会うのは夏の夜【短編】
「ほんとのさよならはもういってしまったんだ。ほんとのさよならは悲しくて、さびしくて、切実な響きを持っているはずだからね」
☆
時に、遠野氏にはよくわからなくなることがある。
あの棒を振り回している人々とか、自由に恋人を取り替えあう人々とか、楽器をかき鳴らして必要以上にわめいている人々とか、薬でいつもラリッている人々とか、果たして何が楽しくてそんなことをしているのだろうか。
試しに楽しいのかと聞いてみる。ほとんどがああ、と答える。
なるほど。
今度は怒ってるのかと聞いてみる。ほとんどが怒り始める。なぜそんなバカなことを聞くんだ、当たり前だろう。
なるほど。
今度はどんな理由でそういうことをしているのかと聞いてみる。
たいていは無視、運よく愛想のある人かヒマな人にあたれば、何かしらの主張を説明してくれることもあるが、説明を受けても皆目わからない。一日たってしまえば断片すら残っていない。
暇にまかせて人に会うたびに聞いてみて、それでも何もわからなかったし、そもそも何でそんなことをしているのかもわからなくなった。
遠野氏がその男に会ったのはそんな時だ。
彼は機動隊に頭をたたかれて少し弱くなってしまったらしい、なんでも言語反響症とかいう病気になってしまったということで、何度でも同じ言葉を繰り返し続ける。
いつものように聞いてみる。
なぜなんだろう?
彼は少し考えてから答えてくれる。
――自由のためだよ。
――自由?
――そうさ自由だよ、自由のためにこんな痛い目にあっても耐えられるんだ。
――自由……。どんな自由?
――自由は自由さ。大事なものだろう?
――そうだね。
――だからさ、戦って勝ちとらなきゃいけないものなんだ。
――どこから?
――権力からさ、決まってるだろう?
――……権力?
――権力だよ。アイツらからさ。
――……それでどんな自由を?
――わかんない奴だな、自由って言ったらひとつしかないだろ? 自分が自分らしく生きていく自由だよ。
彼は誇らしげにそう言った。
自分の主張していること、それが本物かどうかは別にして、それに価値を見いだせるものは多分幸せなのだろう。決して皮肉で言っているわけではない。
後で聞いたところによると、彼はどこかの大学のロックアウトの際、裏門の砦を守るために捨て石とされた一隊に所属していたらしい。死守、とだけ言われて放っておかれたのだ。
その結果、一隊は応援もないままに機動隊の集団と真正面からぶつかる羽目になり、無数の怪我人、重傷者は十八人、不具になった者もいるらしい。彼もそのうちのひとりだ。
壊滅した隊の隊長はどういうわけか無傷で、どうやら戦闘の前に逃げ出していたというもっぱらの噂だ。
そんなことは露知らず、一隊は中央委員会の期待に応えようとして、火炎瓶以上の戦術を取り始めた。どんな馬鹿だったのかはしらないが、手製の手榴弾を密かに作り上げていた不埒者がいたのだ。
まさか花火のつもりだったわけでもあるまいが。
轟然と最初に爆発音が響いた時、誰もが手を止めた。
まさか、と誰もが思った。
――それじゃ戦争じゃないか。
機動隊の支援部隊の頭上に、紙形のように人影が宙に浮かんでいた。
サーチライトに照らされてその物体はムーンサルトを描き、記章に反射した光がまるで凶星のように人々の目を射た。
敵味方ともに戦いをやめて、慄然とその鮮やかな軌跡を見つめ、黒焦げになった肉塊が地面に落ちてグベシャ、と嫌な音をたてるその一瞬まで、迷子のように頼りない気持ちだった。
あの音はさすがに今でも耳に残っているな、と彼は言う。
「子供の頃、こわい夢を見て跳ね起きた時の事を思い出したよ」
だが、夢から覚めるには遅すぎた。
夜の中で泣いていると誰かが子守歌を歌ってくれる年頃もとうに過ぎていた。
気持ちはわからんでもないが、と遠慮がちに戦っていた機動隊は、一転して聖戦を戦う恐れを知らぬ闘士に変化し、数分もすると機動隊は学生達を完膚無きまでに圧倒していた。
悪いことにそれだけでは狂気は収まらず、倒れ伏した女子学生にさえ容赦を知らない特殊警棒を見舞い始めた。そして血みどろで呻く少年少女たちのその上に警棒だけでなく、ジュラルミンの盾と野戦用のブーツまでがふるわれた。
肉をこそげおとすほど踏みにじられ、遠慮のない一撃が動けない者たちの急所を打ち、惨憺たる光景、なまじ機動隊を押し返すほど意気が揚がっていたからなおいけない、一隊はもう引き返せないほど敵中に食い込んでいて誰も逃げ出すことは出来なかった。
鎖骨は踵に踏み砕かれ、顎は盾に突き上げられた。肋骨は四方からの体当たりでひびが入り、頭蓋骨は警棒で打ちのめされた。
無傷で済んだ者はただのひとりもいなかった。
