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御狐様の武士 ~元禄婚約破棄物語~

作者:足軽三郎
 水無月のその日は、朝から雨が降っていた。起床した時には何とも思わなかったが、今にして思えば暗喩的だったとも言える。即ち、自分の身に降りかかった不幸により、林原刀助(はやしはらとうすけ)はずぶ濡れであるという。


「今、何と申されましたか?」


 固まったまま動けない刀助に代わって、傍らの両親が問う。その言葉の切っ先は鋭い。両親とも武家の出である。このような事態において、黙っていられる程大人しくは無い。


「再度申し上げます。私、六ツ瀬美津(むつせみつ)は 刀助殿との婚約を――取り止めさせていただきたく存じます」


 刀助の視線の先で、娘が口を開いた。江戸で流行りの元禄島田の髪も艶やかに、けれどもその表情は全く笑っていない。刀助は幼き頃から、その笑顔を知っている。けれども、娘――美津の顔に浮かぶ表情は笑顔とは正反対だ。


 無感動、無表情、いや、違う。これは無関心と言うのだと、刀助は気がついた。気がついてしまった。


 六ツ瀬の両親が平に謝る。畳に額を擦り付けるその横で、美津もまた頭を下げた。ゆるりと沈むような速度で、刀助が知らぬ表情が伏せた。


「......申し訳ござりませぬ、刀助殿」


 怯えを含んだその声は、まさに雨の如く刀助の心を濡らした。


 何だろうか。これは何だろうか。何故、俺がこのような目に逢わねばならないのか。


 気がつけば、刀助は家を飛び出していた。松の木に拳を打ちつけ、歯の隙間から呻きを漏らしていた。男子にあるまじきことながら、涙が止められなかった。


「何故だ」


 雨は止まらない。


「どうしてなのだ」


 将来を誓いあった仲ではなかったのか。婚姻の儀まであと一月というこの時期に、何故このような事を。


「......みつ、おみつぅぅぅ、あ、あ、ああぁぁぁ......!」


 小田原に降る雨は、未だ降り続けている。相模の海を臨む松林にて、刀助は身も心も冷たい雨に打たれ続けていた。



******



 何故に、六ツ瀬美津は林原刀助との婚約を破棄したのか。その晩遅く、刀助はその理由を両親から聞いた。聞いて納得いく物ではないが、多少は腑に落ちる部分があったことが救いであろうか。


 横からかっさらわれた。一言で言えば、そういうことらしい。かっさらった相手は、小田原で海鮮問屋を営む商家の若旦那である。林原家には秘密にしていたが、六ツ瀬家はこの商家とは日頃から懇意にしていたのである。


 武家と商家では格の差があるのは確か。しかしながら、そこは表裏使い分けるのが世の常だ。色々と日頃から便宜を図ってもらっていたこともあり、六ツ瀬家はこの商家に好感を持っていた。


 けれども、それが果たして婚約者乗り換えという、当世にあるまじき裏切りに結び付くとは、普通では考え難い。ましてや、刀助と美津は幼い頃から見知った仲である。長じて疎遠になることもなく、ごく普通に親しく言葉も交わす。互いに好意があるのは明白であり、婚約が交わされたのもごく自然な成り行きであったろう。


 歯噛みしながら、刀助はその理由を考える。思い当たる節は一つしかない。即ち、自分への好意より相手の将来性を採ったのだということだ。


 "これからの世は、剣術では先が見えておるからだろうか"


 刀助は自分の掌を見つめた。竹刀を握り、真剣を握り、ただ剣術だけに明け暮れた手である。しかし、神君家康公を祖とする徳川幕府の世になってから、それを生かす為の戦も無くなっていた。人命が損なわれることもない、泰平の時代である。


 それは良い。けれども、それは剣術を始めとする武芸の相対的な権威低下を招いていた。磨きあげた武芸を生かし、武士は手柄を戦場で立ててなんぼだ。この考えが、まだまだ残っているのは事実。だが、実際問題としてもはや戦は無いのである。


 "中央に近ければ、官吏としてあるいは"


 幕府に直接宮仕えする身であれば、奉行職などに志願する事も可能であったろうか。懸命に働けば、ある程度の出世も夢では無い。だが、地方の武家にはそれすらない。藩に属し、与えられた石高にしがみつき、与えられた役職を守る。それが全てと言ってもいい。


