コーダな河童
あたしはすでに両手を自分の後ろについて背中を支えている状態で、つまりこれ以上は下がれない。いや、下がれるんだけど、そうするためには出島さんの手が乗っかった膝を動かして、足を動かして後退しなくちゃいけないわけで、そうすると出島さんにばれちゃうわけで……。ここから逃げ出したくて、もうこれ以上は色々無理だと感じているにも関わらず、そっとその場を離れることが叶わずに、つまりは現状維持というか、金縛りにあったみたいにじっとしているだけだった。
そんなあたしのこめかみを伝う冷や汗が目に入っているのかいないのか。何しろ、お互いの呼吸音が聞こえそうな至近距離、気付いていてもおかしくない。なのに、出島さんはここぞとばかりに意地悪さを堂々と露呈すると、更にあたしににじり寄ってくる。
鼻と鼻がぶつかりそうな距離まで近付いてくると、出島さんはゆっくりと言った。
「さあ。はっきりさせましょうか、うららさん」
「な、なにを……」
答えるあたしの声は悲しいくらいに掠れている。いや、実際まじに泣きたいんだけど!
「僕をうららさんの傍におきますか?それとも、僕を遠ざけますか?」
整わない呼吸を必死に宥めようとする。これまでこんなに自然だった行為が、急に不自然になってしまう。あたし、どうやって息を吸ってたんだっけ。吐いてたんだっけ。どんなインターバルでそれを繰り返していたんだろう。出島さんの質問は頭に届いてはいたけれど、あたしの中のどこかがそれを理解するのを拒否している。満足に酸素の行き渡らない脳みそは、やがてあたしの視界をくるくると回し始める。ぐらぐらとティーカップの早さで回り始めたあたしの周り。
それが大きく揺れた、と思ったらどうやらあたしは後ろに倒れそうになったらしい。それすらも気付かなかったということは、軽く失神する手前だったということだ。もう言ったかもしれないけど、あたしは自他共に認める健康優良児なのだ。そのあたしが、目眩ごときで失神なんて。
力の入らない手はだらんと体の両横にぶら下がっていて、だったらどうして頭も打たずに済んだのかなあ、なんて場違いに冷静なことを考える。
出島さんの手があたしの後頭部をすっぽりと包んでいて、どうやらそれであたしは頭を打つのだけは免れたらしい。
「手、離してください」
助けてもらったことには違いないだろうけど。そもそも、こうなったのだって、このごり押し河童のせいなのだ。あたしは悔しいやら、恥ずかしいやら、悲しいやら腹が立つやらで、とにかくそれだけを冷たく言った。あ、涙出そう。くそう。あたしが目を瞑ってしまうと、出島さんが苦笑する気配がして、すっとその手が離される。あたしは、階段に両足を投げ出して、廊下に上半身を横たえたまま、大人しく寝たままでいた。
目を閉じると、廊下の木目を背中に感じる。段々と弱まっていく太陽のあたたかさを感じる。頭の方にある本殿からやってくる、涼しい風を感じる。そして、出島さんがあたしのすぐ傍に、同じようにして寝っ転がっているのが感じられる。
「出島さんは、狡いです」
頑なに目は開けないままで、出島さんの方にも向かないで、あたしはそう言った。会話をしよう、などという積極的な思いで発した言葉じゃない。だから、独り言みたいなトーンになった。
「どうして?」
どんなに罵倒されても、決して芯の揺るがない声がする。このひとは、どうしてこうなんだろう。
「遠ざけたいってあたしが答えても、どうせまた戻ってきちゃうんでしょ?」
「戻ってきて欲しいですか?」
「そうじゃなくて。さっき、自分で言ってたじゃない。どんな手段を使っても、ここに残るつもりだから、あたしが追い払おうとしても無駄だって」
「無駄だなんて言ってませんよ。それ相応の覚悟で、僕を追い払ってください、と言ったんです」
「何がちがうの」
「そりゃあ、色々違いますよ。だって、仮にも好きな相手ですよ?そのひとに、去れと言われてひょいひょい去れませんよ。だって好きなんですもん。でも、そのひとが、それ相応の気持ちで去れとおっしゃるんなら、僕だって考えます」
「意味がわかんない」
「わかりませんか?」
「わかんないよ」
「じゃあ、わからないままで良いじゃないですか。全てを理解しなくてはいけない道理は、どこにもありません」
「でも……」
「それだと、僕の質問に答えられない?」
素直にそうだと言いたくなくて、あたしはわざとこくりと頷くだけにした。出島さんが目を開けたままなのか、あたしを見ているか、それとも何か違うものを見ているのか、それすらもわからない。でも、不思議にその状態は、あたしを安全な気持ちに導いてくれる。だから、これくらいの意地悪、いいよね?
