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本好きの下剋上 ~司書になるためには手段を選んでいられません~ 作者:香月 美夜

第二部 神殿の巫女見習い

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印刷協会

 騎士団の要請の後は当然のように寝込んだ。数日間寝込んだけれど、この時期に寝込むのは大して珍しくないので、家族は特に何も言わなかった。ただ、また神官長が「私の責任だ」と必要のない責任を勝手に背負いこんでいなければいいと思う。

 わたしが動けるようになった頃には、かなり秋が深まっていて、川の水を使って紙を作るのが厳しい寒さになってきていた。

「マイン、紙作りと並行して、昨日から絵本の印刷を始めたから」

 久し振りに外に出ることができたわたしは、ギルベルタ商会へと向かいながら、ルッツから最近のマイン工房や側仕えの様子についての話を聞いていた。

「ルッツ、何冊くらい絵本ができそうか、わかる? 紙は結局どのくらいできたの?」
「80冊が限界だな。今作っている途中の紙を入れて、80。今ある分だけで確実にできるのは75か76だけど、一気に作りたいなら少しでも多い方が良いだろ?」
「うん、ありがとう。寒くなってきたから大変だと思うけれど、頑張ってね」

 子供用聖典の第二弾はルッツの計算によれば、80冊が作れるらしい。前回で刷り方を覚えた神官達が次々と刷るならば、完成にはそれほど日数はかからないだろう。
 ならば、わたしが考えなければならないのは、絵本の販路だ。わたしは足元を見ながら、ゆっくりと溜息を吐いた。

「……本を売るなら、新しい協会を作った方が良いんだよねぇ」
「協会?」
「そう。印刷協会とか出版協会とか……。貴族が持っている今までの本とわたし達が作ってるマイン工房の本は全く違うのはわかるでしょ?」
「あぁ」

 今までここに存在していた本は、一点一点、手書きで書かれた羊皮紙をまとめたものだ。カラフルで繊細な挿絵が入り、皮張りの表紙には金箔や宝石まであしらった芸術的な価値が高いのが当然の本である。

「オレらが作ってる本は芸術的な価値が低いもんな。絵本で子供向けだし……」
「それだけじゃなくて、製法が全く違うんだよ。これは神官長に教えてもらったことなんだけど、今までの本はね、一つの工房でできるものじゃないの」
「へ?」

 これまでは、本文を書く人、絵を描く人、紙をまとめて縫いとめて中身の体裁を整える人、皮の表紙を作る人、表紙に金箔や宝石の細工を施す人……全ての工程において、違う工房の違う職人に一過程ずつが任されて、一冊の本ができあがっていた。そのため、本作りの工房というものは存在しないらしい。

「本が欲しいと思うお客さんが本にしたい紙束を細工師の工房へ持ちこんで初めて本作りが開始されるんだって。細工師が糸を使って紙を束ねて縫いとめ終わったら、皮細工の工房へ行って表紙を作らせるの。金細工や宝石の加工ができる工房へ持ちこんで、飾ってもらうんだって」
「マイン工房とは全く違うな」

 ルッツの言うとおり、マイン工房で作って売りだす本は、簡易とはいえ印刷技術を使っているので、一つの工房で一気に何冊も同じものができる。
 本を作って売るというのが新しい事業になる以上、利益や技術を確保し、品質を保つためにはその事業を統率する協会が必要だ。

「まずは、ベンノさんに相談なんだけど……」
「だけど、何だ?」

 わたしが本を売るとなれば、ルッツを通じて、ギルベルタ商会で売ることになる。そうすると、新しい事業として印刷協会を立ちあげなければならないのはベンノだ。あのベンノが印刷協会を他の人に任せるとも思えないけれど、相当負担になるのではないだろうか。

「本業のギルベルタ商会、リンシャンの工房、植物紙協会とその工房、春には完成したらいいなと思っているイタリアンレストラン、それに加えて印刷協会でしょ? 忙しすぎて身体壊さないか、心配」

 わたしは自分が知る限りのベンノの仕事を指折り数えて、ほとんど自分が係わっていることに愕然とした。ベンノさんが過労死したら、原因はわたしではないだろうか。
 青ざめるわたしに、ルッツは渋い顔をした。

