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教室の窓
作:オネイロス



第十七回 壊れた僕の心


 救急車のサイレンが、遠く響く。原田先生や、保健の先生、他の学年の先生も駆けつけて、神妙な顔で僕を見つめていた。救急隊が教室に到着して、僕は担架に乗せられた。先生たちは騒がしい生徒を静かにさせて、やはり僕の事を神妙に見つめていた。でも、息苦しさに苦しむ僕には、そんなことどうでもよかった。
 救急車の中に運ばれて、酸素マスクをつけられると、ほんの少しだけ呼吸がしやすくなった。同伴として、原田先生も救急車に乗っていた。突然のことで、相当困惑していたと思う。僕は、原田先生の冷や汗をしっかり見ていた。ノブが死んだときと一緒だな、と思いながら。
病院に到着したときには、病院の玄関で母が待ち構えていた。母より遅い救急車に、大した事では無いんだな、と軽々しく思っていた。僕にだって、何が起きたかなんて分からない。本当に、初めてのことだった。死んでしまうような息苦しさ・・・思い出すだけでも鳥肌が立つ。
 苦しい意識の中、心配そうに僕の顔を覗き込む母が見えた。原田先生の事実かどうかも分からない説明を、ただ相槌だけを打って聞いていた。僕は、心配されてる。なんだか照れ臭いけど、ちょっとだけ嬉しかった。
 
 僕は、そのまま眠ってしまっていたようだ。起きたときには、さっきの息苦しさなど嘘のように、体には何も無かった。
「やっと起きた。心配させないでよ。」
 母が、僕の元気そうな顔を見て言った。僕も、不思議だった。心臓が爆発しそうだったのに。息も出来なかったのに。とにかく、苦しくて苦しくて、死にそうだった。
「医者から話があるから、一緒に来てほしいんだって。」
「俺も?。」
「そうよ。だから、早く行くわよ。もう立てるでしょ?。」
「うん。全然、平気。」
 なんとも無いことが、妙に怖かった。僕は、死ぬような思いをしたのに。僕は、消えていく母の背中を必死に追いかけた。
 母に引っ付いて行くこと数分、診察の待合室に着いた。でも、少し疑問に思ったことがある。僕を呼び出したのは、精神科の医者だった。診察室は、精神科にあった。母も、このことには驚きを隠せないようだった。何度も、医者から渡された病院の地図を確認していた。
「おかしいわね。ここであってるわ。」
 おかしいって、どういうこと?・・・と聞きたかった。母はこの時、僕の事をどう思ったのだろう。戸惑いを隠せない顔で、何を思ったのだろうか・・・知りたかった。
「とにかく、あんたはそこに座って。」
 母は落ち着きなく、僕にそう言った。僕がゆっくりと座ると、同じように母も隣に座った。
 ずっと沈黙で、僕は戸惑っていた。精神科だ。自分には、一生縁のないものだと思っていた。僕は、変な病気かもしれない。そう思うと、体中を不安が支配する。
「平谷ライ様。二番診察室へお入りください。」
 女の声のアナウンスが、待合室に響いた。母も僕も、すごく緊張していた。手は、汗でびしょびしょだった、喉は、水気が無くてカピカピしていた。そんな状態で、指示通りの二番診察室へ入った。扉は頑丈で、閉まるときに大きな音が響いた。僕の目の前には、優しそうな女の医者が座っていた。僕の後ろには、不安そうな顔をしている母がいた。変な光景だ。本人の僕が、とても客観的だった。
「あなたの担当医の、国井と申します。誤解の無いように、説明します。」
 冷静な口調で、淡々と言った。僕の手に、じっとりとした汗が流れた。
「精神科と聞くと、あまり響きは良くないと思います。頭がおかしいとか、犯罪にはしるかもしれないから危険だとか、いろいろ誤解があります。ですが、現在では薬物療法、カウンセリングなどで完治して、社会復帰をしている患者はたくさんいます。精神病は、昔は未知の病だと言われていました。その頃は、効果的な治療法が無かったからです。でも、今では、精神病も完治します。精神病患者も、少ないというわけではありません。精神病とは、無理をしすぎの病気だと思ってください。いろいろなことを我慢したり、いろいろなことに無理したりすると、やはり心が疲れるんだと思います。だから、決して重い病気とは考えないでください。精神病に一番効果のある治療は、心にゆとりを持つことです。」
