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本好きの下剋上 ~司書になるためには手段を選んでいられません~ 作者:香月 美夜

第三部 領主の養女

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新しい紙と手押しポンプ

 今日はプランタン商会からベンノとマルクがやってくるので、わたしは昼食を終えるとすぐにフランとモニカとニコラと一緒に孤児院長室へと向かった。
 プランタン商会を通せるように孤児院長室の隠し部屋の準備をしてもらうため、扉に手をかざして魔力を通そうとしたところで、大変なことに気が付いてしまった。

 ……どうしよう!? ギルがいない!

 下町時代のわたしとベンノ達の関係を知っていて、態度を崩しても問題のない側仕えはギルとフランだけだ。
 だが、フランは隠し部屋に関して、とても嫌な思い出があるようで、隠し部屋に近付くと顔が強張る。「どうしても付いてきてほしい」と言えば、死を覚悟したような顔でわたしの要求を叶えてくれるだろうけれど、そんな強要はしたくない。

「ローゼマイン様、隠し部屋の準備をするのではないのですか?」

 一旦向かおうとして、足を止めたことで、フランが訝しげに問いかけてきた。わたしは一瞬言葉に詰まり、へらっと笑って誤魔化す。

「今日は……こちらでお話しようか、と」
「……ギルがいないのですから、私がお伴いたします」
「フランの気持ちは嬉しいですけれど、無理する必要はありません」

 わたしが首を振ると、フランは少しばかり無理していることがわかる、平静を装った顔で「ローゼマイン様、お手数をおかけいたしますが、私の苦手克服にご協力ください」と言った。

「ローゼマイン様が領主の養女であるために努力しているのですから、筆頭側仕えである私がいつまでも同じ場所で足踏みしているわけにはまいりません。苦手な場所も克服したいのです」

 わたしが何を言ってもやるのだとフランが意地を張るならば、しなくてよろしい、と却下できるけれど、協力してほしいと頼まれると却下できない。

「……では、協力しますけれど、気分が悪くなったら、すぐに言うのですよ? こちらでもお話しようと思えばできるのですし、無理しても良いことなどありませんからね」
「かしこまりました」

 苦笑するように頷くフランの後ろで、ニコラが「何だかいつもと反対ですね」とクスクス笑った。

 わたしは隠し部屋の掃除の邪魔にならないように、二階のテーブルに書類とお茶が準備されている。お茶を飲んでは少し振り返るようにして、隠し部屋の様子を伺っていた。

 最初にモニカが隠し部屋の扉を大きく開け放ち、中に入って、掃除を始める。ニコラも同じように隠し部屋に入っていった。
 そんな二人に続いて、扉の前にフランが立つ。やっぱり顔色は良くない。
 わたしがそわそわしながら、フランの様子を伺っていると、視線を感じたのか、フランがこちらを振り返った。目が合うと、フランは小さく笑みを浮かべる。

「大丈夫そうです、ローゼマイン様」

 最初に隠し部屋に踏み入る時には青ざめた硬い表情をしていたけれど、一度入って出てきたフランは普通の顔になっていた。平然とした顔で掃除をしたり、お茶の準備をしたりと動いている。
 フランは感情を隠すのが上手いので、辛いのを必死に隠しているのではないか、とわたしが椅子から身を乗り出すようにして、掃除したり、お菓子を運んだりするフランを見ていた。
 すると、次にフランと目が合った時、今度は笑いを堪えるような顔をされてしまった。

「本当に大丈夫ですから」

 ……むぅ、本当は無理してるんじゃないかなぁ?

 疑いの目でフランを見ているうちに、門で待機していたフリッツがベンノとマルクを連れてきた。
 貴族の挨拶を交わして、隠し部屋へと入る。
 やっぱり心配でフランの様子を見ようと少し頭を動かした瞬間、「よそ見をしてはなりません」とフランに軽く肩を押さえらえた。いつものフランの反応だ。

 ……大丈夫みたい?

