ギックリ腰と河童
「うららさん?」
俯いて、制服のスカートの皺を見つめていたあたしに、出島さんの声がふわりと降ってくる。
「先に、進みましょうか」
いつもの、優しい声。でも、今はどこか、寂しそう。こんな風に、出島さんが見せる表情は、あたしの体験したことのないものがあって、それを見る度、出島さんはあたしにとってまだまだ「他人」なのだと思い知らされる。毎日一緒に居たって、どんなにたくさん話したって、結局、大切なことは出島さんは教えてくれない。そして、それを聞き出そうとするほど、あたしには勇気がない。
今だって、そう。どうして寂しそうなのか、どうして辛そうなのか、なのに、どうしてまだ微笑んでいられるのか、あたしには解らない。でも、それを聞くことは躊躇われる。出島さんには、そういうオーラがあるんだと思う。踏み込んで欲しくない領域を、こちらに理解させる、そういう雰囲気。
髪の毛をくしゃくしゃにして、その頭をぎゅっと抱きしめて、どうしてそんな顔してるのって。何だかよく分からないけれど、でも、きっと大丈夫だよって。そうしてあげたい自分の気持ちを、口唇を強く押し合わせることで我慢をした。
「ほら、そういう顔をされる。だから、避けてきていたんですよ、この話題。うららさんは、知らなくて良いような面まで、見なくてはいけなくなるでしょう?そして、そんな顔をされるのが、僕は一番辛いんですよ」
「そんな顔って?」
「うららさんね、ご自分では無愛想だとか表情がないとか思われているみたいですけど、全部顔に出ていますからね。あやのの父親は、確かに根性なしのど腐れ野郎でしょうが、それは、うららさんとは何の関係もありません。うららさんが、僕のことを、河童のことを認めるのに迷ってらっしゃるのとは、まったく別問題です。他人に同調するのは、立派なことですが、うららさんは、もう少し、ご自分の問題に集中した方が良い」
いや、あたしが同情していたのは、出島さんなんですけど。
とか言うと、また話がややこしくなりそうだったので、あたしは大人しく頷くことにした。
「だからね」
少しおどけた調子で出島さんが言って、あたしの鼻を、人差し指と親指でつまんだ。
「うららさんが、そんな泣きそうな顔をされる必要はないんです。ね?」
「ふぁい」
「かわいい……」
鼻をつままれた為に、つまったような声しか出なかった。のだが、それに頬を染めた出島さんは、ケーキを目の前にした乙女のように呟いて、じりじりと距離を詰めてくる。
「で、出島さん!先に、先に進みましょう。お話を、先に、進めましょう!」
「は!」
ぶるぶるぶる、と首を左右に振る出島さん。これで邪念が出て行ってくれれば、良いのだけれど。
「では、再開しましょうか。ここからは、ちょっと内輪の話が多くなりますので、どうかご内密に」
「でも、全部河童の話なんでしょう?」
「はい、それはもちろん」
「だったら、例え話をしたって、信じるひとってあんまりいないと思うけど」
「また、そういうことを!うららさん。ご存知ないかもしれませんが、河童といえば、水妖の中でも一、二を争うポピュラーさなんですよ!それについての、極秘情報を知っているなどと、万が一にも口にされたら、全国からパパラッチがやってきますよ!」
「で?パパラッチに何をスクープされるんですか。週刊誌に載るとでも?」
「その通り!河童の秘密を知る女子高生、週刊誌が喜びそうなタイトルではありませんか!」
「その記事を、誰が読むんですか」
「そう。そこが問題なんです」
「読むひとがいないから?」
「違いますよう!河童の中には、そういう人間を利用しようと考えているものもいますからね。そういう不逞な輩に、うららさんを近付けるわけにはいきませんので」
「不逞の輩。時代劇以外で、初めて耳にしました、その言葉」
呆れ顔で言ったんだけど、反して出島さんは真面目極まりない顔で、
