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五月の雪は斯くて渡る 作者:饗庭璃奈子

第四章 アーチェリー事件

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 雨が降っている。
 土砂降りの雨が、着衣を、肌を、ぐっしょりと濡らしている。そうして息を切らして、無我夢中であたし(・・・)は走っている。体中に纏わり付く重さが、雨のためであるのか、このぐしゃぐしゃの思いのためであるのかも、定かではない。
 ぐしゃぐしゃ。そう、今のあたしはぐしゃぐしゃだ。
 宛てのない手紙みたいに。
 どこかに失くしてしまった遠い昔の物語みたいに。
「──待って!」
 背後から聞こえる耳に馴染む声に、あたしはとうとう諦めて、足を止める。ああ、もう追いつかれてしまった。本当はもっと一人になりたくて、あたしは走っていたはずなのに。
 ねえ、どうしてあんたは、いっつもそうなの。
「ねえ、帰ろう。帰って、パパにもう一回ちゃんとお願いしようよ。そうしたらパパだって、ちゃんとわかってくれるはずだよ」
 あたしはきゅっと唇を噛む。
 宥めるような声に苛立ちを覚える。
 そんなことありえっこないって、わかってるくせに。
 わかってる、くせに。
「パパの意志ならあたしが継ぐから、心配しないで。大丈夫よ、あたし一人でも頑張るから──、」
「何を寝惚けたことを言っているの?」
 言葉は自分でも驚くほど冷たく、他を寄せつけない。唇からこぼれた冷たい響きと、羽ばたくような声帯の震えに、苺火は自身が少女の内側に(・・・)いることを知る。
 苺火はただそこにいるだけの傍観者で、目前で起こる全ての出来事に干渉することはできない。少女のぐしゃぐしゃの思いも、ぐっしょりと濡れそぼって冷えきった五感も、全てを共有して、その内側でそっと息を殺している。頬の横でぽたりと、髪の一束を伝って雫が落ちる。
「いつもいつもさあ、余計なお世話なんだよ。うざったいなあ」
 肌に張り付く着衣の感触が、気持ち悪い。不愉快だ、何もかも。
「あたしたちの目指す世界は実力が全てものを言うのよ。警察官としての資質に恵まれているのは、あたし。パパが期待しているのは、あたしなのよ」
 唇はやっぱり、小鳥の少女の夢の時と同じように勝手に言葉を紡ぐ。
 ──僕と、ひとつになろうよ。
 まるで意識と体が乖離してしまったかのように、唇が勝手に動いて紡がれた言葉。雨音を切り裂いて鋭く鳴る声も、今は自分のものではない。
「でも、あんたには夢があるんじゃ……」
「パパの意志はあたしが継ぐわ」
 何かを口にしかける片割れをきっぱりと撥ねつけ、そして少女はゆっくりと振り返る。少女と対を成す、そっくり同じ姿がもう一つ、やっぱり同じように雨にずぶ濡れて、途方に暮れたようにそこに佇んでいる。
「それでももし、どうしてもそっちが引かないっていうんなら、こういう(・・・・)ことになるよ──お姉ちゃん」
 少女の手にはいつの間にか、ホルダーに収納されていたはずの特殊警棒が握られ、一縷の迷いも狂いもなく、片割れに向かって突きつけられている。
「──桜子」
 絶望的な表情を浮かべて、片割れが少女の名を呼ぶ。どうしてあんたがそんな顔するのよ。本当に絶望するべきなのは、あたしの方だっていうのに。
 苺火を内側に宿す少女の唇が、美しい弧を描いて歪むのを、苺火は感じる。



「さっきは本ッ当にごめんね、苺火君!」
 机の前に立ち、パンッと勢いよく両手を合わせ、深々と頭を下げる明日葉に、苺火は思わず気圧されて身を引いた。
