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五月の雪は斯くて渡る 作者:饗庭璃奈子

第三章 罰の焔

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 いつまでも、少女は美しくさえずり続けていた。そのままいつか、喉を涸らしてしまうのではないかと思えるほどだった。
 そんな言葉はもう聞きたくないと、苺火は強く願ったが、〝黙ってくれ〟などと、そんな直裁的な言葉をぶつければ、少女を深く傷つけてしまうような気がしたし、今の少女にありきたりな言葉が届くのかどうかも自信がなかった。少女の心にじかにふれるには、何かもっと特別な、秘密の言語を用意しなくてはならないような気がした。しかし、その言語を知る手立ても、当然ながら苺火は持ち合わせていないのだった。
 際限なく言葉をあふれさせる少女を残して、苺火はできる限り物音を立てないように、そっと地下室をあとにした。少女の領域と、外界との境界線を越えると、階下に転がしたままだった惨めなブリキのバケツを、両手で丁寧に拾い上げた。
 古いバケツだ。随分と錆びて、薄汚れている。
「──さよなら」
 視線をバケツに落としたまま、そっと、抱き締めるように、苺火は呟いた。
「さよなら」
 思いがけず背後から返ってきた応えに、苺火は驚いて振り返ったが、それが苺火に向けられたものではないことはすぐにわかった。少女は既に、苺火のことなど意中に留めていなかった。華奢な手足をベッドの上に無造作に、しかし優雅に投げ出して、少女は座っていた。惚けたように天の窓を仰ぐ空っぽの、痩せた背中だけが、淡い光に包まれて、今にも天上へと昇っていきそうに見えた。しかし、その自由は分厚いコンクリートの壁によって奪われており、少女はさながら籠の中の小鳥だった。
 ──さよなら。
 それが少女の秘密の言語そのものであったことを、苺火は悟った。手にしたままだったバケツに、しみのように赤茶けて浮いた錆を、呆然と見つめた。
 ──さよなら。
 苺火は胸の内でもう一度、少女の秘密の言語であるところのその言葉をなぞらえた。
 ああ、それはなんと、さみしい言語であることだろうか。
 苺火は注意深く、地下室のドアを閉めた。来た時と同じように、ほんの少しの隙間だけ、残しておくのも忘れなかった。少女にとってはそんな些細な事象でさえ、何か特別な意味のあることなのかもしれないと思った。落ちた箒とデッキブラシを拾い上げ、階段の中腹にバケツと一緒に元通りに立てかける。柄の長い二本をバランスよく立てかけるのは根気のいる作業のように思えたが、二本を交差させれば案外あっさりうまくいった。地下階段を隠していたくり抜き扉は、少し考えたのち、開け放したままにしておいた。これは二階堂鶫美による罠だと考えた方が、自然なように思えたからだ。
 全てを終えるととぼとぼと、苺火は時計塔をあとにした。正面扉をくぐる瞬間、小鳥の少女が再び歌いはじめる声が、苺火の胸を微かに震わせた。振り捨てるように、軋む扉を閉めた。
 少女はいつ、壊れてしまったのだろうか。
 今日、最初に時計塔を訪れた時に輪をかけて、心ここにあらず、といった風情で歩きながら、苺火の思考に浮かぶのは、小鳥の少女のことばかりだった。少女のことを知りたくて、助けたくて、今一度時計塔に足を運んだのに、わかったことと言えば少女が白痴であるという、絶望的な事実だけだった。肝心の少女があの状態では、少女からじかに情報を引き出すことなど不可能に等しいだろう。
 簡素な箱の中で、決して赦されることのない外の世界を高みに見せつけられ続け、夜には男の欲望の餌食となり、少しずつ、少しずつ、小鳥の少女は心を壊していったのだろうか。それともはじめから壊れていたからこそ、少女の体躯は二階堂鶫美のいいように利用されているのだろうか。見たところ、少女を地下室に縛りつけるような物理的な設備は何もなかった。それなのに、ドアを大きく開け放って、苺火を迎え入れた時でさえ、少女は決して地下室の、あの一線だけは越えようとはしなかった。
 ──何故? 二階堂鶫美に、何か弱みを握られているのか? 或いは、そういう暗示をかけられているということも考えられる。
 気がかりなのはそれだけではなかった。短い会話の中で少女が固執を見せた、ただ一人の人物。〝あの人〟とは一体、誰のことを差しているのだろう。二階堂鶫美? 〝ひとつになりたい〟とは、やはり男女のまぐわいを意味するのか? だとすれば二人は、年の差こそあれど愛し合っているというのか? それならばあの晩見た、少女の拒絶は?
〝きみは決してここから出られないんだ〟
〝きみが望んだことだよ〟
 二階堂の言葉の真意はどこにある?
 ──わからない!
