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ダメージ
作:並盛りライス


 空間は羊水によって支配されている。混沌とは違う、何か別のもの。安定はしていない。むしろ秩序を壊そうと躍動する胎児の一撃のようだ。しかし、それが秩序を破る事は恐らく無い、だから不安な気持ちにすらならない。それはただの重い一撃。
 幅の狭い小道を抜けて、夕立の雨の中をビニル傘が進む。道幅はどんどん狭くなり、夕立はどんどん激しくなる。
「君は見たかい?」
 返事はない。彼は望んではいない。彼女は寡黙であり、その事が何度も彼を救ってきた。
「これは略奪ではない、奪還だ」と独白する。
 初めて見た夢は、早熟な四歳の弟が、姉貴の人形と駆け落ちする場面から始まる。
 沿線の行き着く先は決まっていて、もちろんバスは乗客を吐き出す一方だった。ガードレールの曲線の連なる上り坂を越えて、高級住宅地の明りを通り過ぎていく。行き先の案内表示が、終着の『岬』に変わる。
 乗客は、病院前から乗った黒髪の男紳士と、坂の下でバスに乗った二十代後半の女性と彼を残していた。バスはぐんぐんと登った。近くに店や民家が全くなかったので、バス自体の光が浮かび上がるように登っていく。
 沈黙がやがて、一つの音楽のように熱を持って統一される。正確には、無音ではない、エンジンの負荷、乗客の呼吸、衣服の擦れ合う、ささやかなざわめき。それは、彼にとっては心地良く、振動に身を任せ、この真夜中の小コンサートがいつまでも続けばいいのにと本気で思った。
 けれども静寂は破られる、まるで永遠に続くものは無いというように、扉が開閉する。
「お客さん、終点です」
 黒髪の紳士は、そっと立ち上がり無言で硬貨を落す。彼も握り締めた硬貨を専用の箱に入れる。出口のステップを踏みながら、バスの中を覗いた。女はいつまでも、立ち上がろうとはしない。
「お客さん、終点ですよ」
 女は俯き加減で目を伏せていて、彼には女が降りてこない事が分かった。
「このまま営業所まで行きますか?営業所は坂を降りてすぐの市役所前にあるんですが」
 女がコクリと頷いた、かどうかは判らないがドアが音を立てて閉まった。背中でバスが走り去るのを聞いた。さて、と彼は思った。
 安全のためか、崖への道はフェンスによって守られている。紳士はそのフェンスを登って向こう側に降りた。そのフェンスには張り紙がしてある。
『あなたの家族の事を考えなさい』
「家族の事だって?」
 紳士は、フェンスの向こう側から、彼に言った。酷くマヌケだなと思った。
「君は、私がどんな人間だと思うかね?」
 そうゆう問い掛けに対する答えを、彼は持ち合わせてはいない。
「私の娘は五歳だった。妻が残して行った一人娘だ」
 そこで充分な間を空ける。紳士の意図としての間。
「あまりにも、眠っている顔はアイツにそっくりだった。もちろん私の特徴も受け継いでいたが……。私は夢の中で、眠っている彼女の小さな体の中に入っていって、彼女を乱暴に壊した」
 潮風が流れてくる。海が近いのだ。
「毎晩毎晩、その内それは妻になったり娘になったり、あるいは私が寝たどの女でもない顔だったりした」
 紳士が泣いているのかどうか、暗闇の中では判らない。
「そして、それは現実になった。最悪の形で夢は実行された。私は娘を納屋に連れ出して、寒い藁の上に寝かせた。そして壊した」
 紳士は彼を見ていた訳ではなかった、彼も紳士を見ていなかった。紳士はフェンスに持たれかかって笑っていた。
「私は死ぬべきか?」
 黄昏が鈍い光を放ち、波の音が響き渡った。数秒の長い沈黙。
「ええ、貴方は死ぬべきです」
 彼は言った。静かに、ゆっくりと。岬の墓標は長く遠く、闇に降る雨のように冷たい。ビニル傘の尖った鉄の部分が紳士の左胸を貫いて、男はフェンスに繋がれた。鮮血は黒く地面を濡らし、彼の手も濡らした。
「君は私と同じ瞳をしている気がする」
 紳士はそう言って事切れた。あるいはそれは、幻聴だったかもしれない。
 