彼は肋骨を二本折り、背骨と三半器官を殴られ、それに頭蓋骨陥没にされた。 体は長い治療の末どうにか治ったが、頭だけは治らなかった。
今の彼はかつての自分、勇ましく知謀の闘士だった男のことをまるで他人のように思っている。
いや、ように、ではなく他人のことだと思っている。
彼の頭の中にはおぼろげな勇者みたいな人物が存在しているだけで、何によって彼が立っていたのか、何によって彼が行動していたのか、もう思いめぐらすこともない。ただその男の泣き笑いのような表情に、ふとなぜだろう、と思うことがあるだけだ。
理想にあふれた闘士はそうして彼の中深く埋没し、現実の彼は年の瀬の夜に白いひげのサンタクロースをワクワクしながら待つ、年のいった無邪気な子供のようなものになってしまった。
それでも、時折すごいような夕焼けを見ていたり、川のほとりに寝転んでいたりすると、彼はなぜかは知らないが泣けてきてしまうことがある。
なぜかは知らないが、彼の中にいるその男の気持ちが分かりそうな気がしてきて、懐かしさに、あまりの懐かしさに息が止まりそうになる。
男が今にも話しかけようと口を開くのが見える。
何かを思い出しそうな気配を感じる。
けれど、もう少しの所で手が届かない。
男は失望したように目を閉じ、口をつぐむ。
もどかしく彼は自分の想念を追い続け、赤子のように手を伸ばし空を掴む。
でもそれは夕まぐれの幻なのだろう、川のせせらぎの魔術なのだろう、所詮何もつかめはしない。
そもそもの初めから何も掴めるはずなどなかった。
ただ理想を殴り書きしたむしろ旗をはためかせる風だけだった。全て幻想だったのだ。うつつの夢に過ぎないのだ。それで良くはないか?
一夜の夢、邯鄲の夢。
もう何も動き出すことはない。
彼の時はとうに止まってしまった。
そんな自分のことを悲しく思うことも既にない。
遠野氏は彼の存在を、降り注ぐ雹のように、春の日差しのように、得難く感じる。
そして何よりこの上なく彼の存在を悼む者だ。
本当にそう思っている。
☆
彼から電話がかかって来たのは、遠野氏が布団にくるまって「冷血」を読んでいた時のことだ。
時雨の降るこういう肌寒い夜に、時折彼は思い出したように電話して来るのだ。
病院生活も結構忙しいらしく、最近はほとんど電話もしてこなかったけれど、また何か彼の胸の琴線に触れる大事件でも起こったのだろうか。
彼の言語反響症という障害は、それほど日常生活に差し障りがあるわけではなかったし、くどい人というのは結構いるもので、それに比べれば煩わしいと言うほどでもなかったが、察するに、世間の目を恐れた家族に強引に押し込められたのだろう、彼は郊外にある精神病院にもう半年近く入院していた。
しかし精神科と言っても、鉄格子がはまっているようなところではなく、比較的自由な病院で、もちろん電話も好きにかけられるようになっている。
なんでも大正時代に建てられたということで、精神病院がていのいい姥捨山だった当時としては画期的な治療法という触れ込み、すなわち患者に対して拘束なし罰則なしを掲げて燦然と登場したところだ。
今でこそそういった扱いは当然のこととして認識されているけれど、そのころは本当に画期的なことで、近所の住人たちから、もし患者が逃げ出して付近の住人に危害でも加えたらどうするつもりだ、とケンツクを食らわされたそうだ。
住人にしてみれば原子力発電所でもやってきたような気分だったのだろうが、それにしてもあからさまな猛獣扱いには陰惨というよりは、一種の滑稽味さえ感じられて何だか苦笑してしまう。
この住民の立ち退き運動に関しては、なかなかに熾烈なものだったらしい。
緊張がはちきれんばかりに高まったある日、ついに急進的な住民たちに建物を包囲されて、あわや吊るし上げをくらいそうになった病院の開設者たちは、まだ塗装も乾ききらぬ建物に延々四十三時間立てこもったあげくシンナー中毒になりかけた、という伝説も残っている。
そんなわけで、開設当初から自主性を尊重してきた病院だったから、彼も病人という意識もなく、広大な敷地を散歩したり、アラベスクを描いたり、結構呑気に過ごしていられるようだった。
折々の風景の絵葉書などを近況報告ともども送ってくるほかは、時々何かの加減でふと思いついたように電話してきて、たいていは現在の紛争の状況についてだが、何事かを話したりするくらいで概ね平穏に暮らしているようだった。
しかし、その日は少し違っていた。
遠野氏が下宿の取次ぎを受けた電話をとると、咳き込んだような彼の声が受話器からこぼれでてきたのだった。
「遠野君、聞いてるかい? 新宿の騒ぎを。そんなところでぼやぼやしている場合じゃないよ。早く駆けつけて、たまには他人のために役立ってみるもんだよ」