 疑問ばかりが際限なく増幅して、それに反する手がかりのあまりの少なさに、苺火は頭を掻き毟りたくなった。
 そんなふうに悶々としながら歩いていたものだから、柊木犀の抜け道をくぐり抜ける時にもやはり周囲を警戒することなどすっかり思考から抜け落ちていたし、頑丈な鎖と大きな南京錠で厳重に封鎖された時計塔の正門前で声をかけられた時には、驚愕のあまりその場で文字通り跳び上がりそうになった。
「ねえ、こんなところで何してるの?」
 突如として背後から降ってきた猫撫で声に、苺火は凍りついた。

 ありとあらゆる思考を停止し、硬直している苺火の脇をすり抜けて、男は悠然と苺火の行く手に回り込んだ。すれ違う瞬間、ゆったりと靡く白衣の裾と、長いピンク・ブラウンの髪が、視界の端にちらついた。白衣のポケットには、両手が突っ込まれたままだった。あの晩見た、男のいやに長い爪を、苺火は思い出していた。
 視線を上げることができなかった。穏やかな陽光は男の輪郭に遮られ、苺火の上に不穏な影を落とした。
 伏せた視線の先で、不揃いに歩みを止めた靴が行く手を遮ってしまうと、苺火はとうとう観念して、おそるおそる視線を上げた。そこにいるのが誰かなど、とうにわかりきっている。あの晩聞いた不愉快に甘ったるい猫撫で声を、忘れるはずもない。
 二階堂鶫美その人だった。今、最も遭遇すべきでない、遭遇してはいけない男が、ほんの少し腕を伸ばせば届くほどの距離に、立ちはだかっていた。
 目の眩むような逆光の中、全てを見透かしていそうな(はしばみ)色の瞳が、苺火を射抜いていた。その目に捕らわれた瞬間、体中からどっと冷や汗が噴き出した。蛇に睨まれた蛙のように、苺火はその場から一歩も動くことができなかった。
〝二階堂鶫美はその事件の関係者だ〟
〝月舘は過去に死人を出している〟
 こんな時に限って、脅し文句のような星野の言葉がありありと思い返されて、なおのこと苺火の足をすくませた。
「おや、これはこれは。転校生の、桐島苺火君じゃあないか」
 妙にわざとらしい台詞回しでそう言って、二階堂鶫美は唇に美しい三日月型の弧を描き、端整な面立ちの上に完璧な微笑を作り上げた。もし、苺火が何も知らなければ、彼の中性的な美貌に思わず見蕩れてしまっていたかもしれない。しかし、時計塔に隠された後ろ暗い秘密を知ってしまった今は、その整った微笑さえも妖しげなものに思えた。
「二階堂、先生……」
 喉の奥からせり上がってくる恐怖を押し殺しながら絞り出した声は、掠れていた。
 迂闊だった。小鳥の少女のことに気を取られて、辺りに注意を払うことをすっかり失念していた。一体いつから見られていたのだろう。考えると、ますます恐ろしかった。
 改めて目の当たりにする二階堂鶫美は、確かに中性的な外見ではあるのだが、やはり見上げんばかりに背が高い。休日だというのに、黒のハイネックの上に白衣という出で立ちは、始業式の日に見たのと少しも変わりなかった。やや垂れた目尻に、すっと長い睫毛が艶やかな顔立ちと、不釣り合いに広い肩幅が、二階堂鶫美の中性的で異様な雰囲気を増し、より色濃いものとして醸し出していた。背中の中ほどまである長髪だけは、始業式の日とは違うふうに結われ、彼の気まぐれなたちを垣間見ることができた。そして、二階堂鶫美の纏う空気には、人を惑わせて止まないあの薔薇の香りが、充満していた。
 二階堂鶫美は只者ではない。五感から感じ取れる男の全てが、その事実を雄弁に物語っていた。この男であれば、例えばただの気まぐれに人だって殺せてしまいそうな、非凡。正常な人格からの、乖離。
「お友達は遊びに行ったみたいだけど、きみは一緒に行かなかったのかな?」
 柔和に笑んだまま、二階堂は小首を傾げた。女子生徒に人気があるというのも頷ける、愛嬌のある仕草だった。皆、この男の表向きの顔に、騙されているのだ。小鳥の少女を組み伏した男の背中を思い出して、苺火は激しい嫌悪感を催した。なんて、薄汚い。
「ええ、僕は──転校してきたばかりで、少し疲れてしまったので」
 注意深く答えながら、苺火は二階堂鶫美の発する一字一句を、冷静に分析していた。始業式の時、二階堂鶫美は高等部教諭の一群にいた。特に担当のクラスというものは持っていないように見受けられたが、おそらくは高等部の授業をおもに見ている教師であるように思われた。もちろん、苺火のクラスの授業も持っていない。その二階堂が、たかだか中等部の一転校生である苺火を瞬時に判別し、更にはその友人の動向まで把握している。
 監視されている、と苺火は思った。
 苺火自身の転入が特例である可能性を差し置いても、二階堂鶫美は既に時計塔に侵入者があったことに気づき、それが苺火と星野であることまで特定している。敢えてそれを自ら仄めかすような言動をしてきたのは、牽制のためだろうか。妙な気を起こせば、無関係の友人たちを巻き込むことも、やぶさかではないと。
 苺火は唇を噛んだ。忍と晴を巻き込むわけにはいかない。しかし、小鳥の少女を放っておくこともできない。もしも男が、苺火の大切な友人二人に手を出すような素振りを見せれば、その時はそれを逆手に取って、すっ転ばせてやる。
「ふうん、そうなんだ。そうだね。いろいろあったものね」
 柔和に見えた二階堂鶫美の笑顔が、ずっと見ていると能面のように単調なものであることに、苺火は気づいた。普通、人間というのは、その顔色を注意深く観察していれば、本音と建前との見分けくらいはつく。少なくとも苺火は、目立たずにいるためのありとあらゆる技術を会得してきた中で、そうした人の心の機微を推し量ることに長けていると自負している。しかしこの男の場合、何を考えているのか、何をしようとしているのか、少しも読み取ることができないのだ。一見柔らかに見える言動全てが、相手を油断させるための偽物であるかのように思えて、苺火はより一層、男への警戒を強めた。少なくとも二階堂の言う〝いろいろ〟の中に、星野のことや時計塔のことも含まれているのは、どうやら間違いなさそうだった。
