異世界からの手紙
『父さん、母さん、妹へ。
今日、夢をみました。朝起きて、家を出て、学校に向かう夢です。
教室に入って席につき、友人と挨拶を交えたところで、目が覚めました』
『僕は、割り当てられた屋根裏部屋で、手触りの荒いカーテンを開きます。この世界には、排気ガスが無いからでしょうか。最初見た木漏れ日は、本当にまばゆいものでした。
窓をひらくと、透き通った風が頬をなでます。心なしか暖かく、春先の季節風も過ぎ去った様です。これからはきっと、過ごしやすい時期になるでしょう。
この辺りには背の高い建物、ましてや民家すら、数えるほどしかありません。見晴しだけは、とても良いです』
『眼下には、なじんだ修道院の庭が見えます。子供たちと育てている、菜園の野菜も順調に育っています。畑の先には積み上げた煉瓦があり、いくらも錆びた、鉄製の扉でつくられた修道院の玄関口がそびえます。それを超えた先は、しばらくずっと、人が踏みならしたあぜ道しかありません。
進むと道が分かれています。西へ行けば、人々が集うカーリオンと呼ばれる町の外周門へ。ずっと東に進んでいくと、近隣の王国へと通じる、シルヴァード山脈の麓へと通じているようです。僕はまだ、こちらへ行ったことはありません。
今日は快晴です。はるか先に見える山頂の付近にも雲は見えません。おそらく今日は晴れるでしょう。では、この辺りで一回筆を置き、子供たちを起こしにいきます』
*
『この世界へ来た時、十六歳になったばかりでした。
高校に入学して日も浅く、クラスでも、おたがいの様子を探るように、交流を深めていた時期でした。息の合う学友たちを探し出し、徐々に輪を広げていたのです。僕もこれから、またあわただしい日常を繰り返していくのだろうなと信じきっていました。
高校から初顔合わせになった、クラスメイトは帰る方向が同じでした。共に帰路についていた彼は、その日、確かに僕に向かって言いました。「また、明日な」と。
その言葉に、僕もまた、自然に返事をしました。「うん。また明日」。
しかしその日を境に、僕は日本という国、いえ、地球という星の上に立つことすら叶っていません。ここが紛れもなく【異世界】なのだと認識するまで、たくさんの時間が必要でした。けれど、一度認めたからには、もう、逃げるわけにもいきません。
この世界が、現実です。現実に在る僕の、すべてです。
そういう心構えで、今はなんとかやれています。
とつぜん消えてしまった僕自身が原因であるのに、こんなことを言うのも心苦しいのですが、皆さんもどうか、お元気でいてください。また、手紙を書いて送ります。
あ、それと、追伸。君はもう、学校に遅刻はしていないかい?
夜更かしはほどほどにね。じゃあ、また』
*
私と一つ違いの兄は、とても優秀な人だった。
まず、なによりも時間を厳守した。平日には六時、休日にも六時に目を覚まし、目覚ましは鳴った直後に止まってしまう。その後の行動にも無駄はない。私が朝食を食べ終えた時には、すでに支度を終えているのが常だった。
「それじゃ、いってきます。君も遅刻しないようにね」
「わかってるっ、わかってるからっ! お兄ちゃん待って! せめて一緒に遅刻して!?」
「前後の発言に関連性がない。接続詞は正しく使い分けよう。じゃあ、改めていってきます」
「はくじょうものぉ~!」
無情にも玄関が閉まる音。自転車が走る音が遠ざかっていく。
高校生になった兄は、自転車通学に変わった。対して中学三年になった私は、相変わらず〝徒歩圏内〟にある、中学の校舎を目掛けて走らねばいけない。全力で。
「ひどい! お兄ちゃんの後ろに乗せてもらったら、余裕で間に合うのに!」
「……アンタねぇ」
あわてて制服に着替えていると、近くて聞いていた母が、あきれたように言った。
「いい加減、お兄ちゃんを頼りにするのやめなさい。だいたいお兄ちゃんが同じ中学に通ってた時は、一度も遅刻したことなかったでしょ」
「仕方ないよ。お兄ちゃんは出来がいいんだもん」
「アンタも一応、同じ血をひいてるんだけど」
そこは都合よく無視しておく。それから、全力で自分の部屋にかけ上がった私は、教科書とノートを鞄の中へ全力で突っ込み、そぉい! と抱えて突っ走る。食パンはくわえない。その代わり、カロリーメイトを一本頬張った。
「ほれひゃ、行っへひまふっ! むお~~~~っ!!」
そして、私は走った。
これは自慢だが、私は足が速い。体力もかなりある。プレッシャーにも結構強い。
毎朝の鍛錬の、たまものである。
その日も、遅刻ギリギリですべりこんだ。
教室の入り口で先生と顔があって「またコイツか」という顔をされる。
「今日は見逃してやる。ほれ、さっさと席につけ」
「はい! ありがとうございまーす!」
入って、さっさと席に着いた。前の席に座る親友が、振り返って苦笑する。
「おはよん」
「はよ。毎日サバイバルしすぎじゃね。あと五分早く起きれば?」
「いやぁ。ウチの目覚ましのやつ、やる気なくてね~。あ、次の数学のノート貸して?」
「オッケ。まだ目が覚めてないようね。ビンタさせろ?」
「そこ、静かにしないと出席バツつけるぞ」
「……」
黙るわたし。権力には逆らわない。まさに優等生である。
ホームルームが始まる。出席を取る。名前を呼ばれて返事をした。どうやら無事に出席にマルがついたみたいだ。それから五分の空き時間で友達とおしゃべりする。ビンタの代わりに、頬を思い切り伸ばされてノートを写した。
給食を食べる。放課後の授業はだいたい寝た。部活動は全力全開で暴れまわった。空が夕暮れに染まりはじめた頃に、道具を片付けて帰宅する。帰りはのんびり、少ないお小遣いを出し合って、友達と三人、九個入りのたこ焼きを買って食べたりした。
平穏な日常、ちょっと退屈で、変わらない毎日。それが、幸せの証明であることに、私は気づいていなかった。兄が、私たちの前から消えてしまう、その日まで。
*
『僕は、自転車に乗って学校から帰る途中、気が付けば、この【異世界】へ飛んで(他によい表現が思い浮かびません)いました。
その際に、前のカゴに入れてあった学生鞄、およびその中身もまた、この場所へ飛んだようです。よってそれらの道具一式が、かつて別の世界で生きていたはずの、僕を証明する物すべてでした。
高校受験までで得た程度の知識を総動員させると、この【異世界】の文明レベルは、おおよそ西暦千四百年、西洋の中世に該当すると思われます。しかし、地名や言語はまったく聞いたことのないものばかりです。そこで、僕はまず確認を得ることにしました。この世界の人々へ、世界史の教科書に掲載されていた、世界地図を見せたのです。
日本を指さして、僕はここから来た、と言いましたが、誰もが首をかしげて、こんな世界は見たことがない、知らないと言いました。
〝言いました〟と書きましたが、おたがいに身振り手振りで〝知らない〟と表現されたというのが正確です。なにせ、言葉が通じませんでしたから。
それから、僕は町の詰所に一旦身柄を預けられました。そこで初めて、この【異世界:イリア大陸】の全景を記した地図が、壁に飾られているのを目にしました。しかしそれも、やはり自分の知識と該当するものはありませんでした。
最初の一夜は、町の詰所で過ごしました。待遇は罪人のそれではなく、自警団の人々が使う部屋と、寝具を貸していただけました。ですから、寒くはないはずでした。なのに、心は凍えるほどに冷たく、心細く、ほとんどまともに眠れませんでした。目が覚めた時、これが夢であることを、心の底から願いました。
翌朝、詰所の衛兵の方に起こされました。誰かに起こされるまで起きられない、というのは、久しぶりのことでした。