どこかの公衆電話からかけているのか、彼の声は雑音と人込みのざわめきでひどく聞き取りにくかった。
遠野氏は背筋に嫌な予感の走るのを覚えた。
「え? どうしたんだい一体?」
「じれったいな、チャンスだよ、チャンス。千載一遇のチャンスがやってきたんだよ。のんびりしてる場合じゃないよ。新宿だよ、新宿新宿」
その二、三日前から紛争は急激に盛り上がりを見せて、新宿の辺りは戦時下のような様相を呈していた。
遠野氏は彼がこれほど早く情報を手に入れたことに驚きを感じた。
なんでこういうことは早耳なんだろう? こういうことには過敏に反応するのは知っていたけれど、まさかこれほどとは思ってなかった。
「君もそんなところでぼやぼやしている場合じゃないよ。ことは急を要するんだ。早く出てきて参加しないと、新しい世界がまた我々の目の前から過ぎ去って行ってしまうよ」
「出て来て?」
「そうだよ、早く早く」
遠野氏は彼に聞こえないようにため息をついた。
やっぱりそうだ。
「……あのさ、今どこにいるんだい? まさかと思うけど」
「新宿に決まってるだろう? さあ早く出て来てくれよ。九時に紀伊国屋の前で会おう。わかったかい? ちゃんと来るんだよ、待ってるから。じゃあね」
「おい、ちょっと待ってくれよ……病院は? どうしたんだい?」
「病院? そんな、これほどの大事件があるのに病院でのんびりしてられないよ。そうだろ?」
「……でも……それにしたって……」
彼は受話器の前で少し笑ったようだった。
「……相変わらずじれったい男だね君は。それとも何かい、学究肌の君を動かすには、報告レポートがひと揃いないとだめなわけかい?」
「……そんなことないけどさ」
彼は笑いをおさめ、それから少ししんみりした声で言った。
「……いいかい? これは最後の戦いなんだ。もうこの後に戦いはないよ、多分ね」
「……」
「……最後の戦いなんだよ。自由のための。これに失敗したら、誰も自由を手にできないんだ。生きて行く自由を誰も手に入れられないんだよ」
彼はそう言って、受話器を指で軽く弾く音をさせた。
緊張している時の彼の癖だ。
軽そうな口調とは裏腹に何事かを決意しているように聞こえた。
「でも……」
「後悔するよ、これに来なかったら。最後の戦いなんだ。本当に、最後の戦いなんだ。自由のための、ね。負ける訳にはいかないんだ、今日だけはね……本当に負けられないんだ。今日だけは」
「……」
受話器の向こう側で少し考え込む気配がした。
彼が黙っていると街のざわめきが耳にさわる。内容はわからないが、かすかに「闘争」とか「革命」とか、拡声器で怒鳴っている声が聞こえた。
――ほんの一瞬だけ、本当にわずかな一瞬だけ、遠野氏はその怒鳴り声の持ち主に殺意に近い憎しみをおぼえた。なぜそんな気分になったのかは、ずいぶん後になるまでわからなかったけれど。
「……ねえ、こんな風に言うと、君は怒るかもしれないんだけれどもね……」
受話器を持ち直して、彼は続けた。
「僕はね、君も戦っているんだと思っている。僕とは違う戦い方だけどね。君はいろんな事を知ることで戦おうとしている……研究医だ。原因を調べて対処法を編み出す……違うかな?」
彼はここで息を抜くようにかすかに笑った。
「……」
「それが結構無謀な話だってことも承知しているつもりだ。だってそれには膨大な時間が必要なんだから。そしてそういう戦い方をしているがゆえに、君が今ここにいる無数の人間たちのことを軽蔑の眼差しで見ていることも承知している」
「そうじゃないよ」
「いや、言葉が見つからないんだ。軽蔑なんて強い言葉じゃないし、羨望もまじってるんだからね、もっと複雑なものだね。もっともっとね……はは、よく分からないんだけれどもね……」
遠野氏は黙って聞いていた。
なぜか度忘れした、大事な名前を思い出しそうな思い出せないような、もどかしい気分だった。
「……でもね、今ここにいる人々が負けたらね、みんな負けちゃうんだ。分かるかい? もう誰も勝てないんだ。誰も勝てない……今勝てなかったら、もう誰も勝てないんだ。世界中の僕らが負けるんだよ。世界中の僕らが」
彼は激しかけて、唐突に黙った。
遠野氏は我知らず受話器を握り締めていたことに気づいて、右手に受話器を持ちかえた。左手を握ったり開いたりしてみると、痺れたためか少し握るのに苦労した。
「もし、ね、もし……まあいいや、来たほうがいいと思うよ。……勝つのを見るのは楽しいし、万が一負けるとしても、君は、それを見ておくべきだと思うよ。そう思わないかい? はは、じゃあ九時にね」
一転して笑うように言うと、彼は電話を切った。
