幕間:出島浩平の電話
高校生、というのは、夏休み、というのに、宿題、というのがあるらしい。
日がな一日、うららの傍でべったりしていた出島浩平は、宿題の邪魔だと部屋から放り出された。厳密に言うと、初めはうららの部屋に滞在しても良いということだった。閉じきった部屋に、あの独特の匂いが充満し始めると、やはり我慢が出来なくて、ついついうららの背中に鼻を近付けたら怒られた。
「うららさ〜ん、うららさんてば〜、怒らないで開けてくださいよ〜」
「うるさい!あたしは宿題がしたいんです!邪魔するんだったら、どっか行っててください!」
哀れっぽい声を出して嘆願してみたが、罵声が返ってくるだけだ。どこかへ行け、ではなくて、行っていて、なのがうらららしい。本人はもちろん、そんなことには気付いていないだろうが。
はあ、とうららにも聞こえるように、大きくため息をつく。それから三秒ほどまで待って、すっきりとした表情で出島浩平はその場をあとにする。
玄関においてある自分の靴には、新聞紙が山ほど詰め込まれていたおかげで、すっかり乾いている。スラックスのポケットに手をつっこんだまま、つっかけるようにして靴を履くと、外に出た。日が沈んで、夏の生暖かい風が肌に触れる。上半身をのばして、深呼吸をすると、神社の方に足を向ける。
鳥居をくぐって、参道を上りながら、ポケットに入れてあった携帯電話を取り出す。短縮ダイアルに設定してある人物に、電話をかけた。
コール音六回目で、繋がる。
「遅い」
いつもは三回目で取るのだから。
相手の返答を聞いて、出島浩平は苦笑しつつも憎まれ口を叩いた。
「知らないよ。そっちの都合だろう」
ゆっくりと、悠々とした動作で階段を一段一段上がっていく。
「うん、会えたよ。オカゲサマデ。え?そうだな、いや、想像してたのとは少し違った」
電話口にそう伝えてから、わざと少し間をおく。焦らされた相手の声を聞くと、漸く、
「想像以上」
満足そうに微笑んで言う。
「いや、それがそうもいかないんだって。はは、うん、それはそうなんだけどさ。だから、言ったろ、想像以上だったって。中々、そう簡単にはいかせてくれないみたいでさ。うん、わくわくしてる」
くつくつと喉の奥で笑った。
「やだよ」
相手の相槌に敏感に反応する。
「絶対にやだね。お前にだけは会わせたくない。は?そうじゃない、何考えてるんだ。僕とお前とじゃ、あまりにもタイプが違いすぎる。それにね、あのこは……」
言いかけて、上方を見上げる。まだ少しだけ色彩を残した空。そろそろ暗くなる頃だろうか。目を閉じて、風の音を聞く。電話に意識を戻すと、
「いや、まだ確証はないから、言わないでおくよ。うん?ああ、ふふん、精々知りたがってろ」
気が付けば階段を上りきっていた。
「わかってるよ。忘れるわけがない。ただ、焦っても何も産まれないのは、僕たちが身をもって経験したことだろう。今は、……そう、その通り。で?そっちは?」
ひとしきり、相手の近況に耳を傾ける。
「あっそ。お前だってまだ全然なんじゃないか。ひとのことは言えないな。女史は?」
相手がうんざりしたトーンで長々と話す。
「相変わらず、女史は根回しが早いなあ。僕たちも、見習わないとだな。でないと、何をされるかわかったもんじゃないから。そうそう、あの時みたいにね。あれは、もう御免だな。」
「お前、それしか頭にないのか。どこがそんなに良いのかなあ…。え?誰?……ああ、そういえばそんなひともいたね。すっかり忘れてた。適当にあしらっておいて。恨まれる?僕が?どうして?だって、それを望んだのは相手だよ。どちらかというと、わざわざ時間を割いて付き合ってあげた僕の方が感謝されるべきだと思うけど。ああ、とにかく、どっちでもいい。興味ないから。好きにして」
