竹林が、風もないのにざわりと鳴った。はっ、とスイリンが顔を上げ、それを見た見物人や家人がいぶかしげに表情を変えた。
次の瞬間、ごうという音とともに、黒い風がスイリンをさらった。
悲鳴を上げた人々が見上げると、かつての火事で焼け残った木の梢に、孤獣が立っていた。
右腕に抱いたスイリンより、頭二つ分は大きい。太い首から続く隆々と盛り上がった肩、締まった腰。その上半身を支えるがっちりとした下肢、大きな足。背中から尾にかけては長い鋼色のたてがみが生えており、すでに成獣となってだいぶ経っているかに思われた。娘の腰を抱く手など、まるで綿を入れた皮手袋をつけているかのように大きい。
娘の名を叫んで木にすがる父親を見て、孤獣は喉の奥を鳴らして言った。
「あのときとおなじだな」
そして、一時も目をそらさずに黙って自分を見つめているスイリンと目を合わせると、左手を伸ばして数本のかんざしを一気に引き抜いた。艶やかな黒髪が、踊るように背中に滑り落ちる。
孤獣はかんざしを木の下へ投げ捨てると、
「約定をはたしにきた。むすめはもらっていく」
としゃがれた声を投げ、スイリンを腕に座らせるように抱いて跳躍した。スイリンが振り落とされまいと、ふさふさした首にしがみつく。
二人の姿はあっという間に、一陣の風のように水路を飛び越え、林をすり抜け、広がる水田の向こうの丘を越えて消えて行った。
高地に広がる樹海の奥に、岩山の岸壁に彫り込まれる形で作られた遺跡があった。人や動物など様々な壁画から伺える、かつての王国の栄光。今では苔むして朽ちかけたそこが、孤獣の住処だった。
わずかな足場をとらえ、人間は到底登って来られない高さまで軽々と外壁を上った孤獣は、岩山の上から白糸のように流れ落ちる滝の裏側から壁の裂け目に入り、自分の『巣』に入ってスイリンを下ろした。
藁の敷かれた床にへたり込んで息を整えながら、スイリンが孤獣を見上げる。瞳に浮かぶわずかな怯えは当然のものと言えたが、意外なほどに娘は落ち着いていた。
しんと静まり返った、水の匂いのする石造りの部屋。過去に住んでいた人々の気配が、青い花のような娘の存在にわずかに呼び覚まされたように漂った。
やがてスイリンは、口を開いた。
「遅いから、間に合わないかと思ったわ」
「……?」
孤獣の鼻面に、かすかにしわが寄る。
「私、お嫁に行かされるところだったのよ。ちゃんと何度も言ったのに、お父様ったら全然取り合おうとしないんだから」
「……おまえは、それをのぞんだのではないのか?」
「当たり前です」
娘は興奮に頬を染め、もどかしげに言った。
「だって、お父様はあなたに約束したんでしょ? 炎の中から私を助ける代わりに、私が大人になったらあなたの、つ、妻に……って」
獣が黙って娘を見つめると、娘は一人で話を先へと続けた。
「きっとあの子は大人になったら私を迎えに来るから、私は待つって言ったのに、お父様はあなたが来る前にと勝手に他の人との縁談を進めてしまって。お父様ってそういうところがあるのよ……約束を忘れたふりをするの。お仕事でも、よ? お金で結んだ約束しか信じないんだから。でもこれでやっとわかって下さったでしょうね」
そして娘はきちんと座り直すと、緊張の解けないまま笑顔を作った。
「あの子なんて言ってごめんなさい。あなたは、私たちよりも大人になるのが早いのですね。ちょっと、びっくりしたの……想像していたよりずいぶん大きくなっていたから。あの、よろしくお願いいたします」
孤獣は嘘をつくことなどそもそもあり得ない生き物で、もしも娘が約束をたがえようとしても、構わずにさらってくるつもりであった。しかし、獣と交わした約束を、生真面目な娘はずっと温め続けて来たのだ。
娘と獣は、周りの考えにも種族の壁にも時間にも惑わされず、ただ約束をし、それを守った。それは二人にとって、とても自然なことだった。
「シュリン」
獣は、記憶に刻まれていた娘の名を呼び、
「はい」
娘は、名前で縛られることを嫌う獣に名をつけなかった。その必要もなかったのだ。
こうしてスイリンは、孤獣の伴侶となった。嫁入り道具と言えば、腰帯にはさんでいた懐剣と扇だけだった。
孤獣は伝説の通り、たった一頭で遺跡に暮らしていた。物心ついた時にはここにいて、ある日を境にここで代々暮らした孤獣の記憶を受け継いだのだという。遺跡が孤獣の記憶を預かっては還すのだと、スイリンは自分なりに理解した。
それぞれが食べるものは微妙に異なっていたし、衣服も獣は身につけなかったが娘は身につけていた――幸い婚礼衣装は何重にも重なっていたので、何着かの服を持参したのと同じようなことだった。
そのような違いは、二人が異なる文化を持つ生き物なのだと事あるごとに二人に知らしめたが、雄と雌としての結びつきには何の障害もなかった。野生の、本能の部分が同じであることは二人を安心させた。
しかし、秋が深まる頃に孤獣は考えた。温かな人間の家でずっと暮らしてきた娘には、この冬をこのような場所で越すことはできないのではないかと。
