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本好きの下剋上 ~司書になるためには手段を選んでいられません~ 作者:香月 美夜

第二部 神殿の巫女見習い

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夢の世界 後編

「君の家?」
「はい。懐かしすぎて……ちょっと苦しいです」

 マインが自分の胸を押さえる。今にも泣きそうな心情が伝わってくる。
 今までマインの思考が本にしか向いていなかったので、何となく流してしまっていたが、一度死んで、気付いたらマインになっていたと言っていた。ならば、生前の家に思うところがあるのは当たり前なのかもしれない。

 だが、マインに引きずられる形でいつまでも感傷に浸っているわけにはいかない。私はコホン! と咳払いをして、マインに質問する。

「その棚はずいぶんと雑多な印象があるが、何を飾ってあるのだ?」
「……母の『おかんアート』です。好奇心旺盛だけど、飽きっぽいというか、一つ二つ作品を作ったら、次に興味が移って、どんどん突き進んでいった結果がこれです。好奇心だけで手を出すくせに腕は伴っていないから……」

 マインは口では貶すようなことを言いながらも、愛しくて仕方ない物に触れるように指を伸ばす。

「これがレース編みの『コースター』で、これが髪飾り。この髪飾りが今はギルベルタ商会で商品化されているんです。わたしの豪華な簪の飾りもこの作り方でできているんですよ」

 騎士団の要請の折、間近で見たマインの簪を思い出し、納得する。確かによく似ていた。マインの簪の方が出来は良かったが。

「これは『新聞広告』を細い棒状に丸めて編んだ籠とバッグですね。木の皮を編んでバッグを作る時にお役立ちでした。いつも使っているバッグはこれと同じ作り方で作ったんです」

 マインがバッグを指差す。「母さんが途中で飽きたから、最後まで完成させたのはわたしなんですけど」と唇を尖らせて。

「ちょっとセンスに問題がある人形の服とぬいぐるみの数々。こっちの白くて丸いのは『雪だるま』になるはずだった編みぐるみの頭だけ。もうちょっとで完成するはずの『クロスステッチ』の絵と『パッチワーク』のタペストリー。クレイシルバーのネックレスとお揃いになるはずだった指輪」

 不格好な形の籠の中は、完成しなかった物が放り込まれているらしく、一つ一つ取り出しながら、マインが作った時のことを考える。その度に情景がパッパッと移り変わり、場所や時間を変えて、黒髪の女性が「もう止めた」と言い、続きをやるように渡してきたり、「行くわよ」と手を引いたりしている姿が浮かび上がっては消えていく。
 この黒髪の女性が、マインの母なのだろう。

「この絵もそうなんですよ」

 マインが部屋を出て、細くて狭い通路を歩いていく。何か四角い物をマインの指が押した瞬間、パッと辺りが明るくなった。

「何だ!?」
「あ、『電気』です。本屋で見たでしょう?」

 マインが上を見ながら、指差すと、ホンヤで見た物よりずっと小さな白い明りが見える。なるほど。あの四角い物に魔力のようなものを流し込んでいるのだろう。
 明るくなった通路の壁には、いくつかの絵が飾られていた。マインが「腕は伴っていない」と言うのも無理はない絵が並んでいる。

「統一性もないでしょう? 『水彩画』に『油彩画』、絵がうまくないのは画材が悪いと言いだして『日本画』。やっぱり簡単な『色鉛筆』にすると言ったかと思ったら、絵はダメだった。字なら何とかなると『書道』。わたしの花嫁修業だ、って言いだして、『茶道』に『華道』も連れ出されました。母が先に飽きて、お教室は辞めちゃいましたけど」

 くすくす笑いながら、マインが目元を拭った。何とも言えない懐かしさと愛しさが胸をいっぱいに占めているのがわかる。

「節約生活に自然派生活で、何でも手作りに凝っていた時期もありましたよ。やり始めると熱中するので、付き合わされるのに辟易していた時もあるんですけど……振り回されたお陰で、わたし、マインとして生きていけているんです」

