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お待たせしてしまって、本当に申し訳ありませんです。
もう、お話は最後まで出来上がっているので、
あとは文字にして打ち込むだけですよ!
ここからは、出来るだけ更新のペースをあげていきますので、
最後までお付き合い、よろしくお願いします。
匂いかぐわしき、君の名呼べば
匂いかぐわしき、君の名呼べば(5)
 どこのどいつだ、人間が単純な思考回路の持ち主だなんて、俺様に教えやがったふてぇ野郎は。

 まさか、絹の言葉の意味を理解出来なかったなどとは口に出せず、せめてもの自尊心を守ろうと、彼は頑なに表情を崩そうとはしなかったが、内心、大変焦っていた。

 話が、違う。

 なんなのだ、このいきものは。

 笑っていたかと思えば黙り込み、泣いていたかと思えばこちらを罵倒する 。 巫山戯ているのに、その瞳は哀しみにあふれ、痛みに崩れ落ちそうになってこそ微笑む。これは、彼の知っている人間ではない。 人間というのは、もっと、短絡的で平々凡々とした道を歩みたがる、愚かで愛らしいいきものの筈だ。 だからこそ、彼のような者が守ってやらればならない筈なのだ。 これでは、話が違う。 これでは、まるで。

 俺様が、振り回されてるみてぇじゃねえか。

 ふと、核心に触れてしまって、苦々しい気持ちに舌打ちをしたくなる。

 思わせぶりな言葉のあとに、何の反応も返さなかった彼に、大して気を悪くした風でもない絹は、再びしっかりとした足取りで歩き出した。 生命力に溢れるその体を後方から眺めるようにして、彼は後を追う形で歩いている。

 「ねえ」
 「なんだ」

 後ろは振り返らずに、絹が話しかけてくる。

 「あんた、いつもはどこに住んでんだい」
 「場所の話か? 時間の話か? それとも、世界の話か?」
 「と、いうことは、あんたはそもそも、人間の世界の者じゃないんだね」
 「たぶんな」
 「じゃあ、何で、あんたはここにいるんだい」
 「……何でだろうな」

 それは、何度も彼自身が尋ねた質問でもあったから、素直にそう呟いた。 前方から、絹の声が聞こえる。

 「あんたの本当の世界は、どんななんだい」
 「なんもねえよ。 お前ら人間と違って、俺様たちの時間軸はゆっくりと流れてるからな。 急ぐ必要がねえのさ。 今やらなくたって後で良い、今日じゃなくても明日じゃなくても良いってな。 だから、なんもねえんだ」
 「そういうのを、怠惰っていうんだよ、こっちの世界じゃあね」
 「ははっ。 ちげぇねえな」

 空を仰ぎ見れば、濃い藍色の空に雲が風に流されていくのが見える。

 「もし、あんたがこの世界に属する者じゃないんだとしたら、あんたが住んでいるのも、この世界じゃないんだろうね」
 「まあ、な。 ただ、俺様は龍神だからよ。お前ら人間の世話を焼いてやる責務があるんでな。 ちょくちょくは、こっちに寝泊まりすることもあっけどよ」
 「あの、神社のことかい?」
 「ああ。 だってありゃあ、俺様のやしろだろうよ?」
 「そうだねえ。 ……こんな質問、おかしいと思うかい?」
 「いや? 聞きてぇから聞いてんだろう。 それのどこが、おかしいってんだ?」
 「確かに、あんたは、こちらの世界の理には縛られていないね」
 「どういう意味だ?」
 「そういう意味さ」
 「だから、どういう意味かって聞いてんだ」
 「言ったろ。 そういう意味さ。 この話は、もうおしまいだ」

 一方的に話を途切れさせて、絹は、だんまりを決め込んでしまう。 とりつく島もないその態度に、やきもきしながらも彼はもう一度、天鵞絨ビロードのような空を見上げた。

 絹というのは、雲みたいなものなのかもしれない。 掴めそうなのに、その手にすれば霧散してしまう。 色を変え、形を変え、こちらを飽きさせることもなく、その美しい姿のまま、誰のものにもならずにただ空に在り続ける。 そんなことをぼんやりと思いながら、後ろ頭に両手を組んで、彼はゆっくりと瞳を閉じた。 風の音。 木々の音。 砂利の音。 そして、この村に流れる、大きな河の音。 先程、絹に感じた苛々が、水が蒸発するように消えていく。

 「う、おっ」

 感覚と思考に集中していたからか、目の前にあるものを避けられなくて、彼は何かに強く体をぶつけた。 驚いた声をあげて確かめれば、それはどうやら絹らしい。

 「何だよ、お前、いきなり止まってんじゃねえよ」

 突き飛ばしてしまってはいないかと、どこかに傷を付けてしまってはいないかと、彼が絹の肩に触れると、びくりと体を震わせて彼女は数歩後ずさった。

 「絹? どうした?」

 急に体に触れたから、驚いたのだろうか。 それにしては、反応が過敏すぎる。 あたりはどんどんと暗くなってきてはいたが、彼には関係のないこと。 数歩離れた距離から絹を観察すれば、その顔が真っ青になっていること、口を両手で覆っているが、その歯がかたかたと音を鳴らしていることに気付く。