 国井先生の説明は完璧だった。隙など一つもなくて、僕は少しだけ安心した。でも、思えば、まだ病名を告知されていない。やっぱり、安心するのはまだ早かった。
「それで、この子はどんな病気なんですか?。」
 母の声は、更に不安が大きくなっていた。
「おそらく、うつ病を発病していると思われます。それに合併して、パニック障害を発症していると思われます。」
 うつ病、パニック障害・・・どっちも聞いたことがある。驚きと言うより、この感覚は絶望に近かった。僕は、壊れたのだ。どれだけ国井先生にフォローされても、もう、壊れたとしか思えない。
「ライくんの場合、大きなストレスが原因と考えられます。まず、気分障害に部類されるうつを発症して、それが悪化したのだと思います。おそらく今は、大うつに悪化しています。喜怒哀楽が無くなったり、自分の存在価値を見失います。そして、パニック障害を発症したと思います。
 パニック障害は、精神疾患の一つの慢性疾患です。パニック障害には、大きく分けて三つの症状があります。先ほどのように、突然な動悸と息苦しさなどをパニック発作と言います。死んでしまうのではないかという、強烈な不安が襲います。パニック発作は、一時間程度で回復すると思ってください。
 このパニック発作に繋がって、予期不安という症状も現れます。パニック発作をとても恐れて、大きな不安を抱えてしまいます。パニック発作が起きた場面を恐れて、非常に神経質になります。また、パニック発作が自分を襲う。そんな不安が、パニック発作を余計に悪化させます。
 これらの症状が長期に渡って発症すると、広場恐怖と言う恐怖症を引き起こします。パニック発作が起きたとき、人ごみの中などでは逃げることが出来ないという不安に駆られ、人が集まるようなところを極端に避けるようになります。最終的には、一人で外に出られなくなりします。この症状は、パニック障害の完治を妨げることになります。
パニック障害は、精神障害の中でも、肉体的にも精神的にも辛いと思います。ですから、家族の支えが必要となります。」
 僕の病気を淡々と説明する国井先生を、呆然と見つめる母がいた。僕より、ショックを受けているようだった。そして母は、声をあげずに、静かに泣いた。僕は、母の涙に全然
気づかなかった。
「まだ断定は出来ませんが、身体機能にどこも異常が見られないことを考えますと、おそらく間違いないと思います。ライくんは十四歳ですから、薬物療法が出来ません。ですから、週に二回、外来カウンセリングを行います。」
母を慰めるように言った。しかし、母は泣いたままだった。僕が気づいたのは、母のすすり泣く声が聞こえたからだ。
「・・・なんで、ライがそんな病気になったんですか?。」
「ですから、大きなストレスが原因です。最近起きた、衝撃的な出来事がきっかけだと考えられます。」
 僕の中の異変が、母を追い詰めていた。僕は、変だ。異常だ。やっぱり僕は、壊れたのだ。国井先生の声が、余韻を残して消えていった。

 その日のうちに、僕は退院することが出来た。パニック発作を引き起こしたときの呼吸法を、何時間もかけて勉強した。また、死ぬような思いをするのだ。そう考えると、鳥肌が全身に立った。あの苦しみは、本当に怖かった。死んでしまうのが、怖い。けど、心のどこかで、死んでも構わないと思っている自分がいた。そんな自分が、怖い。僕は、僕に殺されるかもしれない。

 家に帰ると、母は自分の部屋に引きこもった。すすり泣く声が、リビングにいても聞こえる。
 薄暗い部屋が、中身の無い僕の心を弱くした。病気だと知ったことで、僕の心は更に憂鬱になった。僕は、どうなるんだろうか。これから、どうやって生きていくんだろうか。正直、生きていくのに自身がない。もう、どうでもいい。
 そのとき、インターフォンが鳴った。出たほうがいいのだろうか。でも、客を招く気分になれない。僕は、のろのろとした足取りで、扉の方へ向かった。
 重たい扉をゆっくり開くと、夕焼けの空と共に、キリの母親の姿が目に映った。
「あ、おばさん。どうかしましたか?。」
 暗い声だったと、自分でも思った。キリの母親は、小さく笑いかけた。