 不意に二階堂が片方の手をポケットから抜き出したので、苺火ははっと身構えた。それこそ、この男であれば白衣のどこかに刃物を忍ばせていても少しも不思議ではないように思われたからだ。しかし、露わになったのは骨ばって血管の浮いた、そしてやはりいやに爪の長い、男の生身の手だけだった。
「顔が汚れているね。一体どこで、何をしていたの?」
 言われてようやく、苺火は先ほど自分が地下階段の薄汚れたバケツを頭からもろに被ってしまったことを思い出した。まさかあんな無様な場面まで二階堂に見られていたわけではあるまいが、その言葉は苺火を動揺させるのに十二分な威力を持っていたた。
 二階堂は、どうやら苺火の顔についた汚れを手ずから拭おうというらしい。爪の先まで整った手が、苺火の頬に近づく。男の長い爪を、苺火は顔の間近に見る。仄かな薔薇の香りが、鼻先をくすぐる──、
「──ちょっと転んだだけですっ!」
 反射的に、苺火はその手を強く跳ねのけていた。パンッ、という、弾けるような音とともに、苺火はすんでのところで二階堂にふれられることを回避した。二階堂はきょとんとして、自分よりひと回りもふた回りも小さな、いきり立つというよりも、寧ろ怯えた様子の少年を眺めていた。思いもかけない行動に出てしまったことに、苺火は自分でも驚いていた。けれど、謝罪する気などこれっぽっちも起こりはしなかった。苺火一人が騒ぎ立てたところで、学内での二階堂の立場や評価、小鳥の少女の受けてきたであろう仕打ちがどうなるわけでもなかったけれど、正直なところ余裕綽々とした態度の二階堂にようやく一泡吹かせることができて、清々していたのだ。これで男の激昂を買うのであれば、本望だった。苺火とて、男からの処遇を甘んじて受けるつもりなど更々なく、相応の覚悟はとうにできている。
 それに、どちらかといえばこちらの方が切実な理由ではあったけれど、男から漂ってくる薔薇の香りに絆されてしまいそうで、そら恐ろしくもあった。苺火は、ともすれば揺らぎそうになる理性を保とうと、必死に自分に言い聞かせていた。
 本当に、一体何なんだろうか、この男は。いきなり他人の、それも同じ男である生徒の顔にふれようとするなんて、気色が悪い。
「へえ、そうなんだ。ちょっと意外だけど……うん。気の強い子は嫌いじゃないよ」
 ところが苺火の予想に反して、二階堂は唐突に、子供のようにあどけなく笑ったのだ。それまでの貼り付けたような笑みではなく、心の底からの嬉々とした笑顔に、苺火は思わずぱちくりと、目を瞬かせてしまったほどだった。
「苺火君。きみに一つ、忠告をしてあげよう」
 よくはわからないがとにかく気をよくしたらしい男は、突然そんなことを言い出した。
「きみはこの学園に来てから、ずっと気にかかっていることがあるよね。そう、ずっと。月舘に転入してきて、壁を越えたその瞬間から、ずっとだよ」
 苺火はどきりとした。それは確かに、男の言う通りだったからだ。廃屋の視線。存在を責め立てるような木々や小鳥たちのざわめき。理由はわからないけれど、苺火の中でずっと冷めやらず気にかかり続けている、自分自身へのある一つの猜疑。
「ねえ、苺火君。早く気づかないと、手遅れになるよ。世界は〝永遠の冬〟に閉ざされ、きみは罰を受けるんだ」
「〝永遠の冬〟……?」
 それは耳慣れない言葉だった。世界だなどというスケールの大きさも、苺火には到底、及びもつかない話のように思えた。
「僕の右目を覗いてご覧、」
「あっ、」
 突然、腕を掴まれ、引っ張り上げられて、苺火は焦った声を上げた。今度ばかりは抵抗する間もなかった。苺火は一瞬にして、男の意向のままに体を上向かせられていた。やばい、と思った時にはもう、息がかかるほどの至近距離に男の顔があった。端から見れば、男は緩やかに苺火の腕を捕まえているだけにしか見えなかっただろうし、苺火自身も腕を掴む手にさほどの力を感じたわけではなかった。しかし、掴まれた手を動かそうとしてもびくともせず、苺火は男のたった一本の腕で、見事に体の自由を奪われてしまった。
 苺火はパニックに陥った。男の拘束から逃れようと、必死にもがいた。
「苺火君、……苺火君! 落ち着いて、動かないで。よく目を凝らして、僕の右目の底を見るんだ」
 まんまと男の手中に捕らえられ、すっかり気が動転してはいたが、男の声に含まれた真摯な響きを、苺火は耳聡く捕らえた。苺火はおずおずと、抵抗をやめた。男の顔からはいつの間にか、底の見えない、不快な笑みが消えていた。
「──いい子だね」
 男が囁いた。苺火のすぐ鼻先には男の纏った白衣があり、薔薇の香りは先ほどよりも一層濃く、強さを増していた。いよいよ朦朧とする意識を奮い立たせて、苺火はどうにか顔を上げ、苺火の身の丈に合わせて腰を屈める男の右目を、間近に覗き込んだ。芳醇な香りと相まって、榛色の伸縮する虹彩の、中心にぽっかりと空いた暗闇に、吸い込まれてしまいそうだった。
 はじめ、男の瞳孔は暗かった。なんだ、何もないじゃないか、と思った時、奥で何かがチカリと瞬いた。あれっ、と、苺火はもう一度暗闇に目を凝らした。よくよく目を凝らせば、チカチカしたものはそれ一つだけではなく、暗闇のあちこちでほんの一瞬だけ瞬いてはすぐに消えてしまうので、苺火は忙しなくそれを目で追いかけなければならなかった。
 すっかり目が慣れてしまうと、もうそれを見ることは容易かった。男の右目の内側に広がっていたのは、何もない、空っぽの暗闇などではなかった。その暗闇の底からいくつもの、大小も明暗も、とかく様々な星が現れては消え、金の鱗のようににさざめく(エトワール)の集合体を成していた。無数のシャンパンゴールドの星が弾けては消え、また現れては弾け、という一連の動作が、際限なく、幾重にも繰り返されている。
