第二回 死ねのコール
僕は、一人で帰り道を歩いていた。キリに誘われたが、僕は断った。キリと帰ったら、ノブも、一緒に帰ることになりそうだった。僕は逃げた。ノブと一緒にいる気まずさ。何より、僕までいじめられるのが怖かった。背筋が凍るほど、怖かった。僕の背中は、猫のように丸くなっていく。
家に帰れば、母の姿は無かった。今日、母と父は旅行に行っていた。僕は、気が動転して、すっかり忘れていた。
僕は、誰もいない家にいた。隙間風が、妙に肌寒かった。もう春だというのに。桜も、散り始めている。僕は、ノブの表情を思い浮かべた。苦しそうな表情は、僕を責めた。その表情を見ていた僕は、苦しい思いをしていた。ノブは、もっと苦しかったはずなのに。僕は、とても身勝手だ。ノブのことを思ったら、苦しい思いなんてできなかったはずだ。けど、僕はノブを表情を見るのが苦しかった。ノブの叫び声を聞くのが苦しかった。自分の目を抉りたかった。自分の耳を剥ぎ取ってやりたかった。
泣いたらダメだと思いながら、僕は泣いていた。誰もいない家の中で、大きな声を出して泣いた。
夜、僕の家に電話がかかってきた。僕は、重たい手を引きずりながら、受話器へと手を伸ばした。
「はい、もしもし。」
とても暗い声だった。僕の声は、陰湿的な声をしていた。湿って、暗い声だった。受話器に、カビがつくのではないかと思った。
「私、キリ。」
僕はそのまま、電話を切りたかった。
「何?。もう、十時だよ。」
僕は、重たい目を時計に向けた。お腹が、激しく鳴り響いた。そういえば、晩飯を食べていなかった。ずっと、テレビを見ていた。ボーっとしていると、気づけば十時だった。
「ノブのことが気になったの。ライ、同じクラスだからさ、何かあったのかなって思って。」
「分からないよ。俺にも、何がなんだか分からないよ。」
本音だった。僕の心は、大きな叫び声を上げていた。
「何よそれ。ノブ、とっても暗かったよ。本当に、何も知らないの?。」
言いたかった。本当のことを、キリに打ち明けたかった。僕は、たった一日で、大きな闇を抱いていた。イジメに、これだけ苦しまされるとは、思いもしなかった。
「知らない。俺には、意味が分からない。」
「・・・分かった。けど、ノブに何かあったとしたら、ライに言うと思うんだけど。」
「どうだろう。俺だって、他人に言いたくないこともあるよ。結局、本当のことを知ってるなんて、友達じゃないと思うし。」
「そうかな。」
キリが、語尾を曇らせた。僕は、小さな溜め息を漏らした。冷たい風が、頬を掠った。
翌日、僕は平気な顔で登校した。ノブは、なぜこうなったのだろうか。そんなことはよそに、僕の顔はいつもどおりだった。
教室の空気は、全く変わっていない。明るくて元気のあるクラス。傍から見れば、そんなクラスだった。しかし、ノブが教室に入ってくると、その空気は一変する。ガラリと変わり、暗く、陰湿的な空気へと変貌する。みんながノブを見る目は、今さっきまでとは違う。全く違う。まるで、獲物を見つけたライオンのような目付きに変わる。
ノブは、俯きながら席へと座る。席の近くにいた生徒は、瞬間的に遠ざかった。ノブはただ、下を向いて黙っていた。
僕は、昨日から疑問に思っていた。なぜ、ノブなのか。なぜ、急にノブが、こんな目に遭ったのか。僕は、大声で叫びたかった。なんでノブなんだ!、と叫んでやりたかった。ドラマのような話だけど、僕はそうしたい。けれど、僕には出来ない。臆病で、卑怯な僕には何も出来ない。
ノブは、ゴミを投げつけられている。ノブの背中には、「ゴミ箱」と書かれた紙が貼り付けられている。何で、取らないんだ。その紙を、何で取らないんだ、ノブ。身勝手ながら、僕はそう思っていた。
男子生徒はニヤニヤ笑いながら、鼻水がついたティッシュをノブに投げる。僕には見えた。ノブが、唇をかみ締めているのを。きっと、悔しいはずだ。悔しくて、意味が分からないはずだ。なぜ、自分なのか。自分がこんな目に遭う理由を、ノブは知りたかったはずだ。