「お邪魔してもいいかしら。なんだか、ライくんの顔が見たくなったのよ。」
「どうぞ。でも、母さんとは話せませんよ。」
「いいのよ。私はライくんと話したいの。」
 キリの母親を招き入れて、リビングへ向かった。僕は、キッチンからお茶を出して、グラスに二つ注いだ。せんべいや和菓子を皿に盛り付けて、キリの母親に差し出した。
「あら、気を遣ってくれてありがとう。」
 母の真似事だから、大したことではない。僕もソファに座って、キリの母親と向かい合った。
 少しの沈黙とせんべいの音に紛れて、キリの母親が言った。
「何かあったんでしょ。私でよかったら、話してもいいのよ。」
 母に言いたかった。母に、慰められたかった。だって、僕の心が壊れたんだから。せめて、母に全部聞いてもらいたかった。
「・・・俺は、母さんに聞いてほしかったんです。いろんなこと、聞いてほしかったんです。」
「どんなこと?。」
「辛かったことや、苦しかったこと。聞いてほしかったのに、俺は言いませんでした。」
 なぜ、キリの母親にこんなことを話しているのだろうか。不思議で、意味が分からなかった。僕は一体、何を求めているのだろうか。僕の心は、何に飢えているのだろうか。
「・・・うつ病、それに合併したパニック障害。」
「え?。どういうこと。」
「俺の病気ですよ。知ってますか、パニック障害って。」
「聞いたことはあるけど、よくは知らないわ。どういう病気なの?。」
 僕は、グラスに注がれたお茶を一気に飲み干した。さっきから、緊張して呼吸が乱れる。また、発作が襲ってくる。そう考えると、怖くてたまらない。発作を流し込もうとして、お茶を一気に飲んだ。
「心の病気ですよ。頭がおかしくなっちゃったんですよ、俺。まだ、中学生なのに・・・」
 まだ中学生の僕が、なんでこうなったんだろう。どこで間違えたのだろう。考えても、考えても、虚しいだけだった。
「俺が、今までズルいことばっかりやってきたから、罰なんですよ。」
 キリの母親は、目を下に向けて小さく息を吐いた。薄暗い部屋に、重たい空気が漂った。キリの母親は、お茶を一口飲んで、目線を僕に向けた。
「神様がいて、悪い人に罰を与えて・・・そうだったら、どれだけ楽でしょうね。」
 言った後に、口元を笑わせていた。確かにそうだ。神様がいて、悪い人に罰を与えるんだったら、どれだけ便利な世の中だろう。僕みたいな人間も、いなかったかもしれない。
「ライくん、悪いのは自分だけとか思ってない?。そう思ってるなら、大きな間違いよ。」
「なんでですか?。俺が、二人とも殺したようなもんじゃないですか。おばさんも、いつかそう言ってましたよ。」
「確かに、言ったわよ。でもね、あんなこと今のあなたに言えるわけ無いでしょ。」
「俺、分かりません。なんか、全部バカバカしい。さんざん嫌なことあって、挙句の果てには精神障害だし、こんな俺を生きてるっていえますか。」
 この言葉を言ってはいけないと、言った後に気づいた。
「・・・キリも、生きてるっていえる?。あんな状態で、生きてると思う?。」
 自分を刺し殺したかった。キリの母親の気持ちになると、僕の言葉は残酷すぎた。どれだけ最低だ、僕は。
「今の中学生って、昔の中学生と全然変わらないわよね。」
「え?」
「昔も今も一緒なの。いくら中学生だろうと、十四歳の子供だろうと、人間の悪っていうのは容赦しないのよ。子供の間でも一緒。大人の間でも一緒。傷つけ合って、泣き合って、苦しめ合って、最後に壊れ合う。悪っていうのはそういうものなの。必ず、自分にも報いがくる。それは、昔も今も、子供も大人も一緒なの。誰にだって、容赦無しに襲い掛かるのよ、人間は。」
「言ってることが、よく分かりません。」
「要するに、誰にだって辛いことがあるっていうこと。ライくんだけが、悲しいなんて有り得ない。あなたが悲しい分、誰かも同じように悲しいの。」
 僕は俯きながら聞いていた。今の僕には、何を言ってもムダなのかもしれない。キリの母親の言っていることが、理解できるようで出来ないのだ。
 グラスに入ったお茶を、一口飲んだ。甘いとも苦いともつかない不思議な味が、口の中に充満した。
「来週から冬休みよね。また、いろいろ話したいことがあるの。お邪魔していいよね。」
