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教室の窓
作:オネイロス



第四回 汚い心


 ノブは、赤い涙を流しながら、のたうちまわっていた。呆然とするクラスメイトたちは、ピクリとも動かなかった。僕も、内心は焦っていたが、とにかくノブを助けないといけない。
「何やってんだよ!。早く先生呼べよ!。」
 僕は、近くにいる女子生徒に怒鳴った。女子生徒は、怯えたような目で返す。誰一人、先生を呼びに行く奴はいない。僕は、呆れながら言う。
「誰か、先生呼んで来いよ。おい!。」
 適当に怒鳴ったが、誰も動かない。ノブを助けないといけないという考えの人間は、僕一人のようだ。ハヤトを探してみた。ハヤトなら、ノブを助けてくれる。けど、教室にハヤトの姿はなかった。僕は、飽きもせずに怒鳴り続けた。
「お前ら、責任くらい自分で取れよ!。これで、目が見えなくなったら、お前らどうするんだよ。謝って、済む問題じゃねえんだよ!。」
 僕が、僕ではないみたいだった。クラスの連中に、怒鳴ることが出来た。恐怖や、戸惑いなどが無くて、開放された気分だった。
 僕は、舌打ちをして、苛立ちながら教室を飛び出した。走って、走って、保健室へと向かっていた。
 それをよそに、教室にいる生徒たちは必死だった。全ての後始末を、教室にいる生徒全員で行っていた。教師が来る前に、何としても証拠を消す。桜田がそう言ったのだった。
 ノブの制服を着せ、赤い羽根をそれぞれのポケットに入れ、ノブの血痕を拭き取り、証拠という証拠を徹底的に葬り去った。
 最後に、偽装した理由を作らなければならない。こういうとき、クラスの連中はバカみたいに必死になる。そういう奴らだ。きっと、上手な嘘を吐き、イジメの事実を揉み消すに決まっている。だから、親や教師は当てにならない。
 僕が保健の先生を連れてきたとき、僕は唖然とした。クラス全員で、倒れているノブを心配そうに見つめていたのだ。もちろん演技で。僕は、再度こいつらを軽蔑した。本当に、最低だよ、お前ら。ちゃっかりと、水で濡らしたタオルをノブの目に当てている。今気づいたけど、赤い羽根が当たったのは右目だった。
 僕はうんざりしながら、教室に入った。一番、ノブがうんざりしていると思う。
 保健の先生は、ノブを立ち上がらせて、保健室へ連れて行った。事情を説明して欲しいと、クラスの数名が保健の先生に呼ばれた。どうか、無事でありますように。このとき、笑っちゃうけど、クラスの想いは一つだった。身勝手な考えで、クラスはまとまっていた。
 僕は、こっそりと保健室へついて行った。先生を囲むように、事情を説明する奴らがいて、先生の隣に、目を押さえてふらふらとバランスを失ったノブがいた。事情を説明しに行った奴らは、こっそりとノブを盗み見る。気になって仕方ないのだろう。バカだろう、お前ら。呆れるくらいバカだよ。
 保健室に到着した。ノブたちが中に入ると、僕は扉の前へ行った。中の様子が聞こえて、中の声が聞こえるポイントを探して、そこにしゃがみ込んだ。中から、声が聞こえる。
「眼球には、傷がいってないけど、間違ったら失明してたかもよ。」
 先生がノブの目を開きながら言った。ノブは、力なく頷く。どうやら、赤い羽根が当たる瞬間に、ノブは目を閉じたようだった。運がいい奴だ。クラスの奴らにとっては。
「うわあ。痛いでしょ、目。」
 今度は、ノブの瞼を見るなり言った。先生は、おどけたように笑う。相当痛いのだろうか、ノブは笑っていたが目が動いていなかった。クラスの奴らは、安堵しながら、少しの冷や汗をかいていた。
「これ、傷深いわよ。」