 それはとても美しい光景だった。この世で最も美しいものの一つと言っても、過言ではないように思えた。この美しさの前にあっては、あんなにも苺火を惑わせた薔薇の香りさえも、色褪せていくような気がした。この星のうちの一つを、暗闇の底に腕を伸ばして掴み取れたら、どんなにか素敵だろうかと苺火は考えた。しかし、もしそんなことが叶ったとしても、星は苺火の手のうちで線香花火のようにその輝きを淡く弱め、雪のように儚く溶けてなくなってしまうに違いないのだった。
「──これは、何ですか」
 男の右目の底で際限なく繰り返される循環に見入ったまま、苺火は尋ねた。
「〝罰の焔〟」
「──罰?」
 苺火は訝しげに眉をひそめた。目の前の綺麗なものと、それは対極にある言葉だった。
「そう。僕は罰を受けたんだよ」
「どうしてですか」
「悪いことをしたから」
 苺火は閉口した。そもそも罰というのは悪いことをしたから下されるものであって、何もしていないのに罰を受ける人間など聞いたことがない。男の返事は、まるで答えになっていなかった。しかし、からかうにしては男はあまりに真摯だった。
「その目は、見えないんですか」
 それ以上の追求はひとまず諦めて、苺火は尋ねた。
「外の世界のものはね。でも、見えているものもあるよ」
「何ですか」
「罰だよ」
 密事のように、男は囁いた。男は先ほどまでのように食えない笑みを湛えてはいなかったけれど、相変わらず何を考えているのか、その表情からはさっぱり読み取れなかった。
「僕はね、苺火君。ずーっと、罰を見続けているんだ」
 わけがわからなかった。男がこれを罰だと言うことも、罰を受けた理由も、それを苺火にひけらかして見せた理由も。〝罰が見えている〟という言葉の指し示す意味さえも。
 苺火の覗き見ている、星の弾けるこの様を、延々と見続けているということだろうか? 或いは何かの隠喩だろうか。苺火は何か埒の明かないような、右目の底の星の巡りと同じように疑問が際限なく循環し、再構築されていくような、そんな錯覚に陥った。
「先生はどんな罪を犯したんですか。どうしてそれを、僕に見せたんですか」
 その、負の螺旋を断ち切るような直裁的な質問を、思いきって苺火はぶつけた。ともすれば男の逆鱗に触れてしまうかもしれないような、それは危うい橋だった。
「つまりね、苺火君」
 男は唇を歪めた。唇を醜く歪めて、男は笑っているように見えた。苺火は戦慄した。しかし、どんな小細工を使っているのか、腕をたおやかに固定されているが故に、後ずさることさえできはしなかった。男の右目の底で弾けては散る、星のあまりの美しさにすっかり失念していたけれど、そういえばこれがこの男の、本性なのだ──。
「僕は未来のきみなんだよ」
 男は醜く笑っていたけれど、(いか)ることも、ましてや苺火をけしかけるようなこともしなかった。男の言葉はただただ謎に満ちていて、不可解だった。もっとも男は、はじめて苺火の前に立ったその瞬間から、不可解極まりない存在ではあったけれど。
 つまるところ彼は、いつか苺火が自分と同じように罰を受けると言いたいのだろうか。
「──失礼ですが、おっしゃる意味がわかりません。僕は罰を受けるようなことをした覚えはありませんし、これからそういったことをするつもりも一切ありません」
 苺火はきっぱりと、淀みなく二階堂を見据えた。それはいくつか法を破るようなことはしたけれど、男の言う罪と罰は、そんな生易しいものとは根本からかけ離れているような気がしたのだ。それに、奇怪ではあるが、二階堂鶫美は正真正銘、生身の人間だ。生きて、呼吸をし、血も通っている。正体の知れない、何やら妖しく美しい罰の焔とやらに右目を冒されてはいるが、中身が空っぽの小鳥の少女とは違う。星野の言う通り、確かにまるで考えの読めない、危険な人物ではあるかもしれないが、同じ人間であるならば決して立ち向かえない相手ではないはずだ。星野だってちょっと突っ張っているだけで、話してみれば案外そこらのありふれた生徒と変わりなかったではないか。
 苺火の思惑を知ってか知らずか、二階堂の目が面白いものでも見るかのようにすっと細まった。瞳が翳り、右目の焔が遠のいてしまったことをどこか惜しんでいる自身に、苺火はぞくりとした。
 魅了されている。罰の焔という禍々しい名の通り、美しい星々は本当はとてもおぞましく、危険なものなのかもしれなかった。
 二階堂はますます身を屈め、二人の距離は一層狭まった。それでも苺火は、男から目を逸らすことはしなかった。一瞬でも男から目を離したら、今にも喉笛を掻き切られてしまいそうな緊迫した空気が、二人のあいだにはあった。腕を掴んでいた二階堂の手は、そのままするりと衣服の上を滑り、恭しいものでも扱うように、苺火の手を取った。男の手はしっとりと、薔薇の花弁のように冷たかった。
「ねえ、苺火君。きみは本当に可愛いねえ。きみは僕の──、」
 二階堂が言葉を続けようとした、まさにその時だった。
 ──ガシャーン!
 何かが割れる凄まじい音に、苺火ははっと我に返り、男は疎ましそうに顔をしかめ、音のした方向に視線を投げた。音は明らかに、時計塔の裏手から鳴っていた。
「おやおや、誰かが悪戯でもしたのかな。いいところだったのに、これは残念。それじゃあまたね、苺火君」
 男の顔には再び、元の能面のような笑みが舞い戻ってきていた。掴まれていた手は意外なほどあっさりと解放され、二階堂は颯爽と苺火の脇を横切り、呆気なくその場を立ち去った。苺火は振り返って、遠ざかっていく男の背中を呆然と見送った。白衣の裾とピンク・ブラウンの長髪が、男の歩みに合わせて悠然と靡いていた。
 と、今度は突如として背後から誰かに口元を押さえ込まれ、遠慮会釈のない力で後方に引きずられた。完全に気を抜いていた苺火は、咄嗟に受け身を取ることもままならず、何者かの意図したままに、いとも容易くツツジの植え込みの裏に引っ張り込まれた。
 ──今度は何だ!?