「忙しくしてるのは、旦那様が好きでやってることだからいいんだよ。マルクさんが止めないから、まだ大丈夫だって」

 好きで忙しくしているベンノと、それを全面フォローするマルクというあの二人の関係を考えると、一番苦労しているのはマルクかもしれない。



「ベンノさん、おはようございます」
「マイン! お前、一体何をした!?」

 マルクに奥の部屋へと通された瞬間、ベンノの雷が炸裂した。全く身に覚えがなくて、わたしは目を白黒させながら、ふるふると頭を振る。

「な、何ですか!? まだ何もしてませんよ!?」

 印刷協会の話を持ってきたけれど、まだ何もしていないし、相談するためにベンノのところに来たのだから、怒られることではないはずだ。

「上級貴族から依頼が来たぞ。大至急、お前の儀式用の衣装を仕立てろ、と。何もしていないはずがなかろう!」

 その言葉で、わたしは依頼した上級貴族に見当がついて、ポンと手を打った。

「あ~、上級貴族って、カルステッド様かな? 騎士団の団長なんですけど、ちゃんと約束を守ってくださったんですね。よかった」
「よくない! 上級貴族に突然呼びつけられて、こっちは心臓が止まる思いをしたんだ! 何かあったらすぐに報告しろ、この阿呆!」

 ベンノの言葉に、自分がその状況に置かれたことを想像して、一瞬で青ざめた。身に覚えのないことで突然上級貴族から呼び出しを受けるなんて、恐怖以外何ものでもない。

「ご、ごめんなさい! 熱出して倒れてて、そこまで気が回りませんでした」

 それに、騎士団に係わることは口外法度ときつく神官長とカルステッドとフランに言われていたので、心配するルッツにさえ詳しいことを話せていない。ベンノに報告することは思い浮かばなかった。

「まぁ、いい。心臓には悪かったが、上級貴族と繋がりが持てたんだ。せっかくだから、この機会は有効利用させてもらう。……それにしても、お前の衣装は先日出来上がったばかりだろう? あれはどうした?」

 わたしはボロボロになってしまった儀式用の衣装を思い出して、肩を落とした。

「騎士団に係わることは基本的に口外法度だと言われたので、言えません」
「それなら仕方ないな。こっちとしても余計な事は知らない方が良い時もある。それで、衣装の件じゃないなら、今回は何の用件だ?」

 わたしが胸の前で×を作って説明を拒否すると、ベンノはガシガシと頭を掻いて、一応納得の表情を見せた。

「子供用聖典の第二弾を作り始めたので、販路についてお話した方がいいと思ったんです。新しく植物紙を作った時は植物紙協会を作ったじゃないですか。今回、印刷協会を作る必要があるんじゃないかと思って……」

 書字板を見ながら、わたしが考えた印刷協会の必要性を説明すると、ベンノは顎を撫でながら、何度か頷いた。

「印刷協会か。……いずれ必要になるだろうし、誰かに権利を掻っ攫われても面白くないから、最初から作っておいた方が良いだろうな。マイン、今、こちらに売れる本はどれだけある?」
「……これから作る分を教科書に回せるので、前に作っている分なら20冊売れます」

 結局、服を買う時には売らなかったので、今回売ろうと思えば、20冊は売れる。献本で5冊配り、孤児院の食堂に5冊置いてある以外は工房に積まれたままだ。

「ルッツ、工房へ行って取って来い。現物がなければ、印刷協会の設立に許可が下りん」
「はい!」

 ルッツが神殿へと向かって駆けだしていく。
 残されたわたしは協会設立のための書類に必要な事項について、ベンノから質問を受けていた。ガシガシと申請用の書類を書いているベンノは本当に忙しそうで、これ以上仕事を増やすのは悪いなぁ、と眉間の皺を見ていると考えてしまう。

「……印刷協会も作るんじゃ、ベンノさんが忙しすぎますよね? 大丈夫ですか?」
「お前が心配することじゃない。それに、印刷協会を作ったところで、印刷工房はなかなか増えないと思うぞ?」

 当分はマイン工房以外登録される工房はないだろう、と軽く言ったベンノの言葉にわたしは目を瞬いた。

「え? どうしてですか? 印刷工房が増えてくれないと本も増えないじゃないですか」
「まず、購入層が少ない。植物紙の工房自体もまだ少ない。インクの作り方さえ広がっていないから、印刷しようにもインクもない。ないない尽くしだからだ。しばらくはお前が独占する業種になる。だったら、協会だけ作っておいても、俺は大して忙しくない」

