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教室の窓
作:オネイロス



最終回 奈落の底


 キリの母親が帰った後、母はずっと、キリの母親が持って来た書類を読んでいた。イジメ裁判についての、詳しい内容が書かれていたのだ。
「こんなことをして、一体何になるのかしら・・・」
 母は、目を書類に向けて呟いた。おばさんは、ノブを見るような目付きで僕を見ていた。僕は、キリの母親に言われた事を思い出した。いつまで逃げる気なの・・・確かに、僕は逃げていた。母も、同じように逃げているのだろうか。裁判をすることが、戦うということなのだろうか。
「・・・母さん。」
 母が、書類から目を外して、僕を見た。僕もしっかりと、母の目を見つめた。逃げずに、しっかりと。
「どうしたの、ライ。」
「俺は・・・裁判をやってもいいと思う。裁判をして、あの学校にある本当の事をみんなに知ってもらいたい。いじめられたときの屈辱を、晴らしたい。」
「本気で、言ってるの?。」
「逃げたくないんだ。これからすっと、イジメに怯えて、縮こまって生きていくなんて、絶対嫌だ。俺・・・心が壊れちゃったんだよ。精神障害とかいうけど、要するに心の病気なんでしょ?。俺、まだ中学生なんだよ。何かに怯えながら生きていくなんて、惨めすぎる。」
 すると、おばさんが僕に近づいてきた。持っていた手提げカバンの中から、小さな白い封筒を取り出した。僕に差し出して「これ、読んでみて」と言った。
 封筒を開くと、中には白い紙が入っていた。見てみると、震えた字で「死んでごめんなさい」と書かれていた。
「これ、もしかして・・・」
「そうよ。信貴の遺書なの、これは。でもね、法律の世界じゃ、ただの紙切れにしか過ぎないのよ。イジメがあったっていう具体的な事実が一切書いていない。弁護士に、法廷じゃ無意味なものでしかないって言われた。私もね、信貴が死んだ後、弁護士に依頼したのよ。」
「でも、無意味だったんですか。」
 おばさんは、悲しげに頷いた。虚空を見つめるように、ノブの背中を見つめるように、僕を見つめた。
「何だか、信貴の生き方そのものが否定されたみたいで、悔しかった。でもね、無意味だって言われても、何も言い返せなかったの。確かに、無意味かもしれないなって、納得しちゃった。だって、この紙切れには、信貴の生きていた証なんて何も残ってないの。辛かった痕跡しか、残ってないのよ。確かに無意味なものだって、言われるわよ。」
 おばさんは、手に持っていた封筒をギュッと握った。
「死んでもね、世界なんて変わらないのよ。」
 僕に言い聞かせるように、自分に言い聞かせるような口調だった。僕だって、そう思う。
「死んでも、学校はイジメを認めない。当たり前のことだけど、放っておくことなんてできないの。だって、自分の息子が死んだのよ。私は、絶対に裁判をしたい。だから、ライくんにも手伝ってほしいの。あなたしか、できないことなの。」
 母が、おばさんのほうに振り向いた。
「ライに、そんな辛いことをさせられないわ。ライを、ややこしいことに巻き込まないでちょうだい。」
「お母さんが逃げて、子どもはどうなるのよ。一緒に逃げろって言うの?。あなたはただ、学校を敵にするのが怖いんじゃないの?。」
「他人事だと思って、勝手なこと言わないでよ。学校を相手に、どうしようもないじゃない。」
 母は、また泣き出した。僕と同じように、よく泣いている。僕は、母親に似ているのかもしれない。僕のように、母も弱かった。
「・・・母さん。」
 僕は、ささくれだった喉で声を出した。僕も、泣きそうな顔だった。
「俺は、大丈夫だから。母さんに迷惑かけるかもしれないけど、俺は、自分のために戦いたいんだ。それが裁判っていう、強引な方法でも、俺は戦いたい。逃げてばかりじゃ、ダメなんだよ。」
 母は、驚いたように僕を見上げた。こんな僕は、自分でも不思議だった。こんな強気な事を言えるなんて、ちょっと驚きだ。自分は変わったかもしれない、なんて思っていた。