 先生のおどけた口調が響く。少しでも、ノブを安心させようとしているのだろうか。
「この傷からして、はさみやナイフの刃物ではないわね。丸く抉れた傷をしてるから、針のような鋭くとがったもの。」
 独り言のように言ったが、確実に、皆に伝えていた。事情を話しに来た生徒が、生唾を飲んだ。まさか、全て悟られているのでは・・・そんな不安でいっぱいだろうな。
「じゃあ、事情を聞きたいんだけど。」
 さっきとは違う、低い声色だった。問い詰めるというか、戦闘体勢に入ったようだった。僕も、思わず身を構えた。
 ある女子生徒が、喋り出した。先生と女子生徒の目が合った。睨みあうように、目に力が入っていた。教師と生徒の心理戦が、今始まった。
「白石君は、数学の勉強をしていたんです。図形の問題で、コンパスを使っていました。それで・・・白石君が、ぼんやりとコンパスの針を上に向けて、考え込んでいたんです。そのとき、鬼ごっこをしてた男子が、たまたま白石君の背中にぶつかったんです。男子が圧し掛かるみたいな格好になっていて、そのせいでコンパスが目に刺さったんだと思います。みんな見てたし。」
 先生は、黙ってその生徒を見つめた。すると、小さく頷いた。
「そう、そりゃあ不運だったわね。」
 先生は、チラッとノブを見た。ノブは「違う」と叫んでいるようだった。声にならない声で、必死に叫んでいるように見えた。僕は、痛々しくて見ていられなかった。
 クラスの奴は、ホッとして、小さな笑みを漏らしていた。それに気づいたように、先生は語気を強めて言った。
「でもね、例え事故でも、目が潰れかけたの。悪意が無かったとしても、この子は被害者なの。まさかとは思うけど、この子をいじめてるようなことがあって、こんな事件が起こったなら、タダじゃ済まないからね。それは、道徳の道を外した行為だから、しっかりと指導しますからね。」
 冷静を帯びた、どこか恐ろしい声だった。僕は、怖くなって逃げ出した。あの先生には、おそらく感づかれている。証拠を捕まれたら、おしまいだ。
 先生がイジメを止めてくれるなら、僕はそれでいい。むしろ、そうしてほしい。けど、イジメが明るみになったとき、僕も加害者となる。ノブが被害者で、僕が加害者という関係になる。僕は、それが怖かった。僕はいじめてなんかいない。けど、いじめたことになるんだ。それが、耐え難いことだった。
 また、僕の悩みが増えた。また、僕の心の闇が、拡大していった。

 その日、ノブは教室に現れなかった。下校のとき、ハヤトが誘ってくれる。僕は、同じ臭いのするハヤトと、いろいろな話をした。いじめのことが主だったけど、意気投合した話が多かった。僕は嬉しくて、有頂天にいた。
「今日、昼から白石いなかったけど、どうかしたの?。」
 僕は言い返せなかった。ハヤトは、何も知らないのか。知ったら、驚くだろうか。
「どうしたの?。」
 ハヤトは、蒼くなった僕の顔を見て、心配そうに言った。僕は、無理して笑顔を作った。
「いや、別に。」
「変だよ。」
 ハヤトは、尚も心配そうな顔をしていた。それだけ、僕の顔は蒼かった。恐怖で血の気が引いた、蒼白な顔をしていた。ノブを思い出すと、僕の顔は蒼ざめる。気分が悪くなる。
「何かあったんなら、俺になんでも言えよ。だって・・・」
「だって?・・・」
「だって、友達だろ?。俺はライのこと、友達だって思ってるから。」
「・・・ありがとう。」
 僕の声は貧弱だった。ハヤトは、更に心配そうな表情になる。
「俺も、ハヤトの友達だから。」
 僕は、クスッと笑って言った、ハヤトは、やっと笑顔になった。僕はホッとして、小さな笑みを零した。ハヤトは、改まって僕に言った。
「だから、白石のこと教えろよ。」