 あのあと、幸い出血はすぐに止まったものの、またもクラスメイトたちに亡霊の群衆を重ね見てしまったためか、悪心はなかなか治まらなかった。そのままいつの間にか保健室のベッドでぐっすり眠り込んでしまった苺火がようやく教室に戻って来られたのは、終礼の直前、一日の最後の授業の終わり頃だったのだ。授業が終わるなり、明日葉は即座に苺火の机の前にすっ飛んで来て、今この状況に至る、というわけである。
「もーっ、心配したよ。苺火君、昼休みのあいだもずーっと眠ってて、起きる素振りもなかったから、打ち所が悪くてどうかしちゃったんじゃないかと気が気じゃなくって」
 額に宛てがわれたガーゼが痛々しいことを除けば、教室に戻って来た苺火の顔色が思いのほかよかったためか、明日葉は何だか饒舌だ。それに物凄く、安堵しているように見える。またしても授業をまるまる寝潰してしまったのだから、それは多少お腹は空いていたけれど、苺火の顔色がいいのも当然といえば当然のことだった。おかげでまたしても、あんな奇妙な夢まで見てしまったけれど。まるで自分が、桜子になってしまったかのような──。
 月舘に転入してきてからというもの、どうも自分はとてつもなく不真面目な行いばかりしているような気がする。法や掟を破るのにもだんだんと慣れてきて、品行方正な桐島苺火という人間は、今やすっかりどこかへ立ち消えてしまったかのようだ。
「昼休み、来てくれてたんだね、ありがとう。僕はもうすっかり調子がいいんだ。明日葉ちゃんの方こそ、今日は調子悪かったみたいだけど──何かあった?」
 その〝何か〟の中に、倉庫で交わされたあのやり取りの真意を問い正す意味合いも含まれていたのはもちろんだったが、どうも明日葉はそんなことはすっかり忘れているようで、何故か後ろめたそうに視線を逸らして後ろ頭に手をやった。
「いやあ、それがさあ……」
 珍しく言い淀む彼女を不思議に思って見上げた、その時だった。
「お前ら、まァたやってんのか」
 いい加減、嫌になるほど耳にしてきたその声を、聞き分けられないはずもなかった。
「星野!」
 隣のクラスにいるはずの星野が、何故か双子の片割れを半ば引きずるように引き連れて、教室の後ろの扉に佇んでいた。腕組みをして引き戸に背を預け、本当に立ち姿まで、ここまでいちいち癇に障る奴というのも、珍しいと思う。
「ほれ転校生、とっととこいつを引き取ってくれ」
 不意に星野が、掴んでいた襟足をぱっと放して双子の片割れを教室の中に押して寄越したので、苺火は急いで椅子から立ち上がり、彼女の方に駆け寄らなくてはならなかった。
「えっ、……え? もしかして、明日葉ちゃん?」
「──やあ、桐島君」
 星野に突き飛ばされて、よろけながらも苺火の前に気まずそうに進み出てきた彼女は、前髪の分け目と髪留め、そして左太腿の特殊警棒を収納したホルダーも間違いなく桜子のものだが、どうやら明日葉であるらしい。
「ってことは、こっちが……」
 こわごわと振り向いた先では、明日葉の格好をした桜子が、こちらもやはり気まずそうに視線を泳がせている。つまりこっちが、先日苺火に向かって特殊警棒とやらを持ち出してきたあの桜子だったというわけだ。知らず知らずのうちにそんな恐ろしい女の子と二人きりになっていたことを知って、苺火は今更ながらに背筋がひやりとするのを感じた。アーチェリーの矢を突きつけられたのも、それが桜子だとわかれば何だか納得だ。尤も、今回ばかりはそんなものを突きつけられる心当たりは全くなかったけれど。
「うん、まあ、つまりそういうことなんだ。ホント、ごめん。まさかこんなことになるなんて、あたし思わなくって……」
「えっ? やだ、ちょっと桜子、あんたあたしに扮して何やらかしたのよ」