 次の日、僕と母は、キリの母親と一緒に法律事務所に出向いた。昨日の夜、母は起訴について賛成してくれた。ライがしたいなら、すればいいと、優しく言って賛成したのだ。
 その法律事務所は、独立した弁護士が三人いる事務所だった。ビルの三階に、颯爽とした姿で事務所があった。
 エレベーターに表示された「3」の数字を見ると、妙な緊張が胸を支配した。僕はこれから、学校と対立する立場になる。きっと僕は、今まで以上に孤立するだろう。当たり前のことで、みんなが僕を差別するだろう。もしかしたら、転校しないといけないかもしれない。そんな事を考えると、お先真っ暗だなあと思う。そうだ、僕の先なんて真っ暗だ。
 キリの母親の誘導で、法律事務所の前まで来た。ノックをして、扉を開いた。すると、すぐに受付の女の人が、僕たちを招き入れてくれた。
「お待ちしていました。電話を下さった、平谷様でございますよね?。」
「はい、そうです。」と、母が言った。
「それでは、こちらへどうぞ。」
 受付の女の人は、大きなソファが二つある個室へと、僕たちを誘導した。
「しばらくお待ちください。」
 受付の人は出て行き、個室には僕たち三人だけになった。妙に静まり返った空間が、落ち着かなかった。
「心配しなくていいのよ、ライくんは。大丈夫だからね。」
 キリの母親は、僕にそう言った。今気づいたけど、僕は小刻みに震えていた。そりゃあ、心配してるように見えるはずだ。
 すると、個室の扉が開いた。受付の人と、年をとった女の人が個室に入ってきた。受付の人は速やかに個室を出て、もう一人の女の人が、向いにあるソファへ座った。
「はじめまして。弁護士の、並木さわと申します。」
並木さんは、小さく頭を下げて名刺を差し出した。
「事情は聞いておりますが、法律的な関与となりますと、細かいことも聞いておかなければなりません。具体的にどういじめられたか、そのときどう思ったか、裁判となると証言台で辛い事を話さないといけません。中学二年生のあなたに、それができますか?。それが出来なければ、裁判はやらないほうがいいと思います。」
 僕に言っているのだと、言われて分かった。並木さんが、僕に向かって敬語だったのでびっくりした。
「僕は、大丈夫です。昨日、さんざん考えて、出した答えです。僕は、自分の足で立ち上がりたいんです。」
 僕の言葉を聞いて、並木さんは小さく頷いた。並木さんは、手元にある資料を、僕に手渡した。
「イジメ裁判は、民事裁判という形で行います。まず、原告である平谷さんが、被告となる加害者の親、教師、学校長に内容証明を送りましょう。内容証明というのは、簡単に言えば警告のようなものです。平谷さんの要求である、イジメの事実を公表する、損害賠償請求に応じる、謝罪、この三つを受け入れないとすると、法律的な手段で解決をする・・・というような文章を送りつけるんです。要するに、和解を前提とした解決法の一つです。」
 並木さんの分かりやすい説明で、僕にも少しは理解できた。
「それでも、和解に応じるのはごく僅かです。和解を応じなかった場合は、そのまま起訴に持ち込みます。ここから、イジメ裁判が始まります。争点は、イジメの存在そのものになると思います。イジメにもいろいろありますよね。無視や、暴力や、落書き。このどれもが、法廷上では有力な証拠にはならない場合が多いんです。後は、具体的な尋問がほとんどです。そのどれもが、辛い質問だと思われます。」
「証拠が有力じゃないって事は、どううまく裁判官を納得させるかが勝負なんですか?。」
 母が、心配そうに尋ねた。並木さんは、小さく頷いた。
「そうですね。しかし、証人になってくれる生徒がいれば、勝利には近づけます。」
 証人。そんな人、あのクラスにはいない。そうだ、誰もが加害者だった。そして、誰もが被害者だった。僕たちは、やられたり、やり返したりを続けていただけだった。
「具体的に、内容証明を送る人物を決めておきましょう。」
 並木さんはペンとメモ帳を取り出して、食入るように僕を見つめた。僕をいじめた人・・・やっぱり、思いつくのは変わらなかった。
「僕をいじめた人は、クラスのみんなです。」
 並木さんの眉が、ピクッと動いた。僕の言葉を予想していたのだろうか、何も言い返してこなかった。言い返してきたのは、僕の母だった。
「みんなにいじめられたって言うの?・・・信じられないわ。」
 母のヒステリックな声が、僕の耳に響いた。
「イジメとは、そういうものです。みんなでいじめないと、イジメなんて成立しません。」
「でも、全員を訴えるなんて不可能ですよね。」
 僕は、自分の言っていることの幼稚さに、恥ずかしさを感じた。クラス全員を訴えるなんて、小学生でも考えないことだ。
「確かにそうです。だから、訴えるのは特定の人間になります。ひどい暴行を受けたとか、集中的にいじめていた人物に限ることになります。」
 僕が名前を挙げたのは、桜田、山木、土川、そして・・・ハヤトだ。僕は、親友だった人間を訴えることになる。そう考えると、自分が残酷な人間に思えて仕方なかった。
「この四人でいいですか?。」
 僕の決意は、固まっているようで固まっていなかった。ハヤトを訴えることは、とても辛いことだった。考えるだけで、ゾッとする。
「この四人でいいですか?。」
 並木さんの声が、念を押すように僕の耳に響く。
 僕は、本当に小さく頷いた。並木さんはそれを見て、そっと口を開いた。
「分かりました。それでは、今週中に内容証明を送っておきます。いじめていた生徒の保護者、学校長、教師が相手となります。この未来中学は、今月に自殺した生徒がいます。おそらく、イジメが原因だと私は思います。今回の提訴は、その事件についても大きく関わってくる内容だと思います。」
「・・・僕は、自殺した生徒と友達でした。」
 震えた声が、更に震えを増した。並木さんは、怪訝な目付きで僕を見た。
「僕は、イジメを観ていました。自分に関係ないからって、イジメを観ていました。」
「それで?。あなたは、どうしたんですか?。」
「何もしませんでした。」
 体中が、小刻みに震え始めた。血の気が失せた僕の顔を、母は辛い表情で見つめていた。すっかり冷たい僕の手を、並木さんはそっと握ってくれた。
「僕が、一番の加害者だったんです。僕が、友達を殺したんです。僕が・・・僕が・・・」
 取り乱している僕を、並木さんが落ち着かせた。
「分かった、分かったから、もう何も言わないでいいから、落ち着いて。」
 僕は、大きく息を吸い込んで、大きく息を吐いた。気がつかないうちに、枯れ果てた瞳から涙が溢れていた。
 冬の冷たい風が、何度も窓をノックした。外は寒そうだなあ、と何度も心で呟いた。
「・・・自殺した友達は、僕よりもいっぱいいじめられてた。一学期の最初から、ずっと、いじめられてた・・・担任の教師と、体育教師からもいじめられていたんです。」
 僕の言葉に、並木さんが大きく反応した。目付きが変わった、ような気がする。でも、確かに僕の手を握る強さは、強くなっていた。
 この場にいた人間全員が、大きく驚いた表情を見せた。
「それは、どういうことなの?。教師も、イジメに加担していたってこと?。」
 僕は、力なく頷いた。
「あなたは、教師にいじめられたことはある?。」
 僕は首を振った。並木さんは、大きく息をついた。震えている僕の手を、更にしっかりと握った。
「その教師二人にも、内容証明を送っておきます。正直、驚きです。」
 並木さんは、苦笑混じりに言った。やっぱり、おかしいのだ。
「この事件は、根が深いです。善悪を、一方的に決めることが出来ない。これほど、厄介な裁判はありません。大人に、全ての責任があるのではないのでしょうか。平谷さん、お子さんの異変に、何も気づかなかったんですか?。」
「・・・はい。私は、子どもの事を気にも留めませんでした。毎日の膨大な家事の量。頭が、いっぱいいっぱいでした。」
「子どもを守ることが出来るのは、大人しかいないんですよね。」
 キリの母親が、窓を見つめて言った。キリの事を思い出していたんだろう。
「その大人が最低で、子どもが育つはず無いんです。大人が、子どもを教育しないといけないんです。平谷さんも、そうならないといけないんです。」
 並木さんは、虚空を見つめるように、僕と母を見並べた。
 僕たちのいる世界に、大人はいなかった。

 冬休みが終わり、学校に行くときが訪れた。僕が訴える学校に、僕は行く。変だなあ、とはもう思わない。変だと思うと、きりが無いからだ。
 冬休みに、母と相談した。裁判が始まったら、学校を転校することに決めたのだ。当たり前か、と心の中で笑っていた。あんな学校に、未練など無い。でも、僕はあの学校で、見なければならない人間の闇を見た。そんなことを、あの学校は教えてくれた。

 久しぶりに着る制服は、少しきつくなっていた。通学バッグを背負って、玄関に出た。
「行ってきます。」
 返事は無かった。でも僕は、気にせずに外の世界へと一歩を踏み出した。
 この通学路を歩くのも、あと少しなんだなあ、としみじみ思う。
 学校の前の、大須賀橋まで辿り着いた。下を覗き込むと、吸い込まれそうなほど高く見えた。すっかり痩せ細った木々も、弱々しい流れの川も、春のときの光景とは大違いだ。まるで、僕のようだった。世界が、変わったんだと思った。それとも、気づかなかっただけなのか。最初から、汚い世界だったのだろうか。それだったら、お笑いだ。
 校門の前に立っている教師は、腕時計を見て「早く、急げ」と心のこもっていないセリフを連呼していた。
 その中に、体育教師の岡谷の姿を見つけた。岡谷は、僕の姿に気づくと、石になったように固まった。僕は、そっと岡谷の横を通り抜けた。
「ちょっと待て、平谷。」
 今度は、僕が石のように固まった。歩み寄る岡谷の足音が、僕の耳の中ではじける。
「なんですか?。」
 干からびた声で言った。岡谷の目は、じりじりと僕だけを一点に見つめていた。僕は、蛇に睨まれた蛙のごとく、微動だに出来なかった。
「話がある、ちょっと来い。」
 岡谷は、僕の腕を掴み、体育館裏へと連れて行った。掴む力はやけに強くて、じんわりとした痛みが腕に伝わった。
「コレはどういうことだ。」
 岡谷は、ジャージのポケットから、内容証明の入った封筒を見せ付けた。
「辞表の提出、損害賠償二百万円を要求する、謝罪。どういうことだ・・・早く言えよ。法的な処置をするって、一体どういうことなんだ、ああ?。」
「・・・先生が、白石信貴をいじめていたことです。」と、僕は小さい小さい声で言った、
「ハハ、いじめていたか。」
 岡谷は、僕に一歩近づいた。僕は一歩後ずさり、フェンスに体をゆだねた。
「あれは教育だ。誰なんだ、そんなでたらめを言ったのは・・・お前だよな。俺を訴えたのは、紛れもないお前なんだよな・・・」
 岡谷の目は血走っていた。血管が浮き出た顔を、奮い立たせた。
「俺をこの学校から追い出したいのか。金もほしいのか。謝ってほしいのか。笑わせるなよ・・・」
 岡谷は、完全に狂っていた。目をギョロギョロと動かして、僕を舐め回すように見つめた。
「お前は、俺のことがそんなに憎いのか。俺が、お前に何かしたか?。」
 岡谷は勢いづけたまま、僕の胸倉を掴み上げた。
「俺は悪くないんだ。悪いのは、全部生徒だ。俺の言う事を聞かない、生徒たちだ。そんな生徒を殴って、何が悪いんだ。俺は、法に障ることなんて、何もやっていない。」
 岡谷は、僕の胸倉を掴んだ手を放した。
「こんな事にしやがって・・・覚えとけよ。」
 岡谷は、足早に去っていった。僕は呆然と、これが憎しみなんだ、と実感していた。僕は、人から憎まれるような事をしているのだ。大人だろうと、子どもだろうと、関係ない。そんな理屈だ。