衛兵の方は「元気をだせ」といった感じで肩を叩いてくれましたが、言葉はまだわからず、その時の僕は、ひどく虚ろな顔で、笑顔すら返せなかったと思います。
そこからも、予期せぬことは続きました。詰所の方に、布をかぶった、老齢の男性が僕を待っていたのです。彼は、こちらの世界で、司祭と呼ばれる立場の方でした。この町からやや外れたところにある、孤児院を兼ねた修道院を経営しています。ちょうど、食糧や雑貨の買いだしに来ていたところ、僕の噂を聞きつけ、わざわざ足を運んでくれたのです。
「~~~~~~」
僕としても、他に行き場もありませんでしたし、とりあえず身柄を引き取ってもらえそうだったので、素直に未知の言葉に従いました。
こうして、僕は修道院で暮らすことになったわけです。そして、これも後から知ったことですが、この世界にはごくまれに【来訪者】と呼ばれる形で、そも【異世界】から〝なにかが落ちてくる〟のが、常識的な事として認知されているようでした。
しかしその理由は、この世界の人々にもわかっていません。ただ実際に〝そういうことが起こる〟という共通認識が、この世界の人々にはあったのです』
*
兄は頭が良く、几帳面な人でもあった。
外出する際には常にペンとメモを上着に入れて、寝る前には必ず大学ノートの半ページを使い、日記をつけた。いつだったか、思い出したように尋ねたことがある。
「なにがきっかけで、日記をつけるようになったの?」
「君が六歳の時、八月に家族で、プラネタリウムに行ったことを覚えているかい」
私が六歳というと、兄が七歳の時だ。記憶を辿ってみると、確かにそんなことがあったような気もする。
「帰り際、館内の廊下を歩いている途中で、時間の概念に興味が湧いたんだ」
「時間のガイネン?」
「そう。あの時はまだ、相対性理論すら知らなかったんだけどね。ただ、僕たちの中に流れる時間は、ハッキリと違うのだと思った。だから、せめて記録をつけることにしたんだ」
「うーん、よくわかんないよ。どういうこと?」
「つまりね、べつの時間、べつの場所で、いつか同じものを見るために。当時の僕は〝日記〟をつけようと思った。そういうことだよ」
それにしても、兄の答えはいつも早かった。
「やっぱりよくわからないよ。っていうかフツー、七歳の子供は、プラネタリウムに行った帰り、時間の概念とか考えないと思うんだけど」
「記憶に間違いはないよ。あとで当時の日記見るかい?」
「そういう意味じゃないってば。あーもう、お兄ちゃんって、めんどくさいなー」
「あ、そういうこと言うんだ?」
兄が人好きのする笑みを浮かべた。
「だったら。その手に抱えた宿題の山、一人で片付ければいいんじゃないかな」
「ごめん、さっきのウソです。手伝って~!」
「今夜の内に終わるといいよね。あぁ、翌日まであと一時間もないのか」
「お願いだから手伝ってよぅ! 可愛い妹が、こんなに頭を下げて頼んでるんだよ!?」
「はいはい。可愛い妹の頼みなら、貴重だけど可愛くない時間を使わざるを得ないね」
さらりと意趣返しをされてしまう。
「お兄ちゃん、宿題とは別になるんだけど」
「うん? まだなにかあるの」
「もうすぐ、最初の中間試験が始まるでしょ」
「こっちは五月の連休が終わったら、すぐだね。それがどうかした?」
「明日、古文と漢文の対策をお願いします」
「君は……まずは自分で考えて、答えを出すことが大切なんだよ、わかるよね?」
正論だ。しかしそうなると、ひどい点数になるのは確実で、それだけは避けたい。お小遣いの残りを思い出しながら、私は兄の肩を揉んでさしあげた。
「ねぇねぇ、お兄ちゃん。なにか欲しい物はないですか?」
「新しい天体望遠鏡が、一式」
「高いわボケェーー!!」
「いってぇー!?」
ためらわず、肩をつねってやった。こちらがお願いしている立場であることは、重々承知の上だ。しかし兄妹なら、こういう事は稀によくある。
「き……君は、ほんっとーに……」
兄が肩をおさえて、くるりと回転椅子を動かした。さすがに怒っている。
「言っておくけどね。向上心がないと、勉強しても意味はないんだよ。さっき君に言ったこと、反復して言ってごらん」
「新しい天体望遠鏡が、一式!」
「そうじゃなくて。ったく……」
兄があきれた表情を浮かべる。読んでいた雑誌に付箋をして、横に退けた。
「試験対策も、一時間だけ手伝うよ。それ以上はダメだからね」
「よーし、やったあー!」
勝ったぞー! 我が軍の勝利じゃー!
「じゃあ今日は、とりあえず宿題お願いね!」
「わかったよ。どこが分からないんだい?」
「ぜんぶ!」
「………………ふっ」
兄は、それはもう、何もかもあきらめたような、そんなため息をしてみせた。
安心していた。兄がいる日常に、私はとびきりの安堵を覚えてしまっていた。この家にいる限り、私はいつだって、彼に助けてもらえる。困ることなんて、なにもないと信じてた。
「はぁ、疲れたぁ……」
中間試験の一日目。古典と漢文の対策に力を使いはたして、とても眠たかった。家に帰る早々に、ベッドの上へ倒れ込んだ。
「明日は数学と、英語だぁ……」
呟きはもちろん、兄の助けが前提となっている。気楽にかまえて眠りに落ちた。
「ねぇ、おきて。ちょっと」
夜、肩を強く揺さぶられて目を覚ました。ぼぉっとしたまま目を開けていくと、母が心配そうな表情で立っていた。
「やっと起きたわね」
「……なんなの、もう?」
「お兄ちゃんが帰ってこないのよ。なにか聞いてない?」
「知らない。今何時?」
「九時よ。夜の九時」
「ふ~ん……。ま、電話かけてみればいいじゃない?」
「携帯が繋がらないのよ。お兄ちゃん、遅くなる時は必ず、連絡いれるでしょ?」
「電池、切れてるとか?」
そう言ってから、私自身、それはないだろうなと思った。あの几帳面な兄が携帯の充電を切らすなんて、ちょっと考え難い。それに充電が切れていたとしても、兄ならどうにかして連絡をいれて、状況を伝えてくれるはずだ。
「……警察とかに、電話した方がいいのかしら」
「まだそんな時間じゃないよ。お兄ちゃんだって、もう高校生なんだから。どっかで友達とごはん食べて、帰ってるところなんじゃないのー?」
「そうね……。でも一応、お父さんに連絡しておくわね」
母は、父の携帯に連絡を入れた。兄の身を気遣って、ぽつぽつと聞こえてくる言葉に、私も言い知れぬ不安を覚えていた。
「お父さん、なんて?」
「僕が帰るまで連絡が無かったら、その時は警察に電話をしようって」
「うん。それがいいと思うよ」
父は冷静だった。そこまで深刻に考えていなかったのかもしれないけど、おかげで私たちもまた、落ちつきを取り戻すことができた。けれど、母が電話をした二時間後。兄よりも先に父が帰ってきた時に、私たちはようやく現実を知った。
兄が消えて、十日が経った。警察は何の役にも立たなかった。
手がかりは一切現れない。
普段は接する機会のない警察とのやりとり、心ない電話や手紙、家に届くなにもかもがつらかった。滅入った気持ちをひきずり、どうにか家と学校を往復する日々が続いた。
「ただいま……」
両親は共働きで、平日は夜まで働いていた。
家に最初に帰ってくるのは、私か兄のどちらかだった。そして玄関に残った靴を見れば、今日も兄は居ないことが分かってしまう。
靴を脱ぐ。階段をのぼると、向かい合う位置にあるのが私と兄の部屋。
「……ただいま……」
兄の部屋を覗いてみるが、やはり誰もいない。
「……ただいま……」
声が聞きたい。あなたの「おかえり」って言う、声を聞きたい。
自分の部屋に戻って、鞄を床に投げ出した。