「律儀だなあ、うららさんは」
出島さんの笑う声がする。空気を震撼させて、あたしの耳に届く。気持ち良い。どんなに変態でも、出島さんの声は、出会った時からあたしを落ち着かせる。昔はやった、エンドルフィンを奏でる鈴みたい。
「では、質問の仕方を変えましょう。うららさんは、僕が傍にいても構わないと思われます?それとも、何がなんでも地球の裏側くらいまで、僕はうららさんから離れた方が良いですか?」
「だから、そういうのは」
「狡いですか?でも、狡くなっちゃうもんだと思いますけど。少しくらいの卑怯さは愛嬌ですよ。寧ろ、愛情表現です」
「そうかなあ……。出島さんの論理って、何か根本的にご都合主義の気がするんだけど」
「性格ですね」
「そう片付けちゃって良いの?」
言い切る出島さんの、子供が言い張るみたいな声音がおかしくて、あたしは思わず苦笑してしまう。出島さんにかかると、何だかあたしの悩みなんて悩みじゃないみたい。
「う〜ん。まだ答えていただけませんか。じゃあ、河童の皿も三度まで!もう一度質問しますから。答えてくださいね」
「何、河童の皿も、って。仏の顔も三度までの、パクり?」
「パクりじゃないですよぅ!れっきとした河童諺です!それより!いいですか?うららさん?聞いてますか?答えてくれますか?」
「努力はします」
「充分です。では、いきますよ」
あたしの好きな、優しい声になると、小さく咳払いをした。その、妙に畏まった態度がまたおかしくて、あたしは小さく笑う。喉が震えるのが分かった。
「僕は、うららさんの傍に、もう少しだけいても良いですか?」
ね。
それが狡いっていうんだよ。
あたしは、本当に昨日までと同じ毎日が続いてくれればそれで良かったの。例えそこに、何のドキドキもハラハラもなくても、それはそれで良いんだって。だって、今までずっとそうだったんだから。慣れてるんだもん。わざわざ変える必要性が、あたしには見えなかった。
でも、決してあたしは出島さんを嫌っているわけじゃない。出島さんが現れてからの何時間かを、後悔してるわけじゃない。そりゃ、あんまり思い出したくない体験もしてしまったけれど、それがそのまま後悔や否定につながるかと言ったら、そうではないのだ。
確かに、ちょっと扱いに困るときもあるし、あたしが見たくないものを突きつけてきたり、ひとのプライベートテリトリーにずかずか入り込むようなことはするけど、でも、決してそれが嫌じゃない。
しいて言うなら、嫌じゃないことが問題なのだ。
もし、あたしがそれを生理的に受け付けなかったら、もっと徹底的に出島さんを追い払える。そうしたら、彼の言う、覚悟とやらも決まるんじゃないだろうか。それなら、出島さんも大人しくあたしの毎日から、足を洗ってくれるのかもしれない。
でも、そうじゃない。それに気付いたのは、こうやって出島さんがあたしを追い詰めたからだけど、だからって感謝するつもりもない。でも、だからって、それを非難する気持ちにもならない。
その上で、この声で、この質問ときた。これを狡いと言わずして、何と呼べばいいのか。
「少しだけ?」
問うと、
「ええ。少しだけ」
殊勝な答えが返ってくる。
…………。
「少しだけ、なら…そうですね、まあ、別に……」
もごもごと口を動かしてそう言うと、あたしの口唇に触れるものがあった。視界が真っ暗なままのあたしには、それが何かを感触だけで知らざるをえなくて、そして、それの見当がついたあたしは文字通り飛び上がった。
「何やってる、いった!」
上半身を勢いよく起こした拍子に、出島さんのおでこらしきものに、自分のおでこをぶつけてしまう。ぶつかった反動で、危うく廊下にバウンスをつきそうになったあたしを、出島さんが受け止めてくれる。自分もおでこをさすりながら、大丈夫ですか、と尋ねてきた。目の端に溜まった涙が、いじらしい。あたしもおでこに手をおくと、憮然とする。
「誰のせいですか」
「嬉しくて、つい」
「出島さんって、すぐに調子に乗りますよね」
「フルネームは出島浩平ですが、ミドルネームは調子乗男と言うのです」
「嘘つき」
「嘘じゃないですよ。冗談です」
「つまんない」
「手厳しいなあ、うららさんは」
言いながら、空いている方の手であたしの手をどかすと、おでこをさすってくれる。傷でも付いたら大変です、こぶになるかな〜大丈夫かな〜と言いながら、さすりさすりやるその手が心地好くて、あたしはつい目を閉じて微笑んでしまう。
「…って、どさくさに紛れて何をしようとしてるんですか!」
般若の相で睨むと、ひとのおでこにキスをしようとしていた出島さんは、そのままの姿勢で固まった。そして、心底悲しそうな顔をして言う。ちなみに、彼のおでこには、同情求ム、と書いてある。
「えっと、痛いの痛いのとんでいけ〜ってしようかな〜、とか思って……」
何の反応も返さないでいると、目を泳がせてへらへら笑い始める。かと思うと、こちらを探るように見つめてくる。
「好きにすれば」
つんと顔を横に向けようとしたんだけど、後頭部を出島さんに支えられているので、斜め四十五度くらいしか横を向けなかった。ぱああ!という漫画的効果音が聞こえてきそうな勢いで、出島さんが笑顔になる。後光が差したかの如く光り輝き始めた出島さんの顔が、何の躊躇いもなくこちらに向かってきたかと思うと、またしても抱き締められる羽目になる。ああ、自分で招いた結果とはいえ、超絶恥ずかしい。
「うららさん、うららさん、うららさん、うららさん」
「聞こえてますってば、そんなに何回もひとの名前を連呼しなくても。こんな至近距離にいるんですから」
「ですよね〜」
「何なんですか」
「うららさん?さっきの、少しだけ、っていうのね?」
「ん?」
「延長し放題ですからねっ」
きゃっ、言っちゃった!とかって乙女な発言をすると、出島さんは恥ずかしいのかひとの首元に鼻をこすりつけてくる。恥ずかしいのは、こっちだってば!しかも、くすぐったい。
こうして、自称河童の奇人、出島さんはあたしの家に居候することが決定してしまったのだった。
そんなト書きみたいなことを脳裏によぎらせると、あたしは夕焼けが迫る空を見上げた。
昨日と同じ今日で、これまでとまったく変わらない筈のその空は、何故だかいつもより胸をぎゅっとさせる。
変わっていたのは、空かそれとも。
まあ、今日わからなくても良いことなのかもしれない。
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