 教室に入るなり、生徒全員から白い目で見られた。コソコソ話が、至る所から聞こえる。
「おい、平谷。」
 僕を呼んだのは、ハヤトだった。ハヤトの後ろに、桜田と、山木と、土川がいた。ものすごい形相で、僕を睨んでいた。僕は立ち竦んだまま、ハヤトのを方に振り向いた。
「学校を訴えるって、本当のことか?。裁判所からこんな物が来たんだよ。」
 ハヤトが手に持っていたのは、岡谷が持っていた内容証明と一緒のものだった。
 殺意に満ちた視線で、僕を縛り付けた。
「内容証明って言うんだよな。脅迫みたいなことしやがって・・・」
 ハヤトが、一歩ずつ歩み寄る。僕の目の前まで来たハヤトは、近くにいる男子生徒に目で指示をした。僕を囲え、という意味だとは知っていた。
 しかし、その男子生徒は何も反応しなかった。ハヤトの指示を無視して、後ろの席の生徒と喋り出したのだ。
 ハヤトは、舌打ちをしながら別の生徒に指示を出した。しかし、その生徒も同じように何の反応も見せなかった。ハヤトの指示を、完全に無視していた。
 追い詰められたハヤトは、後ろにいる三人に言った。
「おい、やっちまおうぜ。」
 しかし、三人とも反応を見せなかった。ハヤトは憤慨して、声を荒げた。
「お前ら、裏切る気か?。言っとくけどな、ここにいる全員、共犯者なんだよ。平谷もそうだよ。白石信貴を殺したのは、ここにいる全員だ。」
 ハヤトは、目を四方に動かして言った。
「分かったか。やれよ、お前ら。前みたいに、こいつのことを押さえつけて殴れよ。」
 微かに、ハヤトの表情が歪んだ。そうだ、ハヤトも気づいてるはずだ。もう、とっくに。
 そのとき、桜田が小さく口を開いた。
「俺たち三人は、平谷の要求を呑むことにしたんだ。」
「・・・なんで・・・」
 ハヤトの目は、完全に死んでいた。きっと、目の前にある絶望にようやく気がついたのだろう。
「弁護士を雇うには金が掛かるし、今、損害賠償を払った方が得なんだって。さんざん親に怒られたし、弁護士とか絡んでくるといろいろ怖いしさ。でも、安心しろよ。裁判になっても、俺たちは証言台には立たないから。俺たちも、これからどうなるか、よく分かんないし。学校、辞めることになるかもしれないし。」
「学校、辞めるのか?。転校するってこと?。」
 桜田は、小さく頷いた。僕をチラッと見て、話を戻した。
「そりゃあ、転校することにはなると思うよ。だって、イジメで自殺したんだから、それぐらい当たり前だよ。」
「・・・・・」
「だから、俺たちは、どうすることも出来ないんだ。結局、大人に解決してもらうしかないんだよ。内容証明が送られてきて、自分が間違ってたってことに気づいた。俺は、こんな酷いことやってたんだって気づいた。俺、昔はいじめられてたのにな・・・いつのまにか、いじめる方に変わってた。」
 桜田は、涙ぐんで言った。そんな桜田を、ハヤトは呆然と見つめていた。
「ごめん。白石と、平谷に謝っとく。ごめんなさい。俺は、いじめられるのが怖かった。だから、いじめてたらいじめられなくなるって思ったんだ。だから、ずっと変だったんだ。本当に、ごめん。」
 桜田は、深く頭を下げた。後ろにいる山木と土川も「ごめん」と言って頭を下げた。
 ハヤトが、伏目になって笑った。低く、笑った。
「お前、やっぱ変わってねえよな。」
 桜田に振り向いて、顔に唾を吐きかけた。キャッという女子の悲鳴が響いた。桜田は、ゆっくりと制服の袖で唾を拭った。
「あーあ、つまんねえ奴らだな。こんなモンにビビッちゃってさ・・・」
 その瞬間、教室の空気が変わった。全員の視線が、きつくハヤトに注がれた。ハヤトは、ドキッとして目を見開いた。
「なんだよ、お前ら。」
「おい、なんか聞こえたか?。」
 ある男子生徒が、ハヤトの声を塞いで言った。
 これだ、イジメが変わる瞬間は。
「さあ、幽霊じゃないの?。」
「なんか臭うよな、ここら辺。」
 別の生徒が、ハヤトのいるところを指差した。教室中が、クスクスとした笑い声に包まれた。
 桜田たち三人は、もうイジメを見たくないというように教室を出て行った。
「お前ら、意味わかんねえよ。」
「ハハハ、悪霊がほざいてるよ。」
「死ねよ、ってもう死んでるか。ハハハ。」
 ハヤトは、震えながら教室を飛び出した。
「震えてたよ、アイツ。」
「ざまあみろだぜ。アイツ、変に威張りやがって、前からムカついてたんだよな。」
 聞こえてくる罵声が、怖かった。ハヤトに言っていると分かっていても、怖くてしょうがなかった。
「待てよ、ハヤト。」
 僕は、無意識のうちに教室を飛び出していた。無我夢中で、ハヤトを探していた。なんでだろう、分かんない。ハヤトにいじめられていたのに、ハヤトのことを心配している自分がいた。
 ハヤトは、中庭にいた、登校してくる生徒が、ベンチに座っているハヤトを不審に見つめていた。僕に気づいたハヤトは、真っ赤に腫れた目を見開いた。
「・・・来るな。こっちに来るな!。」
 ハヤトの目は、常軌を逸していた。僕を見つめるその目は、岡谷と同じように殺意が溢れていた。猛獣のように、はあ、はあ、と息を切らしていた。
「お前のせいで、めちゃくちゃだよ。」
 僕は、黙っているしかなかった。僕のせいで、次はハヤトが標的になるのだ。
「お前が全部悪いんじゃねえか!。」
「ハヤト・・・」
 ハヤトの豹変ぶりに、僕は唖然としていた。僕がここまで、追い込んだ。こんなになるまで、追い込んだ。
「絶対、許さない。お前のこと、絶対許さない。」
 ハヤトの目は、血走って、白目を剥き出しにしていた。
「一生恨んでやる。お前のこと、一生恨んでやる。」
 ハヤトは、背を向けて走り出した。僕は、どうすることも出来ずに、ずっと立ち竦んでいた。

