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本好きの下剋上 ~司書になるためには手段を選んでいられません~ 作者:香月 美夜

第二部 神殿の巫女見習い

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ロウ原紙に挑戦

 色インクは一応それらしいものができあがった。定着剤をつけた紙の上なら重ね塗りができても、パレットでインクとインクを混ぜたら黒くなるようなインクなので、取り扱いには注意が必要だけれど。
 何はともあれ、一歩前進である。

「あぁあ~、あっという間にできちゃったね」

 一安心でホッとしたわたしと違って、ハイディは自分の楽しみを取り上げられた子供のようにガッカリした顔でそう呟いた。実験をしている間はとても楽しかったけれど、原因究明をする前に終わってしまったのが心残りで仕方がないらしい。
 ヨゼフが呆れたように溜息を吐きながら、コツンとハイディの頭を小突く。

「お嬢様が出資してくれる研究は色インクができたんだから、もう終わりだ」
「大事な結果は得られましたし、研究を続けたいなら多少のお金は出しますよ?」
「え!?」

 わたしがそう言うと、ハイディは喜色満面で、ヨゼフは信じられないと言うように、わたしを振り返った。

「色を鮮やかにしたり、色数を増やしたりする上でも、色インクの基礎研究は大事だと思っています。あまり時間がないので、色インクの完成を優先させましたけれど、研究はできるなら、した方がいいんです」

 そして、この変色する原因を自分では解明する気がないので、誰かが代わりにやってくれるなら、望むところである。

「お嬢様、最高!」
「ハイディを甘やかしすぎです!」
「わたくしにとって、ハイディもヨゼフもグーテンベルクの仲間ですから」

 印刷するにはインク関係者も必要だ。わたしが新たな仲間を見つけてニヘッと笑うと、ルッツは「増えちまった」と頭を抱えた。
 ハイディとヨゼフが目を瞬いて首を傾げる。

「……グーテ……え? 何だって?」
「グーテンベルク。本の歴史を一変させるという、神にも等しい業績を残した偉人です。今のところ、金属活字のヨハン、植物紙のベンノさん、それから、本を売るルッツがこの街のグーテンベルクです。あとは、印刷機を作ってくれる人としてインゴさん、インクを作ってくれる人としてハイディとヨゼフをグーテンベルク仲間に考えています。グーテンベルクにわたくしが出資するのは当然です」

 わたしが胸を張って説明したが、ヨゼフはやはりわからないと言うように首を傾げる。けれど、ハイディは飛び上がって喜んでくれた。

「グーテンベルクだって、ヨゼフ。お仕事だって。出資してくれるんだって。研究していいんだって。いやっふぅ!」

 ひとまず色インクができたのだ。あとはハイディが好きに研究しても問題ない。むしろ、原因がわかれば、役に立つこともあるだろうし、どんどんインクの研究をしてほしいものだ。

「ただし、最優先はインク作りです。注文したインクを期日までに納品できないようなことがあれば、容赦なく出資は打ち切ります」
「ひぇっ!?」

 こういう研究馬鹿は、研究を始めると周りが見えなくなることが多い。最優先にしなければならないことを叩きこんで、しなかった場合のペナルティを決めておかなければ、どこまでも暴走するのだ。

「さすが同類。やりそうなことがよくわかっているな」

 ルッツが笑いながらそう言うと、ヨゼフも口元を押さえて小さく吹き出した。ヨゼフが責任を持って、ハイディの研究を監視してくれるそうだ。



「色インクは目途が立ったでしょ? 次は、ロウ原紙が欲しいんだよね」

 わたしが次に準備したいのは、ガリ版印刷に欠かせないロウ原紙だ。鉄筆で書いたとおりに印刷できるのだから、絵本ならば、文字を切り抜いて版紙を作ったり、金属活字を組んだりするより楽に文字の部分が印刷できると思う。
 絵も繊細な線が印刷できるようになるので、ヴィルマの絵柄なら、もっと素敵になるかもしれない。

「今の版紙じゃダメなのか?」
「ダメなわけじゃないよ。今のままでも絵本は作れるから。ただ、ロウ原紙を作ることができれば、表現方法が増えるの。版紙をカッターで丁寧に切り抜いていくより、鉄筆でガリ切りする方がずっと簡単だし、細い線も使えるようになるの」

 ロウ原紙を作るためには、まず、向こうが透けて見えるような薄い紙が必要になる。
 しかし、まだ紙作りを始めてルッツでさえ二年半、孤児院の皆に至っては一年もたっていない。少し厚めに漉く絵本用の紙ならばともかく、薄く、でも、均一な紙を作るのは少し大変なようだ。マイン工房で挑戦してもらっているけれど、まだ成功よりも失敗の方が多い。簀から外す時や乾燥させるために板張りにする時に破れてしまうらしい。