 隠し部屋に入っても顔色を変えることなく、フランはベンノ達にお茶を出している。わたしもフランのいれてくれたお茶を飲んだ。動揺や緊張は欠片もない、いつもの味だった。

「それで、今回の用件は何だ? 新しい紙ができたと聞いたが……」

 お茶を堪能していたベンノが話を切り出した。それと同時にフランがスッと新しい紙とルッツ達からの手紙をベンノの前に置く。

「ベンノさん、これがイルクナーから届いた新しい紙です。ルッツとギルの手紙によると、つるつるとした素材なので、これにインクが付着するかどうかを調べて欲しいそうです。インク工房のハイディに渡して、研究してもらってください」
「わかった」

 わたしも研究したいんだけどな、と呟くと、ベンノにじろりと睨まれる。

「それぞれの領分があるからな。インクの研究は領主の養女の仕事じゃない。お前は倒れないように体調管理しながら、貴族社会で影響力を身に付けておけ。貴族同士のいざこざで印刷業が丸ごと潰されないようにな」
「はぁい」

 貴族とのやり取りより、紙を作る方が楽しいのだが、ベンノの言い分は正しい。始めてしまった以上、わたしが印刷業を守っていくしかないのだ。

「……それにしても、結構硬いな。この紙はどう使うんだ?」
「トランプにしたいですね。扱いがすごく楽になるので」

 神官長はこの紙の使い道としてハリセンが気に入ったようだが、そうパシパシ頭を叩かれるのは嫌だ。

「インクが付着することを確認できてから、値段設定を考えましょう。使えなかったら意味がないので」
「そうだな」
「そういえば、ベンノさん。トゥーリはどうしてますか? 元気にお仕事してますか?」

 わたしはベンノにトゥーリの状況を聞いてみた。
 10歳を過ぎると、仕事が隔日ではなくなり、毎日行かなくてはならなくなる。つまり、孤児院に来られる機会はほとんどない。
 おまけに、今はイルクナーに長期出張でルッツがいないので、家族に手紙も届けてもらえないし、近況を聞くこともできない。書いたものの、届けられない手紙を抱えてしょんぼりしている毎日である。

「ベンノさん経由でトゥーリに手紙を渡すのは無理ですか?」
「一応プランタン商会とギルベルタ商会は別物だということになったからな。コリンナを通じて渡せなくはないが、あまり人目に触れるのは止めた方が良い」

 ここで受け取ったルッツがそのまま家に届けるのであれば、手紙が他人の目に触れる機会はほとんどない。けれど、ベンノに渡し、コリンナに渡し、トゥーリに渡し、と人を介在すれば他人の目に触れる機会はぐんと増える。

「特に、コリンナからトゥーリに渡すのは目立つ。何をもらったのか、何が書かれているのか、注目の的になるだろう。自分から情報を垂れ流すような真似はするなよ」
「……ですよね。収穫祭まで我慢か。寂しいな」

 ルッツが戻ってくるまで、連絡を取るのは諦めた方が良さそうだ。

「ローゼマイン、今年の収穫祭はどうなんだ? 神官の移動はあるのか? 馬車は準備した方が良いのか?」
「いります。神官の移動はエーレンフェストからハッセ、ハッセからエーレンフェストの両方がありますから、ぜひお願いします」

 わたしの言葉をマルクがすぐさま書字板に書き留めていくのが見える。

「ローゼマイン様、馬車や食料の手配はこちらでいたします。ですから、また門に向けて、護衛依頼の手紙をお願いしてもよろしいでしょうか?」
「任せてください」

 父さんと会える、数少ない機会を思い出して、ちょっと元気が出た。早速門に向けて手紙を書かなければ。

「それから、冬支度についてだが、孤児院の分は去年同様、ギルベルタ商会と合同でやってくれ。あっちにもローゼマイン工房との繋がりを残しておきたいからな」
「わかりました。あ、繋がりを残すなら、中古服を買いに行く時の案内役はトゥーリにお願いできませんか? お給料代わりに服を買ってあげる、と言っておいてください。そうやって買いに行かせないと、ちょっとくらい小さくなってもトゥーリは平気で着るでしょ? 絶対に工房では浮くと思うんですよ」

 コリンナの工房はどちらかというと裕福な家の子が多い。大店のお嬢様であるコリンナに紹介できるだけの繋がりがなければ入れないので、どうしても富裕層が集まるのだ。コリンナの工房で、一人だけ貧民層のトゥーリは間違いなく浮いていると思う。

「でも、トゥーリは自作リンシャンで身綺麗にすることを覚えたし、可愛いし、素直で性格は良いし、髪飾りできっちりと売り上げには貢献しているから、服を揃えれば問題ないんじゃないかな、と思っています。その辺り、コリンナさんやオットーさんにも気を付けてもらえるように言ってください」

 ベンノが軽く手を挙げながら、「わかった。言っておくが、お前は本当にトゥーリが好きだな」と小さく笑った。トゥーリはわたしの天使なので、当然である。

「後は、そうだな。ザックからの伝言だが、井戸用ポンプの試作品ができたと言っていた。俺にはよくわからんが、お前が変則的な注文をした物だろう?」
「え? 試作品? 設計図じゃなくて?」

