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これで、終わりです。長い間、亀のような更新速度にお付き合いくださった皆様に、感謝の言葉を。
良いお年を。
匂いかぐわしき、君の名呼べば
匂いかぐわしき、君の名呼べば(8)
 光はどんどんと強くなる。 容赦なく、ただ、己の運命に唯々諾々と従うように容赦なく。

 「さあて」

 言いながら絹が立ち上がった。 一度、両膝に手をおいて、屈伸をするようにして身体のバネを確認すると、地面に目を向けたまま、にっこりと笑った。 満ち足りたような、それでいて諦めてしまったような笑み。 更紗に向き直ると、

 「あたしは、そろそろ行くとしよう。 更紗、礼を言うよ」

 行く? どこへ?
 礼を? 何に対して?

 立ち上がった絹を見上げるようにして、更紗は言葉もなく、ただその顔を見つめた。 くるくるとよく変わるその表情を。 常に二面性を感じさせる微笑みを。 ここまでの短くも長い間見てきた、様々な表情を思い出しながら、穏やかに明るい笑みを見せる絹を見つめた。

 「まだ、泣いているのかい?」

 雫がひとつ、瞳からこぼれ落ちるのと同時に、絹が泣き笑いのような顔になる。

 言いながら、更紗の前に立った絹は、登ってくる朝陽を後ろにして、白く輝いた。

 幼子をあやす風に伸ばされた絹の手が、更紗の頬に触れる。

 「絹」
 言えば、
 「ああ」
 応えが返ってくる。

 「名前を」
 求めれば、
 「更紗」
 答えが。
 「絹」

 もう一度、彼女の名を口にした。 頬に触れる手を、そっと首を傾げて口づける。 少しばかりの涙の匂いがして、絹の肌が唇に伝わる。

 直感的な閃きもなく、もちろん、論理立った思考よりも早く、気付けば更紗は、その言葉を紡いでいた。

 「そばにいてくれ」

 触れられた手を引っ込めることもなく、驚く様子もなく、絹は淡々と言う。

 「ずっとかい」
 「それは……」

 返事に窮して、顔を上げれば、あの漆黒の瞳。 朝陽は白く、目映いほどに白く、絹の瞳も透けるような輝きを放つ。 漆黒でありながら、くらい闇の色ではありえない黒。

 人間が持つ、限られた時間を持つ人間にしか持ち得ない、瞳の輝き。 何かに真摯になれるひたむきさ、何かに没頭できる貴重な幼さ。 それらはすべて、この世界でしか実現し得ない。 更紗の世界では、時間では、絹は絹でなくなってしまうのだろうか。 それでも、絹を連れて行きたいと願うのは、彼の、神としての気まぐれなのか。 それでも、例え世界が違おうとも、絹は絹で在り続けるのだろうと思うのは、彼の、わがままな期待なのだろうか。

 「殺しゃしねえよ。大事には……する……」

 回りくどい言い方を、敢えて選んだ更紗からさっと手を引っ込めると、絹は片眉を上げた。

 両手を腰にやって、龍神を見下ろすと、生意気に口を釣り上げる。

 「ふん。 あたしは、あんただったら殺されたって構わないんだけどね」

 驚いて立ち上がる。 想定していたよりもずっと、絹は近くに立っていて、ぶつかりそうになる。 慌てて手を前に出せば、絹の肩に手を置くことになって、ますます更紗は困惑した。

 「あたしは、死んでしまうのかい」
 「……あ?」
 「あんたの世界ってのは、こっちの時間の流れとは違うんだろう? あたしは、あんたの世界に行ってしまえば、死んでしまうのかい?」
 「いや……来ただけで死んじまうわけじゃねえよ。 ただ、俺様が生きているのと同じスピードでは、生きていられねえだろうなあ」
 「そうかい」

 言ってから黙した絹の肩にやった手に、少しだけ力を込めた。

 やはり、こんな華奢な肩を持つ者を連れて行くのは、酷なのかもしれない。 わがままだと知りながら、彼女の命を縮めると知っていながら、彼女の人生を狂わせると知りながら、人間界に混乱を招いてしまうと知りながら、それでも傍にいて欲しいと願うのは、龍神の責務に反するのではないだろか。

 「あんたにしてみれば残り少ないあたしの人生、大事にしてくれるんだろうねえ?」

 そう言う絹からは、いつもの二面性を感じられず、更紗は眼を丸くした。

 「良いのか」
 それくらいしか、言葉に出来なかった。

 「いちいち疑り深い男だねえ」
 「だから、俺様はっ」
 「龍神だって? そんなこと、あたしには知ったこっちゃないのさ。 あんたが、龍神としてあたしを連れて行きたいと言うんなら別だけどね。 あたしはね、更紗なら一緒に行ってやっても良いって言ってるんだ」

 更紗として。 神ではなく、水の眷属としてではなく。 更紗として。

 力を込めた手で、絹を抱き寄せれば、それだけで自然と笑みがこぼれた。

 「さ。 さっさと連れて行っておくれ」
 「へ。 短気をおこすんじゃねえよ」
 「うるさいねえ。 ……待ってたんだよ、こちとら」
 「そうかよ。 そりゃあ……、悪かったな。絹」




 生まれてきてから、この姿が朽ち果てるまでの間、驚くようなことなど起こらないだと思っていた。 毎日は、ゆるやかに流れ続け、その流れを変えるようなものなど存在しないのだと。
 
 これは幸福なのだろうか、と何度も自問した。 そのうち、そんな自分に嫌気がさして、そう問いかけることすらやめた。

 ゆるやかに流れる時間の中で、変わらず絶え間なく流れていく時間の中で、隣に絹がいてくれる。限られた年月かもしれない。 だけど、それでも、構わない。 彼女が与えてくれる、きらきらとした感情の破片は、彼の心に優しく突き刺さり、そして永遠に残るだろうから。

 これは、幸福なのだろうか。


 もう、問う必要もない。
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