「俺は男として、魅力が無い生き方しか出来ぬと思われた――ということなのだろうな」


 敗北感だけならば、怒りではねのける事も出来たろう。けれども、悔しいことに、刀助自身が納得してしまったのだ。刀ではどうにもならぬ時代となりつつある中、美津が商家により魅力を見いだした。この仮説は、それなりに説得力があった。


 ぐ、と刀助は拳を握る。それを畳に叩きつけた。鍛え抜いた拳は、堅く編まれた畳に大きな跡をつけた。だが、それは何の解決も生まなかった。人の気持ちは、力ではどうにもならない。刀助がいかに剣術に打ち込んできたとしても、美津はそれを見限ったのである。


 美津の判断を尊重しよう。手酷い仕打ちには違いないが、彼女自身の葛藤もあったのであろう。数日かけて刀助が出した結論は、これだった。顔を潰したということで、六ツ瀬家より少なくはない金子が送られてきたこともある。嫌らしい話ではあるが、誠意は見せてくれたと捉えた。


「刀助殿を確かに好いていた。その気持ちは嘘ではありませんでした」


 あの日、美津はそう言ったらしい。刀助が家を飛び出した後のことである。涙をこぼしながらの謝罪であった。


「――なれど、迷いが生じてしまった以上、このまま夫婦(めおとにはなれませぬ。その上での、この度のご無礼にござります」


 しかし、謝罪は所詮謝罪である。刀助の両親は、祝言の日を心待ちにしていたのだ。当事者の刀助は勿論だが、両親の落胆も半端では無かった。生来気丈な両親ではあったが、流石にこの時ばかりは肩を落としていた。


 刀助にとって救いであった事は、彼が出した結論に対して前向きに捉えてくれたことである。無理にそう解釈してくれたのかもしれないが、頭ごなしに否定されるよりは良い。


「残念じゃったが、致し方あるまい。他に嫁の成り手がおらぬ訳でもなし」


 腕組みをして、父が呟く。


「悔しゅうてならんけど......無理に一緒になって、その後に離縁なんてのもねえ」


 二人に茶を淹れながら、母もまた呟いた。


 両親に頭を下げながら、刀助は心中思う。"これで良いのだ"と。後は――自分の身をいかに処すかだけであった。






 ざくり、足元の土が鳴る。がさり、手が払いのけた笹が鳴る。自分の息が荒い。無理も無い、箱根山塊の中に踏み入り、既に四日が経過していた。


 "何をやっているのだろうな、俺は"


 苦笑が自然に漏れた。また足元が滑り、膝を着く。黒い土くれに顔を汚しながら、刀助はそれでも何とか立ち上がる。脚絆を着けた脚は、よろめいていた。


 美津の気持ちは把握出来た。両親も落ち着きを取り戻した。後に残ったのは、目的と自信を無くした刀助自身であった。稽古にも身が入らず、ぼーっとする時間が増えた。夜中に目覚め、焦燥と嗚咽に胸をかきむしる。その辛さに耐えきれなかった。


 剣術ではどうにもならない。自分が打ち込んできた剣術は、自分を救ってくれない。今これほど苦しいのに、何の助けにもならない。


 武士の拠り所たる武芸を否定されて、どうやって生きて行けというのだ。死ぬかと半ば考えながら、山中に身を沈めたという次第であった。あるいは救いが見つかるかもという、儚い望みも抱いてはいた。だが、それほど人生は甘くないだろう。


「時代は変わったのかもしれないな」


 独り言を漏らす。小田原に限っても、剣術道場は今一つパッとしない。武士の子息の必修科目として、剣術が一定の人気があるのは確かである。けれど、それが実学に繋がるかと言えば不確かだ。


 剣術の行く末に絶望し、跡取りが出奔した家もあったと聞く。それは些か極端にせよ、その気持ちは刀助にも分からなくは無い。


 己は何者なのか。自分の身に染みた剣術を、信じてもいいのか。これから何がしたいのか。刀助の中では、これらの疑問が渦を巻いている。どろりとした泥のような重苦しさが、ひたすらに苦痛であった。