「トロンベなら、結構簡単に作れるんだけどな」

 ルッツがそう言って、軽く息を吐いた。フォリンより繊維が細くて長いトロンベの方が薄く均一に漉けるらしい。けれど、トロンベを版紙として使うには高価すぎるし、希少すぎる。

「フォリンで何とか作れないと、値段的にきついんだよね」
「……だな」

 紙の改良はルッツとギルを中心に頑張ってもらうしかない。
 絵本用の紙を作る傍らで、手先の器用な者が集まって、薄い紙を漉いていく。どうしたら成功率が上がるか、皆で検証しながら作っているようだ。

 数日たって、昼食から戻ってきたルッツがわたしの部屋へとやってきた。

「マイン、旦那様から伝言。蝋工房と連絡がついたって」
「本当!?」
「明日の午後なら良いって」
「これでギルの書字板も作れるね」

 その夜、父に頼んで、ギルのためにルッツと同じサイズの書字板の枠を作ってもらった。中央に蝋を流し込んでもらえば完成だ。
 わたしの蝋もかなり減ってきて、柔軟性もなくなってきているので、一緒に入れ直ししてもらいたい。わたしは自分の書字板の中の蝋をガシガシと削り取って、空っぽにした。

「おはようございます、ベンノさん」
「よし、行くか」

 ひょいっとベンノはわたしを担ぎあげて歩き始める。わたしが手渡した書字板の枠組みを大事そうに胸に抱えたギルとルッツが小走りでついてくるのがベンノの肩越しに見えた。
 無造作にベンノがわたしを抱き上げたことに、ダームエルが一瞬戸惑ったような顔をしたけれど、大股でスタスタと歩くベンノのスピードにわたしではついていけないことがすぐにわかったようだ。ダームエルも大股で歩き始めた。

「ベンノさん、獣脂の臭い消しの方法って、いくらで売れると思いますか?」

 工房に行く前にベンノとは打ち合わせをしておかなければならない。また暴走したとか、勝手なことをするな、と言われたら困る。

「インクの製法をインク協会に売ったように、一つの工房じゃなく、協会に売った方が良いと思うぞ。一つの工房で扱えるような値段じゃない」
「そうなんですか」

 どうやら結構な大金になるようだ。何に関しても研究開発と改良が必要そうなグーテンベルクの資金になりそうだ。わたしが交渉を頑張ろうと考えていると、ベンノが低い声で釘を刺してきた。

「臭い消しの交渉は俺がする。お前は交渉事で表に出るな。ヴォルフみたいなヤツが他にもいないとは限らないんだぞ」
「……はい」

 塩析に関する交渉はベンノに任せることにする。利益の取り分や交渉の仕方については、後で話し合うことになった。

「交渉を後回しにするなら、今日は蝋工房で一体何をするんだ?」
「今日はギルとわたしの書字板に蝋を入れてもらいます。あとは、色々な種類の蝋を購入したいと思っています」
「購入だけでいいのか?」

 ベンノの言葉にわたしは頷いた。
 とりあえず、蝋の改造をしなくても、ロウ原紙ができるかどうか、試してみたい。できれば、ラッキー。できなかったら、蝋を改造していくしかない。

「何も加えなくてもロウ原紙ができればいんですけれど、できなかった場合は、工房に蝋の改造を手伝ってもらいたいんです。松ヤニのような樹脂を入れて、ちょっと粘りのある蝋を作ってほしいんですよ」

 ロウ原紙に使うための蝋は松ヤニのような樹脂やパラフィンを混ぜたものだ。ここには石油から作ったパラフィンなどあるはずもないし、わたしの知識が通用するかどうかもわからない。
 色インクの変色から考えても、妙な変化を起こす可能性があるので、できれば改造する時は蝋のプロに手伝ってほしい。

「ふぅん。ひとまず、今日は購入だけ。手を加えるのは、できなかった時でいいんだな?」
「はい」

 ベンノはわたしを連れて、蝋工房へと入っていく。工房の中はむわりとした熱気と、獣脂の何とも言えない、鼻を押さえたくなるような臭いに満ちていた。
 ベンノが連絡していたため、すぐに親方が出て来てくれる。

「お、ベンノさん。いらっしゃい。今日は一体どんな用件で?」
「これに、一番安い蝋を流し込んでほしい」

 わたしとギルが書字板を出すと、「あぁ、前にもあったな」と言いながら、親方がすぐに蝋を流し込んでくれた。
 固まるまで触るな、と言われたギルがそわそわした様子で流し込まれている透明の蝋を見つめて、ニヨニヨと口元を歪める。時々、息を吹きかけて、少しでも早く冷まそうとしている。