 僕は小さく頷いた。ハヤトは、僕を包み込むように温かだった。昔の、ノブのように。
「昼休み、山木たちが、ノブを的にしてダーツゲームをやってたんだよ。朝に配られた赤い羽根に、針をつけて、ノブを的にして遊んでたんだよ。」
「・・・ひでえ。」
「それで、ノブの目に針が刺さったんだよ。あいつらが調子に乗って、ノブの目に当てやがったんだよ。」
 僕は、興奮していく声で言った。目が、らんらんとしているのが分かった。きっと、猛獣のような目をしているだろう。
「あいつら、そんなことして平然としてたんだ。神経疑うよ。」
 僕もその一人だ。平然と、午後からの授業をしていた一人だ。僕も、あいつらと一緒のことをしてるんだ。自分でも吐き気がするけど、そんなことをしてるんだ。
「あいつら、マジで狂ってる。なんか、やだよ、あのクラスにいるの。俺まで狂いそうだ。」
 ハヤトは、呟くように言った。僕もそう思う。できれば、あんなクラス、一秒たりともいたくない。表面では、明るくて、元気なクラスになってるけど、そんなの嘘だ。本当は、暗くて、陰湿的で、残忍で、惨いクラスなんだ。思わず、目を背けたくなるような現実がおこっている。僕はもう、うんざりだ。こんなクラス、潰れてしまえばいいのに。

 家に帰ると、母が電話をしていた。いつもの長電話だろう。これにもうんざりだ。飽きもせずに、いつまでもペラペラと喋れるもんだ。これが、母にとっては楽しみなのだろうか。僕には想像もつかない。母が長電話していたから、僕は、ただいまとは言わなかった。
 自分の部屋に入ると、僕はベッドに倒れこんだ。制服を脱ぐ気もせずに、僕は固まっていた。天井を見ると、黒いシミがあった。今まで気づかなかったシミは、結構大きかった。僕は、それを見ていると、不思議な感覚に襲われた。無重力になったように、体が軽かった。まるで、意識と体が離れているようだ。僕は、その心地が気に入った。何とも言いつかない、気持ち良さだった。
 そのシミを見ていると、時間があっという間に過ぎていった。もう七時だ。僕はむっくりと起き上がり、明かりの無い部屋を見渡した。やっと、制服を脱いだ。
「ご飯よ」
 リビングから、母の声が聞こえた。僕は部屋を出て、重たい足を引きずるようにして、リビングへと向かった。
 リビングでは、父の姿が無かった。いつもは帰ってくる時間だったけど、今日は遅い。僕は、そんなに気にしなかったけど、母と二人というのが、何となく変な感じだった。
「父さんは?。」
「残業だって。珍しいわよね、あの人が残業だなんて。」
 僕の母は、父のことを「あの人」と呼んでいる。父の前では「あなた」と呼ぶけど、僕の前では「あの人」だ。これには、どんな意味が含まれているのか、僕はいつも疑問に思う。実は、そんなに仲が良くないのだろうか。今頃だけど。
 僕は椅子に座って、食卓へと向き合った。
「いただきます。」
 僕は、小さく低い声で言った。母は、その声にピクリと反応を示した。僕を上目遣いで見た。もともと、母の目は白目部分が多い。上目遣いになると、白目のようにも見える。僕は、その目にゾッとすることがある。別に、怖いわけではないのに。
「ライ、声変わりした?。」
 僕はびっくりした。僕が声変わりなんて、良く分からない。自分の声が、他人にはどう聞こえているかなど、僕には知ったことではない。だから、声変わりといわれても、よく分からないところがある。
「さあ、声変わってるの?。」
 僕は適当に返答をよこした。母は、「うーん」と眉を寄せて、野菜炒めに箸を伸ばした。
「なんかね、低くて、重たい声になってる。」
「なんだよそれ。」