 彼の姉は早熟だった。やけに大人びた顔と、長い手足。ワイン色の唇。彼女は、英語の教師と恋に落ちた。同じ年齢の女の子が、経験する恋愛ごっことは違う、本当の恋愛だ。
 彼はその頃、四歳で、彼がクローゼットにしまい込んだ、姉貴の古い人形を盗み出した時には、彼女は既に教師と交わっていた。
 しかし彼女にはライバルも多かった。秘密は露見する。彼女には世間体など関係なかった。ただ深く英語の教師を愛していれさえすれば、些細な弊害だった。
 岬には、屋根のある休憩所がある。昼間も観光客など殆ど来ないようなこの場所にすら、椅子と机と自動販売機がある。彼は湿ったタバコに火を点けた。
 英語の教師は、彼女が妊娠しているという妄想に執り付かれる。彼女自身、そうであれば好いのにとさえ思っていた。その頃はまだ、岬には何も無かった。休憩所もフェンスも張り紙も無かった。
 駆け落ちは失敗するだろう。そして何もかも失うと英語の教師は考える。漠然と死だけがあった。その先の事を口に出したりはしない。できない。二人の間では、それは共通の意思だった。自然と脚は岬へと向った。
 彼は聴いていた。波の声、風の詩、雨の足音。
バスが、岬までの道のりを走ってくる。今日と同じように冷たい雨が降った夜。英語の教師と彼の姉がバスから降りた。彼女は、よそゆきの真っ白いドレスに黒いベールを纏っている。それはウェディングドレスであり、喪服でもある。男のほうも黒い礼服をきっちりと着込んでいた。
 言葉はいらない。ただ、そこには崖があった。潮風は吹き荒れていて、雨が渦を巻いて二人を祝福し、岩が二人を飲み込むはずだった。
 けれど、運命はその先を続けた。二人の体は空中で分かれた。抱き合っていたはずの体は突風に吹かれ。男は彼女を突き飛ばした。岩に飲まれたのは男で、彼女は少し離れた海まで届いた。届いてしまった。
 そして生き残った彼女は、病院で目を醒ます。それは酷く陳腐でくだらないその後だ。すべてが終わった後。想像の向こう側で、彼女は生きるしかなかった。凍傷と衰弱が彼女の体力を奪った。それ以上に、彼女の精神力は果てていた。
 病院の天井は、影を投影するためのスクリーンのように白い。窓からは岬へと続く一本道が見えた。雨の日は決まって傷が疼いた。自分だけが生き残ってしまったという罪悪感と、死ななくてはという使命感が彼女を苦しめる。
 やがてその気持ちは、彼女が弟に話しをすることによって変化する。愛とは何か、死とは何か。姉の語る言葉の全てが幼い彼の中に入ってくる。
 初めて見た夢の続き。駆け落ちした姉の身代わり。古い西洋の人形。愛と死とその向こう側。
 
 病室は暗くて清潔だった。彼は、長い間埃を被っていた人形をミリタリー柄の色褪せたバックパックに詰め込んだ。そして、姉の首を細い二本の腕で絞め殺す。くっきりと手の跡が残っている。殺してくれと、叫び続けた姉の顔は安らかとは言えなかったが、彼は満足しなかったし落胆した訳でもなかった。一度家に帰った彼は、黒いフードつきのトレーナーに着替えて、雨の降り始めた小道をビニル傘を差して歩いた。全てを見ていたのはバックパックの中の人形だけだった。
 そんな過去も、今は鈍い記憶の中で終わりを向かえ、黄色い空の断片に雨が激しく降り注いでいる。三本目の煙草には、火を点けていない。
 彼はフェンスを越えて、彼女の二回目の死を完結させる。確実に風に飛ばされる事が無いように、慎重に人形を落した。それから、彼は姉への愛を完結させる。向こう側は存在しない。生き残ってはいけない。それは重い一撃だった。だが、胎児の一撃は世界を終わらせる事はできなかった。それはただの一撃で、世界は今も無垢な愛と死とを産み出し続ける。けれども、一つの物語を終わらせるには、その一撃で充分だった。
 
 


















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