なにもする気は起こらない。なのに眠れない。ただベッドに腰掛けて、兄のことを考えながら、夕暮れが夜に変わるまで見ていた。
「……あ」
そうしていると、聞き慣れた車の音を耳にした。母が帰ってきたのだろうと思い、階段を降りて扉を開けると、ちょうど、鍵を取り出す母がいた。
「よかった、帰ってたのね。家に電気がついてなかったから、心配したのよ」
「大丈夫だよ」
私は消えないよ。今日も帰ってきたよ。それを告げると泣いてしまいそうで。
「本当に、大丈夫なのね?」
「うん」
母も黙って、私を抱きしめた。
「ただいま」
「おかえり」
私と母は、そう言えることに感謝した。やっと笑いあった。
「お腹空いたね」
「はいはい。貴女も食べるだけじゃなくて、ちゃんと夕飯の手伝いしなさいよ」
「うん。ところで今日の晩御飯は?」
「ありあわせで、なんとかね」
「もー、そればっかりじゃん」
いつもの母、いつもの私。
ありきたりなやりとりを口にして、大切な日常を作っていた。
中華鍋に油をひいて、母が切り分けた具材を落としていく。
「んー、味薄いわね。お塩、もうちょっと入れちゃって」
「えーと、このくらい?」
「なんでアンタの〝ちょっと〟は大さじ一杯なのよっ!? ほんと、ちょっとは加減というものを覚えなさいよ」
「えー、めんどくさいよー、ささっと作って、さささーっと食べたいじゃん」
「アンタって子は、ほんと適当なんだから。こういう時、お兄ちゃんだったら――」
母が言葉を詰まらせる。私も胸を締め付けられるのを感じながら、匙に乗った塩の分量を減らした。
「これくらい?」
「そうそう。アンタはそそっかしいんだからね。何事も程々ぐらいが一番いいの。あとお料理ぐらいできないと、一生独身よ」
「うるさいなー」
ぱらぱら、と塩をこぼして味を調えた後、もういちど具を炒めていく。だんだんいい匂いがやってきて、隣では朝に残ったお味噌汁が、白い湯気を立てていた。ご飯は冷凍庫に入っていたものを電子レンジで温める。
「……あ。そういえば、学校のプリントもらってたんだった。確か、進路関係とかの」
「そういう大事な物は、すぐに見せなさいって言ってるでしょ」
「はいはい、わかってる。じゃ、ちょっと取ってくるね。お鍋、代わって」
私は台所を離れて、階段をのぼった。
探していたプリントを取り出して、階段を降りようとした時だ。
なんとなく、向かいの兄の部屋が気になった。
「…………」
部屋の戸を開ける。居ないことなんて分かりきっていたのに、気がつけば、部屋の中へ入っていた。
「お兄ちゃん……」
暗くなった部屋に明かりをつけ、机の方を見る。そこに兄が座っていたら、
「あぁ、もうこんな時間か。ごめん、すぐに行くよ」
そんな風に言って席を立つ。私たちは、一緒に階段を降りるはず。
だけど、現実に彼はいない。
「どこ? ねぇ、お兄ちゃん、何処に行ったの? お願いだから、返事してよぅ!」
机にはしっかりと、難しそうな本が並んでいる。
人の手で触れる限り、どんなに大切にしても、紙は汚れる。手垢がついて、折れる。
兄の本は、正しくボロボロだった。
彼はいつもそこにいた。黙々と読書をして、私の宿題を手伝って、時折、とても難しい考えに耽っていた。そして寝る前には必ず、日記をつけた。
毎日、日記を書き続けていた。几帳面な人だった。
『僕たちに流れる時間は、違う。等しくはない。だから、せめて、僕は――』
「…………?」
私は、机の上に、小さな紙きれが置いてあることに気付いた。近づいて見ると、それは丁寧に、三つ折りに畳まれていた。
「なに、これ?」
母が帰って来る前にも一度、兄の部屋に入ったから覚えていた。もちろん、机の上も見た。だから、こんな物はどこにもなかったはずだと確信する。
「なんなの……?」
少し不審に思いながら、三つ折りされた紙片を手にとった。
慎重に広げていくと、几帳面な字が、等間隔に並んだ線の間に、綺麗に並んでいた。紙は、どこにでも売っている、大学ノートの一ページだった。
『この手紙は、本当に、届くのでしょうか』
「……え?」
その字の癖を、私はよく覚えていた。
いつも隣に座って、勉強を教えてもらっていたから、間違えるはずがなかった。
『もし届いたとしても、信じてもらえるのでしょうか。悩み続け、書いては消すのを繰り返してきました。しかし、嘆いていても現状は変わりません』
「……お兄、ちゃん?」
忘れるはずがない。整然と並ぶ、お手本のように綺麗な字。
さらさらと。兄がそれを描く横顔までもが想い浮かんで、押し寄せた。
『季節が春から夏へ、そしてまもなく秋が訪れるだろうという頃合いになって、ようやく決心がつきました。父さん、母さん、親不孝な息子で申し訳ありません。僕は現在【異世界:イリア】と呼ばれる、耳にしたことの無い世界にいます。どうしてなのか、僕自身わかっていません。
この世界に来た日時は、西暦二〇一四年 五月十五日、水曜日であったと確信しています。
その日、午後六時になろうかというところで、いきなり視界が真っ白になりました。普段から使っている登下校の道のりの途中でした。周辺の見渡しは良く、人や車の通行は途切れており、事故など起きようはなかったはずだと確信しています。
しかし、その光らしきものが止み、再び瞼を開いた時には、見た事のない世界に変わっていました。周辺には、満足に舗装されておらず、荷物を積んだ自転車で走るにも、困難そうなあぜ道と、地平線までうかがえる、手つかずの自然が広がっていました。
最初に出会ったのは、荷馬車をひいて、近くの町へ向かっている途中の、欧米人に似た外見の、行商人でした。言葉は通じませんでしたが、手振りで「ついてきなさい」と言われたので、僕も自転車を降りて、その言葉に従いました。
それからの経緯は、別の手紙で詳しく記そうと思うので、ひとまずは省略させていただきます。ともあれ、僕は〝無事〟です。明日、明後日に、とつぜん命が無くなる、という可能性は低い状況下であることをお伝えします。
僕は現在【修道院:ラ・レクシア】で、身寄りのない子供たちと、その親代わりである司祭様とともに暮らしています。この手紙は、ランタンの光の下、お借りした屋根裏部屋にて書いています。
いきなりそんなことを記したところで、きっと理解はできないでしょう。とはいえ、僕自身もまた、いまだに現状の混乱から抜けきっておらず、日々、困惑しながら生きています。
この手紙、正確には、僕と共に【異世界:イリア】へ飛んできた、大学ノートの一ページですが、これは町外れにある『歴史館』に投函する予定です。
この建物の奥には【時空の歪み:コ・アッド・マギ・エーゼル】と呼ばれる、小さな〝穴〟が空中に浮かんでいます。そちらの世界の郵便ポストの、投函口と似ています。
そして常識では考えられないこの中へ、手紙を出せば〝元の世界へ届くと言われている〟そうです。
保証はありません。伝承です。そもそもどうして、こんな〝穴〟が存在するのかも不明です。しかも、宛先すら指定のできないこの手紙が、大切な家族の元へ届くなんて、普通に考えればありえません。それでも、僕はこの手紙を送ることにしました。届くと信じて、送ることにしたのです。
書きたいことは、本当に、山ほどにあります。しかし、まずはゆっくりと、確実に。わかったことから、こうして手紙に書いてお話していこうと思います。
それまで、どうか元気でいてください、また手紙を書いて送ります』
*
その後、机の棚から日記帳を取り出して、母と二人で何度も文字を見比べた。
たしかに字は似ている。文章からも、生真面目な兄の雰囲気が滲み出ている。だけどそれだけでは、送られてきた手紙が、兄が書いたという証拠にはならない。