 どうやら事の顛末をまだ聞かされてはいないらしい明日葉が、焦りを滲ませた声を上げた。
「いやあ、それがさあ……体育の授業で、アーチェリー部だからってみんなの前でお手本やらされて……盛大に失敗した挙げ句、苺火君の顔面に落っことした弓が直撃……」
「ああ……何となく理解したわ。桐島君の額のガーゼはそういうわけね。ごめんね、桐島君。まさか桜子がアーチェリーの手本をやらされることになってるなんて、思わなかったのよ。こっちの体育は、雨が降ってきちゃったから体育館でドッヂだったし」
 桜子のしどろもどろの説明も、明日葉にはきちんと伝わったらしく、明日葉は心底申し訳なさそうな顔をして苺火に謝ってきた。その後ろで星野も、見た目ばかりはそっくりそのまま入れ替わった双子に、生暖かい眼差しを向けている。星野がこういう視線を向けるのは、何も苺火に限った話ではないらしいと知り、苺火は不覚にもほっとした。
「だってさあ、アーチェリーなんてあたしはやったことないもん! お手本なんて急に言われたって、できるわけないじゃん!」
 桜子も、ようやくいつもの調子を取り戻してきたのか、今度は開き直って駄々を捏ねはじめた。明日葉と星野がため息をついて、彼女を宥めることをすっかり放棄してしまったので、必然的に被害者である苺火が苦笑混じりに彼女を取り成す羽目になる。
「まあまあ──でもさ、だったら先生が〝無理しなくていい〟って言った時にやめといたらよかったんじゃあ……」
 尤もなことを言いかけると、桜子はぷいとそっぽを向いて、スッパリと言い放った。
「だってそんなの、なんか悔しいじゃん!」
 その場に居合わせた全員が、一瞬、沈黙するのがわかった。
「──なんか悔しい、で人様に怪我させてんじゃないわよ、この馬鹿!」
 さすがに妹の扱いには慣れているのか、一番最初に我に返った明日葉が、ポカン! と桜子の後ろ頭を殴る。今のはちょっと、本気で痛そうだ。桜子も後頭部をさすって、
「何すんだよおー」
 とぶつくさ文句を垂れている。
「なになに、二人、入れ替わってたの!? オモシローイ!」
「おわっ、ちょ、馬鹿! こら、行くなっての!」
 遠くから四人の会話に耳をそばだてていたらしい晴が、とうとう堪えきれなくなった様子で、まさしく仔ギツネのように一目散にこちらに駆けてきた。そのあとをあたふたと追ってくる忍は、もはや完全に保護者か、悪戯仔ギツネの飼い主だ。
「そ、入れ替わってたのー。というわけで、やっほーハルちゃーん!」
「やっほーさくちゃーん!」
 駆け寄ってきた晴と桜子が親しげに名を呼び合うので、苺火は目をぱちくりとさせた。
「ああ、一年の時は俺と晴とさくら、同じクラスだったんだ。なんか知らんが晴とさくらはあんな感じで意気投合して、やたら仲良くてな」
 苺火が面食らっているのに気がついたのか、忍がすかさず解説を入れてくれた。
「なるほど……」
 確かに二人は見るからに、どうやらかなりの仲良しであるらしい。
 同時に苺火は、あ。と思い当たった。
 先日どこかで覚えがあると思った、桜子の子供っぽいはしゃぎ方。あれはそういえば、晴に通じるものだったのだ。類は友を呼ぶというのは、あながち間違ってもいないらしい。それにしても、桜子と並んだ晴はなおのこと小柄に見える。女の子よりも背が低いなんて、晴は本当に小学生みたいだ、と苺火は感心してしげしげと、仲睦まじい二人を眺めてしまった。晴と桜子は、どことなく微笑ましい感じがするコンビだ。
「信じられない! さくちゃんが古賀さんに化けてたなんて、俺、全然気がつかなかったよ!」