「はい、いつでも来てください。俺も、行くところがないし。」
「それじゃあ、また今度ね。お邪魔しました。」
 キリの母親は、仄かに残る香水の匂いを残して、家を出て行った。

 十二月の二十六日に、終業式があった。学校にはまだ行かない方がいいと、国井先生が診断した。だから、三学期まで僕は休むことが出来た。
 冬休みの前後には、いろいろな行事があるんだなと実感した。家でテレビ番組を見ていると、今日はクリスマスだったり、お正月だったりと、冬は何かと忙しいのだ。
 僕にとって、冬休みは休養できる期間ではなかった。一日一日が過ぎる度に、学校へ行かないといけない時が近づいているのだ。そう思うと、心の休養などできるはずが無い。一秒一秒が、止まればいいと思える。また、地獄のような日々が始まるのか、と思うと、気が狂いそうだった。

 一月に入って、年数が変わった。お正月を祝うことも、ほんの一時でしかなかった。親戚のおじさんやおばさん、ばあちゃんやじいちゃんも、僕の病気のことを気遣って、いつものように騒ぎ立てる正月では無かった。その気遣いも、嬉しくもあり辛かった。
 一月の四日ぐらいだろうか、僕が学校に対して怯えているときに、ノブの母親がやって来た。おばさん、と呼ぶのも妙に懐かしい。
「久しぶりね、ライくん。少ないけど、お年玉よ。」
 リビングでくつろいでいた僕は、驚いて体を起こした。
「そんな、いいのよ。親戚でもないんだから、お年玉なんて。」
 母がおばさんに言った。おばさんは、僕の手にねじ込むようにお年玉を入れた。
「いいのいいの。誰にも、お年玉をあげることなんて無いんだから、せめてライくんには受け取ってほしいの。」
「・・・ありがとうございます。」
 僕は、遠慮がちげに頭を下げた。母も、小さく笑って、お茶の準備を始めた。
「ああ、気を遣わなくていいのよ。私は、ライくんと話がしたかったの。」
「ライと話がしたいなんて、変わった人もいるものね。」
 母とおばさんは、昔のように喋りあっていた。母とおばさんは、とても仲がいい。ノブが死んでからも、それは変わらないのだろうか。いずれ、みんなが忘れることなのだろうか。
「去年いろいろあったから、家の中が辛気臭くてね、ライくんの家に来たのよ。お正月を祝う気も無いし、信貴の遺影を見る気もしない。家庭はあるけど、どうすればいいか分からないのよ。」
 僕のせいだ、とは言えなかった。今の僕も、おばさんと同じ気持ちだ。どうすればいいのか分からない。
 中学生が学校に行くのは当たり前。そんなこと分かっている。でも、行きたくなかったら、どうすればいいのだろうか。行くのが当たり前で、行かなきゃならないなら、どうすればいいのだろうか。僕は、行きたくない。学校に行ったら、ノブみたいに殺される。死にたくない。
「ライくんも、いろいろと大変なんでしょ。あなたの気持ち、分かってるつもりよ。」
 おばさんは、僕の何を知っているのだろうか。知っていても、どうすることもできないくせに。
「学校に行きたくないんでしょ。私には分かるわよ。」
 母の顔が、強張った。僕の顔も、同じように強張った。なんで、僕の気持ちが分かったのだろう。ノブも、僕みたいな顔をしていたからだろうか。僕のように、怯えていたからだろうか。
「今のあなた、信貴と似てる。信貴も、何かに怯えていた。それは、学校だった。」
「白石さん、なんてこと言うのよ。」
 母が、おばさんに向かった。ウチの子とあなたの子は違うって、思ってたに違いない。そんな、妙なプライド、捨てればいいのに。そんな見栄、カッコ悪いだけだ。
「平谷さん、聞いたほうがいいですよ、ライくんの考えてること。聞かないと、子供はどんどん心を閉ざしていきます。そうなったら、手遅れなのよ。」
 おばさんは、ギュッと拳を握った。ノブも、そうだったんだなと、僕は思った。
「ライのことは、ウチの問題なの。私が、ちゃんと解決します。」
 母はムキになって、おばさんを睨みつけた。そんな間にいる僕は、気まずい顔をするしかなかった。
「できないのよ。今、子どもを放って置くと、子どもは壊れる。壊れたら、もう二度と元に戻らないのよ。」
 そのとき、インターフォンが家中に響き渡った。