遠野氏は受話器を耳に押し当てたまま、アパートから見える遥かな副都心の明かりを、開け放った窓から透かして見るようにして、湧き上がって来る複雑な感情をため息ごと飲み込んだ。
☆
遠野氏が再び時計を見ると、相変わらず午前一時十五分だった。
さっきからどうも時間がたたないと思っていたら案の定、時計は壊れているらしい。機動隊とぶつかった時のことかそれともその後の乱打のせいだろうか。
この時計は大学入学時に叔母が買ってくれたものだったが、この叔母は一族の中では異端の人で、時計屋で選んでいる最中に、学生運動でもして壊したらまた買ってあげる、とまるで唆すようなことを言っていた。
本当に学生運動で壊したと言ったら叔母はどんな顔をするだろうか。
遠野氏たちが座っている場所は地下街に通じる入口だった。
この時間はシャッターがしまっていて誰も覗き込んだりしないために、人目につかず、未だ駅近くで続いている戦いから逃れるには持って来いの場所だった。
背中をシャッターにもたせかけて、コンクリートに座り込んでいるとひんやりと涼しくて、遠くのほうで喚声がこだまするのがBGMになって眠り込みそうになる。左足を中心に体全体が半ば麻痺してしまったようで、もうあまり痛みも感じなくなってきている。
遠野氏は深く息をつくと、傍らの総身に血を浴びたようになっている男たちを見た。
半年前に頭を殴られた彼は、また手ひどく同じところを殴られたようだった。
今度は白痴になるだけでは済まないかもしれない。
かすかにいびきをかいているのだ。
今すぐにでも医者に見せなければならないのは、ひを見るより明らかだった。
九時におちあった遠野氏たちは、とりあえず駅の線路側に様子見に赴いたのだったが、折悪しく第一次総員突撃の合図に出くわし、機動隊との全面衝突に巻き込まれてしまったのだった。
まだ何もわからないうちから悪鬼のごとき形相で襲いかかる機動隊の攻撃にさらされ、遠野氏は足を蹴られてどうやら骨にヒビでも入ったらしく、ほうほうのていで本部近くまで逃げ出した。
彼は遠野氏に肩を貸し、本部まで運んでくれたのだったが、やがてその本部も安全ではなくなると、再び肩を貸して二人三脚のような状態で後方に下がってきた。
彼がケガを、頭を殴られたのはその時だ。
多分負け戦でおかしくなっていたのだろう、今回の闘争の幹部の一人がゆるゆると逃げて行く遠野氏たちに八つ当たりしてきたのだ。
その男はいきなり、ものも言わずに遠野氏の左足を特殊警棒で殴った。予期せぬ痛みに遠野氏は白目をむきそうになった。
「貴様ら、逃げるな」
男は遠野氏と彼の目の前に立ち塞がった。
それで初めて男が錯乱しているのがわかった。シェルショックというのは多分こんな感じなのだろう、男は目を血走らせ今にも泡をふきそうだった。
「貴様ら、前線にでて戦って来い」
ほとんど気違いだった。
口調だけが静かなのがその男を一層不気味に見せていた。
「何だその目は。貴様らは来るべき理想郷のための礎なんだろう。機動隊のひとりでも道連れにして死んで来ようとは思うべきじゃないのか。足の一本くらい大しことはないだろう」
遠野氏は痛みのためというよりは、あっけにとられて口も利けなかった。
「大体貴様らがどうしようもないから後退を余儀なくさせられるんだ。それを恥と思うなら、たかが足の一本で逃げ出すなんてことはしないだろう。そうじゃないか。俺だったら恥ずかしくて死ぬよ。みんなそうだよ。切腹だよ。ククッ。死ねよ」
錯乱男は精神のゆるみを感じさせる笑いを漏らすと同時に、再び遠野氏の左足を警棒で殴った。
「! ……!」
遠野氏はうまく避けたつもりだったが、今度は逆に健在な右足を手ひどく打たれることになった。
特殊警棒で打たれる痛みは打たれたことのない者には多分わからないだろう。打たれた箇所だけではなく全身が痺れるのだ。
「……? 逃げたろう、おまえ。逃げた。……除名だな。貴様ら、除名だ除名」
錯乱男は痛みの余り声も出ない遠野氏を見つめて笑うような声で呟いた。
それまで遠野氏に肩を貸していた彼は、激痛をこらえる遠野氏をビルの壁にもたれかからせて座らせると、振り返って錯乱男を上目使いに睨んだ。
憎悪がしたたるような眼というのは多分こんな眼のことを言うのだろう。膨大な怒りが、静かにゆらめいていた。
遠野氏はまばたきも忘れて彼を見つめていた。
人が本当に怒る姿を初めて見た気がして、遠野氏は自分の心が一瞬、怯え竦み上がるのを感じていた。彼の横顔は火炎瓶の燃え残りの炎に照らされ、どうかすると昏い表情と修羅の面との二重写しに見えた。
遠野氏は辺りに立ち込めているガソリンの燃える刺激臭も気にならないくらい、その悲愴な表情に魅了されていた。
……?