 リンシャンや蝋燭、石鹸を作ったのもその頃で、(にかわ)やインク、絵具の類を自作しようと企んでいたのもその頃のことだと言う。
 そんな話をしているうちに、マインの目には熱いものが込み上げて来て、視界が歪む。

「すみません、神官長。久し振りすぎて……」

 そう言いながら、マインは目元を押さえてパタパタと小さい部屋に駆けこんだ。
 柔らかくてふんわりとした触感の布地を手にとったマインが、金属の管が付いていて、台に埋め込まれるようにある白い陶器の前に立つ。そのままマインは躊躇いもなく金属の管の上の方に付いている円い物をキュッキュッと捻った。

「なっ!? 水!?」

 金属の管から水が出てきた。それでバシャバシャと顔を洗って、先程のふんわりとした柔らかな布で顔を拭う。どうやらこの柔らかな布は、タオルと同じような用途で使われるらしい。これは心地良い。持って帰れないものか。

「マイン、こちらは何をする場所だ?」
「お風呂です。あれが浴槽で、あの長いぐにょんとしたのが『シャワー』です。使い方は……」

 マインがそう言った瞬間、私は甘い香りのする浴槽の中にいた。たっぷりと張られた、乳白色の温かい湯に浸かっていて、視界には乳白色の湯の中にうっすらと裸体が見える。

「マイン!?」
「わぉ! お風呂だ! うわぁ、『入浴剤』がいい匂い。この『桃』の匂い、大好きだったんですよ」

 こちらの心情も知らず、マインはうっとりと目を細めて、甘ったるい匂いのするお湯を両手ですくって、鼻に近付ける。

「恥じらえ、馬鹿者! 女性として、淑女としての恥じらいとか、羞恥心はどこに行った!?」

 意識を同調しているせいで、自分では目を逸らすこともできない私は、思わずそう叫んだが、マインは嬉しそうにそのお湯で顔を洗いながら、「大丈夫。気にしません」と首を振る。

「羞恥心なんて、マインとして生き始めた三日間で捨てました。だから、神官長も気にしないでください。子供だから、恥ずかしくないもん」

 マインとして生き始めた三日間で、マインはまだ自分の父親と受け入れられなかった男性に身ぐるみを剥がれ、着替えをさせられ、トイレの世話までされたらしい。恥ずかしさに泣いて嫌がっても無駄で、その状況を受け入れるしかないと諦めた時に、女性としての羞恥心は捨て去ったと言う。

「父親と私は別だろう!」
「当時は、わたしにとって、まだ父親じゃなかったんですよ。神官長だって、別にこんな幼女の裸を見たところで、何とも思わないでしょう? 問題ないですよ」

 私がマインの裸体に何とも思わないのと、マインが裸体を晒すことに何とも思わないのは大きく異なる。警戒心ばかりか羞恥心までないとは思わなかった。

「私は今、君の羞恥心のなさに危機感を覚えている!」
「成長したら、また出てきます。きっと」

 そう言いながら、マインは浴槽から出て、髪を洗い始めた。これまた、香りの強い泡に包まれる。

「あぁ、この泡立ち! 最高! 気持ちいい!」

 何とも言えない感動と満足感に打ち震えながら、マインはシャワーと呼んでいた管に手を伸ばした。くいっとマインのもう片方の手が金属の棒を動かすと、シャワーからは豪雨のような水が飛び出してくる。

「うわっ!?」
「これで泡を流しますから」

 鼻歌交じりにマインはシャワーを使って、髪の泡を流し始めた。風呂に入るのに側仕えがいないことが不思議ではあったが、側仕えがいなくても洗えるようになっているらしい。

「ここでいくら洗っても、夢の中だから、現実には全く関係がないぞ」
「わたしの満足感は大違いですよ。うふふ~ん」

 マインはシャンプーという液体で髪を洗い、リンスという液をつけて、そして、蜂蜜のような甘い香りがする石鹸で身体を洗う。その泡立ちや香り、仕上がりの手触りから察するに、王侯貴族より良い物を使っているような気がする。
 全身洗って、ゆったりとお湯につかるマインの心の中は恍惚とした満足感でいっぱいだ。