 教室に戻ると、整然とした空気が立ち込めていた。もう、チャイムが鳴っていたらしい。僕は、急いで自分の席に座った。
 しばらくすると、原田先生が教室に入ってきた。僕の姿を見るなり、僕から目を放さずに号令を始めた。
「起立。気をつけ。礼。着席。」
 テンポよく進んでいたが、原田先生は、決して僕から目をはなさなかった。

 始業式が終わっても、ハヤトは姿を現さなかった。もしかしたら、もう二度と、僕の目の前に現れないかもしれない。
 そんな事を考えながら、帰りの支度を進めていると、後ろから原田先生に呼びかけられた。
「平谷くん。ちょっと、話があるの。」
 僕は、スッと立ち上がり、原田先生について行った。その光景を見ていた生徒は、コソコソと話をしていた。
 原田先生は、職員室の隣にある相談室で立ち止まった。相談室の鍵を開けて、電気を点けた。原田先生は、相談室の椅子に座り、僕も座るようにと言った。
「これは、どういうことなの?。」
 原田先生は、内容証明の入った封筒を取り出した。今日は、これで三度目だ。
「納得のいく説明をしてくれる?。」
 原田先生は平静を装っているつもりだけど、声は怒りで震え上がっていた。
「学校を訴えるつもりなのね。そんなことして、何になるの?。」
「僕は、このままじゃ嫌なんです。この学校は、イジメが存在するのに、それをいつも隠していた。最低ですよ。」
「イジメがあるなんて公表する学校、どこにも無いわよ。」
 原田先生の声が変わった。僕を見つめる目も、じりじりと力が入っていた。
 そんなとき、相談室の扉が開いた。ノブの母親・・・おばさんが、立ち竦んでいた。
「白石さん・・・」と、原田先生が立ち上がって呟いた。
 おばさんは、小さく頭を下げた。
「葬儀のときは、失礼を致しました。あんな形ではなく、今日はお話があります。」
「どうして、ここが分かったんですか?。」
「職員室に行くと、原田先生は相談室にいると言われました。」
「そうですか・・・どうぞ、お座りください。」
 おばさんは、僕に向かって「こんにちは」と言った。僕も、小さく「こんにちは」と返した。おばさんは、僕の隣に腰を下ろした。
「お話とは、何のことでしょうか。」
「とぼけないでください。私の息子のことに決まっています。」
 おばさんは、すでに怒りを露にしていた。僕は、冷や冷やとそれを見つめていた。
「内容証明を送ってきたのは、あなた達ですか。そうやって、私を陥れるつもりなんですね。」
「陥れるって、あなたはどうなんですか?。ウチの息子を陥れたんじゃないんですか?。」
「そんなでたらめなこと、誰が言ったのよ。私は、真剣に教育に取り組んでいました。」
「まあ、先生も人間ですから、生徒に対して好き嫌いとかあったんじゃないんですか?。」
 僕は、どうすればいいのか分からなかった。二人の言い争いは、聞くのに苦しかった。どっちとも、罪の着せ合いをしているように見えた。
「おばさんも先生も、ズルいよ。」
 僕は、独り言のように呟いた。
「責任転嫁してるみたいに見える。ノブにとったら、みんなが味方じゃなかったんだよ。誰も助けてくれなかったんだよ。」
 言った後、なんでこんな事を言ったのかと後悔した。
「大人がズルいから、僕たちは逃げるんですよ。居場所が分からないんですよ。」
 原田先生が、僕を見つめた。射抜くように、僕を見つめた。
「イジメなんて、無かったんです。それで、いいじゃないですか。何で今更、妙なことをするんですか?。」
「本当の事を隠すことが、正しいんですか?。」
 僕は、本当に知りたかった。教えてほしかった。誰かに、教師になってほしかった。
僕の世界には、教師すらいなかった。
「教えてください。先生は、先生じゃないんですか?。」
「・・・分からないわ、そんなこと・・・・私は、勉強しか教えられないのよ。」
 大人は、何一つ理解していなかった。僕たちに、何一つ教えることが無かったのだ。僕は、教えられた記憶が無い。きっと、みんなもそうだ。誰も、教育なんてしてくれない。
「どうして、人をいじめたらダメなんですか。」
「・・・・・・」
「どうして、人はいじめるんですか。」
「・・・・・・」
「どうして、人は自分で死ぬんですか。」
「・・・分からないわよ!。」
 原田先生が叫んだ。頭を押さえて、泣き出した。
「私も、辛かったんだから・・・生徒を怒れば、親から苦情が来る。生徒が問題を起こせば、教頭に嫌味を言われる。自分のクラスでイジメなんてあったら、他の先生から白い目で見られるの。教育委員会からも睨まれて、最悪なのよ。」
「・・・どうして、ウチの息子を・・・」と、おばさんが言った。
「白石くんがいじめられていることが、教頭に知られたんです。それで、私が責められて・・・・まだ、クラスを持たすのには早かった、とか言われたんです。私、悔しくて、褒められたかったんです。生徒にも、生徒の親にも、教頭にも、教師にも、私は好かれたかった。だから、いじめられてる白石くんに、無償に腹が立った。私の障害は、あの生徒なんだって思うと、教師として最低な事をしていたの・・・」
 原田先生は、言い終わらないうちに泣き崩れた。
「どんな理由があっても、あなたのやったことは人間として最低です。」
 おばさんは、そう言った。やっぱり、最低だ。人間として。
「・・・私はただ、いい先生になりたかっただけなの・・・みんなに好かれる、いい先生になりたかっただけなの。子どもが好きだったの。なのに、なんでこうなったのよ。私は教師失格です・・・最低の教師です。」
「先生・・・昔の先生に戻ってください。一年前の先生は、みんなから好かれてました。みんな、原田先生の社会の授業を、楽しみにしてました。僕も、そうです。」
 原田先生が、顔を上げた。真っ赤な目を、ハンカチで押さえた。
「・・・生徒に訴えられるなんて、本当に、お笑いですね・・・」
 原田先生が立ち上がった。
「教師になんて、ならなければ良かった。私、損した。」
 嫌だ。原田先生に、そんなこと言ってほしくない。原田先生からは、何も教えてもらっていない。教師にならなければ良かったなんて、逃げてるだけだ。
「僕は、原田先生のことを知っています。弱いところや、面白いところや、意地悪なところ・・・全部知ってます。先生は、誰よりも僕たちに好かれたかった。僕たちは、先生のことが好きでした。僕は・・・僕たちは、原田先生に何も教えてもらってません。教えてください。僕たちに、ちゃんと教えてください。みんな、何も分かっていません。もう一度、教壇に上がってください。お願いします。先生は、いい先生な筈です。」
 僕は、無我夢中に頭を下げた。涙が出そうになったけど、涙は出なかった。
「・・・明日、辞表を出しますので、ご心配しないでください。」
 原田先生は、相談室を後にした。僕は、呆然と虚空を見つめていた。
 僕たちの世界が、今、分裂した。