 僕は鼻で笑って、味噌汁を飲んだ。母は、まだ腑に落ちないような顔をしていた。まだなにか、言いたい事があるのか。僕には、触れて欲しくないことばかりだった。
「自分で分からないの?。声変わりしてること。」
「わかんないよ。低くて重たい声っていわれても、想像できないし。」
「うん・・・あんた、変わったよね。」
 僕は、ご飯の箸を止めた。何が?と聞きたかったが、その先を聞くのが怖かった。母にも、全てを見透かされているようだった。僕は、母の視線から逃げた。
「どこが?。」
 聞いてしまった。聞きたくなかったのに。
「声も変わったし、顔つきも変わってる。最近、ライのことあんまり見てなかったから分からなかったけど、確かに変わってる。」
「背伸びたから、顔つきも変わるだろ。」
 僕は、適当な理由を並べる。顔を伏せながら、からあげへと箸を伸ばす。
「違うのよ。最近、無口になったっていうか、何かあったの?、学校で。」
 僕は、ピクリと動いた。核心を突かれた。僕は、適当にごまかそうとしたけど、考えた言葉が浮かんでは消えた。
「なにかあったの?」
 母は、尚も尋ねる。息子が気になるのは分かるけど、聞いて欲しくないこともあるんだよ。親子の間でも、言いたくないことくらい、あるんだよ。
「・・・別に。」
 僕の声は、更に低く、重たくなった。ついでに、暗くもなった。もう、これ以上詮索するなよ。言いたくないんだよ。
「最近、信貴くんやキリちゃんとも遊んでないみたいだし。もしかして、今流行ってるけど、イジメとかされてないわよね?。」
「・・・・・」
「もしそうだたら、母さんにちゃんと言ってね。言いにくかったら、先生にでも言ったらいいし。なんだったら、学校なんか行かなくていいのよ。」
「・・・・・」
「いじめられる人も悪いとか言うけどね、そんなの言い訳よ。どんな理由があっても、いじめるほうが悪いんだから。イジメはね、人間として最低なことよ。人間が作った、一番最低な行為よ。そんな最低なことはね、結局人間しかしないのよ。」
「・・・・・」
「だからね、そんなことで悩まなくていいのよ。」
 違う。違う。母さん、僕はそんなんじゃない。母さんが言った、最低なことをしている人間の一人だ。母さんの想像を超えるほど、ひどいことをやってるんだ。
「暗いライなんて、母さん嫌だからね。」
「・・・うるさい。」
「えっ?。」
 母は、びっくりした声を上げた。僕は、僕を見透かされることが嫌だった。僕を見つめられることが嫌だった。僕に入り込んでいくのが嫌だった。僕の心を掴もうとされるのが怖かった。
「いちいち、心配するなよ。俺はもう、中二なんだ。自分のことぐらい、自分で出来る。」
「でもね、イジメで自殺なんかされたらね、母さん悲しいの。だから、そんなことになる前に、母さんや先生に言ってほしいって言ってるの。」
「だから、俺はいじめられてなんか無い。違うんだ・・・いじめられてなんか無い。」
 僕は、箸を握った。折れてしまいそうになるくらい、強く、強く握った。
「どうしたの?。」
「俺は、母さんが思ってるような息子じゃない。」
 母は、呆然とした表情をしていた。僕を見据える目は、また、何かを探っているようだった。僕は、そういう目が怖い。いつも、そういう目に怯えていた。
「・・・ごめん。母さんの期待どおりじゃなくて。」
 僕は、小さく呟いた。母は、怪訝な目で見つめている。僕は、俯いたまま、黙々と飯を食っていた。母は、しばらくの沈黙の末、僕に言った。
「いいわよ、私が思ってるような息子じゃなくて。」
「えっ?。」