 植物紙協会は既得権益もあったし、他に新規参入される前にベンノ自身が工房を作ろうとしていていたので、非常に忙しく大変だったが、印刷協会は印刷のための材料が揃わないので、当分は増えないらしい。何ということでしょう。

「……ベンノさんが忙しくないのはよかったですけど、印刷協会が繁盛しないのは全く嬉しくないです」
「印刷協会が忙しくなるかどうかは、本がどれほど受け入れられるかが問題だな」

 カリカリと書類を作成しながら、ベンノは呟く。わたしは識字率と購買層を考えて、答えた。

「子供用聖典は、小さい子供のいる貴族……特に、それほど裕福ではない下級や中級の貴族に売れると思います。だから、これからしばらくは神様の話や騎士の話で絵本を作る予定なんです」
「何故だ?」
「……貴族にとっては神様の名前を覚えるのって、必須なんです」

 熱で寝込んでいる間に考えた。トロンベ討伐の時に騎士団が使っていた魔法の武器や癒しの儀式や神の祝福のことを。

 全員が持っていた光るタクトは多分魔力を使うための触媒で、その形を変化させるのは魔力があれば難しいことではない。けれど、神の祝福であったり、癒しの儀式であったり、大がかりな魔法だか魔術だかを使うには、神の名前が必要になるはずだ。

 わたしの祝福も神の名前を唱えたことで偶然できたし、覚えるのが大変だった祈り文句にも神の名前が出てきた。武器に闇の神の祝福を得るにも祈り文句が必須だった。
 つまり、貴族社会において、大規模な魔法を使うためには神の名を覚える必要がある。

「貴族は絶対に神様の名前を覚えなきゃダメなんです。それに、貴族と付き合いがあるような大店の店員も、神々の名前は覚えなきゃダメですよね? ベンノさんも神官長への挨拶の中で神の名を使っていたんですから。そういう勉強のために、と売り文句を付ければ、貴族と大店の商人には売れると思います」
「……貴族を知ってきたお前が言うのだから、着眼点は悪くないと思う。だが、今のままでは見た目が良くない。やはり、皮の表紙にした方が良い」

 ベンノの指摘にわたしはゆっくりと首を振った。

「いえ、マイン工房の本は、あのまま行きます。皮の表紙が必要な人は、従来通り、自分で皮細工の工房に持ちこんでもらった方がいいと思います」
「その理由は?」

 ギロリとベンノが鋭い目をわたしに向けてくる。わたしはピッと人差指を立てた。

「一つ目は、仕事の分散です。ギルベルタ商会を通して発注することになれば、一つの工房に依頼が集中するじゃないですか。納期や品質の維持、競争原理を考えても、一つの工房が仕事を独占するのは良くないです」
「そういえば、お前は専属を決めるのが嫌いだったな」

 ベンノが眉を寄せてそう言った。イタリアンレストラン関連のやりとりから、ベンノの中でわたしは、専属を持つのが嫌いということになっているらしい。

「別に嫌いじゃないですよ。贔屓する店があるのは別に構わないんです。でも、その工房が仕事を抱えすぎているとわかっているのに、余所に頼めない融通の利かなさが嫌なだけです。あと、一点に仕事が集中するのは、余計な諍いの元になると思います」

 わたしが唇を尖らせると、ベンノはフンと鼻を鳴らした。

「次は何だ?」
「二つ目は、客の好みです。高いお金を払う本なら、自分の好きにしたいでしょう? だったら、客の好きに作ってもらった方が満足度は高いと思います。こちらが適当な皮張りの表紙を付けるより、中身だけを提供した方が表紙を剥がす面倒もなくなるでしょう? マイン工房の本は糸で綴じてあるだけですから、解くのも容易くて、加工しやすいんです」

 二つ指を立てて説明しながら、わたしは第二弾の製本について考える。せっかく作った(にかわ)を使って、背をきっちりと付けるつもりだったが、加工することを前提にするなら、糸で留めただけの状態が良いかもしれない。

