保健室と河童
結局、どうしてああも出島さん相手には緊張してしまうのか、理由は分からないまま、学校に着いた。その間、ずっと上の空だったから、正直岡崎が何の話をしていたか分からない。でも、満足そうな顔を見ると、きっとあたしが聞いていてもいなくても良い内容だったのかもしれない。
とか言うと、ひどいかな。
「んーじゃ、またな、黄本」
片手を挙げて言う岡崎に、手を振り返してあたしも自分のクラスに足を進める。
久しぶりに見るクラスメイトたちは、みんな、どこか落ち着かない様子で、教室はいつも以上にざわついていた。
席について、鞄を机の上に乗っけると、あたしは目についた級友たちに近づいていく。久しぶり、焼けたね、これでも日焼けしてたんだよ、なんて他愛もない会話をして、笑ったり大声でリアクションを取ったりしているうちに、チャイムが鳴った。
みんな、慌てて自分の席へと移動する。ざわめきがやがて少しおさまると同時に、担任の先生が教室に入ってきた。
「久しぶり、みんな。夏休みの間も、ちゃんと勉強して、健康的な生活を送っていたことと思う」
明らかにそんなこと、思ってもいないくせに。くすくすと、どこかから忍び笑いが漏れた。静かに、と言葉だけで表面的に叱って、先生が連絡事項を簡単に説明する。
どうやら、岡崎の得た情報は正しかったらしい。保健室の串田先生が、夏休みの直前に妊娠が分かったこと、つわりがひどくて今は病院にいること。これって、相当ひどいつわりなんだそうだ。担任の先生は独身の男の人だから、らしい、というところを強調して言った。それから、急遽、後任の先生が決まったこと、そして、その先生たっての願いで、簡易健康診断を今日行うこと。それから、始業式をやるらしい。
うーん。それじゃあ、今日は少し長引くかもなあ。出島さんには、お昼までには戻るって言ったけど、ちょっと無理かもね。
ええええええ、と不満げな声があがる。主に女子からだ。そうだよね。体重とか量るんでしょ?言ってくれれば、それに向けてダイエットしたのに、というとこだ。あたしも、同意見。
それでも、決まってしまったことには渋々と従う、おとなしいあたし達。
A組から順に、ということらしいので、C組であるあたし達は、まだ待ち時間がある。先生の暗黙の了解を得て、あたし達は好き勝手に机を移動させたりしてグループを作ると、ぺちゃぺちゃと話し始めた。
当然、新しい保健室の先生のことが話題に上がる。
「うららぁ、新しい先生について、何か知ってる?」
「うーん、いやま、見たわけじゃないけど、美人らしいよ」
「あ、じゃあ、女の人なんだ」
「うん。みたい」
「誰から聞いたの、そんなこと」
「岡崎に聞いたー」
「岡崎ぃ?あいつ、始業式から、そんなことにばっか興味示してんの?ばっかだねえ」
「岡崎も、メールで知ったらしいけどね」
「誰からもらったの、メール」
「岸本くんだって」
「あああああ、岸本ならそういうのやりかねない」
「わかるわかる、岸本ってほんと、女のことしか考えてないよね」
「しかも、理想高すぎるんだって、あいつ。そんな、少年漫画にしか出てこないような、セクシーで清楚な女の子、いないっつの」
「だよねー」
などと、岡崎にも岸本くんにも失礼なことを言い合いながら、あたし達が笑い転げていると、先生が伝令を受けて立ち上がる。
「じゃ、女子から」
教室内が再度ざわめいて、あたし達はぞろぞろと徒党を組んで立ち上がると、保健室に向かった。
診断自体は、本当に簡単なものらしい。ひとり、三分くらいしかかかっていないんじゃないかな。時折、話し声が聞こえたりするから、何か質問されたりしているのかもしれない。出てくるこたちが、一様に笑っているのが印象的だった。良いひとなのかな?