「ねぇ、お母さんは、どう思う?」
「どう思うって言われても……。そもそも、本当にこれが、机の上に置いてあったの?」
「本当だってば! 私が帰ってきて、すぐにお兄ちゃんの部屋へ、様子を見に入った時にはなかったんだよ。それが、さっき、進路のプリントを取りに上がった時に見つけたの!」
「わかったわ。もう一度、確認させて頂戴ね。アンタは、まず一番に家に帰ってきた。それで、お母さんが帰ってくるまで、ずっと二階にいたのよね?」
「うん。ずっと起きてたよ。その、変な物音とか、しなかったと想う……」
私と母は、同じことを考えた。つまり、万が一の話だけど、こんな手紙を模倣する愉快犯がいて、私たちが下で料理をしている間に、こっそり差し入れて、二階の窓から逃げたかという。
「……さすがに、ありえないよねー」
「そうね。でも、だったら、この〝手紙〟は?」
「だから本物の……」
言ってる私も自信がなくなってくる。だって、いきなり【異世界】だ。
よくわからない光に包まれて、気が付けば別の世界にいた、なんて。
でも、手紙に書かれていた日付と、その状況は、兄が消えた状況に、驚くほど一致していた。
夜が更けて、父が帰ってきた。
私たちは再び、手紙と日記帳の文字を見比べた。父は仕事で疲れているだろうに、すぐに例の手紙に目を通してくれたのだ。
「確かに字は似ているが……到底信じられん内容だな。愉快犯が書いたものだとしても、さすがにもう少し、現実味のある手紙を送ってくるだろう」
「だからこの手紙、きっと本物だって! 私、日記の文章と比べる前に、一目見てお兄ちゃんのだって分かったもん。なによりお兄ちゃんは、絶対、こんな冗談なんて言わないよ」
「しかし、なぁ……」
父は溜息をついて、それからもう一度手紙に目を通していく。
「【異世界】うんぬんはともかく、内容に矛盾している箇所がある」
「消えた日付はピッタリ合ってるよ」
「そこじゃない、最初のところだ」
父が示したのは、手紙の冒頭だった。
「〝季節が春から夏へ、そして秋になりかけている〟とある。異世界の一年が何日かは知らんが、いくらなんでも速すぎるだろう。アイツがいなくなってから、実際には十日だぞ」
「そ、それは、私もヘンだなーって思ったけど」
「そうなのよねぇ……」
私と母が顔を見合わせた。父が指摘した点は、私たちも気がついていた。
「とにかく、これだけではまだ何もわからん。仮に警察に見せたところで、一笑されて終わりだろうしな」
父の言う通りだった。これが兄からの手紙だという証拠は、私以外の人にはわからない。それに「兄は異世界にいるんです!」と言ったところで、無意味だ。
「悪いが俺も少し疲れてる。そろそろ切り上げてもいいか」
「えぇ、お食事、ご用意いたしますね」
「いやいい、もうちょっと待ってくれ」
「え?」
立ちあがりかけた母を、父がやや真剣な顔をして制す。
「それよりも一度、家の中を見回っておこう。一応、用心のためにな」
「あ、じゃあ私も見て回る! もし本当に隠れてたら、フライパンで殴りまくるっ!」
「……お前は、アイツとは別の意味で頼もしいな……」
私が言うと、父も深いため息をこぼして、苦笑した。
父が立ち上がり、私と母もそれに習った。
人が隠れられる場所から、そうでない場所にまで、家の隅々に目を通した。父はさらに周辺も見回っていた。けれど、どこにも不審と思える様子はなかった。
その後、もう一度話しあった結果、私と母は同じ部屋で眠ることになった。
「お父さんはどうするの?」
「俺は廊下で寝る。何かあったら遠慮なく起こしてくれ」
「あなた、明日も仕事でしょう。身体を壊してしまいますよ」
「大丈夫だ。まぁ、なんだ……。ここ最近、仕事で忙しかったからな。せめて家にいる時ぐらい、父親らしいことをさせてくれ」
父はどこか気恥ずかしそうに、寂しそうに笑った。
*
『冬が来ました。この地方はかなりの雪が積もるようです。踏み固められていないあぜ道以外は、僕の腰元辺りの位置まで、高く積みあがっています。
吹雪いてる日は、とても外に出ることはできません。そこでこちらでは、一階の暖炉の部屋にみんなで集まって、ありったけの毛布を集め、談笑をはじめます。僕もだいぶ言葉を話せるようになってきたので、小さな子供たちから「お話を聞かせて」と、せがまれます。
世界のおとぎ話。桃太郎から、シンデレラまで。とにかく知っているお話を伝えました。しかしもう少し歳のいった子供たちは、僕の世界の文明の方に興味があるようです。
それでこの前は、つい〝こたつ〟の話をしてしまいました。正直説明に苦労しました。「電気で動く、あったかい布団のようなものだよ」と言ったところで、やはり通じませんね。
だけど僕は、その時、ひどく郷愁の念がわいてきました。
こたつに入って、甘い蜜柑を食べるのが、なんとなく、お正月の通例でしたよね。
お母さんは年末年始のチラシを広げて。君は親戚からいただいた蜜柑を入れたダンボール箱から、蜜柑を取ってきて、僕らは、他愛のない事を話しながら、黙々と食べていたように思います。
蜜柑を食べて、少しお腹が膨れると。僕と父さんは、やっぱり黙々と本や新聞を読み、時々意見を交わしましたね。君と母さんは、テレビに映る芸能人を見て、あきれたり、笑ったりしていたね。
正月の三が日も最後になれば、お餅にも蜜柑にもすっかり飽きてしまって。明日からまた日常に戻るんだなぁ、とか思っていた様に思います。
こちらでも、毛布をかぶって談笑していた子供たちが、大きな欠伸をあげて、団子になって一人、二人と眠っていったのは、中々に可愛い、面白い光景でした。
その中には、毛布を半端にかけたり、蹴り飛ばすような寝相の悪い子供たちもいます。それを延々と掛けなおしていると、君がこたつの中で眠ってしまったのを思い出しました。
風邪を引くからと、毛布を渡したのに蹴り飛ばすという、まったく同じことをしてくれた事を思いだしたのです。
懐かしいな、と僕は思いました。まだこの世界に来て、一年に満たないというのに。
ひどく懐かしいな、と思ってしまいました。
父さん、母さん、妹へ。
僕は家に帰ります。どんなに遅くなっても、必ず家に帰ります。
勝手な事を言ってすみません。でも、お願いです。
待っていてください。帰りますから。僕の家はそちらの世界にしか、ありません。
こたつの四隅の一角を、僕が帰った日のために、空けておいてください』
*
「二人とも、起きてるか?」
扉を軽くノックする音。母が扉を開けて、父を迎え入れたようだ。
「おはよう。今アイツの部屋を一通りみてきたが、特に変化は無いようだ」
「新しい手紙も、届いていませんか?」
「あぁ。机の上を見たが、特にはな」
「そうですか……」
母の声が沈む。家では寡黙な父もまた、言葉を増やしていた。
「手紙に書いてあった【時空の歪】とやらは、歴史館にあるらしいからな。もし手紙の内容が真実だとすると、開館時刻になるまでは、送れないのかもしれない」
「そうね……そうですよね」
「あぁ、時間に几帳面な奴だったからな。あの手紙を書いたのが本当にあいつなら、きっと同じような時間に届けてくるはずだ。さ、降りるぞ」
「はい……」
そんな両親の会話を、私はぼんやり聞きながら、顔を洗っていた。
「ん、早いな。しっかり眠れたか?」
「うん、大丈夫。お兄ちゃんは、絶対に帰ってくるって、わかったから」
私が笑うと、父はちょっと驚いた顔をした。それから、ふっと笑って「そうだな」と、頷いた。
居間に降りる。父はいつもの場所に座り、食事を終えたあとは新聞を読みはじめた。冬はこたつに変わる机の一角、兄の定位置には食器がない。私は食器を片して、さっさと制服に袖を通した。