投げやりに言ってから、ぴくりと耳を動かす。音のした方に向かって、階段を今度は降り始める。ちらりと振り返って見た神社は、ただただ静かなままで、いっそ歯がゆいほどだった。
「おい。もうすぐ切るよ。いや、そうじゃない。呼ばれてるから」
言うやいなや、階段の下から声がする。
「出島さん?そこにいるんですか?」
「はーい」
爽やかに返事を返す。相手が笑い転げているらしいのはこの際無視して、携帯に向かって素早く、
「じゃ、また」
とだけ言うと、さっさとポケットに携帯をしまい込んだ。
木製のサンダルが、石段にぶつかるたび、からんからんと小気味良い音を立てる。こちらに向かってくる、その姿をじっくり眺めたくて、出島浩平はわざとその場で立ち止まる。
「もう、こんなとこで何やってるんですか」
「散歩です」
「散歩って、こんな時間に神社まで?」
「いけませんか?」
「いけなくはないですけど、でも、怖くないですか?神社って、この時間帯、すごく不気味に見えるから……」
「龍神様に会えるかなあ、と思って」
「何、馬鹿なこと言ってるんですか」
神社を不気味だと感じる、それに根拠はあるのだろうか。だとしたら、自分と彼女、どちらが馬鹿なことを言っているのか。人間というのは、根本的に矛盾を内包出来るいきものなのかもしれないな。
とは言わずに、かわりににっこりと笑顔を見せると、
「可愛いなあ、うららさんは」
言ってやる。暗がりでもわかるくらいに頬を染めると、うららはきびすを返す。
「ほら、早く戻りますよ。夕飯が出来たそうです」
首だけこちらに向けて、口早に言う。ちらりと見えるうなじがほんのりと赤くなっていることに、彼女は気付いているだろうか。そして、それが与える影響も。
「うららさん」
名前を呼んで、その手を掴む。リーチは自分の方が格段に長い。少し離れているつもりだろうが、余裕で届く距離だった。
びく!と体を震わせると、過剰反応を示す。な、なに、なにしてるんですか!と非難する姿が、新鮮で愛らしい、と言ったらまた怒られるのだろうか。
「階段、踏み外さないように、気をつけてくださいね」
「え、あ、ああ、はい……」
すぐに丸め込められる。
手をふりほどくタイミングを逸したのか、そのまま、玄関に着くまで、うららは手を握られたままだった。玄関の戸を引く直前に、またしてもあの匂いが鼻孔を刺激する。
よくも、まあ。
と、匂いに翻弄されつつも出島浩平は思う。
今まで無事だったなあ。
自分は、決して誘惑に弱い質ではないのだ。それが、この匂いだけでいとも簡単に、理性の手綱を手放してしまいたくなる。プロフィールを見ただけでは、知りようもなかった。これほどまでとは。
気付いたら、手を引いて、腕の中にうららを閉じこめていた。もう少し、もう少し近くに、と首筋に顔を埋める。その香りを吸い込む。深呼吸なんかより、よっぽど健康に良さげだ。口唇で首をなぞる。上下させると、どくどくと心臓の高鳴る音が伝わってきた。それがまたこちらに拍車をかける、ということも知らないのだろうな。
押し返そう、と自分の胸に置かれた手は、しかし、弱々しくそえられているだけで、何の行動も起こさない。ちらりと盗み見した顔は、真っ赤になっていて、まばたきを不必要なくらい繰り返していた。
「良い匂いですね」
解放して、それだけを言うと、うららは胸においていた手で拳をつくる。そして、我に返ったように後ずさると、
「出島さんの、変態」
小さく言って、戸を引いた。
「待ってくださいよ〜う」
こぼれる笑みをおさえきれなくて、でも、それを我慢する必要もないかと思い直して、出島浩平はうららの後を追って玄関に入っていった。
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