 わたしが目を瞬くと、ベンノは顎に手を当てながら、ザックの言葉を思い出そうとするように視線を巡らせる。

「お前に言われた通りの原理を組み込んでみたものの、本当に水が汲めるのかわからなくて、試作品を作ったらしい。すでにザックの工房が使う井戸に設置して、何度か改良されていると聞いたぞ」
「もう試作品ができているなら、広がるのも早いでしょうか? 手押しポンプの設計図は、鍛冶協会に管理してもらって、鍛冶職人だったら誰にでも作れるようにしたいんですよ。一つの工房が独占するには利益が大きすぎるし、水汲みに苦労しているのは、皆同じですからね。できるだけ早く広げたいです」

 ザックの手押しポンプはなるべく単純な設計にしてもらえるように頼んだ。ヨハンでなければ作れないような繊細な物が一部使われているけれど、できるだけ多くの人が短期間で作れるものでなければ普及しないからだ。

「また、お前は……利益を考えろ!」
「これでも一応考えてますよ。鍛冶協会に設計図の管理を任せますけど、手押しポンプを無料で広げるわけじゃないんです。一つ作るたびに、元々の提案をしたわたしと設計図を作ったザックにはお金が入ってくるように鍛冶協会と契約魔術を結ぶつもりなんです」
「ふぅん、なるほどな」
「そういうわけなので、ベンノさん。契約魔術、お願いしてもいいですか? もちろん、お金は払います」

 わたしが肝心要の契約魔術のお願いをすると、ベンノは不可解そうに眉を寄せた。頭が痛いと言わんばかりに、手を挙げて、わたしに向ける。

「ちょっと待て。無関係の俺が取り仕切るのはおかしいだろう?」
「でも、契約魔術を使える知り合いってベンノさんくらいしかいませんけど」

 わたし自身が結んだ契約魔術は全てベンノに仕切ってもらった。商売をする上での契約魔術を行うのはベンノ以外に頼めない。

「……俺じゃなく、お前の養父様に頼め」
「え? 養父様?」
「契約魔術を行ったら、どうせ領主様にも申請しなければならない。新しい物を流行らせようとするなら、ザックや鍛冶協会の心証を良くするためにも、手押しポンプを一つ献上しておいた方が良いと思う。それに、新しい物は上から流行らせた方が良いんだろう? だったら、商人が使う街だけの契約じゃなく、領地に広げられる貴族の契約魔術を使った方が良い」

 ベンノも植物紙ができた時は、契約魔術の報告と共に新商品として献上したらしい。

「それが商人のやり方なら、従っておいた方が良いですね。じゃあ、ザックには領主に献上する手押しポンプを作るように言っておいてください。ついでに、謁見することになれば、鍛冶協会の会長にも契約のために城へ同行してもらうので、話を通しておいてくれると助かります。わたしは神官長にお願いして、謁見の許可を取りますから」



 ベンノから話を聞いたザックとヨハンが「領主に献上するための手押しポンプだと!?」と泣きそうになりながらポンプを作り始めた頃、わたしは神官長に手押しポンプができたことを報告して、「聞いていない」と叱られていた。

 没収されたまま返してくれないハリセンで叩かれた頭を押さえながら、わたしは神官長に報告する。

「設計図ができた時点でお話する予定だったのですけれど、もう試作品ができていると言われたのです。水汲みを楽にするための道具ですから、貴族には直接関係ないでしょうけれど、平民にはとても喜ばれると思います」

 ついでに、ベンノと話をしていたような利益の取り方や契約魔術についても報告し、謁見の予約を取ってもらえるようにお願いした。

「早く広げるためには、商人用よりも貴族用の契約魔術で領地全体に広げた方が良いのではないか、とベンノに言われたので、養父様との謁見の予約をしてほしいのです。わたくしと後見人の神官長、設計者のザック、設計図を預かる鍛冶協会の会長の四人を予定しています」
「確かに、少し聞くだけでも大規模になりそうだ。だが、領主に話を通す前に、その製品がどのような物か確認したい。まず、私に見せるように、鍛冶協会に言っておきなさい」
「わかりました」

 そして、ベンノを通して、神官長の要望を伝えてもらった。結果として、ヨハンの工房が使っている井戸に設置する予定だった試作品二号が神殿へと運び込まれ、取り付けつつ、ザックとヨハンが説明することになった。

「では、こちらの井戸に取り付けていただきますね」

 わたしの言葉に、何人か連れて来られている鍛冶職人は、口を利くのも怖いと言わんばかりに黙々と神殿の井戸に手押しポンプを設置し始めた。
 わたしは、そぉっと職人組に入ろうとしているヨハンの腕をつかみ、設計図を持ったまま緊張で固まっているザックの手を取る。