「珍しく早いな」
「珍しく早いわねぇ」
「お、同じこと言わないでよね!」
でも、声はひとつ足りない。その光景に、けれど少しずつ慣れていく感覚が、ひどく厭でたまらなかった。
「それじゃ、お母さんは洗濯物干してくるわ」
母が言って、先に席を立った。私もしばらく遅れて、階段をあがり、自分の部屋に入った。支度は昨日のうちに終えていた。さっさと部屋を出る時に、洗濯物を持ってあがってきたお母さんとすれ違った。なんとなく、どちらともなく言った。
「学校行く前に、一応、お兄ちゃんの部屋、見とこうかな」
「そうね」
二人して部屋に入る。
兄の机の上に、新しい手紙は、あった。
『お元気ですか。僕はどうにかやっています。
日によっては、また少しずつ、暖かくなったきたようです。
最近になってようやく、自分の意思を伝える程度に、この世界の言葉を使えるようになりました。ある程度の読み書きもできるようになったので、今はこの世界の歴史や文化などを勉強しています。その場所で、本の挿絵に『竜』らしき存在の絵を見つけました。
こういった空想上の生き物を想像するのは、何処でも同じなのだなと思ったら、大陸の北のほうにいけば、実在するのだそうです。
女神に、竜。
そういった存在を耳にした時、やはりこれは夢なんじゃないか。頭がどうかして見ている、幻覚なんじゃないか。そんな風に思ったこともありました。しかし自棄になることだけはしたくありません。
この世界で、途方にくれていた僕を、大勢の人たちが、救ってくれました。
言ってしまえば、血の繋がらない、赤の他人を、です。
この世界に、僕という存在の血族はどこにもいません。
なのに、僕は生きている。みんなに、誰かに、生かされています。
生きている。こうして、大切な家族へ、手紙を書くことができている。
世界は違えど、人の温かさ、優しさというのは、変わりません。
僕にとって、それこそが、真実です。あと、自分の将来についても、考えがまとまりかけているところです。それではまた、手紙を送ります』
*
その日の夜、父は買い物袋を一つ抱えて帰ってきた。中身は録画用のカメラだ。
「とりあえずこれで、手紙が異世界から届いているのか、わかるだろう。明日は休みだし、ついでに一日、あいつの部屋で過ごしてみる。二人はどうする?」
私と母は迷わず頷き、三人で兄の部屋を訪れた。父がカメラを準備する間に、私はお茶菓子を手に、母はコーヒーを用意してくれた。思えばこんな風に、親子三人で夜更かしするのは初めてだった。
「コーヒー、もう一杯もらえるか」
「まだ冷めてませんよ」
「多少熱い方が、目も冴える」
意外にも猫舌の父は、ふぅふぅと、何度も息を吹きかける。慎重に最初の一口を飲んで、真面目な顔をして呟いた。
「む……もう少し冷ますべきだったな」
私と母が、声を揃えて笑う。
「お父さんって、ほんと、昔からあついの苦手だよね」
「こればっかりは治らん。あいつも、俺と同じぐらい猫舌だしな」
「それ、お兄ちゃんのこと? お兄ちゃんは、普通に飲めるよ?」
私が言うと、今度は両親がそろって笑った。
影を帯びた寂しそうな頬笑み。私もきっと、同じ顔をするのだろう。
「本当はね、お兄ちゃんもあつい飲み物が苦手なのよ。でもそれが弱味だって分かったら、貴女が絶対からかうでしょう。それが嫌で、内緒にしてたのよ」
「私そんなこと……うん、するかも、する」
確かに昔「お茶でも煎れてあげようか」と聞けば、普通でいいよと返事が来たことがあった。それは兄にしては珍しく曖昧な返事で、首を傾げた記憶が残っていた。
思えばそういうことはいくつかあった。なるほど。異世界から帰って来た時には、とびきり熱いお茶を煎れてやろうと決心する。
意地悪して、たくさん怒って、謝りたい。
夜が深まり、日付が変わる。
さらに一時間、二時間と経って、朝の気配も近づきはじめた時、手紙が届いた。
なんの前触れもなく。突然、机の上に現れた。
『…………』
いくらなんでも非現実的だよ。この場に兄がいれば、そんな風に言ったかもしれない。しかし現に、三つ折りされた、新しいノートの切れ端はそこに在ったのだ。
「今、誰も、なにも、してなかったよね?」
「……あぁ……」
「本当に、別の世界から手紙を書いて、送ってくれているのね……」
私たちは、恐る恐る、兄の机に近づいた。新しく届けられた手紙を手に取って、そっと広げてみると、変わらない几帳面な字が整然と並び、私たちを見つめた。
『お元気でしょうか。こちらの世界では、いよいよ春の兆しが見えはじめました。
まだ寒い空の下でも、子供たちは元気いっぱいです。僕もなかば引っ張られるような形で、外へと連れ出されてしまいます。
それと最近、町で臨時の講師をはじめました。この前の手紙にも、自分の将来について少し書いたと思いますが、僕は現在『学校の教師』になる道を考えています。
とはいえ、僕自身が教えられるのも、この世界ではまだまだ、算数や、基礎の読み書き程度です。それでも毎日、修道院の子供たちに、物語を聞かせたり、簡単な勉強を教える生活が続いていたので、教えること自体は、なかなか上手くいっていると思っています。
これは〝誰かさん〟の、おかげでもあるかもしれませんね?
さて、そういうわけで、春になり、僕は毎日、町に往復するようになりました。やはり春先ということで、人々の顔は明るく、解放感に満ちています。僕も顔なじみの人が増えてきて、露天で買い物をしたりすると、おまけを頂くことなんかもありました。
それから、先週の、こちらの休日のことです。
修道院の子供たちを連れて買い出しに来た僕たちは、その帰りに、町の目抜き通りにある、中央公園に寄ったところ、絵描きを志している人物に出会いました。
ちょうど、子供達を連れていたこともあって、頼んで似顔絵を描いてもらいました。その人は、まだ修行中の身ということでしたが、水彩で描かれたその絵は、どれも素朴な雰囲気があって、とても親しみやすい印象を受けました。
他にも数点、物見塔から描かれた、ポストカードの大きさを数枚購入しました。それと家族に送る絵も書いて欲しいと頼むと、こんなに買ってくれたのは初めてだと言って、恐縮しながらも引き受けてくれました。それもまた、いつか手紙と一緒に送れたらと思います。
追記。今日、手紙を送ろうと思っていたところ、絵ができたと報告を受けました。後ほど受け取り、この手紙と一緒に送ろうと思います。では、また』
手紙を読み終えてから、父が録画した映像を確認した。
「やはり映像の中にも手紙が現れている。少なくとも、俺たちにしか見えない、夢や幻ではなさそうだ」
「そうね。お兄ちゃん、無事で、生きてるのよね……」
母が涙ぐむ。父が肩に手を添えた時に、さらに数枚の『紙』が現れた。
「え……?」
それは大学ノートとは違い、随分とあらの目立つ『羊皮紙』だった。
「これって、もしかして」
「さっきの手紙にあった、絵描きさんの、かしら……?」
「恐らく、そうだろう」
初めて羊皮紙に触れてみると、ざらついた感触が残り、少し匂った。
「ねぇお父さん、昔の紙って、全部こんななのかな?」
「あぁ。動物の皮で作られた紙は、コストが掛かりすぎるんだ。絵描きを目指している段階なら、特別に裕福でもないだろうし、製法を短縮した安物を使うしかないのだろう」
「だけど、この絵、お母さん好きだわ。やさしい色ね」
「うん。いいよね。これ」
描かれたあわい水彩画の町並みは、不思議な温かさが感じられた。
手紙に書いてあった、物見塔から描かれた絵も素晴らしかった。青空の下、開けた広場には、見たことのない女神像が立っている。
