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雨もしたたる、良い河童
作:三条司



海猿な河童


 どぼん、という何とも間の抜けた水音を身近で聞いたかと思ったら、あたしの体は、あたしの意識がそうと理解するより前に、雨で水量を増した河に飲み込まれていた。河原にいてた時は悠々と流れていると思っていたそれは、いざ中に入ってるみると、予想以上に速い流れだった。

 とりあえず、落っこちる瞬間に開きかけてた口を、水が入ってこないようにと閉じてみる。あたし、反射神経はそんなに悪くないと思ってたんだけどな。それでも水が侵入する方が遙かに早く、咳き込もうにも酸素が惜しくてそんなリスキーなこと出来ない。ごう、という河の流れの音を耳にした気がするけれど、それも今となっては何の音だったのやら。表面は少し汚れていただけに見えた河でも、中では濁流が渦巻いていた。

 泳げないわけでは決してないのだけれど、いかんせんあたしを下流に押し流そうとする力が強すぎる。何度か泳いでみようと、逆らってみようと試みたのだけれど、このまま下流に流されてしまった方がもしかしたら安全かもと思って。思って、というよりも、勘みたいな感じ。とか言ってる間に流木なんかに頭ぶつけたら、それで終わりだけど。

 にしてもだ。あの、ばか河童。無事に河から出たらどうしてくれよう。断じて、出島さんが河童などという奇々怪々な生きものだと認めたわけではないが、河童だと名乗るのなら、あだ名を河童にするくらいは許されるだろう。あの河童。いきなりあたしの人生に現れたと思ったら、平穏だった日々をぶち壊しにしやがって。ひとのスイカ、ダメにしちゃうし。たかだかスイカごときでみみっちい女だと思われたら嫌だから言わなかったけど、あたし、スイカ大好きなんだから。あたしの友達、岡崎の前で痴態を披露するし。岡崎があたしのこと変態だと思ったらどうしてくれるの。極めつけに、ひとのファーストキスを尻小玉を抜くとかって意味不明の行為で奪っちゃうし!これでもあたしは、夢見る乙女なんだぞ!誰にも言ってないけど、岡崎にも言ってないけど、本当はファーストキスはもっとロマンチックな感じにしたかったんだから。もっとドラマチックで心に残るようなやつにしたかったんだから!

 ・・・なんて、不毛なことが頭の中を次から次によぎっては消えていく。このまま流されちゃって、大丈夫なのかな、あたし。結構楽観的に、その内岸に着くだろうとか思ってたんだけど、もしかして、あたし、かなり危険な状況にいる?

 視界に入るのは相も変わらずの、茶色い水だけなのだけど、それも何だか霞んできた。こんな非常事態でも冷静なあたしというのは存在しているらしく、ああ、酸素がなくなってきてんだな、とか他人事のように感じる。目を閉じちゃった方が楽かもしれない。そうだ。もう、目も閉じちゃって、何もかも水に流そう。岡崎のことも河童のことも。このまま流れていたら、全部夢になっちゃうんじゃないかな。

 目を閉じるその時に、何か緑色のものが光ってみえた。

 『うららさん!』

 声が聞こえる。聞こえる、というより、響く、というか。頭にダイレクトに響く。頭蓋骨で声を聞くような。そんなわけないよね。水の中で聞こえるって、幻聴以外の何でもない。あーもう、これは本格的に危ないな、あたし。

 『うららさん!しっかりしてください!』

 何かに体をつかまれる感触がした。あたしの頬を触るものがある。面倒臭いなあ。あたしは嫌々目を開ける。そこには緑色に光る出島さんがいた。水流をまったく無視して、あたしのすぐ側に立つようにして出島さんはあたしの手をつかんだ。もちろんよくは見えなかったのだけど、その手には水掻きのようなものがある。元々色素の薄かった髪は艶々とした緑色になって、瞳は深い深い碧色。白いシャツは水中でゆらめき、その下にのぞく肌は出島さんのハンカチに似た色をしている。その秀麗な顔には、安堵の笑み。

 なに。何で緑色なの。何で光ってんの。何で水掻きついてんの。何でそんな笑顔なの!

 突っ込みポイントは満載なのに、あたしのスピーチ能力は水中では封じられている。出島さんは、いつものようにすごく自分に都合の良い解釈をすると、

 『もう僕が助けに来たので大丈夫ですよ。安心してください。怖い思いをされましたね』
 
 誰のせいだ、誰の。

 あまりにポジティブなその思考回路に、あたしはここが水中だと言うのを一瞬忘れて口を開き、そしてすぐさま後悔する羽目となった。がぼ、とお世辞にも美しいとは言えない音をたてて、水が口腔に入ってくる。苦しい。

 ぎゅ、とあたしが目を瞑ると、出島さんはどうやらあたしを抱え直したようだった。と、いうのも、まるで立っているような感覚に陥ったから。たぶん、さっき出島さんがやって来たときみたいな状態になってるんじゃないかな、あたしも。重力の働かない中での感覚なので、どこまでが本当か怪しいもんだけどね。それから出島さんは、片足をあたしの両脚に巻き付けると、両手をあたしの頬に添えた。肌が密着する。誰かが側にいると感じる。それってやっぱり、この状況下だと、すごく安心出来ることだ。何も見えないまま、声だけが聞こえる。

 『精気を少し渡します』

 意味を確かめる間もなく、あたしは口唇に何かが当たるのを感じた。これ。これはまさか!この感触はまさか!
 あたし、き、き、き、キスされてる!今度は緑色に光る出島さんに!
 くらくらと目眩がする。

 『口、開けてください、うららさん』

 何をどうすればひとにキスをしながら喋れるというのか、出島さんの声がまたしてもあたしの頭蓋骨に鳴り響く。それは切迫したものを感じさせるトーンで、出島さんでも焦るのかなどと妙に感心してしまう。と、同時に、出島さんが悲しむのはかわいそうだなあと、おひとよしなことも考えた。
 ともあれ、あたしは出島さんの声に、まあ、そこまで言うなら仕方ないかなくらいの気持ちで口を開けた。それがどういう意味なのかとか、そんなことはまったく脳裏によぎらなかったから。

 舌に何かが絡みつく。それはあたしの口の中をくまなく、そっと触れていく。上顎、頬の内側、歯茎、歯、舌・・・。それが触れれば触れるほど、あたしは自分の意識が鮮明になっていくのを感じた。自分の体を自分のものだと認識できる。

 『とりあえず、今はそれで大丈夫なはずです。しっかり口を閉じていてくださいね。河原に戻りますから』

 どこか頼もしい声は、まるで出島さんに似合わなくて、あたしは苦笑してやりたかった。キャラじゃないよ、ってからかってやりたかった。
 す、と口唇に触れるそれが離れていったとき、ちょっと名残惜しかった。
 もう少し。あともう少しだけ、こうしてて。
 そう言ってみたかったのに、あたしは結局何も出来なくて、出島さんにつかまったままでいた。
 
 あたしを片手に抱いたまま、出島さんはぐんぐんと河をのぼっていく。







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