 そう言って目を輝かせる晴に、化けるも何も顔は同じなんだから、と苺火は内心苦笑する。星野はというと五月蝿そうに、晴の側に向けた耳に指を突っ込んでいる。苺火とは違う意味で、星野と晴は相性が悪そうだ、と苺火はこっそり考えた。
「ま、桐島君には本ッ当に申し訳ないことしちゃったけど、今日はちょーっと運が悪かったってところね。今日から体育の授業でアーチェリーなんて奇特なものやるなんて、あたしも桜子もちっとも知らなかったのよ」
 明日葉は、ちろりと舌を出して肩をすくめた。
「いつもなら、もっとうまくやるんだよ? 夜鷹以外に、ばれたことないしさあ」
 唇を尖らせて、桜子が言う。
「え、マジで?」
 ちょっとどころではなく衝撃的な発言に、晴が目を丸くする。その横で忍も、ただただ唖然として姉妹を見比べるばかりだ。当然だろう。そんな悪戯、思いつきはしても実際行動に移す双子なんて、そうそういないに違いない。
「だからねえ、晴君。きみが気づいてないだけで、あたしたちは実はもう既に結構会話を交わしているんだよ?」
「えっ、えっ? そうなの?」
 途端におどおどと挙動不審になる晴に、明日葉が悪戯っぽくニヤリと笑う。一緒にいるとその底抜けの明るさについつい忘れてしまうが、そういえば晴は元来、結構人見知りをする方なのだ。
「そうなの。だからね、〝古賀さん〟なんて他人行儀な呼び方しなくていいのよ。もっと気軽に呼んでくれた方が、あたしも落ち着くわ」
「うん、わかったよ! じゃあ、桜子がさくちゃんだから、明日葉はあっちゃんだね!」
「うん……? まあ、好きに呼んでくれて構わないわよ」
 にっこりと笑う晴に、明日葉は曖昧な笑顔を返した。それなりに話したことがあるとはいえ、晴の扱いがうまいのは、やはり同類の桜子の方であるらしい。
「──あっ、そういえば!」
 ふと思い出して、苺火は思わず声を上げた。
「何だ。いきなりでかい声を出すな」
 お前も何かあるのか、と言わんばかりに、星野はうざったそうに苺火を睨んだ。いちいちそんなに不機嫌にならなくたっていいのに、と苺火は肩をすくめ、それから話し出した。
「今日の一時間目の授業は現代文で、僕と明日葉ちゃんは同じ現代文係だから、一緒に係の仕事をしたんだ。だけどその時に、なんかおかしいなあとは確かに思ったんだよね。違和感を感じた、とでも言えばいいのかな」
 制服のスカートのプリーツを花開かせて、伸びやかな足が軽やかなステップを踏んだ一瞬、その横顔に僅かに閃いた違和感。女の子についてのいろいろなことを考えていたものだから、その時はすぐに忘れてしまったけれど、今にして思えばあれは、双子の性格の差異から来る表情の微妙な違いを、無意識の内に察知していたのだろう。
「えっ、いっちー、あのほんのちょっとのあいだに、気がついてたの!? そいつぁすごい! かなーりすごい!」
 桜子が目を丸くし、苺火は苦笑する。
「気づいたっていうか、ちょっと違和感を感じただけだよ。結局入れ替わってるってことまでは見抜けなかったから、保健室行きになっちゃったわけだし」
 ところが、苺火の言葉に予想外に食ってかかってきたのは、どういうわけか、というよりまたしても、相性最悪の星野だった。
「お前なあ、気づいてたならなんでもっと早く言わないんだよ。体育の授業前に入れ替わりが発覚してれば、お前だって醜態晒さずに済んだだろうに……っていうか、前から思ってたけど、お前ってホント鈍臭いよな。──やーい、ウスノロ」
 最後にぼそっと茶化して付け加えられた言葉に、星野がそんな意外な一面を垣間見せたことさえどうでもよくなるくらい、苺火はかちんと来た。
 そりゃあ苺火は運動全般苦手としているし、鈍臭いのもとうに自覚済みだけれど、それを星野に揶揄される謂れはない。協力関係を結びはしたものの、それも互いの事情に首を突っ込まないという約束の下、ただそれだけの仲に過ぎないのだから。