 まさか、こんな返答が返ってくるとは思わなかった。僕は、瞬間的に顔を上げた。母の目は、僕を探っている目ではなかった。最初から、僕を心配している目だった。僕を探ってなどいなかった。探られているという考えは、僕の被害妄想だった。僕の心の闇が作り出した、ありもしない幻影の眼差しだった。僕は、根本的に外れていた。
「あなたが、人の道を外したことをしてもね、私はあなたの味方だから。敵になんてなれないのよ。どうもがいても、あなたの味方でしかないの。」
「俺が、最低でも?。俺が、最低の人間だったとしても?。それでも、母さんは平気?。」
「平気よ。」
「何で?。」
僕はもう、冷静ではなかった。ただ、母がどう思っているのかを知りたかった。
「最低な人間なんていないってことよ。人間は、全員最低だから。いくら、自分が正しいと思っている人もね、根っこは間違った考えをしているものなの。残虐だったり、冷酷だったり。イジメにしても、人しかしないことなのよ。だったら、人間ほど最低なものなんて無いって思わない?。」
「・・・・・」
「大学の頃ね、母さん、宗教を勉強したことがあったの。ある宗教ではね、「自分の醜さを受け入れて、自分の美しさを拒め」っていう教えがあるの。母さん、その言葉に惚れたわ。」
「どういうこと?。」
 僕は興味を持った。なんだか、面白い話だと思えた。
「自分のダメな部分を理解して、いい部分に気づくなってこと。ダメな部分を拒んだら、一生、人間の醜さに目を背けてしまう。いい部分を受け入れたら、自分は汚れのない人間だと思い込んで、他人を見下ろしてしまうの。他人の醜いところが目立って、他人を極端に嫌ってしまうの。人を愛せなくなってしまうの。だから「自分の醜さを受け入れて、自分の美しさを拒め」なのよ。そんなこと気に留めないで、気楽に生きろってことなのかもしれないけど。」
「面白いね、宗教って。」
「そうよ。私もね、学生時代に結構はまったわ。なんだか、心が大きく動くって訳でもないけど、楽になれるのよ。人に教えてもらうと。」
 母は、そのまま黙って、ご飯を食べ続けた。僕は、テレビのスイッチを入れて、お笑い番組に切り替えた。今更、お笑い番組で笑えることは無いけど、僕はその番組にしていた。人の笑い声を、聞いておきたかった。母はもう、全てを知っているのかもしれない。それはそれで、いいと思う。

 一週間くらい経った。登校時に、僕は大須賀橋の前に立つ。僕は最近、ここに立ち竦む。登校時に立ち竦んで、行き行く生徒を眺めている。習慣と言ってもいいだろう。
 僕は、虚空を見つめながら、全身の力が抜けていくのが分かった。なんだか、体と意識が離れていくみたいだった。前のように、神様に会えるだろうか。また、僕を救ってくれるだろうか。神様、あなたは一体、何者なんだ。僕の疑問は、日に日に募るばかりであった。
 僕は、教室に入った。僕は席に着いて、机の中を整理した。僕は、整理や掃除が苦手だった。だから、ときどきこういう整理をする。プリント類が散乱していたから、僕は必要かどうかを確認した。その中に、小さな紙切れが紛れていた。丁寧に折りたたんでいた。不審に思い、僕は、その紙を広げた。
「放課後、この前の公園にいる。ずっと待ってるから、来てほしい。信貴」
 そういうことかと、僕は小さく笑った。今度はノブに責められる番だな、と思って、僕はノブに振り向いた。相変わらず下を向いていたが、僕を見ている気がした。その目線が嫌なんだ。僕を探ろうとしているその視線が、怖くてたまらないんだ。
 もう一度、ノブを見る。今はさっきと違う。確実に、僕を見つめていた。顔を上げて、僕を見つめていた。こわい・・・こわい・・・こわい。みるなみるなみるな。そんな目で、僕を見るな。ノブの目は、僕を凝視していた。僕はその視線から逃げようとして、別のところへ目線をやった。