その年の、初霜が降りた朝。霧の忍び込む藁の寝床、獣の腕の中で目覚めたスイリンが一つ咳をするのを見て、獣は一つの決断をした。
自邸の回廊を歩いていたスイリンの父親は、庭に娘を抱いた獣が立っているのを見つけると狂喜して、裸足で庭に飛び降りた。
獣は低く唸って彼の足を止めさせると、言った。
「しばらく妻をあずける。きのめがでるころ、むかえにくる」
そして、ごつごつした大きな手のひらで娘の頬を傷つけないように注意深く挟み、娘と額を合わせた。
「約束だ。シュリン」
「はい。約束です」
スイリンはうなずき、庭の垣根を飛び越えて去る獣を微笑んで見送った。
木々の若芽が芽吹くころに約束通り現れた獣が、娘を返し渋る主人の態度に腹を立ててひと暴れしたおかげで、主人も気持ちに折り合いをつけざるを得なかった。
そしてその年から、冬になると獣はスイリンを実家に預け、寒さが緩んでくると迎えに来るようになった。その約束は毎年守られた。子は授からなかったが、二人を分かつものは何もなかった。
固く約束を守る二人の姿に、主人も二人を信じるようになり、見守った。
◇ ◇ ◇
再会の約束は十度繰り返され、果たされた。それはいつまでも変わらないように思えたが、年月はあらゆるものを変化させていく。
そして時間は、人間の娘と孤獣を異なる潮流に浮かべていた。
再びめぐって来た初霜の季節、孤獣はスイリンを抱いて実家の近くまでやって来ると、いつか炎の海をそこから眺めたあの木の上にするすると上って邸宅の様子を伺った。
スイリンはそんな夫の様子を、じっと見つめた。あの時、炎の色を映して艶めいていた鋼色のたてがみは、今ではくすんで白っぽくなり厚みも減っていた。昨夜、身体を重ねた時に、夫の手足がやや細くなったように感じたことを思い出す。
予感を振り切るように、スイリンは言った。
「春のお迎えを、お待ちしていますね」
すると、孤獣は言った。
「つぎの春は、むかえにこられない」
予感が現実になったのを悟り、スイリンの瞳から涙がこぼれ落ちた。
誇り高い獣である夫は、人間よりも早く訪れる最期を人目に晒すことなく、逝こうとしている。
未だなお力強いその胸に顔を埋め、スイリンがしがみつくと、獣は言った。
「わかれではない。いつかかならずまた、むかえにくる」
はっとして顔を上げ、獣の黒い瞳を見つめる。あの日と変わらない真っ直ぐな光が、言葉が真実であることを告げていた。
「約束、ですね?」
スイリンがささやくと、獣の両手が彼女の頬をはさみ、額と額がそっと合わせられた。
「約束だ、シュリン」
そして獣は素早い動作で木から飛び降り、スイリンを庭に下ろすと、間をおかずに跳躍して垣根を飛び越え、風のように姿を消した。
娘が戻ったことに父親が気づくまでずっと、スイリンは庭に立ち尽くし、夫の残していった風を感じていた。
冬が過ぎて変わらずに春が訪れたが、孤獣は娘を迎えに来なかった。
娘は父の仕事を手伝い、時折どこかの誰かの後添いにという縁談を誰かが持ってくるのをそのたびに断りつつ、日々を過ごした。
◇ ◇ ◇
季節は幾年も繰り返され、十の冬が過ぎた。
春の訪れを祝う行事の習いで、その年も官人の邸宅の庭を囲む回廊には、ぐるりと提灯が吊るされた。鈴なりになった柔らかな灯りが夜の庭の池に映り、池に泳ぐ錦の魚たちがそれを幻想的に揺らしている。
提灯に灯を入れ終えたスイリンは、回廊の手すりにもたれて庭をながめた。三十も半ばの年になった横顔が、柔らかな灯りに浮かび上がる。もう娘時代のようなはっきりした色の外衣ではなく、木の葉の裏側のような落ち着いた色の外衣をまとっていた。
その頃スイリンは、恩のある父親の上司から後添いにと望まれていた。独り身のままこの家に居続けるのも、心苦しく感じていた。
池の魚が跳ねた、と思った時、視界の隅の方で、何か別のものが動いた。
樹上に、灯りを映して艶めく光。鋼の体毛。盛り上がった肩、力強い手足。スイリンははっと息を飲んで、庭へと降りた。
大きな影が梢を揺らして、スイリンの目の前に飛び降りた。背はスイリンとほぼ同じくらいだろうか。
「……遅いから、間に合わないかと思ったわ」
スイリンは震える声で言った。
「私、また、お嫁に行かされるところだったのよ」
「おまえとくらしたすみかが、思いださせてくれた。……シュリン」
かすれた声で、夫だけの呼び方で、獣がスイリンの名を口にした。
「はい」
スイリンが獣の胸に身を寄せると、懐かしい匂いをまとった腕が彼女を抱いた。
「約束どおり、またおまえをもらいにきた」
「はい」
妻が首にしがみつくと、獣は跳躍した。
二人は風のように夜の闇に紛れ、見えなくなった。
家人が気づいた時には、回廊の提灯が風に揺れるばかり。
それから再び、孤獣は冬になるとスイリンを実家に預けにきた。
スイリンは年老いた父親と年を越し、春になると夫の所へ戻る暮らしが繰り返された。
幾年もの月日が流れ、やがてスイリンの父も病を得て亡くなった。
使用人も入れ替わり、官人の邸宅も年月を刻んだ。
そして、ある年の春を最後。
スイリンと孤獣はとうとう、霜が降りても姿を現さなくなったという。
【孤獣の伴侶 完】