「なっ……! まさか入れ替わってるだなんて、思うわけないだろ!? そっちこそ二人のことよく知ってるくせに、なんですぐに気づかないんだよ!」
 正論を返されて、星野もむきになりはじめた。
「俺のクラスは体育の授業が一番最後だったんだよ! 教室じゃ桜子のことなんてこれっぽっちも気にしてないから、気づくのが遅れたんだ!」
「ちょっとぉ、それさりげなく酷くない?」
 端で二人のやり取りを聞いていた桜子が、不服そうにむくれる。忍と晴はというと、はらはらしながら、かといって今度ばかりは口出しすることも適わず、苺火と星野のあいだでまたも盛大にはじまってしまった応酬を見交わしている。
「あー、ヤダヤダ。星野っていつもそうやって一匹狼気取ってんの? お前さあ、それってなんだかんだ言ってただの中二病じゃん」
「ンだと!? この猫っ被り野郎、がッ!?」
 視界から、いきなり星野の姿が消えたので、苺火は一瞬またも星野が常人離れした何かをやってのけたのかと思ったのだが、そうではなかった。
「いっちーは、悪くないぞー!」
「そうよ! あんたはいい加減にそうやって桐島君に因縁つけんのやめなさいよね!」
 揃って片足を振り抜いている双子に、はっと気がついて見れば、星野が苺火の足元に、背中に上履きの足跡を二つ作って倒れ臥している。離れ業もへったくれもあったものではない。単に星野は数の暴力で、双子に張っ倒されただけだったのだ。──古賀姉妹単体でも星野が喧嘩で勝てたことはないと、聞いたような気もするが。
「ちくしょ……ッ」
「だ、大丈夫か? 星野」
 なかなか起き上がってこない星野に、苺火はさすがに心配になって身を屈めた。星野は突っ伏したまま、片手だけ持ち上げてひらひらと振ってみせた。
「ああ……命に別状は、大方ない」
「ちょっとはあるんだね……」
 星野もそういう冗談を言えるんだな、と、状況を俯瞰できる程度には頭の冷えた苺火はやたらめったら感心してしまい、未だ突っ伏したままの星野を助け起こすでもなく、まじまじと観察してしまった。おそらく双子は、相手が星野なのをいいことに全く手加減なしだったのだろう。こうしていると、ちょっと清々しい眺めだ。
「──とにかく、だ! 桜子は引き取っていくからな!」
 ようやく跳ね起きた星野は、桜子の襟足を仔猫か何かのようにむんずと掴むと、捨て台詞を残して、勇み足に一組の教室から去っていってしまった。
「一組の皆さん、お騒がせしましたぁー!」
 遠ざかっていく桜子の声と星野の背中を、苺火と明日葉、忍と晴の四人が、教室の扉から顔を突き出して見送った。
「星野、相当ダメージ受けてたみたいだけど、大丈夫かなあ……」
 今更のように星野の身の上を案じてみるも、
「ヘーキヘーキ! あいつちっちゃい頃から、あたしたちにぶん殴られて育ってるから!」
 と、いつの間に桜子と交換したのか、前髪の分け目を元に戻し、いつもの髪留めに付け替えている明日葉に、お気楽に笑い飛ばされただけだった。左太腿の特殊警棒ホルダーも、いつの間にかなくなっている。
「あはは……あいつも意外と苦労してるんだね……ん?」
 ふと気がついて教室を見渡すと、あっちでもこっちでも、クラス中の視線が苺火たちに集中していてぎょっとした。忍と晴までもが、呆気に取られて苺火の方を眺めている。自分に向かういくつもの瞳に、またもぐらりと視界が傾いで、亡霊の群衆にじっと見つめられるあの感覚が襲い来るような気がしたが、そうなる前に晴が瞳を輝かせてずずいと前に進み出てきたので、そんなものもすぐにどこかへ吹き飛んでしまった。