 その瞬間、僕は、恐怖で凍りついた。クラスの連中が、僕を見ているような気がした。ノブと同じように、僕を探るように凝視している。そう、クラスの全員が。また、僕の妄想だろうか。また、僕のありもしない被害妄想だろうか・・・いや、違う。妄想なんかじゃない。良く分からないけど、みんなが僕を凝視している。僕を探ろうとしている。妄想ではなく現実なのかもしれない。あまりにもリアルで、その恐怖は僕を襲った。冷ややかで、氷のような視線が、僕の体中を突き刺す。現実だ。妄想なんかじゃない。これは、僕の心の闇が作り出した、現実なんだ。
 昔もそうだった。昔から、僕は人目を避けてたんだ。僕の心を見られるのが怖かった。僕の心の闇を見られるのが怖かった。僕の醜い部分を見られるのが嫌だった。それは親にでもだ。僕は、人と目を合わせなかった。人と関わりあうのが怖かった。他人にも、自分と同じような醜いところがある。そう思うと、人が信じられない。人が怖い。人の悪意、憎悪、嫉妬、恨み、復讐心、虚栄心、競争心、裏切り、なにより、優しさが怖かった。僕に対して、優しくしてくれる人間が怖かった。優しくしてくれている人の、真の心が見えないんだ。何を思って、優しくしてくれるのかわからない。それが、一番怖かった。そう、ノブが怖かったんだ。僕に優しいノブが、一番怖かったんだ。小さい頃から、一緒に遊んでいるときも怖かった。ノブの目を見ていると、本当に怖い。僕の心の中の、巨大な魔物が蠢いた。ノブの優しさが伝わる度に、僕の中の魔物は、激しく暴れだした。「何を考えているんだ。」「俺をどうする気だ。」「何が目的だ。」「お前は、偽善者じゃないのか」僕の魔物は、こんな毒を吐き続けた。僕の魔物は、次第に、僕自身を傷つけた。僕の心に、大きなヘドロを残していった。そこだけ、泥沼のように黒ずんでいった。僕の心のヘドロは、僕の心を溶かして、小さくて大きな溝を作り出した。ヘドロはそこに溜まっていき、僕の心は、汚れていった。
 あの時と一緒で、これは僕が作り出したものだった。心のヘドロが、僕自身を操っていたのだ。僕自身を傷つけようと、また、暴動を起こしているんだ。どんな暴力よりも痛く、辛い攻撃だった。自分で、自分を痛めつけている。だから、妄想なんかではない。これは、僕の引き起こした現実だ。幻覚といったほうが正しいかもしれないけど、これは現実だ。そうしないと、僕の心は激しくうねる。また、僕をいじめる。僕の心は、僕をいじめる。絶対に逃げられない、永遠に続くイジメだ。
 いつになったら、僕は僕から逃げられるんだろう。僕は、しつこく僕を追いまわす。怖い、僕の心が怖い。僕は、いつも何かに恐れている。それは、自分という闇が存在していたからだ。僕の小さな感情の破片が、積もりに積もって、魔物へと進化したんだ。自分を嫌ったら、その魔物は成長する。ノブを見捨てたら、魔物は成長する。別の人と仲良くしたら、魔物は成長する。人の目線に気づくと、魔物は成長する。このヘドロは、僕を呑み込んで、周りの人をも呑み込んでしまうだろう。僕は、僕に支配される。僕の心の闇に、僕自身が呑み込まれる。 僕は、生きてていいのだろうか。他人に怯えながら生きていくことに、意味なんてあるのだろうか。愛されないのは、心に触れてくれないのは、僕を助けてくれないのは、僕自身が望んでいることじゃないんだ。自分を変えようとしていない。変えようとしてくれる人間を、僕は拒んでいる。そんな僕を、人間のクズというのではないのだろうか。
 僕は、みんなの視線から逃げるように、頭を抱え込んだ。今までの、最悪な出来事が頭を駆け巡った。最悪な事だらけだ。僕の心の闇が見える。きったねえ・・・。こんなんじゃ、誰も近づかないな・・・。