「ギル、そんなことをしていたら、表面が波のように固まるかもしれないよ?」

 わたしが笑いながらそう言うと、ギルはビクッと肩を震わせて、わたしを見た。

「固まりかけた時に指でツンツンってやって、表面をボコボコにしたマインが言うんだから、間違いないな」
「ルッツのお喋り!」

 余計な事を暴露されてしまって、わたしがルッツを睨むと、ギルはちょっと笑いながら、少し書字板から距離を取った。わたしの二の舞はしたくないようだ。

「なぁ、ベンノさん。他にも何かあるんだろう? わざわざ連絡を寄こしたくらいなんだから」

 書字板に蝋を流し込んだ親方が道具を片付けて、ベンノのところへと戻ってくる。ベンノは軽く頷いた。

「あぁ、ここで取り扱っている蝋を全種類、小箱一つずつ欲しい」
「ぜ、全種類? いつもの蝋燭じゃなく?」
「あぁ、間違えないでくれ。蝋燭が欲しいんじゃなくて蝋だ」

 ベンノの注文に、親方は目を丸くした。注文に来る時は蝋燭のサイズや原料、量を伝えて、買っていくギルベルタ商会の旦那様が、蝋燭になる前の蝋を全種類買っていくなど、完全に予想外だったようだ。

「一体何に使うんで?」
「それはまだ言えんな」

 フッとベンノが笑うと、親方は考え込むように少しばかり目を細めた。精力的に次々と新しいことを始めているベンノがまた何か新しい物を作ろうとしているのだと考えるのは、自然な事だ。

「わかった。明日までに店へ届けよう」
「今すぐに準備できる物があれば、一つ二つ、先にもらえないか?」
「あぁ、すぐに準備する」

 親方がバタバタと奥の作業場へと入って行き、作業している人達に声をかける。二種類の蝋を手に、わたし達は工房を後にした。

「ほら、これで作業できるだろ?」
「ありがとうございます、ベンノさん」

 ギルベルタ商会に戻った後、わたしはベンノとカードを合わせて蝋の代金を払った。そして、塩析の仕方を紙に書き、代理交渉の料金を決める。これで、蝋協会との交渉はベンノがこなしてくれるはずだ。

「じゃあ、工房へ帰ったら、早速やってみようね」

 わたしがギルに蝋の箱を渡しながらそう言うと、ルッツが不安そうに眉を寄せた。

「なぁ、マイン。何をするんだ? どうするんだ? 全く説明が足りてないぞ。ここできちんと話してから神殿に戻れ」

 工房では基本的にわたしが動けないのだから、先に説明は必要だ。部屋で説明するつもりだったが、ギルベルタ商会で話をしてしまった方が、情報の漏えいは防げるだろう。わたしはコクリと頷いた。

「薄く作った紙があるでしょ? あれに蝋を薄く引くの。蝋を細かく削って、紙の上に散らして、『アイロン』をかけるだけ。簡単でしょ?」
「マイン、それはどんな物で、どこにあるんだ?」

 わたしが一番簡単な蝋引き紙の作り方を説明すると、ルッツはひくっと頬を引きつらせた。
 どうやら、アイロンが通じなかったようだ。わたしは記憶を探りながら、アイロンの説明をする。

「え、えーと、底が平らな金属で、すごく熱くして、布の皺を伸ばす物なんだけど、知らない? 富豪の家や服の工房にはあると思うんだけど」

 儀式用の衣装を作ってもらった時のことを考えると、間違いなくコリンナは持っていると思う。それを伝えると、ベンノが横から口を出した。

「あぁ、コリンナの工房にはあるな。アイロンのことだろう? そんな物を使うのか?」

 ベンノによると、綺麗な服を着る富豪の家や服飾工房には、底の平らな鍋のようなものに木炭を入れて、皺を伸ばす火のしのようなアイロンがあるらしい。中古服しか着ないわたし達の家には必要がないので、存在しないため、ルッツにはわからないようだ。

「ベンノさん、アイロンってギルベルタ商会で取り扱ってますか?」
「いや、あれは鍛冶工房で注文する物だ。誰もが使うような物ではないし、数が必要な物でもないからな。……それにしても、アイロンは下手くそなヤツが使うと、周囲が汚れるから、かなり取り扱いが難しいが、お前達に使えるのか?」