 僕は、あの場所から逃げるように、玄関へと走っていった。扉を開くと、そこにはキリの母親が立っていた。
「こんにちは。約束通り来たわよ。」
「こんにちは。今、ノブの母親がいるんですけど、いいですか?。」
「丁度良かったわ。白石さんにも、聞いてほしいことがあるの。」
 僕は、キリの母親をリビングへと招いた。母とおばさんの間には、重い空気が立ち込めていた。キリの母親が現れて、空気が変わった。
「こんにちは、お邪魔してます。」
「あら、島田さん。先日はすいませんでした。ライと二人きりにしちゃって。」
 母は立ち上がって、小さく頭を下げた。
 おばさんは、キリの母親の姿を見て、ゆっくりと立ち上がった。
「お久しぶりです、島田さん。」
「こちらこそ。すいません、お葬式には出席できなくて。」
 キリの母親は、ノブの葬儀には出席していなかった。この三人の母親が集まるのは、何年ぶりだろうか。幼稚園のときの保護者会以来だったりして。
「今日は、お二人にお話しがあるんです。もちろん、ライくんにも。」
 キリの母親は、隣にいる僕をチラッと見た。
「ライくんには、辛い話かもしれないけど、しっかり聞いてほしいの。」
 僕は、小さく頷いた。逃げてばかりの僕とは、決別しないといけないのだ。

 母が、三人分のお茶を用意いた。落ち着いて、三人の母と僕がソファに座った。丸い机を、取り囲んで話が始まった。
 キリの母親が、持っていたかばんから書類を取り出した。
「ライくんが病気になった理由って、何が原因なんですか?。」
「病院の先生は、大きなストレスが原因だって言っていました。」と、母が言った。
「ライくん、通学カバンを見せてくれる?。」
 僕は、不審に思いながら、自分の部屋に向かった。入り口付近にある通学カバンを、リビングへ持っていった。キリの母親が、何を考えているか分からなかった。
 黙って、キリの母親に通学カバンを差し出した。キリの母親は、僕を見つめながら、通学カバンを開いた。カバンの中の教科書やノートを、丸い机の上に置いた。
 まさか・・・
 キリの母親は、教科書のページをペラペラと捲った。教科書は、あるページを境に、落書き帳へと変貌していた。「死ね」「消えろ」「ウザイ」の殴り書き。女の性器の落書き。汚いものが、いろいろあった。
 やっぱり、そういうことだった。キリの母親は、僕がいじめられていると知っていたのだ。この場を借りて、僕がいじめられていると明かした。
「何、これ・・・」
 母の呟きが、耳の中で暴れる。目をつぶっている僕は、とこか晴れた気持ちでいた。肩の荷が下りたと、心の中で呟いた。いじめられていることを、隠していた自分がバカみたいだった。
「もしかして、ライくんも?・・・」と、おばさんが吐き出した。
 みるみるうちに、母の目から涙が零れた。僕は、まるで他人事のように、この残酷な光景を見つめていた。地獄絵図だ・・・これは。
「平谷さん、分かりましたか?。これが、病気の本当の原因だと思います。」
 母は、キリの母親の言葉に、泣いて叫んで答えていた。おばさんも、ノブの事を回想して、歪んだ表情を見せていた。
「ライくん、あなたの口から言ったほうがいいんじゃないの。そうしないと、戦えないよ。」
 戦う。僕には、無縁の言葉だと思っていた。僕が、戦う。客観視するしかできない。
「俺は、親友だと思ってた奴から、いじめられた。無視されたり、脱がされて殴られたり、教科書に落書きされたり、嫌がらせのメール送ってきたり、いろんなことされたんだ。パニック障害を発症したのも、殴られた後だった。みんなに取り囲まれると、怖いんだ。殺されるんじゃないかって、怖かった。」
 僕は、喋りながら震えていた。思い出すと、また、呼吸が荒くなった。
「でも、イジメがあったなんて、信じられないわ。信貴が死んだ後なのに、そんな惨いことが子どもにできるの?。」
 おばさんが、恐ろしげに言った。やっぱり大人は、僕たち子どものことを何一つ理解していないのだ。大人は、便利だ。
「子どもだからこそ、できるんじゃないんでしょうか。」
 キリの母親が、思いつめた表情で言った。母のすすり泣く声が、廊下のほうへ響いた。