 死ぬなら死ねと捨て鉢な気持ちで、林原刀助はさ迷っている。



******



 真っ暗な視界の端だけが、仄かに明るい。青白い光が揺らぎ、意識を揺さぶる。「う、むむ」と唸りながら、刀助は眼を醒ました。体の節々が痛み、小さく呻いた。


「あらあら、目が覚めましたん。無理はダメですよう」


「誰だっ!」


 右か、と気がついた時には、跳ね起きていた。痛む体を堪えつつ、声の主を見定める。覚醒しきらない目が捉えた対象は、果たして女であった。だが、普通の女では無いとすぐに気がつく。


 洞窟らしき場所に、普通の女は着物姿で正座しない。
 普通の女は、身の回りに青白い焔玉を浮かばせてはいない。
 何より、ぴょんと立った大きな三角耳と、長いふさふさした尻尾が普通では無い。


「誰だっていうのも、ご挨拶ですよねん。谷底で気絶していたあなたを拾って、怪我の治療をしたのですよ。それなのにそんなに警戒されるってのは、ちょいとばかし寂しいのん」


「谷底で気絶?」


「おや、覚えておいでやないのんね。山道で足滑らせたのか、この洞窟の近くの瀬に倒れていたのん。うちの子らが見つけてくれなかったら、危ないとこやったね」


 ふい、とその女の視線を追えば、茶色い毛の塊がいた。コン、という鳴き声に、刀助は眉をひそめる。


「野狐がひい、ふう、みい......八匹もおるのか。不思議なこともあるものだ。いや、とにもかくにも助けていただいたのだ。感謝いたす」


「あら、案外素直なんね、お兄さん。その方が可愛げあっていいのん」


「からかうな」


 コロコロと女は笑った。なるほど、この女は狐の妖怪なのであろう。頭の上に突きだした大きな三角耳も、着物の尻から飛び出したふっさりした尻尾も、ぴょこぴょこと良く動く。やや黄色味を帯びた茶色の毛は、いわゆる狐色と呼ぶのだろうか。幾分着崩した着物から、白い肩口と鎖骨が見え、思わず視線を外した。


「あらら、うち、そない魅力的? 嬉しいわあ、うふふ」


「そ、そうではない、いや、その、何だ」


 刀助は狼狽えた。だが、すぐに思考を切り替える。


「そうだ、そなた何者なのだ。見たところ、明らかに人間ではない。狐のもののけなのであろうが――いや、まずは俺が名乗るべきだな。林原刀助と申す。家は小田原にあるのだが、故あってこの箱根の山に足を踏み入れた」


「ふぅん。わざわざこんな人の来ない方になのん? 何やら訳ありのご様子」


 ふぁさと肩までかかった長い髪を払いながら、女は微笑んだ。その瞳が栗色をしていることに、刀助は気がついた。


「う、まあ訳ありと言えば、そうだな。しかしその前に、そなたの名を聞かせていただきたい」


「あっ、そうねん。うちはね、麻之葉(あさのはと言うのんね。見てのとおり、れっきとした妖狐の一人! どう、驚いたのん?」


「いや、予想通りだったから、別に」


「何やのん、それ! 張り合いが無いのーん、うち、寂しいなあー」


 よよよ、と麻之葉と名乗った女、いや、妖狐は泣き崩れた。十中八九、泣き真似であろう。刀助が相手をせずに放置しておくと、着物の裾からきっと睨んできた。


「女の子が泣いてるのをほっとくなんて、酷いと思わんのん? きいい、せっかく助けてあげたのにい!」


「いや、女の子って言うけど、そなた妖怪であろうが?」


「女の子に人も妖怪も無いのん! ふーん、さっきうちのはだけた着物姿に、魅了されてたくせにいー?」


「あれは物の弾みであろうがっ!?」


 刀助は不思議と怖くは無かった。いかに女の姿とはいえ、麻之葉は妖狐である。妖狐は狐火を操り、人に幻を見せるという。助けられたという事情を差っ引いたとしても、本来ならばもう少し用心すべきなのだ。