 煉瓦塀が崩壊して鋭い切っ先を持つ、柊木犀の抜け道ほどではないものの、ツツジの枝葉が皮膚を引っ掻いて痛んだが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。背後の人物が、二階堂鶫美ではないことだけは確かだ。しかし、こんな手荒な手段で人目につかないところに引きずり込まれて、一体何をしでかされるのか、わかったものではない。何しろここは何が起こっても少しも不思議ではない、壁の中の王国なのだ。相手を確かめようと体を捻って視線を上げて、そこにあった思いもかけない顔に、苺火は思わず声を上げそうになった。
〝星野!?〟
 もごもごとその名を呼ぼうとしたが、口元をしっかりとホールドされているので微かな呻き声にしかならなかった。ほとんど唇の動きだけで〝動くな〟と囁くと、星野は茂みから外の様子を窺った。まるで、刑事ドラマに出てくる悪役のようだ。雑踏に紛れて、目当ての人物を華麗に攫う誘拐犯。この場合違うのは、捕われた苺火も共犯であるということだ。苺火は息を潜め、星野に口元を押さえつけられたままおとなしくしていた。苺火の体勢では、ツツジの枝や白い葉裏と、晴れやかな空の青が僅かに見えるばかりで、外の様子がどうなっているかはわからなかった。もう離してくれても、別に暴れたり声を上げたりなんかしないのに、と思ったが、この状況では文句を垂れることもままならなかった。
「──行ったか」
 暫くすると、星野はぼそりと呟き、ようやく苺火を解放してくれた。鼻孔まで塞がれていたわけではないので呼吸に滞りはなかったはずなのだが、何となく生き返ったような気がして、苺火は深く息をついた。他人に口を塞がれていると、鼻息だの何だのが、何かと気になるものなのである。月舘に転入してきて早くも二回目の〝他人に口を塞がれる〟という状況に、苺火は身をもってそのことを実感しはじめていた。
「ちょっと石投げて、窓を割ってやった。うまくいったな」
 策が功を奏したためか、星野は満足げだった。さっきの音の犯人は、どうやら星野であったらしい。
「あ、ありがと」
 何故星野がここにいるのか、とか、いくら相手が二階堂鶫美とはいえ器物を破損したりなんかして本当に大丈夫なのか、とか、疑問に思わないでもなかったが、助けて貰ったことに違いはないので、苺火はひとまずお礼を言っておいた。危機感も何もなく、ぼやけた表情の苺火に、星野は呆れ返って、今度はぶつくさ小言を言い出した。
「お前もせっかく逃げるチャンスを作ってやったんだから、ボサッとしてるなよな。またいつあいつが戻ってくるかわからないってのに」
「うん……」
 何と返したらいいものかわからず、苺火は頷き、押し黙った。今しがた目にしたばかりの、男の右目の底の夢見るようなさざめきに、余韻が醒めやらずにいたというのもあるし、突然の星野の出現に、頭がついていっていなかったというのもある。
 星野は、何事か思案するように腕を組み、顎に手を当てた。何かしら、彼の理解の範疇を超えていることを受け止めようとする時にその仕草をするのが、星野の癖であるらしかった。
 物思いに耽る星野をぼんやりと眺めながら、音の犯人が星野であることにも、二階堂はもしかしたら気がついていたかもしれない、と苺火は漠然と思った。二階堂鶫美は、多分、そういう男だ。ひと回りもふた回りも先を読んで、事もなげに人を手の上で転がし、涼しい顔をしている。おそらく彼は、苺火の知らないたくさんのことを既に知っていて、苺火の気づいていないたくさんのことに、既に気がついているのだろう。今しがたの一連のやり取りから、苺火は二階堂鶫美という男に対して、そういう認識を抱いていた。
「それにしても、今のはさすがに我が目を疑ったぜ。マジで節操なしかよ、あいつ。おい転校生、お前何ともないだろうな?」
「うん。変なことは、されてないよ……」
 やたらめったら距離が近かったような気がするし、些かの接触もありはしたが、特に妙なことはされなかった、と思う。
「そうか」
 小鳥の少女のみならず、苺火にまで二階堂の魔の手が及んだわけではなさそうなことに、星野はひとまず安堵した様子だった。曲がりなりにも関わりを持ってしまった同級生を、少なからず心配はしてくれたらしい。それに、この様子からすると、時計塔に出入りしていたところを見られたわけでもなさそうだ。ようやく平常心を取り戻してきた苺火も、わけもわからぬうちに絶交を言い渡されていた星野と再び相まみえたことに何だか嬉しくなっていまい、どうしてこんなところにいるのか、尋ねようと顔を上げたところ、怒ったような鋭い眼差しに行き当たって、再び面食らうこととなった。
「時計塔には近づくなって言っただろ」
 咎めるような厳しい口調で、星野は言った。苺火の中で無自覚に膨れ上がっていた期待が、急速に萎んでいった。同時に、意固地な星野に対する怒りさえ芽生えてきた。
 そうだった。こいつはそういう奴だということを、危うく失念するところだった。
「──僕が何をしようと、お前には関係ないだろ」
 思っていた以上に低く硬質な声が、地を這うように漏れた。
「あ?」
 まさかおとなしそうな苺火に──ただおとなしいだけの生徒ではないことに、星野はもう気がついているだろうが、それでも外見上だけはおとなしそうに見える苺火に──そんな反応を返されるとは思っていなかったのだろう。星野が僅かに狼狽するのがわかった。苺火は星野をキッと見据えて、鋭く言い放った。
「助けてくれたのはありがたいけど、僕が僕の意思でやったことをお前にどうこう言われる筋合いはないよ」
「──あのな。お前の身が危ないって言ってるんだ」
 どうやら苺火に脅しは通用しないと悟ったらしい星野は、出方を変えて、諭すような口調になっている。
「それもお前には関係ないことだろ? 僕のこと、嫌いなくせに」