「三つ目は、時間です。表紙を立派にすれば、一冊を作るのに時間がかかります。マイン工房の利点は一気に同じ本が短い期間でできるところなので、表紙作りに時間をかけるのは数を揃えるという点で悪手です。それに、表紙に時間をかけるくらいなら、そのままでどんどん本の種類を増やしたいじゃないですか」

 わたしは立派な本を一冊より、たくさんの本が欲しい。できあがるまで長い時間待つのも嫌だ。完全に私情であることは理解しているが、譲りたくない。

「四つ目は価格です。安くないと、ただでさえ狭くて少ない購買層が広がりません。ひとまず本を買ってもらうのが一番大事です。それに、見栄を張りたい貧乏貴族でも、これから加工してもらうけれど贔屓の工房が忙しくて、と言い訳できれば購入可能ですし、わたしみたいに内容が必要で、外側に関心を示さない客もいるはずです」

 わたしが表紙を皮張りにしない理由を並べたてると、ベンノは複雑な表情でこめかみを指先で叩いた。

「お前がなるべく本の価値と価格を下げて、広く売りたいという情熱はわかった。なるべく価値を吊り上げて、利益を独占したい商人の思考とは全く逆だがな」

 商品価値を上げるために見た目には気を配り、なかなか購入できない焦らしで価値を高め、少しでも値段を吊り上げて利益を得るのが普通だとベンノは言う。

「……ダメですか?」
「いや、この街だけで商うならともかく、あちらこちらの街で広く商っていこうと思えば、それほど悪くはない。今までの本と違う面を前面に押し出していくのもいいだろう」

 ベンノはそう言ってゆっくりと息を吐いた。その後、商人としての鋭い赤褐色の目でわたしを見据える。

「これは商人としての勘だが……本に関しては、なるべくお前の好きにさせた方が良い気がする。だが、今までの商人の常識とは違うから、一応俺が納得できる理由がお前から引き出したかったんだ」

 ベンノはそう言って、マイン工房の本を和綴じのまま売ることを許可してくれた。

「じゃあ、いっそ薄利多売でいきましょうね」
「いや、利益はきっちり取る。その上で広く売るんだ、阿呆」



 申請書類ができあがる頃になって、ルッツがバッグに本を入れて戻ってきた。それをベンノに売って、わたしは大金貨3枚を手に入れた。
 本を安くするには、まだまだ時間がかかりそうだと溜息が出る半面、懐が潤ってホッと安堵の息も漏れる。これで、雪が降り始めるまでに、もう少し孤児院にも自分の部屋にも食料が買いこめそうだ。

「マイン、商業ギルドに行くぞ」
「はぁい」

 ルッツに本を持たせて、歩くのが遅いわたしをいつものように抱き上げて、ベンノは商業ギルドへと向かった。
 収穫された農作物を乗せた荷馬車が通りを行き交っている。冬支度の始まった街には農作物を売りに来る農民が増え、大量の買い物をする人がいて、街のあちこちから蝋燭を作る牛脂の匂いが漂ってきて臭い。

「ベンノさん、貴族向けに臭いが少ない蝋燭って、売れると思いますか?」

 お金持ちの貴族は蜜蝋を使っていると聞いているが、お金を節約したい貴族にならば売れるかもしれない。孤児院で作ったハーブ入りの蝋燭を思い出して、わたしはベンノに尋ねた。
 ベンノは何を言い出すんだ、と言うように眉を吊り上げる。

「臭いが少ない蝋燭、だと?」
「あぁ、あのエンセキして、薬草を混ぜ込むやつか。まだ使ってないからわからないけど、蝋燭自体の臭いも普通のより少ないよな」
「ルッツ! 報告されてないぞ!」

 ベンノが吠えた。ルッツは目を丸くして、首を傾げた。

「え?……孤児院の冬支度について報告した時にお話しました。同時にしていた(にかわ)作りに意識がいって、旦那様が聞いていなかったんだと思います」
「あぁ……あり得るな」

 ベンノにとっては、蝋燭作りより膠作りの方が珍しく興味を引くものであったらしい。ここにも膠はあるけれど、必要な時に必要な分を買ってくることが多く、商品作りに必要な工房でもない限り、わざわざ自分で作りはしない。