 けれども、気がつけば刀助は笑っていた。美津に婚約破棄を叩きつけられたあの日以来、初めての笑顔であった。






「女にな、振られたのだ」


「む? ん、なるほど。傷心抱えて箱根にさ迷っていたのん? そんなに好きな方やったの」


「ああ。許嫁であった。互いに好いておると信じておった。だが、それはどうやら俺の早とちりであったらしい」


「あらら......可哀想なのん。もし良かったら、お姉さんに話してみる? 気が楽になるかもねん」


「面白い話では無いぞ。それでも良ければ」


 ぽつりぽつりと、刀助は語り始めた。怪我も癒えかけ、気力も回復した頃のある日のことだ。綺麗に整った麻之葉の顔を見ている内に、自然と話す気になっていた。


 語り終えてから、刀助からすぅと力が抜けた。考えてみれば、誰かにこの話をしたのは初めてであった。郷里の誰かに話せるようなことではなく、心の奥底に沈殿していた物があったのか。やけにすっきりとした。


「......情けない男さ、俺は。どうしていいか分からず、ただ逃げてきた。打ち込んできた剣術は何の役にも立たず、だけど刀を捨てる気にもならない」


 腰に帯びた刀を触る。無銘ながら、自らの半身とも呼べる一刀だ。置いておけばいいものを、未練がましく今も携えている。


 "俺は何なのだろうか"


 刀助は嘆息する。一時期の激情こそ消えたものの、美津への気持ちがまだ残っていた。本来このような時こそ、剣を振るって無心になるべきなのである。だが、その剣が今は重い。自分が一心に打ち込んできた物を信じられないという状態は、酷く苦しかった。


 剣術が悪い訳ではない。美津が自分を選ばなかった、いや、選べなかったのは、けして自分が剣術しか取り柄が無いからではない。刀助は、そう自分自身の心に言い聞かせる。


「刀助さんは、これからどうしたいのん」


 麻之葉が聞いてきた。その脇から、狐達がひょこりと覗く。何とも愛らしい光景に、刀助は知らぬ内に頬を緩めた。


「分からん。ただ、今は郷里に戻りたくはない。皆に合わせる顔も無いし、俺自身が空っぽになっているから」


「空っぽ」


「そう、空っぽだ」


「だったら、新しく詰め直せばいいのん。刀助さん、おいくつ?」


「数えで十八になる」


「人生これからね。うちで良かったら、いいこと教えたげるのん」


 気がつけば、刀助の目の前に麻之葉がいた。着物の襟は大きく開き、白い胸元がちらりと覗く。そのひどく扇情的な視線が、刀助の心を濡らした。


「狐ってねえ、寂しがりなのねん。刀助さんさえ良ければ......後は言わなくても分かるでしょ?」


「そこまで一足飛びには考えられん。もののけとは言え、麻之葉もおなごなら、みだりにそのような事は言うな」


「ふぬん。ん、そしたら刀助さんが落ち着くまで、しばらくここにいるというのは? 力仕事手伝ってくれたら、とても助かるからねん」


 太い尻尾をふぁさと振り、麻之葉がもちかける。しばし考えた後、刀助は「よろしく頼む」と頷いた。



******



 山の中とはいえども、麻之葉が作った住まいはそこそこ快適であった。天然の洞穴に藁を敷き、屋内には狐火による行灯を吊るしていた。無論、人の使う道具や趣味の品などは無かったが、今の刀助にはさほど必要の無い物であった。


 山で取れた藤で籠を編み、近辺の村に売りに行く。近くの川で魚を採り、山に分け入り山菜を摘む。時に郷里の事が気になれば、狐達に様子を見に行ってもらった。


 麻之葉の優しさに甘えていることを自覚しつつ、刀助はただ穏やかな時を過ごしていた。そしていつしか、二年が経過したある日、刀助と麻之葉の日常に小さな事件が生じたのである。




 困惑と焦りが、刀助の顔に浮かんでいた。対面に立つ麻之葉は、それを気遣うような表情である。彼女の栗色の瞳が、地面に向けられた。その視線が醒めた色を帯びる。


「何やら人相悪い男がいたから、狐達に探らせてみたら案の定なのん」


「千松屋が狙われているとはな。近頃とみに繁盛しているとは、風の噂で聞いてはいたが」


「た、頼む! 知っていることは全て話したんだ! 命だけは助けてくれよ、お願いだ!」


 地面に転がった男から、悲鳴のような声が上がった。粗野な身なりをした男だ。その薄汚れた顔が歪む。体は縄で縛られており、逃げることも出来ない。山賊か夜盗の類いと睨んだ麻之葉の目は、結論から言えば正しかった訳である。


