心臓討論会と河童
どれくらいのあいだ、そうしていたんだろう。悔し涙も出ないほど、憤懣やるかたない思いをして、あたしはソファに座り込んだままでいた。
「うららさん?」
出島さんの声が聞こえる。どうやら、台所から戻ってきたらしい。
返事をしないでいると、再度、
「うららさん?」
呼びかけられた。
自分勝手に、信じるのに目いっぱいの努力をしないといけないような話をした挙句、ひとの質問には結局答えず、脅しみたいに「お願い」をして、そしたら、ひとの弱みにつけこんだかの如くキスをかまし、そんな行いをしておきながら「嫌いにならないで」なんて厚かましいことを「お願い」する。そんな、利己的で、自己中心的で、卑怯で賢しくて、わがままで頑固な出島さんに、何であたしが返事をせねばならないのだ!
と、あたしが貝のように口を閉ざすと、出島さんが近づく気配があった。何かをテーブルの上に置く音がする。
「うららさん?僕に返事をしたくないとお思いなのは、理解できますけど。あのね、非常に言いにくいんですけど、とりあえず、足を下ろして頂けませんか?」
意地悪で、二重人格で、秘密主義の出島さんの言うことなんて、聞いてやらないんだから。
「……。僕の言うことなんて、聞いてやるもんか、ということですか?それでも、僕は良いですけどね。ただね、うららさん。スカートをお穿きになっているときに、そんな座り方をされたら、下着が見えてしまいますよ。というよりも、もう、見えていますけどね」
「!」
迂闊!
ミサイルみたいに直線的な動きで、両足を床に着けた。当然、顔は完熟トマト色だ。
顔を隠すものがなくなってしまったものの、だからといって、のうのうと頭を上げるわけにもいかず。あたしは髪で顔を隠そうと、手でぐしゃぐしゃにしようとする。
「はい」
お化けみたいに前髪が顔覆っていて、視界は黒いすだれがかかったみたいになっている。けれど、出島さんが何かを、あたしに差し出すのは確認出来た。
どうやらマグカップらしいそれは、あたたかな湯気を発していて、そういえば喉が渇いていたんだっけとあたしに思い出させる。
「カモミールティーです」
「なんですか、それ」
「ハーブの一種ですよ。沈静効果があると、言われています」
「それはまた、おあつらえ向きですね」
せめてもの皮肉を言うと、出島さんが苦笑した。
「ええ。でしょうね」
この言い方が、あたしの気に食わなかった。でしょうね?でしょうね、だ?誰のせいで、そんな漢方薬(ちょっと違うかもしれないけど、つまりはそういうことでしょ?)を飲む羽目になっていると思っているんだ、この天然傍若無人河童!
怒りに任せて、あたしは顔を上げた。邪魔な前髪は、片手で振り払う。
「どうして、あたしにキスなんてしたんですか」
キスなんて単語を、出島さんの眼前でこんな風にはっきりと発音したのも初めてのことだし、質問というよりも詰問するような調子で話しかけるのも、きっと初めてだったに違いない。それもすべて、出島さんの物言いが、あまりにもデリカシーのないものに聞こえたからなんだけど。
案の定、出島さんは目をぱちくりさせて、手にしているマグカップを落としかけた。すんでのところで、グリップを取り戻すと、
「え?」
「え?じゃない!そうやって、はぐらかすのを、やめてください。たしかにあたしは、出島さんよりも年下ですけど、だからって、理解出来ないわけではないんです。そうやって、いっつも、あたしのことを知った風に振舞って、ひとのことを振り回すだけ振り回して、何の説明もなしに飄々と煙に巻いて。そういうの、失礼だと思いませんか。質問に、きちんと答えてください。どうして、あたしにキスをしたんですか」
言ってる間は、無我夢中だった。言ってしまってから、頭の血管が音を立てて自己主張し始める。
出島さんの手から、もぎ取るみたいにマグカップを受け取る。取っ手を握る手が、軽く震えているのに気が付いた。
出島さんはというと、じっとあたしを見つめたまま。その瞳は、透き通る湖の色をしていて、そこからは何の感情も汲み取れない。まったくの無表情。もともと、顔の造作が良い分、まるっきりマネキンのようで、少し怖かった。
震える指たちを鼓舞して、あたしはマグカップの中身をすすった。湯気が、鼻を包む。液体は、薄いオレンジ色をしていて、お茶とはまったく違う味がした。蜂蜜でも入っているのか、ほんのりと甘い。
それを見届けた出島さんは、ゆっくりと、あたしの隣ではなくて、真向かいのソファに腰をおろした。すべての動作が緩慢としていて、スローモーションの映画みたい。
「白状しましょう」
言った出島さんは、何故だかやさぐれた顔をしていて、あたしを混乱させる。