「意外と強情な奴だな」
 互いに譲らぬ攻防に、元来気の短い星野も、そろそろ苛立ちはじめたようだった。
「いいか、転校生。興味本位なら身を引け。俺には理由がある。私立月舘学園の隠している秘密を、探らなければならない義務がある。俺が何を言いたいか、わからないならはっきり言ってやろうか? お前みたいな温室育ちのガキに、目の前をうろちょろされるのは迷惑だし、目障りなんだよ。物見遊山ならよそでやれ」
 さも自分だけが特別で悩ましい存在であるかのような物言いに、苺火もとうとうかちんときた。何だってこいつは、こういう口の利き方しかできないのだ。大体において誰にだって、大なり小なり胸に秘めた悩みや事情、もやもやと行き場のない感情があろうことを、想像することもできないほど、貧相な脳味噌しか持ち合わせていないというのだろうか。
 ガキはどっちだ、と叫びたくなった。
「興味本位でこんなことに足を突っ込むもんか! そっちこそ、お前だけが特別だなんて思うなよ。僕にだって、理由がないわけじゃ、ない──かもしれない」
 威勢よく啖呵を切ろうとしたところまではよかったのだが、何しろ苺火の中でもそれはまだもやもやとした霞のようなものでしかなかったので、語尾に向かうに連れて言葉はしおしおと尻窄みになってしまい、全く格好のつかないものとなってしまった。
「何だ、そりゃ」
 情けない上に要領を得ない苺火の言い分に、星野は苛立ちを通り越して鼻白んだようだった。
「えーっと、その……つまり、僕はここに転校してきたばかりだろ? だからこの学園のこと何も知らなくて、だけど目に映るもの全部、どこか懐かしいような気もして……それで、うまく言えないけど、僕は今、僕自身についてよくわからなくなってるところもあって、それはこの学園とも関係があるかもしれないって考えてる、だから月舘に何か秘密があるなら、僕もそれを知るべきだし、ううん、知らなくちゃいけないって思ってて……」
 駄目だ、と苺火は思った。あれだけ虚勢を張っておきながら、こんな支離滅裂なことしか言えない自分が酷く惨めに思えて、押し黙り、目を伏せた。こんなんじゃ、星野に鼻で笑われておしまいだ。そもそも、自分でさえ雲を掴む程度にしか理解の及んでいないものを、正しく人に伝えようという方が無理な話だったのだ。穴があったら入りたいとはまさしくこのことだと思ったが、いかんせん狭いツツジの植え込みの裏だ。そこへ二人、身を寄せ合うようにして隠れたものだから、苺火にはその場から逃れるすべもなく、否応なしに星野から注がれる、痛いくらいの視線を感じた。さてどんな罵詈雑言を吐かれるのかと、苺火が屈めた身を更に縮こまらせた、その時だった。
「──わかった」
「え、」
 苺火は驚いて顔を跳ね上げた。らしくないことを言っているのはどうやら当人も自覚済みのようで、星野は気まずそうに目を逸らした。無論、苺火からすれば、目の上のたんこぶである星野に認められた方が都合がいいことに違いはないのだが、まさかあんなしどろもどろな言い訳で、肯定的な言葉を得られるとは露とも思わなかったのだ。しかも、かなりの捻くれ者と思われるあの星野夜鷹から。
「いや、お前の言ってる意味は全然よくわかんねえけどな? とにかく、お前にもお前なりの理由があるってことはわかったよ。いや、よくわかんねえけど。お前、そううまくうそをつけるやつような奴には見えないし……それにお前、ちょっと似てるし」
「え?」
「何でもねえよ」
 何だか星野の方が、言い訳しているみたいになっている。苺火は新鮮な気持ちで、しげしげと星野を見つめてしまった。その気まずさを取っ払うように、不意に星野が正面きって苺火を見据えたので、苺火もつられて思わず背筋を伸ばした。相変わらずケモノのように獰猛な、星野の二つの瞳。
「先に言っておく。月舘は間違いなく危険な場所だ。何かある。下手に首を突っ込めば、この先命に関わることもあるだろう。実際、過去に死人や行方不明者も出てるしな。それでもいいのなら、俺とお前は協力関係を結ぶ。ただし、お互いの事情には一切口出ししないのが条件だ。情報を交換し、必要とあらば行動を共にする。危険が迫れば俺はお前を見捨てて逃げるし、お前もそうしろ。そういう関係だ。それでいいか?」
「わかった」
 迷いなど、あるはずもなかった。
「決まりだな」
 星野は僅かに、本当に僅かにだが、口角を上げて笑った。星野が嘲笑ではなく、ちゃんとした笑顔を見せるのを、苺火ははじめて目の当たりにした。星野も、笑うのだ。
「そういえば、気になってたんだけど……」
「ん?」
 星野の機嫌が上向いているのをいいことに、ついでに苺火は先日、つい聞きそびれてしまったことを尋ねてみることにした。
「星野、始業式のあの晩さ、一人で外をうろついてただろ? あれって、何してたの? やっぱり、月舘の秘密を探るための調査、とか?」
 最後の方は覚えず、声を押し殺した囁き声になった。
「ん? ああ、あれはちげえよ。女子寮に忍び込んでた」
「は?」
 ケロリと言ってのけられた思いも寄らない言葉に、苺火の目は点になった。

「──なあ、星野」
 無言のまま、ずんずん先を行ってしまう星野の背中に、苺火は躊躇いがちに声をかけた。
「何だよ」
 星野の口調は実にうざったそうで、こちらを振り向きもしない。苺火はむっとした。せっかく協力関係を結んだというのに、もう少し愛想をよくするとかそういうことが、こいつにはできないのだろうか。
 燻る気持ちをここはぐっと抑えて、苺火は何でもないふうを装って話を続けた。
「本当に──本ッ当に行くの? 別にもう誤解は解けたんだから、わざわざ行かなくたっていいじゃないか。まさか、僕までヘンタイの仲間入りさせようって魂胆?」
「往生際の悪い奴だな。馬鹿言ってないで、口より足動かせ」