チャイムが鳴ると、ノブの背中に貼り付けられた紙は、あっという間に剥がされた。後始末だ。イジメが、教師の目に触れないようにする後始末だ。イジメがばれるかもしれないというスリルが、彼らにとっては快感なのだろう。
十分休みの間、僕は、弘田としゃべっていた。ノブとしゃべれないから、僕は別の人としゃべっていた。
「ずっと、気になってたんだけど・・・」
僕は、語尾を濁らせた。先に出るはずの言葉が、喉の痙攣に押し潰される。僕は、少し咳き込んだ。
「何だよ。」
弘田は、気づいてくれただろうか。僕が言いたい事を、気づいてくれただろうか。そんな訳ないか・・・。
「だから・・・なんで・・・」
僕は、やはり勇気が持てない。たった一言、尋ねるだけなのに、僕には出来ない。僕は、自分に反吐を吐いてやりたかった。畜生、何度も心で呟いた。
「何だよ、はっきり言えよ。」
弘田は、イライラしたように言った。僕は、更に言い出しにくなった。けど、僕は言った。勇気を振り絞るなんて、クサイこと言うけど、僕にはピッタリの言葉だ。
「弘田、何で、ノブをいじめるんだ?。」
弘田の眉が、ピクリと動いた。僕はきっと、聞いてはいけないことを聞いたはずだ。弘田の顔が、険しく変化する。僕は一瞬、恐怖のようなものを感じた。
「お前、知らないのか。」
「ああ。」
「白石をいじめるか、それ自体間違ってるな。これは罰だよ。白石に対する罰だ。」
「はあ?。罰?。」
僕と弘田は、ノブのほうへ目を向けた。ノブは、数人の生徒に囲まれていた。よく見ると、ノブは足を踏まれていた。踏みにじられていた。ノブの表情は、苦痛へと変わる。
「そうだ、罰。前、話したよな、自殺した三浦のこと。」
「うん。」
「三浦はいじめられていた。そのイジメの犯人が、白石の兄ちゃんなんだよ。」
「え・・・」
僕は、声が出なかった。衝撃で、喉が圧迫されていた。僕の驚いた顔を面白がるように、弘田は薄ら笑いを浮かべていた。
「白石の兄ちゃんは、殺人犯って言っても過言じゃない。三浦が自殺した原因なんて、自分が一番知っている。それを知ってて、今も平気な顔で生きてる。これは、白石に対する罰だ。兄ちゃんだろうが関係なしに、罰なんだよ。」
弘田は、僕に言い放った。僕は、こんなに理不尽なことがあっていいのかと思った。理由が、あまりにも滑稽すぎる。僕は、固まった喉を、低く震わせた。
「そんなの、おかしいじゃん。」
「そうだよ、おかしいよ。」
弘田は、平然と言った。僕に勇気があったら、この男を殴っていただろう。僕に、正義感や勇気がもっとあれば、この男の顔を、グチャグチャになるまで殴っていただろう。僕は、そのまま顔を伏せてしまった。弘田は、客観的な言葉を発した。
「そうだ、理由なんて無いんだよ。理由を勝手に作って、自分たちを正当化してるんだ。自分たちは悪くない、そう思いながらいじめたいんだよ。そうだよ、白石は何も悪くない。けど、みんなは退屈してるんだ。厳しい校則、難しい勉強、落ち続ける成績、全てが退屈なんだよ。だから、適当な理由を見つけて、そいつをとことんいじめる。理由なんて、本当に無いんだ。ただ、自分たちの心を興奮させたいんだよ。こいつらは。」
弘田は、クラス中を眺めて、鼻で笑った。クラスで成績が一番の桜田を指差して言った。
「成績優秀の桜田は、白石イジメの幹部。」
ノブをいじめるグループは、イジメサークルという名を手にしていた。リーダー、幹部、下っ端と構成されている。リーダーは、この前ノブをコテンパにした山木。他にも何名かいるが、僕は知らない。
「イジメサークルの幹部だってよ。桜田も悪いよなあ。」
弘田は、嘲るかのように笑った。今でも、ノブはいじめられている。制服を箒で掃かれていた。頭にも、その箒は伸びていく。僕の目は、反射的に反れていた。弘田は、ずっと笑っていた。僕は、背筋に悪寒を感じた。
イジメサークルは、放課後になってもノブを帰さなかった。掃除中は、雑巾で顔を拭われる。ノブが帰ろうとすると、五人がかりでノブを止めた。トイレに連れて行き、給食のマーガリンを大量に食べさせる。無理やりだ。