いけない、いけない。こうやって、すぐに振り回されるから、肝心なことを聞きそびれるんだ。
「どうして、うららさんにキスをしたか?したかったからですよ」
「は?」
「さっきの、あの瞬間、したかったという意味ではないですよ。ずうっと、したかったんです。でも、うららさん、嫌がるじゃないですか。だから、我慢していたんです」
「それは、」
「答えになっていませんか?でも、これが、本当なのだから、仕方がありませんよね。うららさんより年上なのに、そんなことくらいの我慢が出来ないんです。出来なくなってしまうんです、うららさんといると」
「そ、そんなの」
「ええ、うららさんの所為では、ありませんよね。解っていますよ?しょーがないじゃないですか。好きなんだから」
「そ、そんなこと」
「言われても?でも、聞きたがったのは、うららさんですよ。責任取ってくださいね」
「せ、責任って」
「お願い、きいてもらえますか?」
「え、ええ?」
「僕を、嫌いにならないで、くださいますか?」
「そ、それは」
好きだからって、あんな強引にキスして良いわけないじゃない。我慢が出来なかったなんて、そんなこと、あたしが知る訳ないじゃない。しかも、ずっとそんな風に思ってたなんて、寝耳に水も良いところだし。嫌がるだなんて、だって、だって、そういうのって、恋人同士がするものなんだし。あたしは、出島さんと、その、恋人、なわけないし。そういうんじゃ、ないし。ただ、出島さんは、インターンで村にやってきて、河童だとかで、うちの神社に用があるだけで、だから、好きだなんて言われても。嫌いになるとか。そんなこと、あたしには。
「うららさん?」
ぷしゅ〜と音を立てて、あたしの脳みそは、オーバーヒートのエンジンよろしく、活動を停止したがっていた。
なのに、思考は止まることをやめてくれない。
確かに、あたしの質問には、出島さんは答えてくれたわけだから。それに対しては、ちゃんと御礼を言っておかないと、いけないんじゃないだろうか。
「あ、ありがとう、ございます」
「はい?」
「その、質問に、答えて、もらったので。御礼は、言っておかないと、と思って」
しどろもどろに、言葉を舌の上に乗っけた。くすくすと、出島さんが笑う声が、ふわふわした頭の中に聞こえてくる。
「どういたしまして。うららさん。そうやって、直接、質問してくだされば、僕は、ちゃあんと答えますよ。今まで、はぐらかしてきたのは、それをうららさんが望んでいないと思ったからです。だってうららさん、すぐにパンクしたみたいになっちゃうじゃないですか。今みたいに」
「う。うるさいですよ……」
「ねえ、うららさん。僕からも、質問があるんです。答えていただけますか?」
「そ、それは」
いや。答えない方が、良いに決まっている。出島さんが、このタイミングで出してくる質問なんて、ろくでもないものに決まっているんだ。絶対、あたしが答えたくない質問に決まってる。だから、今ならまだ間に合う。答えたくないって、言わないと。
でも、それって卑怯にならないかな。だって、出島さんはあたしの質問に、答えてくれたわけだし。それを、こちらが答えないなんて、そんなの、不公平じゃない。
でも、そもそも、いつもそういう不公平をしてきたのが、出島さんなわけだから。ちょっとくらい、あたしが同じことをしても、それがお互いさまというか。むしろ、日頃の行いを慎んだ方が良いっていう、無言の注意にならないかな。
出島さんがやったからって、自分もやるっていうんじゃ、あまりに低レベルな争いだと思うけど。そんなことを繰り返してたんじゃあ、いつまでたっても、何も改善されないだろうし。例え相手がどんなに卑怯な手に出ても、あたしはそういう風になっちゃいけないと思うんだけど。
脳みそが半分に分かれているのか、それとも心臓の心室が大討論会を行っているのか。ばらばらの意見が、交互にあたしの精神を支配する。それでも、ついには、
「わ、わかりました」
と言ってしまうのだから、あたしも、悪いことが出来ない質というか。ただの馬鹿なのか。
「うららさん。本当は、僕が河童だって、認めていらっしゃるでしょう。違いますか?」
出島さんが、明瞭な声でそう言うのを聞いて、あたしは即座に後悔した。
ほら。やっぱり、答えたくないって言えば良かったんじゃない!
もう、遅いよ。体のどこかから、諦念の呟きが聞こえてきた。
ああもう。あたしって、何でこうなんだろう。それも、出島さんに限ってばっかり。
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