「千松屋って、確か」


「美津が嫁いだ先だ」


 喚く男を無視して、刀助は呟いた。何とも言えない重苦しさが、その口調にはある。深い山中で数人がたむろしていることを不審に思い、麻之葉が狐達に盗聴させた事がきっかけである。彼らが話していた内容は、五日後に企てている小田原の千松屋への襲撃についてであった。それを耳にして、麻之葉が動いたという訳だ。男達の内、一人になった者を気絶させてさらってくるくらい、彼女にはお手の物であった。


 とりあえず、男にはもはや用は無い。麻之葉が狐火による幻覚をかけると、男はふらふらとその場を離れた。方向感覚と正気を失ったままなのだ、恐らく熊にでも食われるだろう。


 ならば、当面の問題は。


「刀助さん」


 麻之葉の問いに、答えは無かった。再度、麻之葉は問う。


「刀助さん、しっかりするのん!」


「ああ、分かっている。だが、いかにすべきか――いかにすべきなのかが」


 かしん、と腰の刀が鳴った。五日後。もうすぐだ。ここから小田原まではそこまで遠くはなく、近道を行けば徒歩で一日の距離である。賊達の襲撃が本当にあるのならば、止めに入ることは出来る。ならば、後は自分の気持ちである。


 婚約破棄を申し出た女の為に、命を張るのか?


 剣術を信じられなくなった自分が、剣を人に向けて?


 刀助の中で、葛藤が渦巻く。重く熱い二つの塊が、ごつごつとぶつかりあった。


 馬鹿馬鹿しいと、一方の自分は吐き捨てる。これは千松屋が払うべき火の粉である。美津は千松屋に嫁いだ以上、その店と運命を共にすべきである。刀助がしゃしゃり出ていいものではないと。


 それでいいのかと、もう一方の自分が言う。婚約破棄により傷つけられたとはいえ、昔は好いていた女なのだ。命の危機かも知れぬ時に、知らぬ顔をして良いのか。剣術とは、このような時にこそ役に立てるべき物ではないのかと。


 ひどく、唇が乾いた。腰に帯びた刀の束尻に触れると、それが静かに熱く燃えているような気がした。その感覚は一瞬で消えたが、胸の内ではぞわりと沸き立つ物が残った。


 見捨てて知らんぷりをすれば、それは楽であろう。怪我することもないし、美津のこともいつか自然に忘れることも出来よう。だが、それで良いのかと吠える物がある。胸の内から叫ぶ物がある。


「麻之葉、俺は」


 刀助は麻之葉の名を呼んだ。妖狐の女は、優しげな瞳を刀助に向けている。それが心に染みる。そして同時に心に刺さる。


「何でも言ってくださいな。刀助さんが何を言おうとも、うちは刀助さんを応援するのん」


「俺に一度だけ、機会をくれるか。俺の剣を以て、過去にふんぎりをつける為に」


「ふんぎりってことは、美津さんに対する?」


「それもある。だが、それだけではない。上手く説明出来るか分からんが聞いてくれるか。美津は少なくとも、俺に自分の気持ちを告げたのだ。俺に手打ちにされるかもしれないのに。だが、俺はその場から逃げた。何一つ言わず、罵倒すら浴びせずに」


 真に情けなかったのは、女一人の言葉すら受け止められなかった自分自身に対してであった。あまつさえ、その歪んだ気持ちは、自らが志してきた剣術の否定となった。


「美津の言葉に対して、俺は揺らぐばかりで何も示せなかったんだ。けじめもつけず、今まで逃げてきた......もし、もし今回俺が何もせずに、美津と会う機会を失えば、俺は今後情けない自分を抱えたまま生きていくしかない。そう思えるのだ」


「分かったのん、刀助さん。刀助さんの覚悟、この麻之葉がしかと受け止めました。うちのことは気にせんねん」


「すまん、麻之葉。俺は、そなたの好意に甘えるばかりでっ......」


「何を謝ってるのん。うちはね、いつまでも刀助さんがくさくさしてる方が、よっぽど心配なのん。それに今更昔の女に獲られるほど、うちの想いは浅くないからね。心配もしとらんよ」