「マイン、ずいぶん満足したようなので、別の物を見せてもらっても良いか?」
「え? あぁ、『ドライヤー』とか?」

 次の瞬間、私は先程顔を洗っていた白い陶器の前に立っていた。そして、マインは棚から何やら奇妙な物体を持ちだしてきた。青くて、つるつる艶々とした素材だが、金属とは趣が異なる。素材の見当がつかない。

「マイン、これは何だ?」
「髪を乾かす道具です」

 マインが指を動かすと、それは突然ブオオオォォォ、と耳障りな騒音を立て始める。そして、皮膚が焼けるような熱風が吹きつけてきた。

「何だ、これは!?」
「だから、髪を乾かすんですって」

 そう言いながら、マインは鏡の前に立った。高価な鏡が風呂にもここにもある。マインは予想以上に高位の貴族の娘だったようだ。

「神官長、これが『髪ゴム』で、こうやって髪を結うための物なんです」

 いつの間にかドライヤーといううるさい物を片付けたマインは、みょんみょんと指先でカミゴムを伸ばしたり、縮めたりしていた。

「神官長、こういう伸び縮みする素材って何か心当たりありますか?」
「……近くにはないな」
「遠くにはあるんですか!? どこにありますか? 輸送費ってどのくらいかかります?」

 思考回路が商人だ。おそらく同じような商品を作るつもりなのだろう。マインが新しく商品を発明する過程を見せられて、私は軽く息を吐いた。このような全く違う世界で当たり前にある物を再現しようとして奮闘して、新商品を開発しているらしい。素材を探すにも苦労していることが察せられる。

「残念ながら、かなり遠い上に、グミモーカという魔木を倒さなければならない」
「魔木?」
「種類も倒し方も違うが、トロンベのような魔力を持つ木のことだ。グミモーカを倒して取れる皮が似たような感触をしていたはずだと記憶している」

 マインは、「トロンベかぁ」と落ち込みながら、さらりと長い夜空の色の髪を後ろで無造作に結っていく。
 私にとって、マインが髪をまとめる物は簪だと思っていたので、カミゴムという物を使うことに違和感を覚えずにいられない。

「簪は使わないのか?」
「あ~、簪は苦肉の策です。わたしの髪の毛ってつるつるでいくらきつく紐で絞っても、すぐに解けちゃうんですよね。ここでは『和装』の時でもなければ、わたしは簪なんて使いません」

 マインと言えば簪だと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。

「ワソウとは何だ?」
「えーと、成人式が一番見栄えするかな?」

 マインが記憶を探るように眉を寄せると、雪がちらつく寒い風の中へと景色が変わった。色とりどりの艶やかな見慣れぬ服を着た若者が多数いる。
 マインが成人式と言ったので、これは貴族院の卒業式のようなものだろうと見当を付ける。袖が地につきそうなほどに長い美しい衣装を身につけていることから考えても、貴族の集まりに間違いないだろう。

「これが『振り袖』です。わたしが儀式用の衣装の刺繍に使った柄も、この衣装ではよく使われる『流水紋』なんです」
「あぁ、なるほど。確かに少し面影があるな」

 マインの簪よりよほど派手な髪飾りをつけた女性が着ている赤い衣装には、マインが儀式用の衣装に用いていたような水の曲線と花を描いた柄が見られた。

「マイン、あれは刺繍か?」
「えーと、『振り袖』で一部ならともかく、全て刺繍されているのは少ないですよ。『友禅染』なんかは布に直接絵を描くんです」
「布に直接? どのようにするのだ?」