暴力的な面では、山木を中心に行われた。爪切りを持ち出し、ノブの爪を切る。深く、深く、肉の部分に達すると止める。蹴る殴るは日常的で、モップで殴りかかることもある。ある日、ノブは血を流していた。
全て、教師が見ていないところでだ。担任の原田先生でさえ気づかない完璧さ。それには圧倒させられる。証拠など決して残さない。何も無かったかのように、自然に振舞っていた。僕も、きっとそう。自然だったはずだ。自然でなくてはならなかった。
キリでさえも、この事態を知らなかった。知ったらたぶん、僕を責めるだろう。だってそうだし。僕は、案外、一番悪いかもしれない。たぶん、きっと。だから僕は、キリには言い出せなかったんだ。
一ヶ月経った。
次第に、みんなの顔つきは変わっていった。僕と弘田を除いては。一ヶ月経っても、ノブへのイジメは、激化する一方だった。僕は内心、一ヶ月も経てば、みんなが飽きてイジメを止めるかもしれないと期待していた。きっと、ノブもそう思っていたはずだ。けれどそれは、甘すぎる考えだった。
弘田は相変わらず、澄ました顔でイジメを見て笑っている。こいつらおもしれえ、と独り言のように呟く。弘田も変わったかもしれない。もっと明るかったのに、今では全然違う。人間の全てを見通したような、冷めた顔をしている。彼も、イジメの被害者だ。性格が変わってしまった。
僕は、ゲームセンターへ行った日以来、ノブとは一言もしゃべらない。言い訳みたいだけど、しゃべれないんだ。キリとも、変な空気が流れていた。ノブのイジメは、僕らの私生活を、着実に蝕んでいた。
ノブがいじめられて、学んだことが一つだけある。イジメで、助けてくれる人なんていない。見ているサイドで、イジメが悪いと思っている人なんて、きっといない。みんな、このゲームを楽しんでいるんだ。とめようと思ったんだけど・・・なんてのは嘘。ただの言い訳。それで、罪が軽くなるとでも勘違いしてる。僕も、いじめられてる相手がノブじゃなかったら、楽しんでたと思う。だから、イジメサークルの奴らが、嬉しそうに笑いながらノブをいじめるの、すっごく分かる。しょうがない。楽しいものは楽しいんだから。
イジメに理由が無いのと同じで、助ける理由も無いんだ。99.9パーセントの人間は、いじめられてる人を助けるなんてことはしない。とめたら、今度は自分がいじめられるから・・・なんてのも嘘。本当は楽しいくせに、と僕は思う。
ニュースや討論番組の解説が、偉そうなこと言ってるけど、あれもほとんど嘘だ。だって、いじめられてる人間の気持ちや、いじめてる人間の気持ちなんて、本人しか分からない。よくも、あそこまでデタラメなことが言えるなって、僕は鼻で笑った。
最近のイジメによる自殺は、もうパターン化してる。イジメ=自殺に結びついてる。あと、イジメられる=暗い奴ってのも。イジメに、イコールもクソもないって。ただ、その場での勝負だ。負けたら、完全に自体は悪化する。イジメでも、起死回生ぐらいできるのに。可能性が少なくても、たぶんできるよ。ノブにも言ってやりたい。
僕は、案外冷静で、この一ヶ月を過ごせた。あんなに苦しんでたのが、嘘みたいだった。まるで、ノブと過ごした日々なんて、無かったかのように。
そんな僕の考えは、ある電話によってぶち壊された。キリからの電話であった。
「あたしよ、キリ。」
キリの、怒りが帯びた声が伝わってきた。僕は、一瞬たじろいだが、平静を装った。
「何だよ。何怒ってんだよ。」
僕は、おどけた声を出した。本当は、恐怖で引き攣っていただろう。ノブのイジメが、キリにばれたかもしれない。僕は、不安で心が揺れた。
「知ってるのよ。」
「何が?。」
僕は、知らない振りをする。僕の言動は、キリの怒りの炎に油を注いだ。
「ノブは、三組のみんなにいじめられてるんでしょ。」
僕の予想は的中した。この後の展開など、僕には考える余裕が無かった。受話器を持ちながら、天井を見つめた。キリの怒鳴り声が、右耳から左耳へと通過する。やがて、声は空気と一体になる。
「ライ、止めもしなかったんでしょ。最低よ、信じられない。」
弁解する気などなかったけど、口が勝手に動いていた。