周辺には小さな屋台が立ち並び、歩く人々も、見慣れぬ服装を着ていた。
「ここが、お兄ちゃんのいる世界なんだね」
ひとつ、ひとつ、手に取って想いを馳せていく。
「あれ……? これって」
そして、ゆったりとしたローブを着た人たちが集まった絵。
金色や銀色などの、明るい髪をたなびかせた子供たちが笑う中、一人、優しそうにたたずむ、黒髪の青年がいた。
「お兄ちゃんっ!」
正直、見た瞬間には分からなかった。
衣服もこちらの物とは全然違うし、なにより私の記憶より、雰囲気が幾分も大人びていたからだ。それでも、写真でないから確かなことは言えなくても。この黒髪の青年は、兄だった。
残った最後の絵葉書にも、兄と子供たちが描かれていた。
兄を取り巻くようにしている子供たちは、みんな笑顔を浮かべていた。なんだか幸せそうだなと想って絵の端を見れば、黒インクで文字が書かれていた。日本語だった。
『こちらでは、春の兆しが新年になるので、この一言を添えておきます。
あけましておめでとう。来年は、必ず帰省いたします』
*
それから。手紙は毎日二通、夕方と早朝に届けられた。
兄の手紙には、あちらの世界で知り合った絵描きのことも記されるようになり、いつしかその人は、兄の親しい友人になっていた。
録画したビデオと手紙は、それぞれに予備を取って警察に届けたが、苦笑されるだけに終わり、やはり何の役にも立たなかった。
時間は進む。兄が失踪した五月が終わり、六月に変わった。行方を記した情報は一切現れない。私たち家族だけが信じている、あの手紙を除いて、兄は完全に消えていた。
『そろそろ、この世界に来て丸一年が過ぎようとしています。
言葉や読み書きも、特に支障もなくなりました。
そして話は変わるのですが、先日、司祭様に呼ばれ、ある話を頂きました。それは、来年の春から、東の国にある大学へ、留学してはどうかというものでした。
僕が暮らしている修道院から、馬車で一月ほど行った先の町に〝古代の力〟を研究している、大学があるというのです。どうやら日々、僕が手紙を送っていることを気にされていたようで、わざわざ昔の知人へ、手紙を出してくださっていたのです。
そちらの方もちょうど、研究者の助手、それもできれば【来訪者】を探しているとのことでした。話をまとめると、僕が助手として大学に留学すれば、例の〝穴〟のことを、より詳しく調べられるかもしれない、という事でした。
もちろん、それで日本に帰れる保証などありません。ですが、少なくとも、今この場所にいるよりは、元の世界に帰れる可能性が高いことは間違いありません。
僕も短い間ですが、講師をしていたので、わずかですが蓄えもあります。この調子で冬を越すまで働けば、来年の春先には、一人でしばらく暮らせるほどの額が貯まります。
しかし、返事はすぐにできませんでした。
これまでの僕の生活費は、ほぼ善意で無償に近いものでしたし、修道院の司祭様も、ずいぶんとお歳を召されているからです。やはり頂いた恩は返してゆきたいと思いますし、もっと正直なことを言うと、この場所を離れたくない、という気持ちも芽生えているのです。
返事は近日中で良い、と言われましたので、今回はそのお言葉に甘えさせて頂くことにしました。申し訳ありません。次の手紙には、気持ちを決断したものを届けます。
追伸。
あの人が、部屋で手紙を書いている僕を絵にしているのを、子供たちが教えてくれました。
聞いてみると、手紙を書く僕を、どうしても描きたかったのだそうです。その絵を、家族の元に送っても良いよと言われたので、今回は、その絵と共に送ります』
*
送られてきた絵葉書を見る。色合いは全体的に明るくて、暖かい。
机とベッドがあるだけの小さな部屋で、兄が黙々と机に向かっていた。私がよく見た背中に、自然と顔が綻びそうになるも、文面の一部がそうさせてくれない。
「もうすぐ、一年……?」
兄から送られてくる手紙には、何度も時間の違いを感じることがあった。
それは日が経つにつれて大きくなり、ついに一年になったというこの手紙で、お互いに流れている時間の速度が違うのだと確信した。
一年を巡る周期が早いのかもしれない。最初はそう考えたりもした。
しかし以前も父が言ったように、一ヶ月で四季を巡るのはいくらなんでもおかしい。そのことに兄が気がついたなら、まっさきにそれを書いてくれるはずだ。
「もし、手紙の内容が本当なら……」
兄は、私達の十倍以上の速さで生きていることになる。このままでは、私の両親どころか、祖父母よりも早く老いて、死んでしまう。
それを知って、手紙を読むことさえも恐ろしくなった。
「……あの子は、帰ってくるわよね……?」
特に母はひどく落ち込み、食事もまともに取れなくなってしまった。
六月の半ば、雨の日が連日続いた。
母は誰よりも兄の手紙に気にかけて、一通目を通すたびに、やつれていった。
食卓の方も変わらず、兄の姿だけがない。心が一部が欠けてしまったように、四隅のひとつが空いている。慣れない。むしろ手紙で真実を知ってから、それが重たく圧し掛かる。
「お母さん、もっとしっかり食べた方がいいよ」
「しばらく、仕事も休みを取った方がいい。病院にちゃんと通って、ゆっくり休養をとりなさい」
「……ありがとう、二人とも」
私と父が説得を続け、母はしばらくの間、自宅で療養することになった。しかし容態は良くなったとは思えず、心配する程のことじゃないわ、という母の言葉に、むしろ不安は募るばかりだった。
*
『これは手紙に書くべきか、少し迷ったのですが、やはり記しておこうと思いペンを取りました。順を追ってお話します。まずは、こちらの手紙、もとい物資についてです。
ノートの頁数には、まだ余裕があります。筆記用具の芯は尽きそうですが、幸い、羽ペンのインクに馴染むものがあったので、それで継続して手紙を書くことは可能です。
しかしもしかすると、この〝紙〟が貴重品になる可能性があるので、今後は、羊皮紙を用いて手紙を送ることにしました。
理由を端的に言えば、近くの鉱山都市で、小競り合いが起きたからです。
ウルスラと呼ばれていたその町は、僕らの国と、他二国に挟まれた場所にある、いわゆる緩衝地帯と呼ばれる場所になります。
昔は、山脈の麓である上に、沼地に深い森まで広がっていたそうですが、近年になって森が大きく開拓されました。奥には有数の鉱脈が見つかったこともあり、今では木材と鉱物の一次資源で栄え、それらを加工した工芸品、刀剣などの武器や防具の二次製品でも、急激に力をつけているという噂でした。
しかしこの地は元々、悪条件が重なっていたことがあり、明確な「土地の所有者」が設定されていませんでした。なかば暗黙の了解として、三国それぞれの先代王家が資金を投じ、微妙なバランスで成り立つ、半独立国家のような姿勢だったのです。
それぞれが所有する資源の取り決めも、一応は決まっていた様ですが、王族の世代が変わった現在、過去の取り決めを無効だと言い放ち、東側の国王が、強引にウルスラの主要拠点に兵を送ったと聞きました。
そして、東の国に連なる、大学留学の件にも重なるのですが。僕と司祭様が考えていた旅の道筋は、このウルスラの通行を考えていました。北へと大きく迂回してから、東の国へ入ることもできなくはないのですが、結論から伝えますと、今年の留学はあきらめました。
それ以上のことは、ひとまず、この手紙では控えます』
『先日、僕らの王都から「警戒態勢を取る」という旨の伝令が届きました。夜半の外出を控えることを始め、一部の物資にも販売禁止の触れがでました。