 相変わらず、星野の物言いには棘がある。けれど、そんな星野の性分にももはや慣れつつある自分がいることにも、既に苺火は気がついている。
「ていうか、本当にこんな山道をずっと通っていくの? せっかく舗装された道があるんだから、そっちを使えばいいじゃないか」
 不服そうな主張に、星野はようやく、呆れ返った様子で苺火を振り返った。
「──あのな。お前、それじゃ自分からヘンタイの仲間入りすることになるぞ? 今はまだ真昼間なんだ。男が二人、人目につく通りを花蝶館(かちょうかん)に向かって歩いてたら、誰がどう見たっておかしいだろ。それにあいつの部屋は中等部棟の中でも一階の裏っ側にあるから、こっちから行けば直結だしな。誰にも見つかる心配ないぜ」
「あっそ……」
 花蝶館というのは、鹿蹄館と対を成す月舘の女子寮だ。山道に疲れてきた苺火は、何だかもう何もかもどうでもよくなってきて、適当な返事を返した。星野との会話は、酷く体力を消耗するのだ。苺火が今まで関わってきたどんな人たちとも種類が違っていて、苺火の知り得る処世術が、一切通用しないからかもしれない。気のない苺火の返事に、星野は少し顔をしかめたが、それ以上は何も言わず、再び前を向いてしまった。辺りには再び沈黙の帳が降り、パキパキと枝を踏みしだく二人分の足音だけが、雑木林に木霊した。
 結局またこうして、星野と二人歩いている。転入してきて最初の休日を、まさか星野と一緒に過ごすことになるだなんて、想像だにしていなかった。誘いを断ってしまった忍と晴に申し訳が立たなくもあるし、この状況にどこかが気分が高揚している自分もいる。苺火の思い描いていた、平凡で、当たり障りのない学園生活とは少し違った何かが、今、まさにこれから、はじまろうとしている。いや、本当は月舘の壁を越えたその瞬間から、既にそれははじまっていたのかもしれない。
 花蝶館は、正門と時計塔とを結ぶ一本道を軸として、図面にするとちょうど鹿蹄館と左右対称になるように位置している。高度で言えば鹿蹄館の方がやや上で、舗装された坂も鹿蹄館へのものの方が急勾配を成しているのだが、裏手の雑木林を通るとなれば話は別だ。鹿蹄館裏の雑木林と比べると、花蝶館裏のそれはかなり急で、一歩足を踏み外せば容易に転がり落ちてしまいそうな危険極まりない斜面だった。ユニコーンに導かれたあの晩、一度この辺りの山道を経験している苺火も、花蝶館裏の山肌には、著しく体力を消耗することとなった。
 傾斜が急な分、距離としてはさほどのものではなく、木々に阻まれていた視界は程なくして拓けた。ようやく平らなところに辿り着いても、苺火はすっかりへばっているというのに星野は涼しい顔で、呼吸一つ乱していなかった。
「お前、本当に体力ないのな」
 と、星野は呆れ顔でぼそりとひと言漏らした。
 坂の下から遠目に眺めることはあったが、花蝶館にここまで近づいたのは、当然のことながらはじめてだった。やはり古い建物ではあるようだが、無骨で重厚な鹿蹄館と比べると、小綺麗で慎ましい印象を受ける。白い漆喰のひび割れや、そこに這う蔦さえ上品な印象を受けるのは、ここが少女たちだけに赦された花園だからだろうか。
 しゃがみ込んだまま、建物の裏を壁伝いにぴったりと移動していく星野に、苺火も倣った。既に山道で疲弊している足に、更に負担のかかる体勢だったが、ここまで来てしまった以上、そうするほかに選択の余地はなかった。鉛のように重たい足をどうにか引きずって、苺火はなるべく星野に置いていかれないように努めた。頭上の窓からは時折、女の子たちの楽しげな談笑の声が聞こえた。その度に、苺火は何ともいえず後ろめたい気持ちになった。身近に蜜蜂の存在があるとはいえ、苺火にとって女の子の生態はまだまだ未知だ。それどころか、何だか見てはいけない、秘密めいたものでさえある。
 苺火はだんだん、わけもなく頬に血が昇ってくるのを感じていた。それに伴って、顔はどんどん俯いていき、とうとう地面ばかりを見つめる羽目になった。苺火はこの場所に来てしまったことを、別の意味で後悔しはじめていた。
 星野がこちらを振り向かないのが幸いだった。あまやかな蜜の匂いのする、ここはまさに、月舘の表向きの秘密の花園なのだった。
 と、星野がとある窓の下で足を止めた。淡い桜色のドビー織のものと、白いレースのもの、二枚のカーテンが引かれた、ほかの部屋と特別変わったところも見受けられない部屋だった。真昼間だというのに二枚のカーテンは閉めきられ、本当にこの中に人がいるのだろうかと、苺火は疑わしく思った。星野はその窓に向かって手を伸ばし、コンコン、と硝子を叩いた。暫くの間ののち、カーテンの隙間から、白い小さな手が控えめに現れた。
「合言葉をどうぞ」
 カーテンの裾を僅かに持ち上げて、可憐な声がした。硝子越しにも、声はよく通った。小鳥の少女の声を雪解けの水とすれば、彼女の声はその傍らに咲く瑠璃唐草の花だった。
「〝ユニコーンの心臓〟」
 厳かに、至極当然のことのように星野は答えた。ユニコーン(・・・・・)と、確かにそう口にした。
「え……」
 苺火は動揺した。ユニコーンのこと、というよりも、苺火が月舘に来てから体験した非科学的な全ての出来事は、誰にも話していなかった。幽霊やドッペルゲンガーで、あれだけ馬鹿にされたのだ。ユニコーンなどと口にしたら最後、もう何を言ってもまともに取り合って貰えなくなる可能性は大いに考えられた。もっとも、星野が〝あれ〟──時計塔の下で。木々や小鳥たちから存在を責め立てられるような、体の内側を冷たいものに這いずり回られるような、あの感覚──を体験している可能性も、まだ残されてはいたけれど。
「星野──一体どこで、その言葉を、」
 血の気も一気に引き、苺火は動揺のあまり半ば蒼褪めていた。星野は相変わらず面倒臭そうに、苺火を一瞥した。自分のひと言で苺火の顔色が一変したことには、まるで気づいていないようだった。