「何で知ってんだよ。ノブが告げ口したのか?。」
最低だ。自分でもそう思った。俺は、最低の人間だ。人間のクズだ。
「何よ、その言い方。放課後、ノブがいじめられてるとこを見たの。一緒に帰ろうって思ってたら、そんなとこ見ちゃったのよ!。」
キリは叫んでいた。僕に対する怒りで、息を切らしていた。
「何が、ノブが告げ口したのか、よ。ノブはね、一人で帰るって言ってた。あんたより、よっぽど強いじゃない。ライなんか、ビビッてるんでしょ。クラスの連中の言う事。親友のノブを、こんなに簡単に裏切るんだ。見損なったわよ。」
キリは、予想通り僕を責めた。しょうがない。僕は、責められても仕方ないんだ。そう思いながらも、僕の感情は高ぶった。
「俺だけが悪いのかよ。」
小声で言うと、キリは「はあ?」と聞き返した。
「悪くないとでも言いたいの?。ノブが、どれだけ辛かったか知ってるの?。あんたなんか卑怯じゃない。ノブがいじめられてから、ノブと一言も口聞いてないんでしょ。最低じゃない。何で、みんなにやめろって言えないの?。先生に言うくらいできるでしょ。ただの弱虫じゃない。失望したわよ。」
僕の頭にある一本の線が切れた。ぷつんと、その音は聞こえた。堪忍袋の緒が切れた、とでも言おうか。逆ギレなんだけど。
「俺が全部悪いのかよっ!。」
僕は、怒鳴りつけていた。けれど、僕の心は治まらない。柱にもたれて、目をギラギラと光らせた。キリの、呆気に取られた顔が頭を過ぎる。
「怖いんだよ、嫌なんだよ!。俺だって、苦しいんだよ。」
「そんなの、言い訳じゃん。」
キリの震えた声だった。僕は、激しく波打つ感情を、声の限りに叫んだ。
「お前だったら、イジメをやめろって言えるか?。」
「言えるわよ。」
「嘘つくなよ。絶対、誰にも出来ないんだよ。」
「いい訳だよ、そんなの。」
「できねえんだよ!。お前こそ、口ばっかじゃねえか。俺の立場なんて、分かってねえんだよ。だから、そんなこと簡単に言えんだよ!。」
僕は、力いっぱいに受話器を叩き付けた。ツーツーと、微かに、その音は聞こえた。僕は、本当に最低だ。今、ノブと違うクラスのほうが良かったと思ってる。僕なんて、ただの自己チューだ。最低だ最低だ最低だ。
次の日、僕は学校を休んだ。何で、僕が休んだんだろう。自分の弱さに、吐き気がした。ノブは、学校に行っているだろうか。僕は、休んでる。おかしな話だと思う。キリに言われたことで、僕の罪の意識が蘇った。ノブを見捨てた残酷さを思い出した。
心が、壊れそうになった。
その次の日、僕は学校へ行った。行かなければならなかった。僕が逃げてはいけない。ノブも、逃げずに頑張っているのに。僕は、小さな勇気を振り絞った。
大須賀橋は、未来中学校を照らし出した。目が眩むような緑の光に、僕は足を止めた。この前まで桜だったのに、今では緑に生い茂った木々に変わっている。僕はなんだか寂しくて、橋の上で立ち竦んでしまった。
数分経っても、僕は立ち竦んだままだった。
「また、逃げるのか。」
僕の心が、そう呟いた。僕は遂に、後ろへ振り返ってしまった。未来中学校に、背中を向けてしまった。それは、敵に背中を見せたと同じ意味だ。
僕は、そのまま歩き出した。校舎が、どんどん離れていく。
そのとき、僕の目は、ある光景を目にした。足が、凍りついた。ノブが、顔を下に向けながらでも、大須賀橋を渡っていた。着実に、学校へと足を伸ばしていた。
ノブは、僕に気づいただろうか。気づいたとしても、あの頃のように、僕には声をかけないだろう。そう思うと、僕は孤独になったことに気づいた。いじめられてはしない。けれど、それは孤独だった。ノブと同じくらい、僕も孤独だった。
ノブは、ゆっくり歩いていた。下を向きながらでも、一歩一歩、歩いていた。僕は、流されるように、学校へと向きなおした。ノブと同じように、学校へと走り出した。なぜか、足が軽かった。
あっという間に、ノブを追い越してしまった。ノブは相変わらず、下を向いて歩いていた。
「おはよう、ノブ。」