 家に帰ると、弁護士の並木さんがいた。リビングで、母と書類を見て話し合っている。僕に気づくと、スッと立ち上がって軽く頭を下げた。僕も、つられて頭を下げた。
「丁度いいところに来てくれました。これからのことについて、お母さんとお話していたんです。ライくんも、ご一緒に。」
 僕は、言われたとおりに、母の隣に座った。今日は、いろいろなことがあって、疲れていた。
「お疲れのようですね。」
 そんな僕を見て、並木さんが言った。僕は小さく頷いて、姿勢を正した
「はい。今日、いろいろ言われました。覚悟はしていたけど、やっぱり、辛かったです。」
「そうですか。でも、ここで逃げてはいけません。学校や病院など、大きな敵に戦いを挑むと、それなりの障害は必ずあります。」
 並木さんの言葉には、欠点が無い。全て当たっているのだ。でも、僕は思う。正しいことなんて、どこにも無いんだって。並木さんの言うことに、欠点が無いのは確かだ。でも、僕は正しいとは思わない。だって、僕には正しいか正しくないかの判断が、未だにできていないからだ。だから、正しいことなんて、無い。
「内容証明の返答が、それぞれ到着しております。」
 並木さんは、カバンの中から書類を出した。多くの封筒が、堅苦しさを物語っている。
「こちらの要求を呑んだのは、イジメグループの桜田、山木、土川です。それぞれ、白石さんと平谷さんに、二百万円の損害賠償請求、平谷さんに対しては、パニック障害の慰謝料を支払うことに同意しました。後、この三人には転校処置をとるように命じました。」
「もう一人は、どうしたんですか?。」
 僕は、いても立ってもいられなくて尋ねた。
「一切、要求には応じませんでした。」
 僕は、大きな溜め息をついた。やっぱり、ハヤトにはムダだった。何をしても、ムダだった。
「イジメがあるなんて知らなかった。自分には、身に覚えの無いことだと言い切っています。おそらく、法廷で戦うことになると思います。」
「教師は、どうなったんですか?。」と、母が言った。
「原田という教職員は、要求に応じております。イジメがあったと認め、自分もそれに加わっていたとも認めています。白石さんに損害賠償請求を五百万円、辞職し、懲戒免職処分を教育委員会に申請します。しかし、もう一人の岡谷という職員は、断固として要求を呑みませんでした。学校長も同様です。本校にイジメは無かったの一点張りです。結局、学校側とも法廷で争うことになります。」
「ということは、ライも転校しないとならないんですよね・・・」
 母は、悲しげに言った。僕も悲しい。なんだか、逃げているみたいだ。
「そっちの方が、風当たりは弱まります。学校を起訴するということは、そこに通っている生徒の保護者も敵になります。つまり、近所からも、白い目で見られるんです。」
「そうですね。近いうちに、引越しの準備をします。それで、いいわよね、ライ。」
 僕は小さく頷いた。そうするしかないことぐらい、僕にも分かる。そこらへんの空気も、たいがい読める。
 僕だって、もう子どもじゃない。もう、無邪気でもない。ウソのつき方も知っている。笑顔の奥に、怒りを感じるときもある。
 だから汚い。
 僕は汚い。
 みんな汚い。