いよいよ、あたしの番になって、といってもあたしの苗字が順番として早いだけなんだけど。「お」だからね。
「失礼しまーす」
言いながら、後ろ手に引き戸を閉める。ゴムがレールの上ですべる感触が手に伝わった。
「どうぞ。そこに座って?」
「あ、はーい」
座って、顔を上げて、新任の先生を見て、あたしは軽く驚いた。
本当に、美人さんなんだもの。
たっぷりとカールした長い髪が、診断書みたいなものを見ようと顔を傾げると弾むように揺れる。白衣に包まれていてもわかる、しかも同性にまでも伝わる、ナイスボディー。出るべきところは出て、引っ込むところは引っ込んで、ってこういうひとを言うんだね。同年代には到底出せない色香みたいなものが、周りを渦巻いているみたいだった。
また、顔が綺麗なんだ、これが。きちんと整えられた眉は、すっと通った鼻筋につながって、ぷるんと形の良い唇へと視線を誘う。瞳は、長く濃い睫毛に縁取られていて、色味が少し変わっていた。緑がかっているように見えるんだよね、光の加減によると。
まるで、誰かさんみたいに。
あたしは咄嗟に、出島さんの瞳を思い出した。出島さんの瞳も、こんな風に緑がかってるんだよね。あでも、出島さんの方がもっと薄い緑かも。
「ん?私の顔に何かついてる?」
美人なのに気取ったところのまったくない笑顔で、先生が言った。じろじろ見すぎてたかな。
「い、いえ。あの、不思議な瞳だな、と思って」
「そう?ちょっとね、血が混じっているのよ。それで」
そっか。外人さんの血が入ってるんだ。どうりで、ちょっと日本人離れしてると思った。
「さてと。ええと、黄本うららちゃん、で良かったかしら?私が、今学期から串田先生の産休の代わりを務めます、露井あやの、といいます。よろしくね」
にっこりと微笑むと、片手を差し出してきた。あたしは、おずおずとそれを握り返す。美人さんっていうのは、手まで綺麗なものなんだろうか。しかも良い匂いがする。
「あら?」
「え?」
綺麗に整えられた指先を口元にそろえて、露井先生が小首を傾げる。
「あなた……。夏休み、何か変わったことがあった?」
唐突にそんな質問をされる。
変わったこと?
出島さんに会って、日常生活をめちゃめちゃにされたくらいだけど、まあ、それもね。あたしにとっては変化だったってだけで、別に大きな怪我もしてないし、病気にもかかっていないし。
あたしは、ふるふると首を左右に振って、
「いいえ。特には」
と答えた。
露井先生は、まだ少し納得のいかない顔をしていたけれど、それでも小さく頷いて、診断書にもう一度目を落とした。そして、何か小さく呟いた。気がする。小さすぎて、あたしには聞こえなかったから、今いち自信は持てないんだけどね。ややって、露井先生は、
「じゃ、身長と体重だけ量らせて」
「うええ、やっぱり量らないといけないんですかあ」
情けない声を出すと、
「あ、どうせ、こんなことなら夕食抜いたのに、とか思ってるんでしょう。あのね。私に言わせれば、あなた達は、若いってだけですでに魅力的なの。ダイエットなんかする必要ないんだから。健康的に、きちんと食べてきちんと寝てさえすれば、それでいいの」
ね、と悪戯っぽい瞳でウインクをすると、歯を見せた。
つられてあたしも笑う。このひと、何か好きだなあ。気さくで美人で、さばさばしてて。あたし、こういう女の人になりたいなあ。
あたしが見つめているのに気付いて、体重計をセットしていた露井先生が振り返る。
「ほらほら。私のわがままで始業式を待ってもらってるんだから。さくさくやっちゃおう。そこ乗って」
「はーい」
照れ隠しに笑ってから、あたしは上履きを脱いで体重計に乗った。
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