 鍋のような形のアイロンでは、灰が飛び散ったりして、周囲が汚れることが多いらしい。簡単に使える電気アイロンが欲しいけれど、そんなものがわたしに作れるわけがない。

「とりあえず、形だけでもちょっと改良して、ヨハンに頼んでみます」

 どうやらすぐには取りかかれないようだ。うむぅ、と唸っていると、ルッツも同じように唸って、腕を組んだ。

「やる気と知識だけはあるけど、道具がないって状態にはすっげぇ覚えがある。マイン、よく考えてみろ。他に足りない物があるんじゃないのか?」

 紙作りの時にも道具がなくて苦労したことをルッツに指摘されたわたしは、頬に手を当てて、簡単に作れる蝋引き紙の作り方を思い出す。

「えーと、蝋を細かく細かく削って、紙の上に散らすでしょ。これは茶こしみたいなので、削れるから大丈夫。雑貨屋で買える。それから、細かくなった蝋を紙の上に散らして……」

 そこで、わたしはすぅっと真っ青になって、口をパクパクさせた。ルッツの指摘した通り、道具が足りなかった。頭を抱えてその場にしゃがみ込む。

「のおぉっ! 『クッキングシート』がないっ!」
「はぁ!? 何?」

 簡単蝋引き紙の作り方で作ろうと思ったら、クッキングシートが足りなかった。さすがにクッキングシートは自力で作れない。少なくとも、わたしは作り方を知らない。

「……どう考えても無理だよ」
「落ち込むより先に解決策を考えろって。代わりになりそうな物はあるのか?」

 ルッツの言葉にわたしは眉を寄せて考え込む。クッキングシートができるより前に使われていたのは、アルミ箔やパラフィン紙だ。アルミ箔ではくしゃくしゃになって、蝋が均一に引けないだろうし、パラフィン紙は、パラフィン蝋でコーティングされた物だと大まかに考えれば、これから作りたい蝋引き紙と同じような物である。

「えーと、アイロンを使う上で、周囲の布に溶かした蝋が染み込まないようにするための物だと思うから、普通に紙で挟んじゃっても大丈夫かな? 大丈夫だったらいいんだけど、ルッツはどう思う?」

 確か、蝋がぶ厚くなりすぎたら、コピー紙で挟んで、蝋を少し吸着させることもできたはずなので、紙で挟んでもできると思う。思いたい。

「オレは全く知らないから、そんなこと聞かれても困る。他に必要な道具はないのか?」
「蝋引き紙を作るだけなら、それで大丈夫なんだよ。ただ、できた蝋引き紙がロウ原紙として使えるかどうか、試すためにはガリ版用の鉄筆とやすりが欲しいけど」

 蝋引き紙だけならば、蝋を溶かして乾かすだけだから、アイロンに蝋がついたり、ちょっと扱いが下手くそで周囲が汚れる可能性はあるけれど、失敗することはないと思う。問題はできた蝋引き紙がロウ原紙として使えるかどうかだ。

「ガリ版用の鉄筆とやすりって……ヨハンか?」
「うん。どっちもヨハンの管轄だね」

 わたしがすっくと立ち上がって、ルッツに大きく頷くと、ベンノがニヤッと口元を歪めた。

「マインに付き合うグーテンベルクは大変だな」
「ヨハンだけじゃなくて、ベンノさんもグーテンベルクですよ?」

 何を他人事のように言っているのか、とわたしが指摘すると、ベンノはすぅっと表情を引き締めた。わたしの頭をガシッと片手でつかんで、低い声で、唸るように言う。

「お前にグーテンベルク認定されたヤツは、全員、大量の仕事に埋もれて、大変な思いをしているんだ。次から次へと仕事を積み上げるお前から、何か一言あっても良いだろう?」
「え? え? え?」

 ベンノに求められている一言が咄嗟に思い浮かばず、わたしはベンノとルッツを見た。二人とも似たような厳しい目で、わたしの一言を待っている。ヒントはもらえそうにない。

「本の普及を目指して、これからも一緒に頑張りましょう」
「違うっ! ちょっとは(ねぎら)え!」

 怒鳴ったベンノから頭を拳でグリグリされ、わたしは涙目で叫んだ。

「ありがとうございますっ! ありがとうございますっ! 今のわたしがあるのは、ルッツとベンノさんのお陰ですぅっ! これからもご面倒をおかけいたしますが、よろしくお願いいたします!」



 ベンノからグーテンベルクに仕事をどんどんと積み上げていっていると指摘されたけれど、カミルと一緒にいられる時間に期限が決められているわたしには、絵本作りに関して自重するつもりなど全くない。

 ギルの鉄筆を引き取りに行った時、金属活字以外の仕事を欲していたヨハンに、わたしが知っている形に設計したアイロンとガリ版用の鉄筆とガリ版用のやすりの設計書を手渡した。
 どの道具も印刷に使うと知ったヨハンは、グーテンベルクの呼称からは絶対に逃れられないことを悟り、涙を流して喜んでいた。
 ロウ原紙に挑戦する前に、道具がなくて、足踏み状態になりました。
 ヨハンは大量の依頼に涙目で奮闘してくれることでしょう。

 次回は、デリアの進歩です。
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