……魅了?
魅了されていたのだろうか?
そうかもしれない……だが、そうではないのかもしれない。
わからない。
遠野氏が見ていたのは、本当は彼ではなかったように思う。
その眼に溢れる憎悪でさえもなかった、と思う。
――いや、そもそも遠野氏は何も見ていなかった。
そうだ。
ただ、かすかな音を聞いただけだ。
それは遠くの方で響く戦いの声でもなく拡声器の声でもない、背筋を一直線にはしる戦慄とともに、ただ遠野氏は、現象の向こう側に見える無数の運命の歯車がきしみながら動く音を聞いただけだ。
きしみと歯の浮くような音とを。
その音は、全然なめらかではなかった。
全然、なめらかでは、なかった。
彼は静かに立ち上がり足を踏み出した。
錯乱男は彼が至近距離に立ち止ったのに構えることもなく、ひとりは笑いながらひとりは睨んだまま、奇妙な対峙がしばらく続いた。
遠野氏は叫び声をあげそうになるのをあやういところでこらえた。
先に口を開いたのは錯乱男の方だった。
「口がないのかおまえ。返事はどうした……そうだ、自己批判しろ。今、ここで、すぐに」
彼は何も言わなかった。
どういうわけか先程の憎悪は消えかかり、かわってふと何事かを諒解した光が彼の眼に仄見えた。
「どうなんだ!? そうしたら除名も許してやるぞ」
「……」
「おい、どうだって言ってるんだ。何とか言わんかッ」
一瞬のことで、声を上げる間もなかった。
錯乱男が突如警棒をふりあげ、彼の頭上に振り下ろしたのだ。
狙いはあやまたず凶器は彼の額に炸裂し、彼はくぐもったうめき声をひと声残すとその場に崩れ落ちた。錯乱男は心底嬉しそうに笑うと、倒れた彼に馬乗りになって警棒で殴り始めた。
その間、遠野氏は口を開けたまま息を飲んで見つめていた。
気違いだ、こいつは。
「やめろ!」
錯乱男は動きを止めて遠野氏の方を振り返った。
「……何だと?」
「やめろと言ったんだ。ふざけるな」
「……何だと?」
「気違いだよ、あんた」
錯乱男は警棒を手に戻し、遠野氏の方に歩いて来た。
どうにもならない。動けない自分は打たれるしかない。
ふたりで半分ずつ打たれたほうがまだましだろう。
死にはしないはずだ。
この男騒ぎが静まったら必ず見つけてやる。
その時にはこいつに自分の血を嘗めさせてやる。必ずだ。
錯乱男がゆっくり近づいて来る間に、遠野氏は覚悟を決めた。
「お前もこれで殴られたいか?」
遠野氏は黙っていた。今は何を言っても錯乱男を喜ばせるだけだった。
遠野氏の前に立った錯乱男はいきなり左足を蹴った。
激痛に身を屈めると背中に警棒が打ち下ろされた。思わず背中に手を回すとその手を殴られた。屈辱に頬から血がひいていくのがわかる。
このままでは済まさない。絶対にだ。
遠野氏は全身を殴打されながら、焼けつくような頭でその言葉だけを繰り返した。
「自己批判するならおまえが先だろう?」
錯乱男も遠野氏も驚いて彼のほうを見た。
彼は最後の力を振り絞るように、首をもたげていた。
「おまえが戦場放棄したおかげで、俺たちの隊は全滅だよ。俺よりまだひどい目にあったのも知ってる。足を使いものにならなくしたやつ。折れた骨がまだ組織に刺さったまま呼吸する度に地獄の苦しみを味わってるやつ。俺が精神病院に入れられたのだってあんたのおかげだよ。おまえが臆病風に吹かれて逃げ出したおかげで面白おかしい人生」
錯乱男は最後まで言わせなかった。
飛ぶように彼の前に戻って、こめかみに力まかせのひと振りを見舞う。彼の首は糸が切れたようにすとんと地に落ちた。気絶したのだ。
彼の気絶を確かめた遠野氏もそこで意識を失った。
消える間際に、そうか、こいつが彼の不幸のもとだったのか、と妙に納得したことを覚えている。
☆
鈍痛が遠野氏の体を浸していた。時々激痛がフラッシュバックして吐きそうになる。
真夜中、割れた街灯、月光、まるで人影の見えない街路。
すぐ近くで無数の雄叫びが響いているのに人影はひとりとして見えない、書き割りじみた街。
地下街の出口から見える新宿はグロテスクなおとぎ話のようだ、と遠野氏は思う。
気がつくと辺りに人影はなかった。
錯乱男は倒れたふたりを殴るのに飽きたのだろうか、どこにも姿は見えず、遠野氏はぼんやりした頭を振って周囲を見回した。気を失っていたのは、思ったより短い時間だったのかもしれない。
