長い間空いてしまいました。空き巣には遭うわ、警察に指紋は取られるわ、ATOKは急に壊れるわ。厄年じゃ、ないんですけどね。
「遅かったじゃない」
扉が開かれて、にっこり顔のあやの先生が出迎えてくれた。
対するあたしはむっつり顔で、それをお馴染みの俵抱えにしている出島さんはげっそり顔、その後方はげんなり顔の賢介さん。
「どしたの」
「ちょっと。ね」
含んだ調子で賢介さんが答え、そそくさと靴を脱ぐと、勝手を知っているのか、どこかに姿を消してしまう。
あやの先生は、もちろん家でも白衣なんてコスプレ趣味はないらしく、今は仕立ての良いトップにジーンズというカジュアルな格好だった。それが、また。あやの先生の美人さを際立たせるんだから、本当に、美人ってのは狡い。だって、何着ても似合うんだよ?
そのくびれた腰に手をあてて、あやの先生が苦笑する。
「拉致誘拐犯みたいよ、浩平。うららちゃんも、そんなむくれた顔しないでほら、飲み物を用意するから。手を洗ってきたら?埃っぽいわよ、二人とも」
「じゃ、うららさん。行きましょうか」
「先に下ろしてください」
「だって。さっき、ご自分で歩けると仰ったから、その言葉を信じて、うららさんが僕を裏切ることなどないと信じて、うららさんがよもや僕に嘘をつくなどということはないだろうと信じきって、うららさんが僕を騙し謀ろうなどということは、万が一にもなきものだと盲目的に誠実に信じていた僕の良心に反して、猛ダッシュされたじゃないですか!捕まえたら捕まえたで、僕の手を咬むし。うららさんが、そんなおてんば娘だったなんて、僕としては非常に驚いているんですよ?あでも、それくらいのギャップがあった方がかえってそそられますけどね」
「この状況下を否定しない人間がいたら、お目にかかりたいんですけど!」
いまだ俵持ちされたままあたしが反論すると、出島さんがこれみよがしのため息をつく。
「もう。うららさんたら。そういうのは、僕と知り合った時点で諦めてくださいよう」
「嫌ですよ!」
結局、台所らしき方面に消えたあやの先生が去ったあと、あたしはようやく玄関に下ろしてもらえた。
靴を脱いでそろえてから、出島さんの後を追うと、洗面所兼バスルームに着いた。見たこともないコスメティックがたくさん置いてあって、香水の瓶も何本か立っている。興味深げに見つめるあたしに、出島さんは、
「うららさんは、そんなものつけなくても、十分、良い匂いがしますよ」
またそういう、気障なことを……。
呆れて目を閉じた、その一瞬の隙に、出島さんが背後からあたしに抱きついてくる。うなじに口唇がくっつくほどの近距離で、息を吸う気配がした。
どくどくとあたしの血液が流れを早くする。悲しいかな、出島さんいわくスキンシップであるこの行為には、一向に慣れる気配がなかった。きっと、うなじまで真っ赤になってるんだ。ああ、何であたしってこうなんだろう。
「トンカツの匂いがします……」
うっとりと出島さんが呟く。
はあ?
あたしは、問答無用の肘鉄を出島さんの脇腹にお見舞いすると、肩を怒らせて手をじゃぶじゃぶと洗った。
「何か失礼なこと言いました?僕?」
「トンカツの匂いがするって言われて喜ぶ女の子はいません!」
言い捨てて、あたしは出島さんを洗面所にひとり、放置してやった。
「ちゃあんと手は洗ってきたかしら?うららちゃん」
フローリングの床っていうのは、靴下で歩くと滑りやすい。あたしは転びそうになるのを、どうにかバランスを取りつつ、台所に到着し、あやの先生の気さくな笑顔に出会った。
「はい」
「よろしい。はい、じゃあ、これ」
言って、あやの先生は冷蔵庫から何かを取り出し、あたしに手渡した。大きな、深い緑色の瓶。一升瓶とは、また少し違う。ゴールドのラベルがついていて、そこには横文字で何か書かれていた。読んでみようとしたけれど、どうやら英語ではないらしい。
「これは?」
「シャンパンよ。みんなで飲もうと思って」
「でも、これって、お酒ですよね?」
「そうよ。あれ?うららちゃん、お酒だめなの?」
「いや、だめっていうか、あたし、未成年ですから」
「気にしない、気にしない!」
「いや、それは気にしろよ、あやの。仮にもお前、保健医だろうが。未成年に酒勧めちゃやばいでしょ」
細長いグラスを四つ、手に持って、奥から賢介さんが姿を現した。もっともなことを述べた賢介さんに、尚もあやの先生は、
「何、正論吐いちゃってんの、賢介。あんたなんて、中学生の頃には、浩平と一緒にウイスキーがぶ飲みしてたくせに」
「出島さん、そんなことしてたんですか」
驚いて口を挟むと、ふたりはあたしを見つめ、それから柔らかく微笑んだ。
「賢介、グラス置いたら、浩平呼んできて。うららちゃん、そのシャンパン、賢介と一緒にテーブルに置きにいってくれる?」
「あの、あたし、やっぱりお酒は」
「大丈夫だよ、うららちゃん。女史は、ああやってひとをからかうのが趣味なだけ。ちゃんと用意してあるはずだよ。だろ?」