 とん、と麻之葉はその細い指で刀助の胸を突っついた。ぴんと立った狐耳が、緩やかに揺れる。


「五日後なら、ちょっと時間あるのね。よし、うちがいい物用意しておくのん。刀助さん一人じゃ、いくら何でも分が悪いからねん」


「その気持ちは嬉しいが、俺が使っていい物なのか? というか、妖狐の道具を俺が使えるのかも分からんのだが」


「心配ご無用なのん、そこはうちを信じてくださいな」


 右目だけを器用に瞑り、麻之葉は笑った。一瞬見とれた後、刀助は顔を赤くした。二年も一緒にいても、この妖狐の色気には、まるで耐性がつかぬままだった。



******



 生ぬるい風が吹く夜であった。夏の終わりとも、秋の始めとも言える季節である。さわさわと風は木々を揺らし、蟋蟀の鳴き声を散らす。名城小田原城を背景に、月は高く天へと上がっていた。雲の切れ目から、さやさやと月光が散り、またすぐに雲に隠された。


 小田原の町外れにて、ぞろりと蠢く影がある。覆面で顔を隠したその連中は、月が隠れたことに安堵した。それだけ見つかる危険が減るからだ。小田原程の規模の町ならば、警備を行う同心もいる。用心にこした事は無い。


「頭、そろそろ」


 一人が囁いた。頭と呼ばれた男は、無言で頷く。それを合図として、他の者達がするりと走った。壁の作る影に沿って、黒装束の男達が動く。三手に分かれながらも、目指すはただ一ヵ所のみ。即ち、小田原一の海鮮問屋である千松屋だ。


 千松屋の屋敷の見取り図から、侵入経路は把握している。裏木戸より押し入り、蔵を襲撃してすぐに逃げる。使用人は何人かいると聞いているが、出会ったら殺せばいい。裕福な商人から金を奪って何が悪いのか。その邪魔をするならば、滅するだけである。


 手前勝手な理屈を秘めて、総勢二十人からなる賊達は屋敷へと接近する。手筈通り、先遣隊が裏木戸へと近付いた時であった。


「待ちくたびれたぜ、破落戸(ごろつきが」


 その声は夜を貫き、欲に汚れた賊共の耳を打った。どこから聞こえたかも分からない。狼狽する賊達であったが、各々の武器をすぐに取り出したあたりは賞賛に値しよう。「ぬ、何奴」と一人が低く声を絞り出す。


「御狐様の遣いとでも覚えておきやがれよ!」


 咆哮と共に、裏木戸が内側から吹き飛んだ。白煙がもうもうと立ち上がり、賊達の度胆を抜く。耳をつんざくような爆音に、思わず立ち竦んでしまった者もいた。そして、それが命取りになる。


 闇の中、白刃が舞った。寸分違わず一人の首を切り裂いた刃は止まらず、隣の相手へと食らい付く。極僅かの間に、二人の賊が地に伏せる。爆発音に驚いた賊達は、更に狼狽を加速させた。その原因となった相手が、ようやく姿を現した。


「千松屋には指一本触れさせねえ。お宝が欲しけりゃ、あの世で探してこいよ」


 ただ一人、薄れゆく白煙から現れる。黒い着流しを着込んだ男、その手には青白い焔を帯びた一振りの刀。月光に照らし出されたその顔は、白い狐面を被っており表情は見えない。


 賊達は知らない。その狐面の男が何者であるかを。その男がどんな思いで、今、この場に立っているかを。だが、知らずとも良い。賊達にとって、自分達のしのぎを邪魔した敵であること。それが分かれば十分である。


 そして、それは狐面の男も同感であった。男は呟く。二人の女の名を。この剣で、ただ一度だけ守ることを己に誓ったその名は。


「美津、お前はここで死んではならん」


 そして、快く男を送り出してくれた女の名は。


「麻之葉、すべてに決着(けり)をつけたならば、その時はそなたと」


 男は、林原刀助は、その生涯ただ一度の真剣勝負へとその身を踊らせた。





 二人を奇襲により倒したとはいえ、十八人対一人である。勝負の行方は最初から見えている、そう、普通ならば。この圧倒的な数の差を埋めたのは、刀助の信じがたい程の身体能力であった。