町では緊張した空気が流れています。近々には物資の収集も行われ、貨幣価値も大きく変動することが予測されます。ノートの紙は、資源的な意味でも、金銭的な意味でも、貴重な財産になると考えました。それで、この紙で手紙を送るのは控えようと思ったわけです。
申し訳ありません。こんな事を書いておいて、おこがましいのですが、どうか平穏無事に終わることを祈って頂けると嬉しく思います。
皆さんもどうか、お身体に気をつけてください。それでは』
*
六月の終わり。
兄が異世界に行ってから二ヶ月、あるいは『三年目』。
ただいま、と言って家に帰って来ると、時折電気も点けず、ぼんやりとしている母がいた。無表情の母は、虚空でも見つめるようにじっとして、不意に涙をこぼした。そんな光景を何度も見た。
「ねぇ……いつ、また、行けるようになるのかしら……。【時空の穴】でしたっけ?」
母は、不意に涙をこぼした。
「それをね、私も、登下校の道を歩いて探してみたの。だけど見つからない。そんなものは、どこにも見つからないの。ねぇ、どうして? 私たちの息子が、あの子が、異世界になんて行く必要はどこにあったの?」
「やめないか。気をしっかり持ちなさい」
「ねぇ、あなたは、心配じゃないの?」
父と母の諍いも生まれた。
「心配に決まっている。しかし……あいつも、この世界にいた時は十六だった。時間の経過を考えると、今年で十八になるはずだ」
「なに、それ。どういうこと」
感情的な母の物言いに、父が顔を歪める。
「もしかして〝義務教育〟は終わったから、もう私達は必要ない、そう言いたいわけ?」
「……悪かった。口が滑った」
父は、兄と同じく優秀な人だった。届く手紙を見て、もう会えないかもしれないが、あいつなら大丈夫だと信じることで、この現実を乗り切ろうとしていた。しかし母は、兄が必ず帰ってくることを信じていたのだ。
「……帰ってきて。この家に帰ってきて……。お願いだから、無事に帰ってきて……それだけで、いいのよ……」
毎日届けられる手紙を、両手に抱いて泣いていた。
さらに数日後、兄の世界では、三度目の秋が深まっているらしかった。
私たちの現実の日差しは、ますます厳しくなる。そして、真夏日かと疑うような暑い日に、とうとう母が倒れた。
入院した母の見舞いに向かった時、母は泣きながら、ごめんなさいと繰り返すだけだった。それから力の無い笑みを浮かべて呟いた。
「……どうすれば、あちらの世界にいけるのかしらねぇ……」
私は泣いてしまって、なにかを言ってあげることはできなかった。
だけど父は、そんな母をしっかり抱きしめた。
「大丈夫。あいつは元気でやってる。新しく届いた手紙には、例の人からも絵葉書が添えられていたよ。また一つ歳をとったみたいだが、その分いい顔つきになっていた」
父が一息に言った。
それは本当のことだったが、一番新しい手紙のことについては、何も言わなかった。
*
『 戦争が、始まるかもしれません 』
*
「ただいま」
「おかえり、お父さん。ご飯あっためるね」
「あぁ、悪いな、お前一人に任せて」
「それ、お母さんに言ってあげると、きっと喜ぶよ」
母が入院してから、父は帰宅するのが早くなった。私は台所に戻り、もう一度鍋を温めなおす。おたまを使って茶碗に装い、机の上に並べて席に着く。
埋まる席は二つ。空いた席も二つ。
父と二人で手を合わせた。ことさらに明るく私は言った。
「いっただきますっ」
「いただきます。……ん、うまい。最近お前、料理の腕をあげたな」
「本当? お母さんの料理と、どっちがおいしい?」
「母さんだ」
「あのさ、今更だけど、お父さんって、お母さんにベタ甘だよね?」
「仕方ない。惚れた弱みだな」
その気取ったセリフが面白くて、言った当人である父も、顔を赤くして笑っていた。
私たちは無理をして笑った。二人で囲む食卓は、とても不安だった。
「さっき帰る途中で、母さんの病院に寄ってきた」
「どうだった?」
「あぁ。今日はいつもより、いくらか元気そうだったよ」
「むしろお父さんの方が心配だよ」
「俺は、まだまだ大丈夫だ」
「そういうこと言わないで! お父さん、あの時のお母さんと同じこと言ってるよ!」
「……あぁ、本当だな」
乾いた笑みがこぼれる。父の顔に深い疲労のあとが見えた。
「お願い。お願いだから、お父さんもちゃんと自分の体を労わってよ。私イヤだよ。ここで、一人でご飯食べるのだけは、絶対にイヤ」
「気をつけよう。しかしまさか、お前に気遣われるとは思わなかったぞ」
「それだけ弱ってるってことだよっ! だったら、私がしっかりしないとダメじゃない! ほら、食べて! お腹いっぱいになるまで食べてよねっ!」
「はは。そうだな。作ってくれた飯は、しっかり食わないとな」
父がまた、別の顔で笑った。私の料理を食べながら、言ってくれた。
「大人になったな」
「えっ?」
「おまえも、兄さんに負けない、立派な大人になったよ」
父は少しでも余裕があれば、仕事中でも見舞いに行った。その甲斐あって、母の容態は快癒へと向かっていた。
私もまた、学校が終わると、母の入院している病院へと向かう。
鞄の中には、兄から届いた手紙が入っている。それは最近送られてきたものばかりで、戦争の話題が中心に書かれていた。
母はまだ知らない。兄が戦争に巻き込まれそうだということを。
「失礼します」
扉を軽く叩いて、母の病室に入る。部屋は少し前に、個室から四人部屋に変わっていた。
「あら、いらっしゃい」
「お母さん」
病室に入ると、母がベッドの上で文庫本を読んでいた。小さな欠伸を、片手で隠す落ちついた姿に、内心で安堵した。
「あれ、他の人は今日いないの?」
「今朝一人退院されていったわ。他のお二人もちょうど、席を外してるところよ」
「そっか」
「えぇ。こっち、座ったら?」
「うん」
ふわりと笑う母の顔は、まだ少しやつれていた。けれどもう、影が差したような暗さはそこにない。
「だいぶ、調子よくなったみたいだね」
「おかげさまでね。さっきお医者さんにも、そろそろ退院の許可が出るでしょうって言われたわ」
「本当? よかった」
「えぇ。貴女とお父さんには、沢山迷惑かけちゃったわね。ごめんなさい」
「いいよ。それより今度はお父さんが倒れちゃいそうだから、早く安心させてあげてね。私だって、ご飯毎日作るの大変なんだからね」
「お母さんの苦労、少しは分かったでしょう?」
「うん。だから早く元気になってよね」
そうして私と母は、ふわふわとしたお喋りをしばらく続けていた。
「それじゃ、今日は帰るね」
どちらともなく話題が尽きて、私が立ち上がろうとした時だ。
「ねぇ」
「なに?」
「今日も、お兄ちゃんから手紙はきたのよね?」
母の表情に暗い影が見えた。私は言葉を失ってしまう。視線が逃げて、手紙の入った学生鞄を、じっと見てしまう。
「……貴女も、お兄ちゃんも。お父さんと一緒で、嘘が下手よね」
「…………その、」
結局、なにも言えず固まってしまった私を見て、母は静かに瞑目した。それ以上なにも言わず、催促するような仕草もしなかった。けれど、私は決心した。
鞄の中に手を入れて、手紙の一通を取り出した。
「お母さん」
声をかける。母が目を開く。
「この手紙に書いてあることは、今までと違うよ。それでも、読める?」
「……今ならきっと、大丈夫」
動けない私の頭を、母が優しく撫でてくれる。
涙がこぼれそうになるのを堪え、懸命に言葉を振りしぼった。
「約束してっ! お母さんはどこにも行かないって! 私と、お父さんの側にいるって、約束……っ!」
「約束する。お母さんは、どこにも行かないわ。貴女たちが大好きだから、ね」
母が頷き、私もまた、覚悟を決めて手紙を差し出した。
「でも、こっちの手を、繋いでてくれる?」
「うんっ、うん……っ!」