「中学二年生の子どもは、未完成な大人です。子どもでもなければ、大人でもありません。子どもたちは気づいているんですよ。大人と子どもの境界線なんて、薄い線でしかないって事を。」
 僕は、キリの母親を見た。この人は、僕たちの事をわかるのだろうか。理解できるのだろうか。僕は、少しだけ期待した。
「大人がしたら許されないことと、人間がしたら許されないことを一緒に考えているんです。まだ大人じゃないんだから、万引きをしても許される。まだ大人じゃないんだから、人を殴っても許される。まだ大人じゃないんだから、人をいじめても許される。もしかしたら、人を殺しても許されるとも思ってるんじゃないんでしょうか。」
「そんな、むちゃくちゃだわ。」と、おばさんが呟いた。
「そうです。むちゃくちゃです。子どもは、きっと分からないんです。人間がしたら許されないことを。それを教える大人が、あまりにも少なすぎるんですよ。教師がいない授業なんて、成立するはずが無いんです。子どもは、そんな世界にうんざりしてるんですよ。イジメっていうのも、大人が生み出した悪行なんです。大人が、カッコ悪いんです。」
 僕は、よく分からない。そんなこと言われても、よく分からない。だって、結局は大人の言うことだから。
「中学生なんて、かわいい子どもじゃない。嘘の吐き方も知っていれば、本音の使い方も知っている。無邪気な笑顔で、とんでもない嘘を言うことだってあるんですよ。ねっ、ライくん。」
 キリの母親が、僕を見つめた。僕は、ドキッとした。冷や汗が、掌に滲み出た。
「あなたも、ずっとお母さんに嘘を吐いていたんでしょ。」
 母が、顔を上げた。追い詰められた僕は、視線を泳がしていた。
「自分から話そうとしないで、こういう形で真実を伝えた。」
「・・・俺は、母さんを心配させたくなくて・・・」
「いつまで逃げる気なの?。このままで、いいと思ってるの?。」
「そんなこと、思ってない。俺も、変わりたいんだ。弱くてすぐ逃げる自分を、早く変えたいんだ。なのに、変われないんだ。」
 僕は、泣きそうになった。僕はやっぱり、弱い。弱くて、泣き虫だ。そんな僕を、なんでいじめるの?。
「弁護士の人に頼んで、資料をもらって来たわ。イジメ裁判。意味は分かるわよね。いじめていた生徒と、教師、学校を訴えるのよ。訴えてどうなるんだって思うかもしれないけど、何かは変わるんじゃないかしら。あなた達の世界が、少しでも変わるんじゃないかしら。」
「訴えるって・・・信貴のことも。」
 おばさんは、小さく呟いた。何度も、考えたことかもしれない。
「もちろん、信貴くんのこともです。ライくんには証言台に立ったり、どうやっていじめられたとか訊かれたり、いろいろ辛いことはあるわ。もしかしたら、イジメが酷くなるかもしれない。学校を訴えるって事は、教師からも、白い目で見られる。保護者や、同級生からも、辛い仕打ちを受けるかもしれない。でもね、あなたは辛かったんでしょ。いじめられて、みじめな思いをしたんでしょ。それを、放っておいていいの?。」
「・・・・・・」
「逃げるのも仕方ないと思う。けどね、信貴くんは、戦うことも出来なかったのよ。死んじゃったのよ。あなたは、それでいいの?。ずっと、いじめられたままでいいの?。イジメを見て、苦しんでいる人だっているのよ。キリも、そうでしょ。」
 キリの母親の目が、赤く染まる。僕の目から、一筋の涙が零れた。
「あなたが戦わないで、誰が戦うのよ。あなたが動かないと、あなたのいる世界は何も変わらないのよ。」
「・・・俺は・・・何も出来ない・・・」
「あなたにしかできないの。辛いかもしれないけど、頑張ってほしいの。キリも、そう思ってるはずよ。裁判に勝つかどうかなんて分からないわ。でも、裁判が終わったとき、あなたは強くなっているはずよ。絶対、自分で死んだりしない。」
 僕は、涙でグチャグチャの顔だった。
 僕は、弱かった。
 僕は、いつも泣いていた。
 でも、変わりたかった。いつも、変わりたかった。
 僕のいる世界を、孤独なものにしたくなかった。
 僕のいる世界を、変えたかった。
 教室の窓を見つめて、いつも、そう思っていた。












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