「そうやってすぐに種明かししちゃ、つまらないでしょうに。心配しないで、うららちゃん。ちゃあんと、貴女用にノンアルコールのものを用意してあるから」
「あ、そうだったんですか」
「おいで、うららちゃん」
優しく声をかけられて、あたしは賢介さんと一緒にリビングへ移った。
リビングは、茶色とアイボリーを基調にまとめられていて、大人っぽい雰囲気だった。家具は全て洋風で、アイボリーの皮のソファの前に、茶色のコーヒーテーブルがあった。
「広!」
「はは。たしかに、一人暮らしにしては広いかもな」
「え?賢介さん、ここに住んでいないんですか?」
「俺?何で?」
「だって、何だかこの部屋にすごく慣れた風だったから……。それに、仲も良さそうだし、あたし、てっきり、賢介さんとあやの先生は」
「付き合ってる、とか?ないない、ないね。絶対、ない。天文学的な確率でないよ、それは」
何回も否定の言葉を口にしながら、賢介さんがグラスをテーブルに並べた。ならって、あたしもシャンパンをテーブルの上に置く。
「女史と仲良いのは、認めるけどね。でもそれなら、浩平だって仲良いわけだし。俺と浩平も、仲が良いだけだし。でも、男女の関係にはならないよ。そうなるには、色気がなさ過ぎるんだよ、もう」
「はあ……」
出島さんも、男のひとにしては色っぽいと思うんだけどね。賢介さんは、もっとこう、直接的というか、動物的フェロモンが出ている気がする。オス!みたいな。って、何考えてるんだ、あたし。
そういう賢介さんが、男女の関係、とか言うと、あたしは何だかそわそわしてしまう。
それを敏感に察知した賢介さんは、口角をにやりと上げ、あたしに急接近した。腰に片手を置いて、覗き込むように上半身を屈めると、
「俺とうららちゃんなら、まだまだ可能性はあると思うけど」
何て答えれば良いのか。出島さんなら、はっ倒しているところだけど、まだ会ったばっかりの賢介さんにそんなことは、流石に出来ない。
顔を熟れた林檎色にして押し黙るあたしと賢介さんの間に、何かが高速で横切った。それは、物騒な音を立てて、リビングの壁につきささる。恐々見てみると、シルバーに鈍く光る食用ナイフが、つきささった反動で振動していた。
「危ないよ、浩平。まじに危ない、今のはさ。殺気を感じた」
「危ないのは、お前のその、下半身としか接続されていない脳みそだ」
言いながら、出島さんはあたしを賢介さんがひっぺ剥がすと、腰から埃を払うみたいに手で叩いた。
「うららさん。うららさんがトンカツをお好きでないのを僕が把握していなかったのは、確かに僕のミスです。それが、ショックだったのでしょう?でも、だからって、賢介に接近を許してはいけません。あれは、河童の中でも一、二を争う、たらし河童なのですから!」
「はあ……」
もうどこから、そのどこまでも自分にとって有利な曲解に突っ込んで良いやら。
「トンカツ?何の話しているの?」
出島さんの手から、ナイフやらフォークやらを受け取った賢介さんがテーブルセッティングをしている中、あやの先生が両手にお皿を持って入ってきた。
「いえ、大した話ではないです」
早口にそう言ってから、あたしは出島さんに握り締められていた手を振りほどくと、あやの先生のお手伝いをしようとそちらに近付く。
「浩平。あんたが持ってきたお弁当、台所から持ってきなさいよ」
「あ、そうだった」
ぽんと手を打つ出島さんに、あたしも、そういえばそんなものもあったかと思い出し、
「お母さんの?」
「そうです。うららさんのお母さんが作って下さった、僕とうららさんの、お弁当ですよ。僕とうららさんのみの」
「みんなで食べればいいじゃないですか」
「くっ!聞いたか、ふたりとも。うららさんの心の広さ、懐の深さ、情の厚さ、この愛くるしさ!台所から帰ってくるまで、誰もうららさんに触らないように!」
言うだけ言って、出島さんが足早に駆けて行く。さすがは、幼馴染。出島さんの奇行には慣れっこなのだろう。まったくのノーリアクションで、めいめいにソファに腰をおろした。
「うららちゃんも、お座りなさいな」
あやの先生に勧められて、あたしは二人がけソファに座ったあやの先生の隣に移動する。
「賢介、開けて」
シャンパンを突き出す、あやの先生。賢介さんはこなれた仕草で、コルクの周りについた針金を取り、コルクを天井に向けて押し出した。空気が弾けた音がして、コルクが飛び出す。あふれ出てきた中身をタオルで拭き取って、グラスに注いだ。
「うららちゃんは、こっち」
あやの先生が、小さな緑色の瓶を顔の横に持ってくる。林檎の絵がプリントされたラベルには、アップルタイザーと書いてあるのが読めた。
「スパークリング林檎ジュースだと思ってくれれば良いわ」
シャンパンの入ったグラスと同じ容器に、アップルタイザーが注がれる。シュワシュワと音を立てるそれは、琥珀色をしていて、とても綺麗だった。
あたしも、顔を赤くしていても、これくらいの冷静さを保てれば良いのに。
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