 落ち着かないホームルームが、ずっと続いていた。昨日の一件があってか、ハヤトは休んでいる。原田先生は、来ない。誰か、別の先生が来てもいいのに、と思う。
 勝手だ。僕は勝手だ。僕が、原田先生を学校から追い出したようなものなのに。
 そのとき、教室の扉が開いた。ざわついていた生徒の談笑が一瞬、止んだ。ハヤトだった。その後ろに、原田先生もいる。後ろの席の生徒が、隣の生徒と耳打ちをして笑った。今度はハヤトなんだ、と思った。
「おはようございます。」
 原田先生が、深く頭を下げた。いつもは返ってくる返事が、今日は返ってこない。
「出席をとります。秋川くん・・・」
「・・・はい。」
 低く暗い声だった。いつもとは、明らかに違う。
「植草くん・・・」
「・・・はい。」
 これも、さっきと一緒。
「上山くん・・・」「小渕くん・・・」「唐崎くん・・・」「邦美くん・・・」
 出席をとり続けても、返ってくる返事はまばらなものだった。原田先生も気づいているはずなのに、何も言わずに出席をとり続ける。
 見ているのが、辛かった。ここは、教室という名の、地獄だ。
「桜田くん・・・」
「・・・・・」
 返事が無い。
「桜田くん・・・」
 語気を強めて、原田先生は二度目を言った。桜田は、ふてくされた顔をしていた。まるで、ダダをこねるような子どもの顔だ。
「先生、出席なんてとらなくても、みんな来てます。みんな、教室にいます。」
「桜田くん。」と、原田先生は口調を変えずに言った。
「先生。」
「返事してよ。出席をとるのも、これが最後なんだから。」
 原田先生は、泣き出しそうな顔で言った。僕の心が、大きく波立った。
「はい。」と、桜田が返事をした。
 それからも、原田先生は出席をとり続けた。誰もが、暗い声で返事をしているだけだ。原田先生が、哀れだ。最後の出席すら、まともにとれないなんて。
「今日は、先生から話があります。大事な、授業があります。」
 原田先生は、教室にいる僕たちを見渡した。いじめていた教師と、そのクラスメート。本当に、不気味で奇跡的な光景だと思う。
「君たちも知っていると思うけど、私は最低な事をしていました。教師が、教え子をいじめる。教師として、人間として、とても悪いことです。」
 いつもの、道徳の時間とは違う。いつもの道徳に時間は、参考書を開いていたり、隣の生徒と雑談する生徒でほとんどだった、
 いつもの道徳とは違う。だって、いつもの道徳の勉強内容は、所詮他人事だからだ。障害者差別、環境問題、薬物問題、部落差別、民族差別・・・こういうことを言われても、イマイチ、ピンと来ないのだ。
 だって、他人事なんだから。自分の周りに、こういう人間が誰一人いないからだ。他人事だから、興味も無い。だから、道徳の時間なんて、本当に必要なのかは疑問だ。
 でも、今は他人事じゃない。今、原田先生が言っていることは、自分に関係のあることなのだ。
「私が、偉そうなことは言えません。でも、これだけは知っていてちょうだい。」
 原田先生は、大きく息を吸い込んだ。
「大人はね、あなたたちが思っているほど、強くもなければ偉くもないんです。」
「どうしてですか?。」と、一人の女生徒が言った。
「人間だからよ。」
 張り詰めた空気が、教室を包み込んだ。僕は、教室の窓を見つめた。窓から見える景色は、何も変わっていなかった。大須賀橋の前の信号を、無視して渡る人々。子どもを大声で叱り付ける母親。学校に行っていない高校生。ケータイを触りながら自転車を運転する人。
 みんな、変わらずに、成長していない。懲りずに、何回も失敗をする。
「私も、教えてもらった覚えがありません。どうして人をいじめたらいけないか。」
 原田先生の声が、やけに響く。
「大人も、まだまだ子どもなんです。何もかも分かったような顔をしてるけど、そんなの嘘。なんにも分かってないの。私だって、とても幼稚だった。それ以上に、最悪でした。」
「じゃあ、先生って、なんでいるんですか?。」と、前のほうにいる男子生徒が言った。
「大人の、人間の鑑を、子どもに見せつけるための道具です。だから、教師はいるんです。」
「そんなの、必要なんですか?。」
「・・・分かりません。私が、なんで教壇に立っているか分からないんです。生徒がいて、教師がいる。そんな当たり前なことが、今じゃ、当たり前じゃなくなっています。教師をいじめる生徒や、私みたいに、生徒をいじめる教師もいるんです。そんなこと、子どもが理解できるはずありません。私たち教師は、難しすぎる問題を、あなたたちにぶつけ続けたんです。」
 原田先生は、教室中を見渡した。窓から入る風が、掲示されていたプリントを叩いた。
「分かりますか?。私たち教師を、鏡に例えます。自分の顔を見るには、鏡を見るしかありません。鏡に映る自分は、本当の自分と何も変わりません。でも、一つだけ、全く違うものがあります。鏡に映る自分は、必ず、左右対称になります。」
 どういう意味なのだろう、とクラスメート全員が思ったはずだ。
「つまり、いくらピカピカに磨いた鏡でも、必ず違うところがあるということです。本当の事と、違うことがあるんです。だから、私たち教師は、全てが正解というわけじゃないんです。間違える事だって、ずっと間違え続けている事だって、あるんです。」
「・・・先生、質問があります。」
 僕は、手を挙げて言った。
「なんですか?。」
「人は、どうして自分で死ぬんですか?。」
 原田先生は、僕を直視した。僕も、原田先生を直視した。この質問に、答えなどあるはずがない。人は、いつでも死ねる。
「それは、間違っています。人は、自分で死ぬようなことは、決してありません。」
「じゃあ、ノブは・・・」
「自分で死ぬんじゃないんです。誰かに、殺されるんです。」
「どういうことですか?。」
「自殺する人は、その環境によって殺されます。イジメ、家庭、勉強、受験、学校。この環境が正常でなければ、人は死んでしまいます。白石くんは、未来中学校二年三組、この世界に殺されたんです。この教室にいる全員が、共犯者です。白石くんは、死んだんじゃありません。殺されたんです。」
 僕は、拍子抜けして、椅子に体を預けた。そっか・・・そんな答えがあったのか。意外と簡単な答えがあった。ころした・・・・そうだ。しんだんじゃ、ない。
 そのとき、教室の扉が開いた。校長と教頭が、ノックもせずに入ってきた。
「原田先生、いつまでそうしているんですか?。もう、辞表を提出しましたよね?。」
 教頭の饒舌な言葉が、妙にムカついた。何も知らないくせに・・・
「・・・分かりました。みんな・・・ごめんなさい。」
 原田先生は、深く、深く、頭を下げた。頭を上げると、教頭と校長と一緒に教室から出て行った。数分しても、妙な虚しさと、悲しさともつかない感情が、みんなの胸の中で弧を描いた。僕は、居ても立ってもいられずに、教室を飛び出した。後ろから、クラスメート全員が走って、僕を追いかけていたなんて、気づきもしなかった。
 大きな足音に気づいたのだろうか、職員室前で原田先生は立ち止まった。僕たちは、走って原田先生に追いついた。みんな、息を切らしていた。同じように、はあ、はあ、と。
「先生。僕たちは、まだ分からないことがいっぱいあるんです。」
「そうです。だから、辞めないでください。もっと、教えてください。」
「先生が教えてくれないと、分からないことがいっぱいあるんです。」
「お願いです。辞めないでください。」
 泣きながら言う生徒もいた。みんなも、知りたかったんだろうか。教えてほしかったんだろうか。誰でもいいから、教えてほしかったんだろうか。
 生徒たちが、次々に質問した。
「どうして、人をいじめたらダメなんですか?。」
「どうして、人を殴ったらダメなんですか?。」
「学校って、何をするところなんですか?。」
「どうして、勉強するんですか?。」
「僕たちは、何を勉強したらいいんですか?。」
「人は、どうして死ぬんですか?。」
「死ぬって、なんですか?。」
 みんなの口から出てくる質問は、僕も知りたいことだった、いつも、疑問に疑問を重ねて、毎日を過ごしていた。
 原田先生は、僕たちを見つめた。知ることに飢えていた僕たちは、どういう顔をしていたのだろう。
「知ることが大切ではありません。知ろうと思う気持ちが、大切なんです。あなた達が、自分で答えを出すんです。そうでもしないと、あなた達は何も知ることが出来ませんよ。」
「・・・はい。」
「あなた達は大丈夫です。もう、子どもじゃないんだから。」
 原田先生は、職員室へと消えていった。僕たちは、呆然と、立ち竦んでいただけだった。

 職員室で、原田先生と教頭が話し合っていた。
「今日まで、本当にご迷惑をおかけしました。」
 原田先生は、深く頭を下げた。教頭は、苛立った声で原田先生に言いつけた。
「これから、どうする気なんです?。向こうの弁護士は、あなたに懲戒免職処分を要求してきました。本校が訴えられるなんて、こんな非常事態が起きているんですよ。まったく、どうすればいいんだ。」
「懲戒免職にも、応じてください。私はまた、一からやり直します。」
「教師を続けるんですか?。あんなことがあっても。」
「はい。確かに、教師なんか辞めようと思いました。でも、今日の生徒たちを見ていると、自分だけ逃げるのはいけないと思ったんです。」
 教頭は溜め息をついた。原田先生を、バカだと思ったのだろうか。
「大変なのは分かっています。懲戒免職を言い渡された教師が、簡単に教壇に立つことはできないということぐらい。でも、私は教えたいことがいっぱいあるんです。子どもたちに、教えたいことがいっぱいあるんです。」
「今の子どもが、そんなんで心を開きますかね。」
「いいえ。開いてなんかくれません。でも、子どもたちは知りたがっています。疑問を抱いているけど、それを教えてくれる人がいません。だから、私は教師を続けます。」
「熱心でなによりですね。」
 教頭が、嫌味ったらしく言った。
「教師が熱心じゃなくて、誰が熱心になるんですか。だから、子どもが冷たくなるんです。私は、本当にいい先生になりたいんです。」
 原田先生は、頭を下げて「失礼します」と言った。
 未来中学校を去っていく原田先生は、どこか、清々しい表情をしていた。