 布に描こうとしても染料がにじんでしまうのではないのだろうか。考え込む私にマインは不思議そうな声を出した。

「……貴族街にもないんですか?」
「見たことがないな。糸の色を変えて織り込んだり、刺繍したりするが、このような絵を描くのは知らぬ」
「へぇ、じゃあ、ベンノさんに高く売れそうですね」

 うふふっ、と笑ったマインの心の中はすぐさま金額の算段でいっぱいになる。

「……君の発明はここにあるものばかりか?」
「そうですね。ここにある物が欲しいけれど、作るための道具もないので、試行錯誤しながらそれっぽいものを作っているって感じです」
「なるほど。ここの知識が君の価値ということか」
「わたしが作った物の原点はたいてい母さん仕込みなんですけどね」

 マインの口からくすっと笑いながら細い通路へと出て、別の扉を開ける。そこは私が見たことない物ばかりが詰まった奇妙な部屋だった。

「ここは厨房です。ここで食事を作って、あっちで食べるんですよ。これはね、『ガスコンロ』です。こうするだけで火がつくんですよ。便利でしょう?」

 マインが奇妙な模様のついた四角い物を押すと、ボッと音を立てて火がついた。青い炎が揺らめいた。こちらの世界では火は青いものらしい。
 何より不思議なのはマインが手を離してもずっと火が付いていることだ。魔術で火をつけることはできても、燃やし続けるには薪か大量の魔力が必要になる。薪も何もなく火がつくことに目を見張っていると、マインはもう一度同じところを押した。すると、何もなかったかのように火が消えた。

「……マイン、あの大きな白っぽい箱はなんだ?」
「これですか? 『冷蔵庫』です。食べ物が詰まっていて、傷まないように冷やしておくための物です」

 ガッとマインが扉を開けると、ひやりとした冷気が漂ってくる。中に入っている物は色とりどりで見慣れない物ばかりだが、同じ使い方をする物を知っているので、物が小さいことに驚きはしたけれど、ガスコンロほどの驚きはなかった。

「あぁ、貯蔵用氷室か」
「え? 『冷蔵庫』があるんですか?」
「今更何を言っている? 神殿にはこの部屋より大きな貯蔵用氷室があるだろう? フランは利用しているはずだぞ?」

 どうやらマインは神殿にある貯蔵用氷室の存在を知らなかったらしい。フランは私に仕えている時から利用していたので、そのままマイン用の場所を確保したのだろう。

「まぁ、あれは魔術具なので、フランもわざわざ知らせるのは止めたのかもしれんな」
「来客があると、ミルクの種類がいつの間にか増えるから不思議だなぁとは思っていたんですけど、『冷蔵庫』があったんだ」

 知らなかった、とマインがわかりやすく落ち込んだ。「知ってたらもっと料理の幅が広がったのに」と呟いている。
 フランから聞いたマインの部屋でのメニューは、聞いただけではよくわからない物ばかりだが、種類はかなり豊富だったはずだ。まだ増やすつもりか。

「……君の部屋の料理はかなり種類が多いと聞いているが、それもここの料理なのか?」
「そうです。ここの『洋食』をなるべく再現していて……あ、今ならおいしく食べられるかも!? どうしよう? お腹が空いてきた気がする」

 マインの興奮度が急上昇し、辺りを見回し始める。すると、マインは何を思い出したのか、ふっと景色が変わった。同じ部屋に立っているが、突然立っている場所が違い、背後でカチャカチャと色々な音がし始めた。

「お腹が空いてきたなら、早くご飯食べちゃって。片付かないでしょう?」

 突然背後から、女性の声が響いてきた。マインの心臓がドコンと跳ねて、身体が石になったように固まる。

「ほら、ぼんやりしないで早くなさい」

 叱っているのに口調が柔らかく感じるのは、マインの心情が大きく関与しているのだろうか。
 くるりと振り向くと、先程からマインの記憶に何度も顔を見せる黒髪の女性が食器をテーブルに並べていた。