「ウチの周りで『塩析』していないのは、貧乏だからで、富豪層が買ってる蝋燭は『塩析』されてるのかな、と思ったんです。ベンノさんが使っている蝋燭は薄い黄色ですか? 白ですか?」
「薄い黄色だな。牛脂と蜜蝋が半々だが……」
「じゃあ、富豪層が買う蝋燭も『塩析』はされてないんですね」

 ベンノの冬支度はお金で済む分はほとんどお金で済ませると言っていた。ベンノが知らないなら、塩析された蝋燭はこの街にはないと考えていいだろう。

「ウチはわざわざ作らずに買うから、蝋の工房か協会に製法を売った方が良さそうだな」
「じゃあ、春になったら、蝋の工房に行って情報を売って、ロウ原紙作りに協力してもらおうっと」

 そんな話をしながら、人の出入りが激しくなっている商業ギルドの二階を抜けて、わたし達は三階へと上がっていく。

 ベンノが印刷協会を新しく作りたいと登録の話をしていると、わたしの姿を見つけたフリーダが奥から出てきた。桜色のツインテールを揺らして、ふわりと微笑むフリーダは夏の初めに見た時より背が伸びたせいか、ずっと大人びた雰囲気になっている気がする。

「まぁ! マイン、ごきげんよう」
「フリーダ、久し振りだね。カトルカールの売上はどう?」

 最後にフリーダと会ったのは、カトルカールの試食会だった。試食会は大成功で、カトルカールの名前も味も、作ったイルゼとフリーダの名前も売り込めたという話を聞いてから、会っていなかった。

「売れ行きは絶好調ですわ。貴族の方々にも好評ですのよ。他のお菓子はないのか、という声も聞こえてくるほどですわ。マイン、何かございません? 適正価格で買い取りますわよ?」

 ニコニコと笑いながらレシピをねだるフリーダから視線を外して、ベンノを見る。くわっと目を剥かれたので、却下されたと理解する。少し前までの金欠状態の時だったら、ホイホイ売っていただろう。懐具合の余裕は大事だ。

「ベンノさんに怒られそうだし、今日は懐具合も潤ってるから、また今度ね」
「あら、残念ですこと」

 ベンノが許可を出さないとわかっていたのか、それほど残念でもなさそうな表情でフリーダは頬に手を当てた。

「……マインが神殿に入ったと聞いて心配しておりましたけれど、元気そうですわね。身食いの熱はもう平気なのかしら? 契約してくださる貴族の方は見つかった?」
「心配してくれてありがとう。身食いの方は今のところ大丈夫。貴族との契約の予定はやっぱりないよ。わたしは家族と一緒にいたいから」
「そうですの? お申し込みはたくさんあるでしょう?」

 不思議そうにフリーダが首を傾げる。わたしも同じように首を傾げた。貴族から契約の申し込みなんてされたこともない。

「申し込みもないし、契約する気もないからいいんだよ。それにね、ウチね、春になったら弟か妹が生まれるの。わたし、お姉ちゃんになるのに、貴族と契約なんてしていられないでしょ?」

 今契約してしまったら、これから生まれてくる赤ちゃんの顔を見ることもできなくなってしまう。そんな状況は絶対に嫌だ。

「まぁ、おめでとうございます、とお母様にお伝えしてちょうだいね。それから、暇があれば遊びにいらして。イルゼも待っているのよ」
「……うーん、しばらくは忙しいの。やることいっぱいで」

 神殿に行き始めてから、わたしは忙しい。倒れて休んでいる日を除いたら、家でダラダラしている日なんてないくらい、やることがいっぱいなのだ。

「忙しいのは新しい協会の設立に関係があることかしら?」
「そうだよ。わたしが一番やりたいことだからね」

 今は厚紙を切って、版紙を作っているけれど、ガリ版印刷もしたいし、活版印刷にも手を出したい。紙の改良もしなければならないし、インクの改良も必要だ。頭の中は本のことでいっぱいで、忙しいけれど、楽しい。

「マインが一番やりたいこと……本、ですの?」
「うん! 本ができたの。これからいっぱい作って売るんだよ。フリーダも買ってね」

 わたしの言葉にフリーダは苦笑しながら、緩く首を振った。

「実物も見ずに、お約束はできませんわ」
「まぁ、そうだよね」

 わたしはルッツの持っている荷物から子供用聖典を一冊取り出して、フリーダに差し出す。お嬢様育ちで、商人としても鋭い目を持っているフリーダからの評価を知りたいと思ったのだ。