 下校する生徒たちに、笑顔は無かった。原田先生が、こんなに大きな存在だったのだろか。大人だって、失敗をするのだと身をもって示してくれたからだろうか。今となっては、何も分からない。
 大須賀橋を越えたとき、僕を呼ぶ声が聞こえた。
「平谷。」
 振り向くと、そこにはハヤトが立っていた。僕を「平谷」と呼んだ時点で、ハヤトとの修復できない溝を感じた。
「ちょっと、話があるんだ。俺の家に来いよ。」
「・・・話って何?。家に行く必要ってあるの?。」
 不気味に思った僕は、ハヤトを突き放すように言った。もしかしたら、裁判のことについて訊かれるかもしれない。
「裁判のことなんて、訊かない。言っときたいことがある。」
「・・・分かった。行くよ。」
 僕は、黙ってハヤトについて行った。ハヤトの家に行くのは、コレが初めてだ。僕は、不気味な予感がして、落ち着かない歩調を進めていた。
 ハヤトの家は、歩いて二十分もすれば到着した。薄暗い光の中に、大きなマンションが立っていた。ここが、ハヤトの家らしい。
「ここ、俺の母さんが買ったマンションなんだ。すっげえだろ。」
 僕は、呆然と口を開けっ放しにしていた。だって、だって、ハヤトは・・・
「ビックリか。俺、いつか言ってたもんな。家が家事になって、親父が自殺して、今は貧乏だって。全部、ウソだよ。真っ赤なウソ。俺の家は、持て余すぐらい金はある。」
 ハヤトは、小さく笑った。僕を嘲るように、全く変わらない笑顔だった。
「とにかく、家に行こうぜ。」
 僕は、固い足で、ロボットのようにハヤトの後ろを歩いた。
 ハヤトの部屋に招かれた。玄関はキレイだったし、リビングには大きなソファがある。ハヤトは、テーブルの上にコップを二つ置いて、オレンジジュースを入れた。
「俺は、お前のことが大嫌いなんだ。」
「・・・そんなの、もう分かってるよ。」
 ハヤトは、一口オレンジジュースを飲んだ。
「ライは、確かに何もしてない。普通の中学生で、普通の生活をしていただけだ。でも、それが、無償にムカつくんだよ。分からないかもしれないけど、俺はそういうのが一番嫌いなんだ。普通の生活をしてたら、それを潰したくなる。普通の友達がいたら、その仲を潰したくなる。だから、お前と白石を潰したかったんだ。」
「そんなの、むちゃくちゃだよ。普通で、何が悪いんだよ。」
「人間にとって、一番退屈なことってなんだと思う?。全く変わらない環境だよ。」
 ハヤトは、小さな欠伸をした。
 僕は、ふざけたハヤトの態度にムカついた。
「平和な環境は、時に退屈なんだ。だから、俺はお前たちをいじめた。それだけだ。」
「・・・ふざけるなよ。お前の暇つぶしで、ノブとキリは・・・」
 ハヤトは、僕の声を遮って言った
「俺のせいって言いたいのか。おいおい、責任転嫁すんなよ。」
「どういう意味だよ。お前のせいで、俺たちはこんな事になったんだ。全部、お前のせいだ・・・」
「お前、肝心なことを忘れてるよな。白石を殺したのは、お前だぞ。」
 ハヤトの一言に、僕の罪の意識がふと蘇った。僕がノブを殺した・・・何十回も、何百回も思ったことだった。なのに、今の今まで忘れていた。
 そんな自分に、鳥肌が立った
「お前さえ裏切らなかったら、白石だって死ぬことも無かったのにな。全部、俺のせいにしちゃって、お前って最悪だよな。」
「・・・違う・・・俺が殺したんじゃない。」
 頭が、おかしくなりそうだった。また、息苦しくなる。僕が殺した、という声と、僕は殺していない、という声がぶつかる。頭の中で、弧を描く。罪の意識が、弧を描く。
「お前が殺したんだよ。裁判なんか起こして、すっかり被害者ヅラしてるけど、お前は立派な加害者なんだよ。白石が生きてたら、お前を真っ先に訴えるだろうな。」
「・・・違う・・・俺は何もしてない。」
「お前が裁判なんか起こすからさ、俺、学校に行けないじゃん。お前のせいで、今度は俺がいじめられるじゃん。ホント、全部お前のせいだよ。」
 ハヤトが、僕に迫る。僕は、頭を抱えながら震えていた。
「お前さえいなきゃよかったんだよ。なんで生きてんだよ、お前。」
 その言葉は、僕の心臓を抉った。心を打ち砕いた。僕の中の何かを、崩壊させた。
 僕は、無意識のうちに、走って逃げていた。ハヤトから、罪の意識から、必死になって逃げていた。

 その週、僕は並木さんに呼ばれ、母と一緒に法律事務所へ出向いた。今日は、相手側の弁護士の質問があるそうだ。裁判のときの尋問資料にするのだという。
 前に並木さんと話した個室に、今回も通された。そこには、一人の見知らぬ弁護士と、並木さんがソファに座っていた。母は、小さく頭を下げた。弁護士と並木さんが立ち上がり、会釈を添えてお辞儀をした。
「こんにちは。今日は、第一回公判の尋問資料を収集しに、二人の弁護士がきています。岡谷教師、および学校責任者の弁護を引き受ける、津川弁護士です。」
 並木さんが紹介すると、津川という男の弁護士は名刺を取り出し、母に手渡した。
「はじめまして、津川と申します。」
 母は、戸惑い気味に名刺を受け取った。僕は、警戒心を剥き出しにした目で、津川弁護士を見た。
 僕と母は、向かいのソファに腰を下ろした。津川弁護士は、さっそくといったように話をはじめた。
「それでは、尋問のほうに移らせていただきます。」
 僕は、小さく頷いた。なんだか、嫌な予感がしたのだ。僕は、警戒心を一層深めた。すると、自然と視線が宙に浮いた。
「あなたは、いつ頃からイジメを受けていましたか?。」
 僕は、動かない頭を必死に動かした。記憶が曖昧なのは、なぜだろうか。
「・・・たぶん、十二月の終わりの方だと思います。」
「まだ、一ヶ月も経っていないというわけですね。」
 僕は、俯くように頷いた。
「その少し前に、イジメを苦にして自殺したという生徒がいましたよね。」
「・・・はい。」
「その生徒とあなたは、親友だったそうじゃないですか。」
 僕は黙った。なんだ、この尋問は。ノブのことは、関係あるのか?。
「親友だったのに、なぜイジメを止めなかったんですか?。」
 泣きそうになる。こんなところで、泣いてはいけない。絶対に、泣いてはならない。泣いたら、その時点で負けだ。
「イジメなんて、本当にあったんですか?。あなたの、虚言じゃないんですか?。」
「違います。イジメはありました。」
「遺書でもありますか?。例え、イジメがあっても、なんであなたはイジメを止めなかったんですか?。」
「それは・・・」
 津川弁護士の唇が、微かに笑ったのを僕は見た。この弁護士の目的は、起訴を取り下げようとしているのだ。僕を追い込んで・・・そうに違いない。
「でも、イジメはあったんです。」
 相手の弁護士の罠だと分かっていても、僕は感情的になっていて、その罠にはまるしかなかった。
「イジメはあった。でも、あなたは止めなかった。法律の世界では、あなたも加害者になります。あなたも、いじめていたことになるんです。」
 僕の目から、熱い涙がこぼれた。悔しくて、でも、何も言い返せない。全部、本当のことだからだ。胸の中が、抉られたようだった。怖くて、僕は震えていた。
「遺書でもあれば、イジメの事実は証明できるんですけどね・・・遺書もないでしょう。だったら、こんな裁判、傷つくのはあなただけですよ。あなたが親友を自殺に追い込んだ、とも言われかねないですからね。起訴しても、なんの意味もないんじゃないんでしょうか。」
 並木さんが、吹っ切れたように言った。
「やめてください。こんな尋問、ただの脅迫です。お帰りください。」
 津川弁護士は、溜め息を吐きながら立ち上がった。
「それでは、法廷で会いましょう。さようなら。」
 個室の扉が、ゆっくりと閉まった。
 僕の目からは、大量の涙が溢れていた。震えている僕の肩を、母がさすっていた。「ううっ」という嗚咽が、口の中から漏れた。僕は、がたがたと震えながら、ある言葉を繰り返し呟いていた。
「違う違う違う・・・俺が殺したんじゃない。」
 呪われたように、僕はその言葉を何度も呟いていたそうだ。何度も、何度も・・・ずっと。