ガソリンが燃える黒い煙が濃くたちこめ、駅の方で響いていた喚声が少し近くに迫ってきていた。
遠野氏は痛む体をひきずるようにして、彼を担いで安全な場所へ避難するべく行軍を始めた。ふたり分の重量を運ぶのは想像以上の苦行で、遠野氏はひと足ごとに息をつきながら、この場所までたどり着いたのだった。
先客がひとり、彼らを迎えた。
足をくじいて、と怯えた眼で言い訳をするその男には、遠野氏は軽く手を振ってうなずいただけだったが、その男はそれでも安心できないのか彼らから少し離れた所に座ってしばらくの間こちらを伺っていた。
幾筋かの血の流れが固まっているためにまだらになった顔で上目使いに観察されるのは、何か幽霊にじっと見られているようなうそ寒い気分だった。
全くうんざりするほど小動物的な男だった。きっと戦闘をさぼっていたことを咎められるとでも思っているのだろう。それでなくともげっそりと疲れているのに、錯乱男の次はネズミ男と、今夜は徹底的についてないようだ。そのネズミ男がやがて眠るつもりか、反対側に向き直って横たわった時は、遠野氏は思わず安堵のため息を漏らしそうになるほど、心底有り難かった。
選択肢はとりあえず三つあった。
ひとつめは、ここを出て西新宿にある、負傷した学生の「野戦病院」に彼を連れていくことだ。そこなら彼も満足な治療を受けられるだろうし、警察を容れないその医者なら患者の秘密は守られる。
だが歩けない遠野氏が機動隊の封鎖した駅周辺を横断していくことは不可能だろう。それで逃げられるほど無能な警察だったら、とうに世の中はひっくり返っている。
ふたつめは、このまま夜をやり過ごして朝一番に手近な医者に飛び込むことだ。と言っても朝になれば騒乱が収まる保証はどこにもない。たとえ騒乱がおさまっても明るい分だけ捕まるのが早くなるだけだろうし、そもそも彼の状態を考えれば一刻も早く医者に見せなければならないのだ。
そうすると最後の手段の、投降、だ。
これなら治療については安心だろう。
お上の手厚い看護が受けられるし、税金を湯水のように使った高い薬でたちどころに傷は癒えるという寸法だ。御丁寧に尋問攻めだってついてくる。
しかしこの場合、命が助かっても彼はもう一生外界に出られなくなる。
あの家族なら必ずするだろう。
規程料金の三倍、いや四倍五倍でもいい、金に糸目はつけないから今度は鉄格子のあるところに入ってもらうことにしよう。贅沢を言わせてもらえば二十四時間監視体制が整っているところがいい。
要するにだ、遠野氏は思った。
絶体絶命というわけだ。
ため息とともに遠野氏は天を仰いだ。斜め上方に雨上がりの夜空が見えた。
投降する以外に彼の助かる道はない。それは確実だった。
彼のケガがどれほどのものかは見当がつかなかったが、少なくともこのまま悠長に時間を食いつぶしていられるほど軽いものではなさそうだったし、頼れる味方もない上に自身まで足に傷を負っているのだ。
せめて車でもあればと考えたが、封鎖された都市の中で、動く乗り物は装甲車だけという状況では、車を手に入れても逆に標的にされるだけだった。
それに装甲車を並べた警戒線をどう強行突破しようというのだろう。
アクセルいっぱいに踏み込んだまま衝突してムチ打ちですめば笑い話だが、ムチ打ちになる首がなくなってしまうかもしれない。
遠野氏は幾つものアイデアを検討したが、一向に打開策は出て来なかった。
遠野氏はできるだけ楽な姿勢をとれるように体をずらすと、傍らの血まみれの彼を見下ろし目を閉じた。
正念場だ。
ここには自分以外に判断を下す人間はいなかった。
最も確実で正しい手段を選ばなければならなかった。
わずかに逡巡した後、奥歯を噛み締めるようにして遠野氏は決断した。
投降。
例えば、世間体とか、自分の評判とか、前歴とか、そんなものに指図されずに生きていけたらどんなに素晴らしいだろう。誰も天国をあてにせず地獄を恐れることもなく、誰も他人を傷つけず他人に傷つけられることもない。誰もが浅ましく比較などせず、自分と同じくらい他人を大事にすれば、我々を訪う世界はかつてないほど幸福なものになるだろう。
けれどもしかし、誰もその世界を無上のものとは思わないのだろう。
それどころか幸福によって極端に画一化された平面的な世界に息苦しさを覚え、自ら命を断つものが後を絶たないだろう。
それは知っている。
でも知っていてもなお夢を見るのはいけないことなのだろうか?