「すげーなお前っ! あの星野を手懐けたのか!?」
 だから、このパーソナルスペースの狭さは、どうにかならないものなのだろうか。
「星野をやり込められるのは、古賀姉妹だけだと思ってたんだけどな。一体どんな手使ったんだ?」
 忍にまで眩しそうな眼差しを向けられて、ああ、こんなはずじゃなかったのに、と苺火は頭を抱えたくなる。
 転校生というだけで、ただでさえ物珍しい目で見られるのだ。だから教室ではできる限り目立った行動をしないように、当たり障りなく、それなりに親しい友人を持ち、それなりに好感を持たれ、特に目立って秀でた点もなく、特に目立った欠点もなく、さりげなくあろうと思っていたのに、どうも星野と関わると、そうも言っていられないらしい。
「すげーな、桐島!」
「おとなしそうな顔して、意外とやるじゃん!」
「星野も案外、だらしねえなあ」
 どっと騒ぎ出すクラスメイトたちに、苺火は尻尾を巻いてその場から逃げ出したい衝動に駆られるが、生憎とここは教室の隅だ。逃げ場をなくして助けを求めるように明日葉を見ても、可笑しそうに笑っているだけだった。
 何はともあれ、不本意ながらも一躍ヒーロー(?)扱いされ、クラスで一目置かれる存在となってしまった苺火なのだった。

 その日も細く開いているドアを、コンコン、と控えめにノックすると、
「どうぞ」
 やはり涼やかな、雪解けの水のような声がする。苺火はできる限り少女を驚かせないように、そっとドアを押して隙間に体を滑り込ませる。
 放課後。忍は部活へ行ってしまい、晴もいつものようにどこかへ姿をくらませてしまった。一人取り残された苺火の足は、再び時計塔の地下室へと向かっていた。この日は柊木犀の抜け道を抜ける際、辺りに注意を払うのも忘れなかった。
「こんにちは」
 少女は天蓋付きベッドのレースのカーテンの向こう側で優雅に足を折り畳み、ゆったりと微笑んでいた。
「こんにちは」
 曖昧に微笑んで、苺火も言う。薄い一枚の布越しの見る彼女は、殊更に透明に、今にも消え入りそうに見える。
「あなたはだあれ?」
 にこにこと、悪びれもせずに少女は問う。
「──僕のこと、覚えてないの?」
 苺火は怪訝に思って眉をひそめる。小鳥の少女は不思議そうな顔をするばかりで、何も言わない。諦めて、苺火は溜め息をつく。小鳥の少女は白痴なのだ。少女の(とき)はある一定の地点で止まっていて、昨日出会った人間のことなど、覚えていられないたちなのかもしれない。
「僕は桐島苺火。中等部の二年です」
 含み、言い聞かせるように、丁寧に昨日の言葉をなぞって、苺火は名乗った。
「苺火君ね」
 小鳥の少女はやはり昨日と同じように、にっこりと笑う。それ以上、彼女が苺火に興味を示す素振りはない。自分のことはもうこれくらいでいいだろうと悟った苺火は、おもむろに話を切り出した。
「今日ね、クラスで騒ぎがあって、大変だったんです」
「クラス? 騒ぎ?」
 何のことかさっぱりわからないといったふうに、少女は首を傾げた。
 今は地底の底深くに住まう目前の少女にも、かつては明るい世界で、大地を踏み締めていた頃があったのだろうか。ふと、苺火は疑問に思う。そうでなければ、クラスなどという概念も、少女には到底理解できないものだろうと思ったからだ。灰色一色の世界で、籠の中の鳥のように取り留めもなく生きている──いや、生きていると言えるのかどうかも、あやふやだ──少女を見ていると、彼女が地上を自由に行き来していた頃の姿を想像するのは、苺火にはとても、難しいことなのだった。
「僕の学年にね、双子の姉妹がいるんですけど、今日、その二人がこっそり入れ替わっちゃってて。ほんと、びっくりしました」