 僕は、一筋の涙を流した。なぜだか分からない。頭を抱えながら、一筋の涙を流した。しゃくりや、声を上げることも無く、静かに泣いた。もういい。僕は、僕でしか成し得ないのだから。これは、宿命のような、変えようの無いものなのだ。僕という人間を理解して、生きていかなければならない。それが無理なら「死」のみだ。確実な死しか、残された道は無い。
ぼんやりと授業を聞き流していると、いつの間にか放課後だった。バイバイと言う声が飛び交う中、ノブと擦れ違った奴らは、決まってノブの肩にぶつかる。わざとのくせに、「あっぶねえなあ」と言ってノブを睨む。ノブは、強く肩をぶつけられると、四方へと飛ばされる。ノブは毎日、こんな仕打ちを受けていたのか。休める暇なんて、どこにもなかったんだ。涙を流す暇なんて、一秒たりともなかったんだ。
 ハヤトは、変わらず僕を誘ってくれた。僕が悩んだり落ち込んだりしていても、変わらない笑顔と声で、僕を呼び止めた。それが、嬉しくもあって、怖くもある。ノブのように。
ハヤトと一緒に下校していると、大須賀橋を越えた辺りで、女子生徒と一緒にいるキリと会った。僕に気づくと、小さな声を上げて、何か言いたそうに口をもごもごさせた。僕は、キリと目を合わすことが出来ず、「ばいばい」と低く言った。言いたいこと、山ほどあるんだろうけど、今の僕は正直に言えないんだ。ごめん、キリ。
 ハヤトと別れてから、僕は歩調を遅めた。公園なら、僕の家の近くにある。会おうと思えば、今にでもノブに会うことが出来る。走って、ノブに会いに行けばいいのに。僕はなぜか、歩くスピードをどんどん落としていた。遂には、小道に入った辺りで、僕の足は硬直してしまった。大須賀橋の前のように、僕は立ち竦んでしまった。目の前の風景が、僕の目を刺激した。目眩みがするような、激しい光の玉がはじける。
 僕はまた、逃げ出そうとしていた。ノブに会うことにも、僕は怯えているのだろうか。僕は、堂々としていられないのだろうか。常に腰が引けて、いつも第三者になる。主役ではなく、脇役。桃太郎じゃなく、木や草花。いじめるより、いじめられるより、それを見ている。一番、残酷だと分かっているのに。
 行かなきゃダメだ。行かないと、また僕は僕を嫌いになる。また、心のヘドロが暴れだす。僕が、呑み込まれる。だから、行かなければならない。何も、恐れるものなどない。一体、何が怖いと言うのだ。僕は、何に怯えているんだ。何に恐怖を抱いて、何に優越を抱いてるかの区別すら、分からなくなっていた。僕の心は、腐りかけていた。生ゴミのような臭いを発しながら、僕の心は腐っていった。
 そのとき、僕の肩を誰かが叩いた。驚きで、僕の体は飛び跳ねた。振り向くと、キリが立っていた。なんとも心配そうな目で、僕のことを見つめている。僕は笑いながら、「なんだ、キリか」と言った。上手に笑えたと思う。自分の心を、笑顔と言う仮面で隠せたはずだ。僕の笑顔は、下手くそだった。キリには、苦笑にしか見えなかったようだ。それもそのはず、僕の額には、冷や汗が滲んでいたのだから。恐怖で冷え切った、奇妙な汗が出ていたのだ。
キリの目線は、僕を舐め回した。それが、怖い。
「どうしたの?。なんで、こんなとこまで来てんの?。」
 僕は、低く小さな声で言った。明るい声など、僕にはもう出せない。キリは、少し困ったように、頬辺りを赤めた。
「ちょっと、ライが心配だったから。最近、どんどん暗くなってる気がするし、なんか、変だよ。」
「そっかな。俺だって、気分の浮き沈みぐらいあるよ。別に、嫌なことがあったって訳でもないし。」