「こ、こいつ、何て速いっ!?」


「動きがまるで掴めぬっ、狐神の化身か!」


 賊達の動揺も無理は無い。それほどまでに、刀助の動きは速かった。生来鍛えあげた脚力に加え、もう一つ加点要素がある。即ち、彼が被っている狐面だ。


 "麻之葉が面に込めた妖力による身体強化、これほどとは"


 刀助自身も驚いていた。元来人間である彼は、妖狐が助力してもその種類は限られる。だが、この面による身体強化だけでも、お釣りが来るくらいだ。更に、愛刀に点すは狐火である。血糊を瞬く間に蒸発させ、切れ味の鈍りを防ぐ。この二点において、林原刀助は圧倒的に賊達を上回っていた。


 先制攻撃あるのみだ。白刃舞う度に、一人、また一人に手傷を負わせる。流石に一撃必殺とはいかないが、驚くべき奮戦であった。月夜の小田原で、刀助は刃を振るう。これが美津への答えだと。これが剣術への答えだと。無言の叫びを、刃響に重ね合わせて。


 "美津よ。俺はお前の気持ちは分からぬ。あの時何を思って、お前が俺に別れを告げたのか。今もまだ分からぬままだ"


 どう、と音を立てて、また一人賊が倒れた。それに目もくれず、刀助は次の標的へと刃を向けた。狐面には返り血が飛び、さぞや凄惨な様相になっているだろう。


 "けれども、それはもう良い。お前が幸せならば、それで良い。俺はお前のことを好いていた。一緒になれたらと思っておった。苦しくもある、だが、その記憶があるだけで"


 跳ぶ。身体強化の恩恵を生かし、全力で跳躍する。松の木を蹴り、斬りかかってきた相手から距離を取った。しかもそこで終わらせず、着地を待たずに更に隣の木を蹴った。賊達の目にも映らぬ機動力で、数の差を克服する。


 "俺は確かに幸せであったのだ。だから、この一度だけ"


 草鞋が土を踏み締める。人の身ではあり得ぬ速度に達した体をもって、斬撃を放つ。すれ違った相手の胴は薙がれ、血飛沫の赤が闇の黒を彩った。


「この一度だけ、俺は俺の剣をお前の為に使う」


 示したい物は、一つではなかった。矜持、意地、生きざま、剣へのこだわり、美津への手向けの想い、そして麻之葉への感謝。己が身に満ちる全てを込めて、刀助は剣を振るった。一人、また一人と賊が倒れる。完全に絶命まで至らなくとも、動きが止められればいい。


 それでも多勢に無勢である。あわや囲まれそうになり、慌てて切り抜ける場面も一度や二度では無かった。そればかりでは無い、戦闘が長時間に渡れば体力も消耗する。刀助にとっては、初めての戦いだ。命の奪い合いは、たやすく精神をすり減らす。


 "負けるわけにはいかないだろう"


 それでも、退かない。三人がかりの攻撃をいなしながら、刀助は退かない。既に半数は討ち取っており、賊は半壊状態である。怒りに任せて振るわれる槍や刀を、刀助は受け止めた。


 "これが俺の剣の晴れの舞台なのだ"


 衝撃を辛くも反らし、相手を突き飛ばした。狐面の奥からの殺気を飛ばす。相手を怯ませ、違う方向からの攻撃を避ける。足さばき、体さばきが一体となった見事なかわしかたであった。


「見えた!」


 集中力の高まりが、極限の一刀を生んだ。疲労を精神力で覆し、刀助は自らを鼓舞する。血風が吹き荒れ、剣閃へとまとわりつく。





 どれほど剣を振るったろうか。どれほど刃の下を潜っただろうか。分からない。分からないまま、刀助は地に膝を着けている。ぜはっ、ぜはっという荒い息が喉を焼く。


「――勝った、のであろうか」


 呟く。朦朧とした視界は、いつの間にか明るくなっていた。夜明けか。がむしゃらに戦っている内に、朝を迎えていたようだ。


 周囲を見る。道端や堀の端に、血まみれで倒れている者がいる。あれが自分が斬り倒した相手なのか。地面もまた赤く染まり、戦闘の凄惨さを伝えていた。


 全員を討ち取ったわけではない。それでも大勝利には違いない。美津を守るという最大の目的は、ここに達成されたのだ。ならば、去るだけである。もしも同心などに見つかれば、事情説明が面倒であった。