我々にはそんなことさえ許されていないのだろうか?
遠野氏はゆっくり立ち上がった。遠野氏にできることはほんの些細なことしかなかった。
ここを出ていって、制服を着た人間に頭を下げることしか出来ないというのは、こんな状況でも少しだけ辛かった。
――負けるわけにはいかないんだ。
今日負けたら誰も勝てないんだ。世界中の誰も。
彼の言うことは正しかった。
もう誰も勝てない。
最後の挑戦者はこうしてここに瀕死の状態で横たわっている。ドンキホーテになど、もう誰もなりたがらない。
遠野氏の内側でまるで風化した遺跡のように、音もなくひっそりと崩れ落ちていくものがあった。
「いたぞ!」
遠野氏がハッと我に返ると、地下街の入り口には機動隊の隊員が七、八名ほど立っていた。その脇には放水車とホースを持った隊員がひとり、こちらに蛇口を向けて、殺気だった形相で遠野氏たちを見つめていた。
「待ってくれ。怪我人がいる!」
遠野氏の叫びはしかし、吹き出した水流の轟音にかき消され、遠野氏自身の耳にさえ聞こえなかった。
放水車から吹き出す水は水圧のためにほとんど凶器だった。
傍らに横たわっていた彼とネズミ男はシャッターまで吹き飛ばされ、遠野氏も衝撃に座り込んでしまったほどの力を持っていた。
「待ってくれ。怪我人がいるんだ!」
叫んだ遠野氏の口に水が飛び込み、機動隊員は彼ら三人に向けて容赦なく凶器と化した水を注いだ。遠野氏は目を開けていることも出来ず、歯を食いしばったままシャッターに押し付けられ、再び衝撃で痛み始めた全身の苦痛に耐えていた。
大して長い時間でもなかったろうが、身体がバラバラになるような痛みに耐えながら、ようやく目を開けて見上げると、機動隊員たちは遠野氏たちを指さして笑っていた。
傍らに横たわっていたネズミ男は水の中でもがき、頭から血を流していた彼はシャッターに押し付けられたまま、全身を洗われてまるで死体のようだった。
機動隊員たちは横たわったまま反応のない彼に狙いを定め、どういう要領かわからないが水の中でくるくる回らせてみせた。
怪我人だとわかっているのに、まるでドブ川で溺死した犬のように水流で遊ばれている彼を見て、遠野氏はこんな時だというのに笑い出しそうになった。脱力しそうな無力感に裏打ちされたヒステリックな泣き笑いだ。
今日は狂った人間たちばかりだった。
戦場ではこんなことも許されるのだろうか。
理想の為に狂った人間を、人々の安全を守る為に狂った人間が、陰惨な手段で弾圧して誰もそれを止めるものがない。
かつて感じたことのない深甚な怒りが、そしてそれに数倍する悲しみが遠野氏の喉元にせりあがってきた。
遠野氏は全身の痛みも忘れ、放水の轟音を圧するような雄叫びをあげた。
この世は、どうしてこんなにも、汚辱と敗北と悲惨に満ち溢れているのだろうか。
遠野氏は立ち上がった。
水流になど負けるわけにはいかなかった。
誰ももう勝てないんだ、と誰かが言ったような気がしたが聞こえないふりをした。
遠野氏は水流に逆らって一歩踏み出した。
もう一歩。
さらにもう一歩。
もう一歩。
階段に足をかけることが出来た。
もう一歩。
着実に足を踏み出しながら階段を徐々に上っていく。
機動隊員は少し焦ったようで、笑いを収めて遠野氏に水流を向けた。圧力が急に厳しくなる。
それでも遠野氏は進むことを止めなかった。足を踏ん張り、手摺りを握り締め、遠野氏は進むことを止めようとはしなかった。
――なぜか遠野氏はみじめではなかった。
今夜、哀れな狂った人間たちが、こんなにもみじめな戦いを繰り広げ、それ以上にみじめな結末と索漠とした勝利を得ていた。
ただ遠野氏だけがみじめではなかった。
悲しみと静けさと郷愁と、全てを把握する透徹感が遠野氏を満たしていた。
走りだしたくなるような明るさが遠野氏の中から溢れていた。
一体なぜだろう?