 おどけた声を演出した。今更、そんなことして、何になるのだろうか。僕は相変わらず、ただのバカだった。空気の読めない、幼稚なバカだった。それと違って、キリは賢い。僕がごまかしているの察して、何も言わなかった。
「なんだ、心配して損した。じゃあね。」
 キリは足早に去って行った。僕は、遠ざかっていくキリの背中を見つめ、歩かなければならないと思った。ノブが待っている公園まで、自分の足で歩かなければならない。ゆっくりでもいいから、歩かないと始まらない。僕は、そう思いながら、ノブのいる公園まで行った。
 公園に、やっとの思いで到着した。すごく長い道に思えた。足も、やたらと疲れている。僕は、その公園を見渡した。
 一見、ノブはいなかったけど、ノブはあそこにいる。ジャングルジムだ。ジャングルジムで、背中を丸めているはずだ。殻に閉じこもるように、ジャングルジムに潜んでいるはずだ。そんなノブは、昔と全然変わっていない。僕が見ていた限りでは。
 僕はジャングルジムに近づいた。身をかがめて、ジャングルジムを覗き込んだ。いた。膝を抱え込みながら顔を伏せている、そんなノブがいた。ノブも、僕に気づいた。ノブは、僕を直視して、ジャングルジムから抜け出した。今気づいたけど、赤い羽根が刺さった右目には、眼帯がしてあった。今気づいたってのも変な話だけど。ノブの左の瞳からは、冷たいものが感じられた。ノブは、痛々しそうに微笑んだ。
「話って、なに?。」
 僕は、普通に言えた筈だ。自然な演技で、ノブを騙せただろうか。実際には、恐怖と緊張で、声が大きく震えていたのだ。ノブに直視されると、怖くなって逃げ出したくなる。
「今日、眼帯取れたんだ。」
 ノブは、そっと眼帯を外した。眼帯が開いて見えたのは、抉れた瞼だった。小さな穴が瞼に開いていて、黒ずんだ皮膚を見せている。穴はくっ付きかけているようだけど、目を背けたくなるような光景だった。正直、怖くて恐ろしい、そんな目だ。ノブは、眼帯を放り投げて、寂しそうに笑った。
「ライ、ありがとう。あのとき、みんなに怒鳴ってくれて。」
 僕は、思いもしなかったノブの言葉に、思わず顔を上げた。ノブの笑顔が、妙に眩しかった。目の傷も、恐ろしくもなかった。
「ありがとう。」
 ノブは、もう一度呟いた。僕は、胸に込み上げる熱いものを感じた。嬉しいとも似つかない、不思議な感覚だった。
「なんで・・・俺、ノブのこと助けれなかった・・・なんで、ありがとうなんだよ。」
 僕は、泣き出しそうな声だった。別に、涙が出そうになったわけじゃないのに。
「関係ないよ。助けられなくても、ライは俺のことを助けてくれたんだ。目に見えないけど、それは俺に伝わったよ。」
 僕には、意味が分からなかった。なんでだ、なんで僕が礼を言われる。また、間違いのはずだったのに。正しいことなんて、僕はやってない。僕は、不義でしかない。僕の心のヘドロは、醜くて、正義とは無縁の関係だ。悪でしかない、宿命を背負っている。僕ではどうしようもない。この怪物に、僕は勝てない。一生かかっても、僕は負け続ける。
 僕は、ノブを見上げた。ノブは、優しい微笑を向ける。その笑顔は、僕の心のヘドロを刺激した。僕は撹乱して、勝手に動く足を必死で止めた。足が、逃げようとしている。僕は心を乱しながら、倒れこんでしまった。頭を押さえて、もがき苦しんだ。奇声を発しながら、僕はわめいた。泣きながら、わめいていた。地面を殴りつけた。僕の心を殴っていた。僕の心を、潰してやりたい。粉々になって、消えてしまえばいい。僕の心が、死んでしまえばいいんだ。その方が、僕は救われる。この苦しみから、救われると思う。












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