二章:日常
ややビビりながらも、なんとか学校に着いたのは、講義が始まる少し前だった。
ふむ、目覚ましがちゃんと働いてくれたのは大きいな……
それなりに広いキャンパスには、すでに多くの生徒が登校していた。
都心にある割には、この学校は緑が多いことで有名である。校内の環境もいい。
これから講義のものや、休憩している者など、みんな思い思いの形で過ごしている。
やはり、早めに来ると心のゆとりが違う。遅刻ギリギリのときは周りのことを見る余裕がないし……。
これだけ落ち着いてまわりを観察するのは、なかなかないことだった。
俺はすぐ講義があるので、部屋に向かう………途中、何人かの顔見知りと挨拶を交わした。
部屋に入ると、いつもの席へ。ここだけは譲れない。
しばらくすると、眼鏡をかけた、小柄な男の教授が部屋に入ってきた。
いつも通りの席で、いつも通りの講義を聞く。なにも変わらない。
ほどなくして、後ろの席の生徒数人が小声で会話しているのが聞こえてきた………これもいつものことだ。
そう、いつも通りの毎日……
朝起きて、学校に行き、授業を受け、サークル活動をし、友達と遊び、家に帰り、寝る。
これらの「日常」は定型化し、それは絶え間なく続くもの……と、つい思い込んでしまう。
そう、みんな、日常は崩れないと思い込んでしまうのだ。
世界は、自分にだけは優しいと。
どんなことがあっても、この日々は崩れないと。
だが、違う。
この世の中に崩れないものなどない。全てのものはいつか必ず壊れる運命なのだ。
そして、世界はそんな崩壊を否定も肯定もしない。
ただ、それらを受け入れるだけだ。そして、在り続ける。
時にそれは優しくもあり……そして、時に何よりも残酷である。
身をもって知っているのだ。俺は、それを。
あの、事故で。
俺の、世界は、崩れた――――――
……講義に出ていながらも、ずっと上の空だ。
思考は常に、あの事故のこと、そしてこの日常についてに向けられている。
例えば、後ろで喋っている生徒が全員退出させられたら?
それは、わずかな綻びでしかないかもしれない。それも「日常」の差異に入れるかもしれない。
関係ないその他大勢の人は、それを変化だとは思わないだろう。もしも、その生徒が退学処分になったとしてもだ。
壇上で熱心に語るあの教授がいきなり倒れたとしたら?
これも、また同じように、「日常」を崩しえるものではないだろう。
無関係な人にとっては、ちょっとしたことだろう。
そう、自分の身に直接かかわるようなことでないと、「日常」の脆さを知ることはできないのだ。
退学になった生徒たちはいったいどうなるのだろうか?
倒れてしまった教授の家族は?
昨日までの日々は、もう来ないだろう。
確かに、いつかはその事を受け入れ、また日常は返ってくる。
だが、それは昔とはまったく違う日常――
壊れ、再び創られる。
かく言う自分もそうだろう。あんなことがなければ、当たり前の日常を当たり前に感じていただろう。
愚か、というわけではない。それが、普通なのだ。
そして、できればそれは知らない方がいいことでもある。
知っていても、何かを変えることはできない。ただ、心構えが違う、その程度のこと。
何かあった時に、ああやっぱり、と納得できるだけ。それは………悲しいことだと、思える。
もちろん、これは俺だけが知っている、なんて思いあがるわけでもない。もっと酷い目にあった人なんてごまんといるだろう。
それに、俺はこんなことを知りたくなんてなかった。ただ、普通に生きていられれば良かった。
知らない方が幸せ………まったく、その通りだ。
だから、日常の脆さを知ってしまった俺には、この変わり映えのしない毎日がとてもうれしい。
変わらない日常なんてないと知っているから、俺はこの一瞬を大切にしていきたい。
そして、願わくは、この日常が壊れませんように……
柄にもなく、長々と考え事をしているな……と思った。
やはり、朝見たあの夢が影響しているのだろうか。
あんな夢を見たのは初めてだからな……
あのことは、自分の中で割り切ったつもりだったのだが、もしかして俺は―――
「おい、寝てるのか?仁科」
小声で、不意に隣から声をかけられた。ふと、右を見てみると、友人の柿本がいた。いぶかしげな表情で、こちらを窺っている…。
「なんだ、起きてたのか?それにしてもボーっとしすぎじゃあないか?」
半ばあきれたような口調で、柿本は言う。
「あれ?柿本、いつからそこにいたんだ?」
「おそらく、お前が部屋に入ってからすぐだ。まったく気づいてなかったのか?確かに、こっちから声は掛けなかったが……
そんなんで、ちゃんと講義を聞いてるのか?」
「失礼な。先生の言葉は一字一句と逃していないぞ?確か、さっきはカレーの起源についての話だったよな」
「なんだよカレーって…どこから湧いてきたんだそれは。まぁ、起きてるならそれでいい」
「ちなみにカレーってインド固有の言語じゃないんだぜ。知ってたか?」
「いや、知らない。というか、カレーの話はもういい。いい加減講義に集中しろ」
それだけ言うと、さっさと前を向いてしまう。
柿本 悠――――
俺の友人の一人。
一年のとき……入学式以来の付き合いだ。なんとなく意気が合ったのだろうか。すぐに仲良くなった。
なかなかの美男子で、おまけに頭の回転も速いときたもんだ。まったくうらやましい限りで……
女子が放っておくわけがないんだから。ただ、本人曰く、モテてはないらしい。
とても真面目な性格で、常日頃何かと世話を焼いてもらっている。もっとも、そのほとんどは小言だけれど。
やれ遅刻するなだとか、もっと余裕を持てだの、何かとうるさいのである。
確かにありがたいのではあるが……
とはいえ、確かに気を抜き過ぎていた節がある。らしくもない。
不安ばっかりじゃあ前には進めないし、実際そのときにならないとどーすることもできないのだ。
そんときはそんときでどうにでもなるだろうし…
もともと楽天家なのだ。将来を悲観しすぎるのは性に合ってないのだ。
少し頬を叩いて、気持ちを入れ替える。講義に集中するか…
教授は何やら熱弁をふるっている。相変わらず後ろの席はやや騒がしい。柿本は隣で熱心にノートを取っている……。
ああ、今日もいつも通りの毎日が始まる―――――――
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