「神官長、彼らがわたくしのグーテンベルクで、印刷に関わる道具の設計や製作を一身に担ってくれているのです」

 軽く目を見開いて、動揺と混乱が顔に出ている二人を神官長はとても気の毒そうな目で見下ろし、軽く息を吐いた。

「……これからも大変だろうが、励みなさい」
「は、はいっ!」
「設計図があると言ったな? 見せてくれ」

 ガチガチに緊張しているザックが設計図を広げ、神官長に手押しポンプの原理を説明していく。なるべく丁寧な言葉を喋ろうとするあまり、ところどころ変だったり、噛んだりしながら、頑張っている。
 それを横目で見ながら、口下手なヨハンはこそこそと職人組に入って、黙々と取り付け作業を始めた。

「……ほぉ。これを動かすと、これが動いて弁が開くのか。何故、こうなる?」

 研究者肌の神官長は新しい道具や今まで知らなかったらしい原理を前に、生き生きしている気がする。ザックの言葉がおかしいことなど気にも留めずに質問を繰り返しているが、質問されるザックの方はもういっぱいいっぱいの顔になっていた。

「えーと、シンクウ? 状態を作り出すことが必要で?……ローゼマイン様の説明を聞いて、それで私がっ……なるべく単純な作りになるように、と言われましてっ!……原理についてはローゼマイン様にお願いします」

 とうとうザックはわたしに丸投げしてきた。わたしも神官長の質問攻撃に耐えられるほどの知識はないのだけれど。

「ローゼマイン様、完成いたしました」
「では、呼び水を入れて。実際に動かしてみてください」

 ヨハンが呼び水をザバッと入れて、ギッコギッコとハンドルを動かした。何度か動かすと、水口から桶に向かって水がドプドプと音を立てて流れ込む。

「ほぉ……」
「以前よりもずっと楽に水が汲めます。……せっかくだから、女の子に挑戦してもらいましょうか。モニカ、ポンプを動かしてみてちょうだい」
「は、はい」

 指名されたモニカが皆に注目されて緊張した面持ちでポンプの前に立ち、ハンドルに手を伸ばした。んっ! と力を入れて、ハンドルを動かせば、すぐに水が出てくる。
 ドッと出てきた水に驚いたようにモニカがハンドルから手を離し、目を丸くして桶の水と自分の手とポンプを交互に見た。
 その後、取り付けた職人達に賞賛の視線を向ける。

「こんなに簡単に水が出るなんて……すごいです。水汲みがとても楽にできます」

 モニカの動きを見ていた神官長が、ふむ、と頷いた。

「なるほど。素晴らしい出来だ。これは確かに領主への報告が必要だな。謁見の予約はしておこう。領主に贈るに相応しい物を作るように」

 お褒めの言葉よりも、神官長にプレッシャーをかけられたことが頭を占めたらしいザックとヨハンが真っ青になりながら、何度も頷き、神殿から退出していった。



「謁見日が決まったから、2の鐘が鳴って、工房を開けてから神殿に来てもらってください。わたくしと神官長が一緒なので、緊張はするかもしれませんけれど、理不尽な文官に当たることはないです。安心してくださいって伝えてくださいね」

 ベンノを通した伝言はきちんと伝わっていたようで、謁見日当日、緊張の面持ちでザックともう一人のおじさんが晴れ着を着て神殿へとやってきた。献上する手押しポンプの取り付け係の職人達も皆が強張った顔をしている。

「ポンプが大きいので、馬車では運びにくいですね。わたくしの騎獣を使いましょうか?」
「……本来騎獣は荷物運びをするための物ではないのだが、君には何を言っても無駄だな。今回はアウブ・エーレンフェストへの献上品だから、まぁ、良いだろう」

 ちゃっかりとわたしの騎獣に荷物を載せる神官長には言われたくないことだ。
 とりあえず許可が出たので、わたしはレッサーバスを出し、手押しポンプを乗せてもらう。
 そして、職人達もまとめて乗ってもらった。皆がものすごく不気味そうにレッサーバスを見回しながら、怖々という顔で乗っていく。

 ……貴族と同乗なんて怖いだろうけど、我慢してね。

 フランがシートベルトの締め方を教えて回り、レッサーバスから降りた。

「いってらっしゃいませ、ローゼマイン様、神官長。お早いお帰りをお待ちしております」

 ダームエルの騎獣が先導する形で領主の城へと出発する。今回は居住地に帰るわけではなく、公的な謁見をするためなので、馬車が通る道を低空飛行で通り、正面玄関へと向かうのだ。