「……母さん」
「今日は好きな物、作ってあげたから、冷める前に食べちゃって」
「うん……」

 マインは小さく頷いて、4人が座れるようになっているテーブルへと向かう。

 この部屋の案内をしてもらっていた先程までは何もなかったはずなのに、マインの記憶が再現されたのだろう、そこには食事の準備が整った食卓があった。
 マインにとっては見ただけで目を潤ませるほどに嬉しくて懐かしいものらしいが、一体何が並んでいるのか、私には全くわからない。黒いものや茶色のものが並んでいて、あまりおいしそうだとは思わなかったのだ。

「マイン、これは食べ物か?」
「はい。わたしが食べたかった物ばかりです。炊きたての白い『ご飯』、『豆腐』と『わかめ』に『薬味ネギ』がたっぷりかかった『お味噌汁』、『ぶりの照り焼き』と母さんの『肉じゃが』と『五目ひじき』。それから、母さんが漬けた『お漬物』です」

 込み上げてくる郷愁を呑みこむように息を吸い込み、マインは目を潤ませながら、そっと静かに両手を合わせた。目を伏せるようにして、軽く頭を下げる。

「いただきます」

 たったそれだけの短い言葉の中に、胸が痛くなるような幸せと感謝が詰まっていた。
 赤い色の付いた二本の棒を器用に操り、マインは食事を取る。一口目を入れた瞬間、マインの目から涙が零れた。

「ん、母さんの味……」

 マインはゆっくりと何度も噛みしめて、最初から最後まで丁寧に味わっていく。じんわりと隅々まで広がっていくような優しい味は、私自身は食べたことがないのに、おいしいと懐かしいと感じる母の味だった。

「おいしいよ、母さん」
「あら、珍しいわね。欲しい本でもあるの?」

 マインが褒めると、目の前で同じように食事を取っていた女性は目を丸くした後、くすくすと笑った。マインを自分の趣味に付き合わせていた時にも見せていた、マインを見守る愛情に溢れた目だ。

「本はいっぱい欲しいけど、そうじゃないよ。……本当においしい」

 全てを残さずにマインは食べきった。食べる前と同じように手を合わせて、「ごちそうさまでした」と頭を下げた。
 まだ食べている母親をマインはじっと見つめる。

「母さん、ごめんね」
「え? 何をしたの?」

 顔を上げた母親にマインはぼろぼろと大粒の涙を流しながら、深く頭を下げる。

「……逆縁の親不孝をしてごめんなさい。死んでから親の愛情に気付いた馬鹿な娘でごめんなさい。大事に、大事に、やりたいことばかりさせて育ててくれたのに、何も返せないままに死んじゃって、ごめんなさい」

 マインの中にある後悔と反省と懐かしさと家族に対する愛情が全て流れ込んでくる。複雑に絡み合った想いと同調することにこれ以上耐えきれず、私は思わず同調を切った。



 私はマインに覆いかぶさるようにしていた身体を起こしてマインから離れると、床に膝をついたままの状態で大きく頭を振った。

「……最悪の気分だ」

 マインに同調しすぎた。私までつられて泣いていた。同調を切ったので、マインも直に目覚めるはずだ。すぐさま袖口で目を拭う。
 すぐそこで眠って目を閉ざしたままのマインの目尻からも涙がずっと零れているのが見える。

 長い睫毛がピクリと動き、ゆるゆるとマインの目が開く。何度か瞬きをした後、ゆっくりと首を動かしたマインは、私に気が付いたようで、へにゃりと笑った。

「あ、神官長。おはようございます」

 目を覚ましたマインがまだまだ零れてくる涙を袖口で拭いながら、のっそりと起き上がる。長椅子に座った状態のマインと床に膝をついたままの私でちょうど視線が合った。
 マインはまだ潤んで揺れる金色の目を細めながら、ひどく嬉しそうに笑みを浮かべる。