「うららさんが、危険な目に遭われるのだけは、何としても避けたいんです。ご理解頂けますか?絶対に、誰にも口外なさらないでください。たすくさんにでも、です」
「わ、分かりましたよ……」
「ありがとうございます」
と、その場が華やぐ笑顔をこちらに向ける。これの殺傷能力の方が、余程危険だと思ったりなんかして。
「NCKのトップのおひとりが、八岐大蛇さまであることは、お話いたしましたね?彼は、素晴らしい人格者であると同時に、素晴らしい指導者でもあったわけですが、何分ご高齢になられまして。ここ数十年ほど、後継者をお探しになっておられるのです。NCKの運営委員会というのは、世襲制が色濃く残っておりますので、当然、八岐大蛇さまも、ご子息に引き継いで頂こうとお考えだったのです。ですが、八岐大蛇という種族は、受胎率が特別に低い種族なのですね」
「じゅ?」
「ああ、受胎率。つまり、子供の生まれる確率です。八岐大蛇の女性というのは、生まれながらにして、子供に恵まれにくいという性質をお持ちなのですよ」
ご苦労を慮ると、お可哀想ですよね、と言いながら、出島さんはグラスに手を伸ばした。一口、喉を潤してから、話を再開させる。
「そして、つい先だって、八岐大蛇さまが持病のギックリ腰を悪化させられまして」
「ギックリ腰、ですか」
「はい。何せ、八つも尻尾があるのです。メンテナンスが大変だと思いますよ。それが、全部腰に繋がっているわけですから。重さもそれ相応にあるでしょうしねえ。あと、老眼も進んで、会議書などが読みにくいとぼやいておられたらしいです」
「それは、また……」
リアリティ抜群の話だなあ。
「ま、そういったわけでして。今回は、八岐大蛇さまが、直々に後継者をお選びになるという形式を取ることになったのです。八岐大蛇の一族には、後継者にふさわしい人物がいない、というのが八岐大蛇さまのご意見です」
「あの、ちょっと良いですか?」
「はい、何でしょうか」
「その、八岐大蛇さんっていうのは、それが名前なんですか?ひとりしかいないんですか?なのに、一族?えっと、何かこんがらがっちゃうんですけど」
運営委員会のトップのひとりが、八岐大蛇さんで、でも、一族も八岐大蛇で、って、一体何人八岐大蛇がいて、その内の誰が運営委員会に入ってるのかとか、全然わからないじゃない?
「あ、それもそうですね。八岐大蛇というのは、一族の総称です。原則として、運営委員会の皆様は、個々の名前よりも、その一族の名前で呼ばれることになっています。今の運営委員会員であらせられる八岐大蛇さまは、お名前を佐々木さまとおっしゃいます」
「普通じゃないですか!」
「ええ。我々水妖は、人間社会に住み始めて長いですからね。人間と同じ名前、住居、仕事……。佐々木さまだって、ぱっと見はナイスミドルですよ」
「ナイスミドル、ですか」
「人間社会では、俳優をされていらっしゃいます。もしかしたら、うららさんもどこかで見かけられたかもしれませんね」
「え?運営委員会が仕事じゃないんですか?」
「ええ、もちろんです。現に、あやのだって保健医をしてるでしょう?」
「ああ、確かに……」
「それで、佐々木さまは、先ほども言いました通り、NCKの次世代教育にも力を入れてらっしゃいましたので、直属の弟子のような方が何人もいらっしゃるのですね。今からちょうど三ヶ月前に、佐々木さまが後継者の名前を発表されました」
ここで、出島さんはもったいぶってあたしに含み笑いを向ける。あたしは、不本意ながら、
「誰に決まったんですか?」
「きちんと、聞いてくださいね」
「は、はい」
出島さんが黙ってしまうと、途端に静まりかえるリビング。あたしの心臓は、少なからず興奮しているみたいで、その音が耳にまで届いてしまいそうだった。
口元にはいつもの微笑をたたえ、瞳はまっすぐにあたしを見つめて、出島さんはその言葉を紡ぐ。
「龍神さまです」
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