「これ、実物だよ。どう?」

 わたしと同じことを考えたのか、手続きをしていたベンノが手を止めて、フリーダへと視線を移した。

「……確かに本ですわね。でも、中身だけですの?」

 パラパラと中身を見ながらフリーダが問いかける。ここの本に慣れている人にとっては、紙の表紙は表紙ではないらしい。

「一応その花の紙が表紙だよ。皮の表紙は自分がご贔屓の工房で、好きなように作ってもらうことになってるの。贔屓の工房がなければ、ギルベルタ商会から紹介することもできるけどね」

 ギルベルタ商会の紹介する工房以外でも作れるというのは良いですわね、とフリーダがベンノをちらりと見ながら言った。

「マイン、この本、おいくらですの?」

 フリーダの言葉にわたしはベンノに視線を向けた。ベンノがどれだけ自分の利益を上乗せするつもりなのか、わたしは知らない。

「小金貨1枚と大銀貨8枚だ。買うか?」
「えぇ、頂きます」

 即決したフリーダがベンノとカードを合わせて、子供用聖典を買う。即座に買えるフリーダもすごいが、本一冊で大銀貨3枚の利益を得るベンノもすごい。もう少し値段を上げて、こちらの利益をもっと確保した方がよかったかもしれない。
 商人になりきれないことにガックリしているわたしに、フリーダはパタリと絵本を閉じて、ニコリと微笑む。

「マイン、次の絵本はそれぞれの季節について詳しく書かれた絵本が良いわ。わたくし、五神の眷属を覚えるのが大変ですの」

 今回の子供用聖典では最高神と季節に関係する五神の話だ。五神の眷属に関しては出てきていない。
 フリーダは自分の要望を述べることで、富豪の子供や貴族の子供がどういう知識が欲しいかを提示してくれた。このような要望があると、次の絵本が作りやすくて良い。

「ありがとう、フリーダ。次は眷属の絵本を作ってみるよ」

 わたしは書字板を出して、メモしておく。その様子を見ていたフリーダが軽く目を見張った。書字板を覗きこんで、鉄筆に目を留める。

「マイン、それは何ですの? またベンノさんが権利を持っていますの?」
「……本当に利に敏いお嬢さんだな」

 ベンノが感嘆の籠った溜息を吐き、フリーダは落胆の溜息を吐いた。

「マインを先に押さえられなかったのが、残念でなりませんわ。いくら利に敏くても、全く役に立っていないではないですか」

 その後、フリーダと軽く世間話をしている間に、ベンノは手続きを終える。登録が完了するには日数がかかるので、ギルドでこなす仕事は終了だ。

「またね、フリーダ」

 わたしはフリーダに手を振って、階段を下りるまでは自分で歩いた。
 しかし、二階は人が多いので、もみくちゃにされないようにベンノに抱き上げられて進むことになる。さっさと突っ切ろうとベンノが足を踏み出した時、二階の人ごみの中から、大きな声が響いた。

「待って! 待ってください! ギルベルタ商会のお嬢さん!」

 その声にわたしはベンノと顔を見合わせる。

「……コリンナさんには熱烈なファンがいるんですね」
「阿呆。俺が抱き上げているんだから、お前しかいないだろう。現実逃避するな」

 だって、こんな人の多いところで、大声で呼ばれて、ギルベルタ商会のお嬢さんでもないのに、返事をしたくない。

「とりあえず、周囲の視線が痛いから外に出ましょう。本当に用事があるなら追ってくると思います」

 ベンノを急かして、わたし達は早足で商業ギルドを出た。大声の持ち主は予想通りわたし達を追ってくる。
 ギルドの建物を出たところにある中央広場で、ベンノは立ち止まり、わたしを下ろした。
 くるりと後ろを振り返れば、明るいオレンジ色の癖毛を後ろで一つに縛った10代半ばの少年が、ギルドの建物から飛び出してきて駆けてくる。

「ギルベルタ商会のお嬢さん! オレのパトロンになってください!」

 中央広場の噴水前で跪いて、そう叫んだのは、鍛冶工房のヨハン少年だった。
 印刷協会の申請をしました。
 久し振りのフリーダ登場です。あ、ヨハンも。

 次回は、ヨハンの課題です。
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