ラジオと河童
「そろそろ、うららちゃんを帰した方が良いんじゃない?」
今まで、台所の隅でワイングラスを傾けていた賢介さんが、あやの先生に声をかける。
戸惑った顔の出島さんと、両腕を抱いて口を噤んだあたしを、あやの先生は怪訝そうに見ていたけれど、賢介さんの言葉で我に返ったみたいだった。
「そ、そうね。長い間、引き留めてしまってごめんなさいね、うららちゃん」
力なく笑って、首を振る。気にしないで、と伝わればいい。
「感謝するわ。本当に。貴方の助力なしには、成し得ないことだから。私たち、一族を代表して御礼を申し上げておきます」
律儀に腰を折って、あやの先生が深々と頭を下げた。
そんなこと、される必要はないのに。
だって、あたしがこれを受け入れたのは、逃げ出すためだもの。
出島さんが河童らしい、という事実から。その河童に、色々と込み入った事情があるということから、早く足を洗うために。あたしのことなんて、好きでもなんでもない出島さんから、早く離れるために。これ以上、あたし自身が辛い思いをしないために。
だから、本当は、あたしは誰にも感謝されるべきではない。
「あやの先生、顔を上げてください。そんな、大袈裟なことではないんですから」
両手を前で左右に振って、あたしはあやの先生に話しかける。
「なんだか、大変なことになっているみたいですし。少しくらいお手伝いするくらい、どうってことないですよ。どうせあたしは、バイトもしていない、暇な女子高生ですから。ね?」
あたしの言葉に、賢介さんが鼻を鳴らして笑った。そちらへ顔を向けると、賢介さんは、片頬だけを歪ませて笑むと、グラスの中身を一気にあおった。その笑い方は、決して好意的ではなかったのに、その瞳は、妙に優しくて、あたしは罪悪感に駆られる。何で?
「ほら、浩平。リビングに出しっぱになってる、重箱、片付けて来いよ。あれ、うららちゃんのなんだろ?」
「あ、そうだな……」
何度か、後ろ向きにあたしを振り返りながら、後ろ髪をひかれるようにして、出島さんが台所から姿を消した。
「あ、あたしも、片付けるの手伝います」
提案したのだけれど、
「いいよ。どうせ、俺がこっちに戻ってきたら、またあやのと飲み直すんだろうしさ。だろ?」
賢介さんに、反対されてしまう。ウインクを投げられたあやの先生は、艶やかに微笑んでそれに応えた。
あたしが、もっと、大人だったら、もっと、違う道を選べたんだろうか。
あたしが、もっともっと、成熟した人間だったら、こんな風に、出島さんに意地悪をすることもなくて。辛い目に遭うこともなくて。もっと、そういう時にだって、ちゃんとした対処法が見つかっていたんじゃないだろうか。
あたしが、もっと、大人だったら。
「うららちゃんは、そのままでいてね?」
ふいに、賢介さんの大きな手が、あたしの頭の上にかぶさった。意外と繊細なその指で、髪をくしゃくしゃとかき混ぜる。
「え?どういう意味ですか?」
聞き返したのに、
「え?あれ?俺、何か言ってた?独り言、多いんだよね、俺。気にしないで」
さらりと流されてしまう。
そうこうしているうちに、出島さんが風呂敷に包まれた重箱を持ち帰ってきた。
「では、帰りましょうか、うららさん」
出島さんは、あたしの名前を呼ぶのに、少しの間だけ、躊躇ったようだった。
「はい。あやの先生、お邪魔しました。お料理とアップルサイダー、美味しかったです」
「いいのよ、そんなこと。また、いつでも来て良いんだからね?じゃ、また明日。学校でね」
「はい。また明日」
玄関で靴を履いてから、あやの先生と別れる。アパートを出て、廊下を少し行ってから、出島さんが隣に歩く賢介さんに目をやった。
「ん?賢介、お前、何してるんだ?」
「何って、うららちゃんのおうちまで、車で送って行こうって、俺の優しい人格が決定したわけよ」
「お前、さっき、アルコール摂取してたろうに」
「ままま。そんな些末なことは、な」
「些末じゃない。お前が警察にしょっぴかれようが、事故を起こそうが僕は構わないが、うららさんに迷惑がかかるのだけは、やめてくれ」
「へいへい。じゃ、力でも使って、アルコール分を抜きましょうかね」
投げやりに言う、賢介さん。
「あの」
あたしは遠慮がちに、賢介さんの背中に声をかける。柔和な顔で振り返る賢介さん。
「力って、無尽蔵に湧くものなんですか?」
「ううん。違うよ。何で?」
「いえ、賢介さんって、力を頻繁に使っているみたいだったから」