 呼吸が苦しかったので、狐面を頭上にずらす。ようやく息を落ち着け、さあ立ち上がろうかという時であった。微かに人の気配がした。東の空から昇る日が、刀助の視界を斜めに照らし出す。


 息を呑んだ。


「美津......」


「と、うすけ、殿?」


 忘れもしない女が、曙光の中にいた。女は独りではない。女の傍らに立つ男へ、刀助はゆるゆると視線を振った。急いできたのか、男は息を切らしている。だが、その理知的な顔が印象的な男であった。刀助はぴんとくる。そうか、この男が。


「起きてみたら、うちの前から血の跡が続いていたの。それを辿ってきたら」


 美津が口を開く。その目はこぼれんばかりに大きく開かれ、涙で潤んでいた。それに続いて、男が口を開いた。周りの賊の死体にややびびりながらではあるが、意外にしっかりした口調であった。


「千松屋の主人、宗太郎にござります。様子から伺うに、貴殿が我が家の危機を取り除いてくれたと推察するのですが」


「ああ、だが、礼はいらぬ。俺はただ」


 一度黙り、刀助は二人をしげしげと眺めた。宗太郎は半歩前に出て、美津を守るように立っている。無意識であろうが、美津はその袖を軽く握っていた。夫婦のみが醸し出せる信頼が、そこにはあった。けれども、刀助には失望も諦観も無い。


「ただ、己の過去に決着(けりをつけたかっただけのこと」


 しばし沈黙がその場を支配した。静かであった。その沈黙を破ったのは、刀助のかっての許嫁であった。


「刀助殿、いえ、刀助さん......う、うう、ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさいっ! 私は、いかに罵られようと仕方の無い真似をしたのに、なのに、それなのに、刀助さんはっ、このような危険を侵してまでっ!」


 嗚咽と共に、美津が泣き崩れた。宗太郎もまた、妻に倣ってその場にひれ伏する。


「何と、何と言えば、何をすれば手前どもは、このご恩に報えるのですか!? 刀助殿を傷つけて、手前共だけが幸せになっているのにその上」


「良いのだ、ご主人。これは俺があの時返せなかった.....あなたの妻君への言葉なのだ。では、ごめん」


 くるりと二人に背を向け、刀助は狐面をむしり取る。ひょいと無造作にそれを投げ、肩越しに一度だけ振り返った。


「達者でな、ご両人」


 かつん、狐面が地面に軽い音を立てて落ちた。美津は震える手で、その面を拾い上げる。血と泥に汚れてはいたが、怖くはなかった。怖くなど、あろうはずはなかった。


「――ありがとう、刀助さん、本当に」


 風に乗った呟きに対し、刀助はただフラリと右手をあげた。そして一度も振り返らなかった。黒い着流しの背中は凛たる空気を纏い、どこか誇らしげであった。



******



「お帰りなのん、刀助さん」


「ただいま。ふう、疲れた疲れた」


「あらら、けれど、刀助さん良いお顔してるのねん。もう思い残した事もない?」


「ああ、決着(けりをつけてきたからね。麻之葉、そなたの助力のお陰だよ」


「そんなん気にしないのん。ふふ、うちは刀助さんが戻ってきてくれたから、それだけで嬉しいんよ。うちみたいな妖怪の元に――って、あ、あの、刀助さん?」


 麻之葉はその動きを止めた。いや、止められたと言う方が正確だろうか。近づいてきた刀助の腕の中に、すっぽりと麻之葉の細い体が抱き締められたのだから。麻之葉の尻尾がぴょこんと揺れた。


「なあ、麻之葉」


「はい?」


「俺が残りの人生をここで過ごしたいと言ったら、嫌だろうか?」


 恐る恐るといった調子で、刀助は問う。返事は無い。だが、頬を赤く染めた麻之葉の表情が見えた。ならば、それならば、他には何もいらないであろう。この抱擁が伝える熱があるならば、言葉はむしろ無粋であろう。


 コーンと狐の鳴き声が、箱根の山に響き渡った。






 この一人の名も知れぬ武士の心意気は、歴史の書には載っていない。だが形を変えて、それは確かに存在している。もしあなたが小田原の千松屋を訪れたなら、店先を覗いてみるといい。丁寧に神棚に祀られたお狐様の人形が、あなたを出迎えてくれるだろうから。

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