「神官長、ありがとうございました」
「何だと?」
「わたし、ここで生活しているうちに、だんだん記憶がおぼろげになってきてたんです」

 魔術具だからこそ、埋もれた記憶を鮮明に掘り返せるが、人の記憶は年月と日々の生活に埋もれていくものだ。マインの記憶が薄れていくのは当然のことだ。

「……母さんのご飯をおいしく食べられるなんて思わなかったし、夢の中とはいえ、ちゃんと謝れるなんて思っていませんでした。わたし、今、すごく嬉しいんです。だから、神官長、ありがとうございました」

 マインに真っ直ぐに見つめられて感謝されても、すぐには言葉が見つからず、何をどう言って良いのかわからなかった。
 私の中にはまだ複雑なマインの感情が巣食っていて、何を言えば、自分のものではない自分の感情が落ち着くのかもわからない。

「あの、神官長。もしかして、意識を同調していたから、わたしの感情が全部伝わっちゃったんですか?」
「そうなるのが当然なのだから、仕方あるまい」

 私が軽く息を吐くと、マインはすっくと立ち上がった。

「神官長、ぎゅーって、してあげます」
「は? 君は何を言っている? ぎゅーとは何だ?」

 何をされるのか、わからなくて眉をひそめる私の首にマインが「こうです。ぎゅー」と言いながら腕を伸ばして抱きついてきた。

「わたし、こういう夢見てぐちゃぐちゃな気分の時はぎゅーってしてもらって、落ち着くんです。わたしにはルッツや家族がいるけど、神官長はしてくれる人がいないでしょ? だから、責任持って、わたしがしてあげます」

 予想外の事態に固まる私の耳元でマインの少し得意そうな声が響く。「余計なお世話だ」と剥がすのは簡単だったが、そうする気分にもなれない。本当に感情が波立っていて疲れているのだ。

 ぐちゃぐちゃな気分なのは、マインも同じなのだろう。私にしがみついている間にマインの呼吸もだんだん整ってくる。
 ある程度落ち着いたのか、ハァと息を吐いたマインが少し首に回していた腕の力を弱めた。

「ねぇ、神官長。この魔術具、また使ってくれますか? わたし、また本を読んだり、『和食』食べたりしたいです」
「断固として断る。君と同調するのはこりごりだ」

 今度こそ私はマインを引き剥がし、額の魔術具を外した。こんなに感情に振り回される同調を何度もするつもりはない。
 引き剥がされて断られたマインは衝撃を受けたように目を見開き、「同調してくれるって約束してくれるまで、これは返しませんからね」と頭を抱えてしゃがみこみ、魔術具を渡さない体勢をとった。
 こんな馬鹿者に振り回されたのかと思うと、自分自身に腹が立つ。

 ……さて、この馬鹿者について、領主には何と説明するべきか。

 犯罪や悪事なんて考える余地もないほど、心底、本のことしか考えていない本狂い。ついでに、危機感も羞恥心もこちらの常識もなくて、目を離したら何をしでかすかわからない厄介な存在。これの監視と手綱が取れる人物が必要だ。

 けれど、領主を凌ぐほどの膨大な魔力と我々は知らない異なる高度な文化を持った世界の知識を持っていて、その価値は天井知らず。これまでベンノがしてきたように上手く使えば、莫大な利益をこの地にもたらす存在になる。少なくとも余所に取られるわけにはいかない存在だ。

「ふむ、囲い込みは必須だな。餌は本か」
「え? 同調してくれるんですか?」

 どこをどう聞けば、そうなるのか、わからない。目を輝かせて私の袖口をつかんだマインの能天気な顔を冷ややかに見下ろして、私は即座に魔術具を取り上げた。
 おうち探索でした。麗乃母の趣味が大暴走したリビングはきっと混沌とした空間になっているでしょう。
 マインに振り回された神官長、お疲れ様でした。

 次回は、インク工房と冬のはじまりです。
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