「アウブ・エーレンフェストへの謁見だ。それから、こちらが献上品となる。執務室から一番近い井戸に設置させるように」

 入ってすぐの部屋にいる文官に、神官長が声をかける。領主の異母弟である神官長が手続きしてくれていたので、わたし達はすぐに待合室へと通され、職人達は文官に誘導されて、井戸へと向かった。

「謁見中、二人は静かに跪いていてくださいませ。受け答えはわたくしとフェルディナンド様が行います」
「かしこまりました」

 ホッとしたようにザックと鍛冶協会の会長が胸を押さえた。大商人でもない職人が領主に目通りすることなどない。鍛冶職人の二人がガッチンガッチンに緊張しているのはわかるけれど、契約魔術のためには仕方がない。領主を下町に呼びつけることなどできないのだから。

 ……しばらく耐えてね。

 それほど待たされることもなく、わたし達は養父様の執務室に通された。
 養父様も領主らしい威厳のある顔で迎えてくれたが、新しい物好きの目は興味と好奇心に輝いている気がするのは、きっと気のせいではない。

「献上品があると聞いたが?」
「はい。手押しポンプと言って、井戸の水汲みを楽にする道具です。今、こちらの井戸に取り付けています」

 神官長も真面目で丁寧な態度で説明する。すでに申請していることなので、この言葉のやり取りは、ただの確認のようなものだ。

「エーレンフェストに広げたいと考えていますので、商人用の契約魔術ではなく、アウブ・エーレンフェストの契約魔術を使いたいと存じます」
「……いくら、其方等の頼みとはいえ、まずは、実物を見てみないことには何とも言えぬな」

 身内でも贔屓はできぬ、とちょっと難しい顔で、口では偉そうなことを言っていても、「さぁ、早く見せろ」と目が雄弁に物語っている。

 ……わたしは別にいいんだけど。

 本来は、領主を井戸のところへ向かわせるなんて、本当に失礼なのだ。地階は下働きが動く場所で、貴族が歩く場所ではない。下町の森へ出かけたことがある養父様には関係のない話に思えるかもしれないが、領主の威厳とか、建前とか、大事なものがある。
 わたしはちらりと神官長へ視線を向けた。神官長は「予想済みだ」という顔で、軽く頷くと、口を開いた。

「実際にご覧いただければ、契約魔術が必要な理由をわかっていただけると存じます。アウブ・エーレンフェストには大変失礼なことと存じますが、井戸までご足労いただけますでしょうか?」
「ふむ、其方がそこまで言うならば、実際にこの目で判断するとしよう。案内せよ」

 本当は嫌だが仕方がない、という顔を作っているが、養父様の足取りは軽い。護衛騎士や文官をぞろぞろと引き連れて、わたし達は井戸へと向かった。

「こちらでございます」

 案内された井戸では職人達が取り付け作業を終えたようで、下働きが驚きの声を上げながらポンプを使っているのが目に入った。わたし達の姿が見えると同時に下働きの者達は、蜘蛛の子を散らすように去っていく。
 跪く職人達の前に立ち、ポンプを見た。

「……これか?」
「そうです。ザック、使い方を見せてちょうだい」

 ザックが使ってみせるのを養父様が食い入るように見ていた。多分、自分でもやってみたくて仕方がないのだと思う。けれど、水汲みのような仕事を領主にさせるわけにはいかない。ここに来ただけでも十分な譲歩なのだ。
 それがわかっているので、養父様も不満そうな顔をしているけれど、「やりたい」とは言わない。

「……其方等の言う通り、これを広げるならば契約魔術は必要だろう。領地内に広げられるようにせよ」

 養父様の不満そうな顔が深く考えている難しい顔に見えるので、一見、思慮深い領主に見える。ザックと鍛冶協会の会長は何やら感じ入ったような顔をしているけれど、完全に騙されていると思う。

 ザック達が上手く騙されている間に契約魔術を行った。
 わたしと養父様は魔力で書けるペンでサインすれば終了だが、ザックと鍛冶協会の会長は商人用の契約魔術に使うのと同じインクでサインし、血判を押さなければならない。

「ぅわっ!?」

 ザックが血判を押した直後、契約書は金色の炎に包まれて消えていく。ぎょっと目を見開いたザックが慌てて自分の口元を押さえた。

「これで契約魔術は完了です。手押しポンプが広がり、皆が楽に水汲みできるようになれば良いですね」



 以後、作られたポンプには、何故か設計者であるわたしとザックの名が刻み込まれることになった。
 新しい紙の研究はハイディに回りました。
 そして、手押しポンプができました。灰色神官達が大喜びです。

 次は、収穫祭です。
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