「ふたご、」
 少女の空っぽの瞳が、俄かに生気に満ちた光を宿すのに、おや、と苺火は思う。少女が苺火の言葉にこんなにも目に見えて反応を示すのははじめてだ。少女は何か、双子というものに対して深い思い入れがあるのかもしれないと思い、苺火は話を続けた。
「二人は前々から戯れに入れ替わっては遊んでたらしいんですけど、今日に限って体育の授業がアーチェリーで。それで、片方の子がアーチェリー部じゃないのにお手本をやらされることになっちゃって、僕の顔面に落とした弓が直撃しちゃって。僕は額をぱっくり割って、そのまま保健室行きですよ。ほら、このガーゼがそれです」
 苺火はわざとおどけて、額のガーゼを指差してみせた。
「まあ。大変なのね」
 言葉の意味をどこまで理解しているのか定かではなかったが、少女はくすくすと笑った。
「そう。大変だったんです」
 苺火も思わずつられて、くすっと笑った。少女が必要以上に苺火の額の傷を案じたり、怖がったりしなかったことに、安堵してもいた。
「双子はふしぎ」
 ふと、鼓膜を震わせた言葉に、苺火はどきりとして少女を見やった。少女が自ら何かを話し出すのは、これがはじめてのことだったからだ。少女の発する一字一句を聞き漏らすまいと、苺火は聴覚を研ぎ澄ませた。少女は白痴でも、その言葉から何かしらの手がかりを得ることくらいはできるかもしれない。今日は何だか、はじめてのことがいっぱいだ。
「二人なのに、ひとつみたい。いいなあ。私もひとつになりたいなあ」
 少女は呟いて、鉄格子の嵌め込まれた高い窓を見上げた。授業が終わる頃にはあんなに荒みきっていたのがうそのように、今の空はすっきりと晴れ渡っていた。丘陵地帯の天気は、いつもこんなふうに不安定なのよと、明日葉は言った。
 灰色一色のこの部屋で、唯一見える空さえもさっきまではあんな鈍色をして、雨風になぶられ、遠くでは雷鳴が轟き、少女はどんなにか心細い思いをしたことだろうか。
 閉ざされた少女の世界を思って、苺火はぎゅっと拳を握る。
「──ねえ。あなたはどうしてここにいるの?」
 昨日と同じ問いかけを、もう一度苺火は繰り返す。この日の少女には、昨日とは違う僅かな兆しを、感じ取っていたから。
「あの人になりたいの」
 しかし少女の返事に、苺火は押し黙った。
 駄目だ。結局小鳥の少女の行き着くところはいつだって、同じその答えなのだ。誰とも知れないあの人と、ひとつになりたい、あの人になりたい、と。

 ひとつになりたいの。
 あの人になりたいの。
 ひとつになりたいの。
 あの人になりたいの。

「──また、来ますね」
 昨日と同じ、滑らかな言葉の羅列を繰り返し始めてしまった少女に向かって、もう届いてはいないであろう言葉を、苺火は紡ぐ。
「さよなら」
「さよなら」
 その言葉にだけは、やはり取って付けたような返事が返ってくる。
 ──ああ、それはなんと、皮肉なことであろうか。
 二人の挨拶。それはいつも〝さよなら〟だ。それ以外の言葉が少女に届くことも、増してや少女の心を震わすこともない。双子という単語に反応を示したのだって、少女の内に元々眠っていた感情を揺さぶり起こしただけで、苺火の言葉が直接彼女の心にふれたわけではないのだ。
 小鳥の少女はこの薄暗い地下室で、延々と同じ(とき)を繰り返している。
 苺火はその仕組みを、既に完璧に理解していた。
 昨日と同じように細くドアの隙間を開けて、苺火は地下室をあとにする。次に会う時にはもう彼女が決して自分を覚えていないであろうことを、確信しながら。
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