出島さんは力を使うのを極端に嫌がるし、それが減ってしまうことも、極端に恐れているみたいだったから。あまりにカジュアルな賢介さんの態度に、あたしは、出島さんが、今まで演技をしていたのだろうかと思ってしまったのだった。
もう、何が本当か、分からないじゃない。
「ああ、そういうことか。俺は、浩平と違って、定期的に力の貯蓄をしているからね」
「尻小玉ってことですよね?」
「そう」
賢介さんが、両手をパンツのポケットに突っ込む。
「うららちゃん、尻小玉の摂取方法は知っているの?」
「あ、はい」
知っているどころか、何回か、取られたことがあるなんて、言えない。
「じゃあ、分かるか」
賢介さんは、一瞬、ぞっとするほど冷めた目をすると、
「俺は、不足したことがないの。尻小玉をくれてもいいって、そういう心優しいひとたちにね」
その目つきが、うすら寒くて、あたしはさっと目をそらしてしまう。すると、おどけた調子で賢介さんが、
「何、うららちゃん、俺のこと心配してくれたの?ボランティアなら、随時、受け付けてるよ」
「馬鹿言うな」
容赦なく、出島さんの手にした重箱が、賢介さんのこめかみにヒットする。
「浩平ちゃんたら、やきもちやきさんなんだからっ」
「もう一回、殴るぞ?」
「きゃ〜、こわ〜い」
出島さんと賢介さんは、本当に仲が良いみたいだった。じゃれあって、からかいあって、言いたいこともずけずけ言い合って、それでも、ふたりの間には、からりとした空気が流れている。
賢介さんなら、出島さんの本心を、知っているんだろうか。
聞けば、教えてくれるのだろうか。
ぼんやりと、そんなことを思う。いかんいかん、何考えているんだ。
安全だから、という理由で、あたしは後部座席に座っている。目の前が、助手席の出島さん。運転席は、アルコール成分の抜けた、らしい、賢介さん。
車が、スムースに走り始める。暗い駐車場を抜けると、曇天が広がっているだけで、明るさはそう変わらなかった。雨は、やんでいるみたいだけど。
「うららちゃんって、結構お酒強いよね」
唐突に、賢介さんがそんなことを言い出す。
「は?あたし、お酒なんて飲んでないですよ?」
「うん、初めのあれは、ちゃんとアップルサイダーだったんだけどね。あやのと浩平が、下らない口喧嘩始めたでしょ?あのとき、俺がうららちゃんのグラスに注いだのは、紛う事なきシャンパンだよ」
どこか楽しそうに言う、賢介さん。
「ええええ!あ、あれ、お酒だったんですか!ど、どうりで、何か味が違うと思った」
「あはは。やっぱり、気付いてなかった?いやあ、飲むとどうなるのかなって。気になっちゃったから。でも、どうもなかったみたいだね」
「え、ええと、一応は。そう、言われてみれば、何だか体があったかくなったり、しましたけど。それって、お酒のせいなんですか?」
「あー、それはあるかもね」
「賢介」
「何?」
「お前、覚悟は出来てるな?」
出島さんが、低い声を出した。前を向いたままなので、そこはかとなく、威圧的。
「うららちゃん、平気?」
「へ?えと、何がですか?」
「吐き気とか、頭痛とか、記憶が飛んでいるとか、そういうのある?」
「ありません、けど……?」
「ほら。うららちゃんの体は、ぴんぴんしているでしょ。何を目くじらたててるんだか。うららちゃんは、お前の所有物じゃないんだからな、浩平」
「……分かってる。だけど、うららさんの体に、毒だろう」
「どのみち、御神酒を飲まなくちゃいけなくなるんだ。だったら、今から慣れておいた方が良いんじゃないのか」
「賢介!」
鋭い声で、制止する。
妙に静まり返った車内。
御神酒?今、御神酒って言った?それを、あたしが、飲まなくてはならなくなる。それは、やっぱり、例の龍神がらみなんだろうか。
あやの先生も賢介さんも、悪いひとだとは思いたくない。優しいところだってあるし。でも、みんな、一番に考えているのは、一族のことなんだよね。
そりゃそうか。
誰だって、自分の家族や一族が大事だもんね。部外者のあたしのことを、出島さんたちが優先させるわけがない。
この期に及んで、甘えた考えの自分を、ひっぱたいてやりたくなった。
さりげない仕草で、賢介さんがラジオのスイッチを入れた。
沈黙は、流れてくる音楽と、他人の言葉で塗って代わられ、それは居心地の悪さを少しだけ緩和する。
そう感じていたのは、あたしだけではないはず。
ばれないようにそっとため息をついて、肩の力を抜いた出島さんの後ろ姿を見て、あたしはそう思った
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