何度も頷いて、手を取り合った。堪えきれず、涙がひとつ、こぼれて落ちた。
固い手紙。ざらついた羊皮紙の、端がボロボロに擦り切れた手紙の上に。
落ちて。濡れて。乾いて。散って。
古びた、インクの香りのする、羊皮紙の手紙は、開かれる。
*
『ウルスラに最も近かった町が戦場となり、東の王国に制圧されました。
そこから一つ、関所を抜けた先にある町が、この地です。昨日、僕ら西側の国と、残る南の一国は、正式に同盟を組んだことを発表しました。
これから、名実共に「戦争」が始まります。
戦場は、関所を超えた先にある平原になる予定です。
街の外壁近くでは連日、戦場へ向かう人と、付近の村から避難し、さらに遠くへ逃げようとする人たちで溢れています。
穏やかでない喧騒が町を支配し、外を出歩く際には、今まで以上に気を引き締めねばなりません。情報が錯綜し、何が正しいのか判断するにも時間がかかります。
僕もまた、有事の際の治安隊に所属しましたが、警備はとても追いつかず、王国の首都から派遣された騎士団と、共同で街の自治を守っています。
街の四方にあった門は、大型の兵器で武装され、出入りも厳しくなりました。おかげで経済の要となる流通が一部滞ってしまい、物価が全体的に上昇しています。
治安隊に所属したことでいくらか配給は出ますが、それと修道院の蓄えていどでは、満足のいく食事はしばらく出せないでしょう。
秋の色も深まっており、本来なら作物を収穫し、冬超しのための調整を行う時期なのです。しかし、それもできない。
食料を少しでも得て、戦争を一刻も早く、終わらせる必要があります。
初めて握った剣は、怖くて、重くて、恐ろしい物でした。
手渡された刃を鞘から抜き取っただけで、呼吸が乱れました。ですが、それよりも、子供たちの泣き声が辛くてならず、同時に決意が固まったのです。
僕は、一切れのパンを得る為に、敵を殺します。
綺麗事は要りません。行動しなくては、飢えて死にます。
だから、いってきます。
明日の朝、この最後の手紙を持って、町外れの歴史館を訪ねたあと、そのまま戦場へ向かいます。正直今も、この手紙を送るべきか、随分と迷っています。
すべてを偽り、今までと変わらぬ内容にしようかと、心が揺れました。しかしそれは、僕の信じてきた生き方ではありません。そのことを思い出させ、教えてくれた女性がいたのです。彼女は、僕と初めて会った時に言いました。
「私は、幼い頃から、ずっと絵を描いてきた。絵を通じて、人に想いを伝えたかったから。だから自分の絵にだけは、嘘を描かない。描けない」と。
目が覚めました。自分の気持ちがどうあれ、真実から目を背ける生き方を、許したくはないのです。
父さん、母さん。なに一つ恩を返せなかった僕ですが、最後に我儘を聞いてください。この世界に来てから、生涯を一緒に歩んで行きたいと思える、大切な女性ができました。どうか、彼女との結婚を認めてください。お願いします』
手紙と共にもう一枚、絵葉書があった。
修道院で暮らす、小さな子供たちが描いた物だった。
絵描きの彼女が描くような上手さも、兄のような几帳面さも、そこにはない。
だけど、温かい。子供たちから見た、手を取り合う男女は幸せそうに笑っていた。皆の間に立つ、白いお髭を生やしたお爺さんが、司祭様なのだろう。両手を広げ、詠っている。
一組の男女の幸せを、祈っている。
『 光の女神の祝福を、永遠に。(セ・ラル・フィーンド・イリア) 』
そして、右隅にも小さく、
『 君が幸福でありますように。(ユ・リス・エルーンゾ・ロゼ) 』
手紙を読み終え、母が、ゆっくりと息を吐いた。
白くて細い両腕に、私は抱きしめられる。耳元には嗚咽が聞こえ、それからどこまでも優しい声が聞こえてきた。
「……遠いところに行っちゃったね、お兄ちゃん」
「うん」
「あんたはお兄ちゃんほど、しっかりしてないんだから。だから、もう少し側にいるのよ。わかったわね?」
「うん。いるよ。私はここにいるよ。お母さん」
母の胸の中、私は何度も頷いた。
強くなろう。強くならねばいけない。
私を助けてくれる人は、もう帰って来ない。
これからは、一人で、生きていくのだ。
兄の気持ちはすべて。あの異世界へ、旅立ってしまったから。
*
八月も半ば。真夏の太陽は眩しかった。
日光を防ぐ屋根のした、扇風機の強風を浴びても汗が止まらない。そんな時に数学の公式を目にしていると、頭がくらくらする。
「まだ、勉強してるの?」
様子を見に来た母が、お盆を持って部屋に入ってきた。
「はい、お土産。ちょっと根を詰め過ぎじゃないの?」
小さな音を立て。麦茶の入ったグラスを机の上に置いてくれる。
「いきなり頭がよくなるわけじゃないんだから。ほどほどにして降りてきなさいよ」
「うん、もう少し頑張ってから、そうする」
「お母さんみたいに、身体を壊しちゃ、ダメよ?」
「ありがと。あとで下に降りるね」
母が階段を降りた後も、私はしばらく夏の課題と参考書を睨んでいた。母の言うとおり、突然に頭が冴えることはなかったけれど、それでも手と頭を働かせ続けた。
青春とは言い難い夏休みが、過ぎていった。
兄からの手紙は、八月に入ってから一通も届いてはおらず、あの後、一体どうなってしまったのか。それはこの世界にいる限り分からなかった。
残された私は、とにかく頑張ろうと思ったのだけど。なにを頑張ろうかと考えてみれば、学校の勉強ぐらいしか思い浮かばなかった。
強くなろうと、心を決めたところで、手段すら見えてこない。そんな私と引き換え、兄は立派だった。十六歳にして、意図せず【異世界】に赴いてしまっても、自分の芯を折ることなく、最後まで自らを貫いた。
その時、自分ができる事に対して、全力で挑んだ。どんな時もあきらめなかった。
『正義』を示せと問われれば、私は真っ先に、彼の名前を謡うだろう。
「さすがに一休み、しようかな」
数式を解く頭を少し切り替え、麦茶を取ろうとした。その手を引っ込め、代わりに、引き出しにあるファイルを取って開いた。その内側に入った紙片は、すべて兄からの手紙だ。
一枚ずつ、ゆっくりと、目を通していく。
最も新しい手紙から、最後の手紙まで。
それにはこの世界の日付と、もう一つの世界の季節を記し、記憶となって閉ざされている。
日本、二〇十四年七月二十日。
イリア、四年目、秋。
『最後に、もう一通だけ、手紙を書くことにしました。
僕は先ほどの手紙を書いたあと、大学ノートの一ページを千切ったこれ以外、すべての荷を売り払いました。これで一切、元の世界から持ってきた物は失いましたが、しかし引き換えに得た食糧で、子供たちの笑顔が見れたのは、なにより大きな価値がありました。
そう思っていたのですが。さらに、予想外の事がありました。
どうも食料の数が多いなと思っていたら、妻もまた、絵筆の一本と、インクの一瓶を残して、私物をすべて売り払っていたのです。
「結婚して早々、身軽になったね」と。妻は軽く言いました。
「だから。この場で今、一番重いのは、あなたの命よ」
僕らは泣き笑いしながら、いつか平和な日が来ることを、心の底から願いました。
父さん、母さん、妹へ。
この世界に訪れることを、僕は望んでいませんでした。
そしてこの世界にとっても、僕は大勢のなかの一人に過ぎませんでした。
それでも僕は、とても幸せでしたよ。
そちらの世界にいた時も、この世界に来てからも。
大切なものをたくさん、手に入れることができました。
そして、きっと遅くなってしまうとは思いますが。
いつの日か、必ず、貴方たち、家族の下へ帰ります。
新しい、僕たちの家族を連れて、帰ります。
それまで、どうかお元気で』
(了)