僕は、ノブに振り返って、大きな声で言った。罪が許される訳ではない。ただの挨拶だ。ノブは、信じられないものを見るような目つきで、僕を凝視していた。ノブの顔が、前へ持ち上がった。それだけで、嬉しかった。
「おはよう、ノブ。」
僕はもう一度言った。ノブが返事をするまで、何度も言うつもりだ。やっぱり、僕には、ノブに挨拶をすることしか出来ない。いじめられてるノブを助けることも、僕には出来ない。僕は、本当に卑怯で、弱い人間なんだから。だから、挨拶ぐらいしか出来ないよ。
「おはよう、ノブ。」
涙で、声が湿っていた。自分でも分かる。涙が、頬を伝った。ポロポロと、僕の頬をびしょびしょにした。何で泣いてんだ、と思っても、涙は止まらなかった。止まれよ、涙。心の中で、そう叫んだ。大きな粒の涙は、地面へと滴り落ちた。
「クソっ・・・」
小さな叫びだった。僕に対する、大きくて小さな叫びだった。ノブは、呆気に取られたように、僕を見つめていた。
学校のチャイムの音が、僕の耳に絡まった。遅刻しちゃったな、と思いながら、僕は涙を拭った。
「おはよう、ライ。」
僕は、確かに聞いた。その声を確かに聞いたんだ。チャイムの音で、聞こえないくらい小さな声だったけど、その声は、確かにノブの声だったんだ。優しくて、ノブは笑顔だった。僕は、ノブに懺悔しなければならない。
「ノブ、本当にごめん。」
しゃくりを上げながら、僕はそう言った。ノブの耳に、僕の声は届いてくれただろうか。僕は、このとき、確かに勇気を持っていた。
「俺、本当に情けなくて、ノブのこと助けられなかった。怖かったんだ、ノブを助けることが。今でも、ノブとしゃべってることが怖い。」
ノブの目は、狐のようにつり上がっていた。きっと、ノブは僕のことを許さないだろう。許してもらおうなんて図々しいこと、僕も思ってない。顔に、唾をかけられても仕方ない。
ノブはそのまま、何も無かったかのように、学校へと歩き去っていた。僕は、大きく溜め息をついて、その場にしゃがみ込んでしまった。バカだ、俺。
僕は、教室に入った。遅刻したから、生徒手帳にスタンプを押された。僕は、自分の席に着く。ノブをチラッと見たが、暗い表情で下を向いている。
一時間目は、道徳の時間だった。道徳の授業では、人権問題を主旨としている。今日は、イジメについての授業だった。
教壇に原田先生が着いて、黒板に「イジメについて」と、達筆な文字で書き上げた。書き終えると、僕らの方へ向き直った。
「人権学習で、イジメをテーマに、みんなで考えていきましょうか。」
大きな声だが、僕には届かない。まさか一ヶ月の間に、自分のクラスでイジメが始まってるなど、この教師は考えもしないだろう。だから、こんな言い方が出来るんだ。本当に、幸せなんだか愚かなんだか。僕は、この教師に失望した感情を抱いていた。
「この中で、いじめられていた人とかいますか?。」
原田先生は、僕らに質問をぶつけた。教室がざわざわし始める。笑い声も聞こえる。ノブや原田先生を、嘲笑しているようだった。ノブは、そんな中、ジッと前を見ていた。いつも下を向いてるのに、今は前を見ていた。しっかりと、前だけを見つめていた。
ノブの前にいる草木が、ノブに振り返った。ニヤニヤしながら、ノブを眺めた。定規を取り出して、ノブの額を突く。次は、ボールペンに変わる。僕は、目を背けたくなった。原田先生は、そんなことにも気づかずに、黒板に何かを書き出した。
ノブは、痛そうな顔をしていた。そして、コンパスへと、凶器は変わった。コンパスの針が、ノブの額にチクチクと突き刺さる。ノブは、必死に耐えていた。目をつむりながらでも、草木の攻撃を耐えていた。決して、声など出さなかった。
十分休みのとき、ノブは、数人の生徒に囲まれていた。イジメサークルの山木、成績優秀の桜田、草木、土川、篠倉が、ノブの周りを囲んでいた。
ノブは、ゆっくりと顔を上げた。その目には、覇気が感じられない。僕は、キリにあんなに言われても、何も出来なかったんだ。
「この中で、いじめられていた人とかいますかあ?。」
草木が、原田先生の口調を真似て言った。イジメサークルの五人が、ニヤニヤと笑い出す。こいつ、最低だ、