……多分錯覚だろう。喜ぶ要素などなにひとつもないのだから。
今日負けたら二度と勝てないんだ。
誰も。
世界中の誰も。
その通りだ。
わかってる。
僕は時間稼ぎをしていただけなのかもしれない。そう見えてしまうこともわかっている。
でも僕は、僕自身の中ではこんなに勝ちたがっていたんだ。
本当に確実に勝ちを打てる方法を模索していたんだ。
僕はドンキホーテにも学者にもサンタクロースにも何にもなりたくなかった。
僕はただ逆転を狙っていたんだ。
僕は、僕だけの方法で、勝ちを取りにいこうと思ってたんだ。
勝ちを得るまで、きっと僕はなじられけなされ中傷され侮られるだろう。
――君が死んだらどうしようか。
わかってる。
何も変わりはしない。
君がいようといまいと、力を削られてしまうことに変わりはない。
でも、それでも、君がいたから僕はここまでくることが出来た。
ここからは僕ひとりの力で進んで行こう。
独りで行けるのが、どこまでかはわからないけれど。
――――ようやくわかったよ。
勝ちたいんだったら、ドンキホーテで、学者で、サンタクロースになればいいんだ。
遠野氏はもう少しで出口までたどり着けそうだった。
あともう一、二歩だった。
そこまでたどり着いてどうするのだろう、と遠野氏は思った。
殴り掛かるのだろうか。
息をついて助けを求めるのだろうか。
それともどちらでもなく、ただ座り込んで泣き出してしまうのかもしれない。
遠野氏はしかし、たどり着けなかった。
最後の一歩で、彼は横で待ち構えていた機動隊員に、警棒でいやというほど横面を張られたのだ。
遠野氏は空中でほとんど半回転して背中から落ち、そのまま転がされた亀のような格好で、頭から坂をものすごい勢いで滑り落ちていった。
ぐんぐん近づいてくるシャッターを見つめながら、遠野氏は何だかやけにしんとした気分だった。
唐突に、そうだ、僕は人を救おう、と思った。
この寄る辺ない世の中で頼りない灯台になろう、と思った。
何だか途方もない素直さで思いついて、心の底から明るい喜びが溢れて来た。
先ほど遠野氏の中で、何か崩れ落ちたような気がしたが、それは間違いだった。新しい何かに脱皮しただけだったのだ。その証拠にこんなに自分は力強くなっている。
そうだろう?
遠野氏の尻には相変わらず激しい水流があたっている。
機動隊員たちはやはりまだ笑っているのだろう。
うさ晴らしには確かにちょうどいいのかもしれない。
多少の後ろめたさは残るものの、たまにはこんな役得、権力を振りかざす機会でもなければ、おちおち警察官だってやっておれまい。
右の方では死体のように青白い顔をした彼がまだ水の中でまわりかかっている。
彼もこのわずらわしい儀式が終わった後で救出されることになるだろう。
そしてもう、二度と外界には戻って来られないだろう。
じたばたしていたネズミ男はどうやら気絶した振りでもしているらしく、全然動かない。
それとも本当に気絶しているのだろうか。
シャッターが目の前に迫って来た。
このスピードでシャッターに当たったら相当痛いだろうな、とこの状況にしては奇妙にのんびりと考えて、遠野氏は少し憂鬱になった。
それから、目を開けていようか閉じてしまおうか、と一瞬躊躇したが、やはり目を開けたまま全てを見ておこう、と思った。
冒頭は、レイモンド・チャンドラー「長いお別れ」(清水俊二訳)からです。
最後の方、有名な「ギムレットには早すぎる」からのシークエンスに出てくる一節です。
一時期相当に好きだったんですよ。
使い方はかなり違うのでご容赦くださいませ。