 僕は呆然と、夜を過ごしていた。感情の一部が欠落したようで、大きな不安が心を浸した。
 真っ暗な部屋の中を、月の光が薄く照らし出した。僕の口から、小さな呟きが漏れた。
「お前さえいなきゃよかったんだよ。なんで生きてんだよ、お前。」
 ハヤトの言った言葉が、自然と出てきた。そんなの分からない。なんで僕が生きてるんだ。わかんない。
「遺書でもあれば・・・」
 津川弁護士の言葉が、頭を刺激した。ハヤトと津川弁護士の言葉が交差して、繋がった。そうか・・・と、納得した自分がいた。
 遺書さえあれば・・・僕の頭に、最悪の結末が描き出されていた。

 数時間後、深夜を過ぎた頃、僕は家をそっと出た。制服に着替えて、冷たい深夜の通学路を歩いた。ポケットの中には、「僕が死んだら」と書かれた白い封筒を忍ばせていた。
 いつもと変わらない通学路は、ただ暗かった。僕が戦おうとしても、何も変わらなかった。僕のいる世界は、何も変化を見せなかった。この通学路が、それを仄めかせている。きっと、ノブが死んでも、何も変わらなかったのだ。
 大須賀橋の前まで来ると、妙な静けさに包まれていた。車の音も全然しない。朝の光景とは、全く違う。信号だって消えている。なんだか、寂しいような気がする。この橋は、僕を苦しめた日もあれば、勇気付けた日もあった。今となっては、どうでもいいことだ。
 
 未来中学校と書かれた石版は、薄汚れて、シミだらけだ。そんな汚い石版が掛けられてる校門は、当然のように閉まっていた。だいたい、大したセキュリティは備わっていない。進入するのには、そんなに苦労はしないはずだ。
 僕は、校庭の隅にある裏門まで歩いた。裏門の門は、鍵さえ付けられているものの、その高さは中学二年生にもなれば乗り越えられる高さだった。僕は、軽々と門を越えて、校庭へと足を踏み入れた。
 校庭の土は、昼間よりも湿気ていた。足から伝わる感覚も、なんとなく違う。校舎にはまだ警備員がいるから、校舎入り口の玄関は開いていた。そっと、警備員に気づかれないように、中に忍び込んだ。
 校舎の中は、暗闇に包まれていた。月の光が照らす廊下は、長く、長く伸びていた。僕は、一歩一歩を確かめるように廊下を歩いた。

 二年三組と書かれた教室の前に、僕はいた。暗闇に目が慣れて、文字を正確に読めることが出来た。二年三組・・・僕はここの生徒だったのだ。そう思うと、鳥肌が立った。
 中に入り、真っ先に目に入ったのは、ハヤトの机だった。一輪の花が供えられていた。イジメのターゲットが変わった、決定的な証拠だった。おそらく、次は「死ね」の殴り書きだ。僕には分かる。
 そっと、僕は教壇に上がった。教壇からは、教室にいる生徒を満遍なく見渡せる。生徒が席についているときは、隣と前の生徒しか見えない。でも、教師には全てが見える。生徒の行動や、生徒が誰と喋っているかや、生徒が何を考えているか。そんなことが、教壇からは見える。でも、本当の事は、やっぱり見えない。子どもにも、大人にも、教師にも、生徒にも、絶対に見えない。自分にしか、見えないんだから。
 僕は、教室中を歩き回った。教室の机や椅子は、新しいものも古いものもある。なんだかそれが、僕たちの見えない「格差」のような気がした。
 僕は、ハヤトの席に近づき、花瓶にささった一輪の花を取った。それを、ゴミ箱に投げ捨てた。こんな物があるから、イジメなんてあるから、僕たちはいつまでも成長できない。
 教室の窓から溢れる月光が、怪しく光った。僕は、吸い寄せられるように窓の近くへと歩み寄った。

 窓を開くと、冷たい風が吹き付けた。
 最悪の結末が、今幕を上げる。
 僕は、机を窓の前まで持って行った。窓には手すりがある。飛び降りるには、机が無いと困難だ。僕は、上靴をぬいで、その上に遺書を置いた。
 机に乗って、窓枠に足を掛けた。微かに、体が震えているのが分かる。ハヤトの言葉が、頭に蘇った。
「お前さえいなきゃよかったんだよ。なんで生きてんだよ、お前。」
「なんで生きてるんだよ。」と、何度も響いた。
 僕は、もうすぐ死んでしまう。窓枠に身を乗せた。下を見ると、ゾッとするような高さで、身震いがした。
 ノブも、僕と一緒の気持ちだったんだろうか。自分が死んだら、イジメが終わる。自分が死んだら、みんなが解放される。自分が死んだら、自分から解放されるって。
 僕が死んだら・・・僕が死んだら・・・全てが終わる。
 そうじゃないだろうか。
 僕は、体中の力を抜いていった。バランスを崩した瞬間、僕はコンクリートの地面に叩きつけられる。
 あと、もうちょっとだ。
 前にのめり込めば、僕は死ねる。死ぬことが出来る。辛かった気持ちを、殺すことが出来る。自分を殺すことが出来る。なんで?。分かんない、そんなこと。何も分かんない・・・。
 その瞬間、体のバランスが崩れた。前にのめり込んで、体が落ちそうになった。
 ・・・死にたくない。そのとき、思った。
 とっさに、僕は身をかわした。外じゃなくて、教室に体を投げ出した。
 教室に倒れた僕は、泣いた。
 僕は、死ぬことさえ出来なかった。みんなの為に、死ぬことさえ出来なかった。ノブの為に、死ぬことが出来なかった。
 弱虫だ・・・死ぬことも出来ずに、ただ泣いてる、弱虫だ。
 僕は、膝を抱えたまま、すすり泣いた。月夜に光った涙が、眩しかった。涙が溢れる。自分に対して、悔しくて、悲しくて、涙が出た。
「・・・ノブ・・・ごめん・・・」
 目が霞む。涙で、何も見えない。
 ノブの幻影が、まぶたに焼きついた。「ライ」と呼ぶ。笑顔のノブが呼んでいる。僕を、呼んでいる。何度も、何度も呼んでいる。
 ノブが、笑った。僕に、笑いかけた。へへっと、屈託のない笑顔で、僕を呼んだ。
 ノブが、消えた。
 まぶたの上から、ノブの幻影が消えた。
 手を伸ばしても、そこには、もうノブの姿は無い。死ぬって、こういうことだ。消えちゃう。みんなの頭から、消えること。
 ノブ、もう一回笑ってほしい。
 ノブ、もう一回「ライ」って呼んでほしい。
 ノブ、もう一回、一緒に遊びたい。
 なんで、もういないんだろう。なんで、消えちゃったんだろう。なんで、死んだんだろう。
 分かんない。
 
暗闇の教室に、僕の涙が染み込んだ。涙が止まらない。
 教室の窓から、朝日が昇っていた。また、朝がやってくる。また、朝がやってくるのかもしれない。僕の世界に、朝がやってくるのかもしれない。
 何も変わらない世界に、僕の涙は消えていった。
 真っ暗で何も無い世界に、点々と散っていった。
 冷たい風が涙に触って、ひんやりとした。
 ずっと、忘れていた感覚だったなあ、と思い出した。














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