 「絹? お前、いったいどうしたってんだ」

 そのとき、すうとふたりの前を横切る影があった。 通行人の顔などいちいち見ていないし、目の前で動く絹の方が百倍面白いから、彼はいつも以上に注意散漫であったのだが、その人影が動くのと同時に、絹の目が見開かれるのを見て、彼はそちらに視線を向ける。

 ただの、男だ。 人間の、男。 絹よりかは年上だろうが、まだまだ立派な成人男性とは言い難い。 その身なり、整えられた毛髪、動作などから、男がこの村では位の高いものなのだろうと想像させる。 だが、その顔に浮き出てくるような、ひとを見下したような薄い微笑みは、ひとの上に立つ者にはふさわしくない。

 「絹?」

 再度、名を呼べば、絹は、彼の言葉など歯牙にもかけず、涙が縁まで浮かび上がった瞳を男の姿に貼り付けたまま、小さくかぶりを振る。

 「おい、絹」
 
 絹の様子がおかしいことなど、明白だ。 だからといって、何をして良いのかも分からず、加えて自分の存在にも気が付かない少女に、空気に溶けていったはずの苛立ちが霧のように吹き付けてくる。 声を荒げた彼が言うのと同時に、こちらに背中を向けている男が立ち止まった。

 「い、いや……」

 履いている草履のひもの具合を直そうとかがみ込んだ男は、やがて上半身を起こすと、ふと首を後ろに向ける。

 「いや!来ないで!」

 己の両肩を、爪が食い込むほどの強さで抱き締めて、絹が悲痛な声を上げる。

 男が、絹を見られる筈がない。 だって、彼の『力』で、今のふたりは人間には見えない筈なのだから。 普通の人間には、絶対に見えない筈なのだ。

 がくがくと震える膝のためか、その場から動くことも出来ずに、怯え続ける絹と、訝しむように首を傾けたままの男とを、彼は交互に見つめた。 そうこうするうちに、男が、首だけでなく体ごと後ろを振り返る。 男が、絹と向かい合う形になった途端、絹の瞳が恐怖と怖畏ふいに見開かれる。

 「こ、来ないで、来ないで……」
 
 絞り出すような絹の声を聞いた瞬間、彼は己の体が動くのを感じた。 そして、半瞬ほど遅れて、自分の行動の結果を目の当たりにする。 どすんと、大きな音を立てて尻餅をついた男を見下ろしてから、彼は自分が男の腹に蹴りを入れたのかと理解する。 何故、尻餅をつくような事態になったのか、まったくもって分からない男は、薄い口唇を歪めて、あたりをきょろきょろと見回す。 その落ち着きのない顔を、頬を指で挟むことで縫い止めてから、彼は低い声を出した。

 「今すぐ、失せろ」

 彼の言葉は、言葉としては届いてはいないだろうが、それ以上に、観念として男の脳髄に入り込んだ筈だ。 そもそも、それが彼ら神の使う『言葉』なのだから。 案の定、男は慌てて立ち上がろうとして失敗し、無様に両脚で砂を蹴ってから、後ろを振り返りつつ、そそくさとその姿を闇の中に消して行く。

 「……来ないで」

 流れ出た雫が、頬を伝った後がある。 彼はそれにひどく心を痛めて、それでも、かけるべき言葉が見つからずに、悔しさに拳を強く握った。

 「きぬ」

 刺激したくはなくて、殆ど呟くようにその名を口にした。 はっと、一度目を瞠ってから、絹が神経質そうに息をつく。 彼の姿を目にすると、彼女は笑みを浮かべる。

 「は、ははっ。 あ、あたし……」

 彼同様、紡ぐべき言葉などないのかもしれない。 言いかけた言葉を終わらせることもなく、絹がこめかみに手をやった。 その手が、未だ小刻みに震えていることに、彼女は気付いているのだろうか。

 視線の定まらないまま、絹は、乾いた笑いを繰り返す。

 言葉など、見つかるはずもない。

 眉根に皺を寄せて、彼が一歩踏み出せば、驚くほどあっさりと、ふたりの距離は縮まる。 腕を広げて、その肩を抱けば、小さな体はすっぽりと自分の中に埋まってしまう。 髪に触れれば、息をつく絹の呼吸を直に感じる。 背中にやった手からは、体温を感じる。 それから、どくどくと、その動揺の酷さを伝える鼓動も。

 「っ……ふ……」

 彼の長襦袢が、絹の涙で静かに濡れていく。

 かけるべき言葉など、紡ぐべき言葉など。

 視線を上げれば、先程はなかった雲の固まりが、空を漂っている。

 捕まえることは、不可能なのだろうか。



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