「はーい、白石君が、クラス全員から嫌われて、独りぼっちでーす。」
桜田が、ノブの顔色を窺いながら言った。こいつも最低だ。
「それは仕方ないでしょう。白石君は、嫌われるために生きてきたんだから。」
篠倉が、原田先生の口調を真似た。こいつも最低だ。
「それに加えてクサイしー。」
土川の、甲高い声が響く。こいつも、最低だ。
「それも仕方ないでしょう。白石君は、生れ落ちたときから、臭かったんだから。」
山木が、原田先生の口調で言う。イジメサークルの五人が、ドッと笑い出す。周りの生徒も、クスクスと笑い出す。こいつら、最低だ。
ノブは、猫のように背中を丸くしていた。下を向いて、暗い表情をしていた。ノブの丸まった背中に、山木がチョップを食らわした。ノブは、跳ね返るように机に倒れた。苦痛で、顔が歪んでいた。
「良いところなんて、白石にはないよな。」
山木が、笑いながら言う。椅子を蹴って、ノブを立ち上がらせた。五人がかりでノブの腕を掴み、立ち上がらせた。五人の顔は、人間の顔ではなかった。腹を空かしている、ハイエナの様な顔をしていた。
「死んでも、泣く人なんていないかもな。」
五人のうちの誰かが言った。周りの人間も、ノブに興味を示し始めた。囃し立てるように、ノブの周りを囲んでいた。まるで野次馬だ。
桜田が、ノブの髪を掴んで、顔を前に向かせた。ノブのほっぺたをつねった。つねって、ねじった。ノブは、痛みをこらえていた。顔を見れば分かる。
「死ねよ。」
桜田が、小声で囁いた。
「死ね。」
桜田の声には、狂気が含まれていた。それにつられるように、周りの野次馬が、死ねと言い始めた。死ね、死ね、死ね、リズムよく、その声は教室を包んだ。誰かが、手拍子を始めた。死ね、死ね、死ね、まるで、何かの宗教のようだった。みんな、マインドコントロールされた信者。
山木が、ノブの足を蹴りつけた。何度も、何度も、ノブの反応を確かめるように、ノブを蹴りつけた。ノブは、苦しそうな表情で、それを耐えている。
ふいに、誰かが、ノブの背中を押した。ノブは、床に倒れこんだ。小さな呻き声を上げて、床に倒れた。苦しそうだった。山木が、そんなノブの顔を踏みつける。ノブの顔を、踏みにじった。ノブが、声を上げた。
「痛い。」
みんなが、ドッと笑った。なにがおかしいんだ、お前たち。僕には、なにがおかしいのか分からなかった。なんで、笑えるんだ。おかしいだろ。
「痛いか?。もっと、痛くしてやるよ。」
山木は、ノブの腹を蹴った。ノブは、小さく悲鳴を上げた。大きく上げれば、みんなが面白がる。ノブも、そのことが分かっていた。
山木が、更に蹴った。山木が蹴ると、クラスの連中は喜びだす。奇妙な奇声を発して、喜びを露にする。こいつら、人間じゃない。餌を前にして喜ぶハイエナだ。
ノブは、その場で倒れてままだった。小さな咳をしながら、腹を押さえて、苦しそうに顔を歪めていた。
「もうおしまいかよ。つまんねえ奴。」
桜田が、ノブの顔に唾を吐いた。粘ついて、糸を引いた唾だった。「っははははは」と、桜田は笑った。それが合図のように、男子生徒が次々とノブの顔に唾を吐いた。ノブの顔はドロドロして、唾まみれだった。女子は、「やだあ」とか言いながら、クスクスと笑っていた。
最後の極めつけに、山木がノブの顔を踏みにじった。ノブの顔は糸を引き、苦しみを露にしていた。
そのとき、僕は気づいた。ずっと、そこにいたんだ。きっと、最初から。最初から全部、僕らの悪行を見ていた。
廊下の窓から覗いていた・・・キリがそこにいた。ノブを見つめながら、愕然と立ち竦んでいた。唇を、怒りでわなわなさせて、僕の方を見つめた。僕とキリの目が合った。キリの目は、僕を激しい恐相で睨みつけていた。キリの白目が、僕の恐怖を煽り立てる。昔の怪談話に出てきそうな幽霊、のような目で、僕を睨みつけていた。
僕は、怯えた目で、キリの視線を返した。
キリのあの視線、僕は一生、忘れることが出来ないだろう。
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