「あ? 花魚子(かなこ)が小さい頃に好きだった本のタイトルだよ。──よし、俺が先に行って花魚子に事情を話してくるから、お前はちょっとここで待ってろよ。すぐに済む」
 星野の言葉にはっと見上げると、硝子越しの小さな手は旧式のクレセント錠を回し、星野が彼女の部屋に立ち入ることを許したようだった。星野はおもむろに靴を脱ぐと、遠慮会釈なくガラリと窓を開けて、サッシュを跨いだ。星野につられて立ち上がったものの、苺火はまだユニコーンの衝撃から抜け出せずにいた。
 本のタイトル──何だ、本のタイトルか。自分に言い聞かせるように、苺火は反芻した。本のタイトル。ユニコーンの心臓。言われてみれば確かに、苺火も昔、そんなタイトルの本を読んだことがあったような気がする。そう、これはただの偶然に過ぎない。星野があのユニコーンのことを、知るはずがないのだ──。
 正直なところ、苺火は少しがっかりしていた。あの晩、苺火を小鳥の少女の元へと導いたのは、他でもない、燐光の一角を持つユニコーンなのだ。もし、ユニコーンが実在のものであったとすれば、学園の秘密とユニコーンとが何らかの関わりを持っていることはもはや決定的だった。それなのに、あまりにも現実離れしたことであるが故に、ユニコーンのことを誰にも話せないというのは、酷くもどかしいことだった。
「おい、いいぞ。……ってお前、何してんだよ。お前も早く靴を脱いで、中に入れ。そんなふうに突っ立ってると、他の女子に見つかるぞ」
 ひょっこりと窓から顔を出した星野は、苺火が惚けたように立ち尽くしているのを見ると、なんて不用心な、と言わんばかりに顔をしかめた。苺火は急いで靴を脱ぐと、
「お邪魔します」
 とおそるおそる部屋の中に向かって声をかけた。サッシュを跨ぐ瞬間、女子寮への侵入という背徳的な行為への緊張に、心臓が大きく一つ鳴った。
 ──カーテンの向こう側からふわっと、女の子のいい香りがした。
 人形の少女は、やはり人形然としてそこにいた。薄花色に透ける瞳が、硝子玉のように苺火を捕らえていた。少女はベッドのふちに腰掛け、膝の上で緩く手を結んでいた。苺火の姿を見るとおもむろに立ち上がり、深々と頭を下げた。
「はじめまして、桐島さん。お顔だけは、始業式の日に拝見しましたよね。私、中等部一年の星野花魚子(ほしのかなこ)といいます。先日は兄が、どうもすみませんでした」
「あっ、いえ、とんでもないです──僕は桐島苺火といいます」
 丁重な挨拶をされて、何だか苺火の方がどぎまぎしてしまった。こういう展開になることはあらかじめわかっていたのだから、ここに来るまでの間にもう少し気の利いた挨拶の一つでも用意しておけばよかったと、今更ながらに苺火は後悔した。
「と、いうわけで、俺の妹だ。彼女じゃねえぞ」
 横で二人のやり取りを見ていた星野が、〝彼女じゃない〟の部分をやけに強調してそう言った。そのわりには、何だか自慢の彼女でも紹介しているみたいに得意げだ。確かに花魚子は小柄な可愛らしい少女で、兄であるはずの星野とは、雰囲気も容姿も似ても似つかなかった。兄馬鹿になるのも、わからないでもない。苺火にべったりな蜜蜂のことを思い出して、苺火は花魚子の心中を察し、密かに同情した。一人っ子や長男、長女などが、年長の兄弟が欲しいと言うのをしばしば見かけることがあるが、弟や妹であるということも、それはそれで苦労の絶えないものなのである。
「へえ、星野の妹とは思えないほど礼儀正しいなあ」
「あ? 何か言ったか?」
 わざとらしく言ってみせる苺火を、星野はじろりと睨みつける。しかし、花魚子が可笑しそうにくすくす笑ったので、すぐにまた気まずそうに苺火から目を逸らした。どうやら古賀姉妹以上に、花魚子の存在は星野の弱点であるらしい。
「──まあ、要するに、だ。花魚子は病弱で、長いこと学校に行けてなくてな。でも、ここ最近は大分よくなってきたし、ここは随分空気がいいから、中学からは俺と同じ月舘に入学することになったんだ。でも、学校ってもの自体久しぶりだったし、それにあの日は花魚子をダシに、香西たちから呼び出し食らってたからな。やっぱり心配で、様子を見にいったら結構長居しちまって、その帰りだったんだよ。別に、断じて、変なことしにいったわけじゃねえからな」
 気まずさを誤摩化そうとするのと相まって、星野の口調は知らず弁解じみたものになっていたが、苺火はその言葉にはっとした。
 そういえば始業式の日、星野と二度目の遭遇を果たしたとき、星野は香西をリーダー格とする柄の悪い三人組に絡まれていたのだ。何かをダシにした脅し文句のようなものも、確かに階下から聞こえていたような気がする。
「そうだ……星野お前、大丈夫だったのか? あいつらに何かされたりとかは?」
 急に心配になって言い募る苺火に、星野は肩をすくめた。
「大丈夫なわけあるか。人目につかない場所に呼び出されて、出向くなり、三人からぼこられたよ。もちろんこっちもただやられてたわけじゃないから、大した怪我はしなかったけどな。香西のグループ、前からいろいろと酷かったが、花魚子が入学してきてからは更に酷い。空手部の副主将らしいが、ありゃ腕っ節だけで成り上がった屑野郎だな」
 あの晩の星野の傷が、次の日、白日の下で見た時にやけに酷かったのはそういうわけだったのかと、苺火は今更のように合点がいった。
「でも、それじゃ心配だね。花魚子ちゃんのことも……」
 そう言って見やった先で、花魚子は困ったように曖昧に笑っている。
「まあ、香西はあれで、女にはそう簡単に手を上げたりはしない奴なんだが、問題は取り巻き二人だな。本当に花魚子のことまで、最悪の形で巻き込み兼ねない。でも、安心しろ。お前のことは、絶対に兄ちゃんが守ってやるからな」
 そう言って、星野が花魚子の頭を撫でるのを目前で見せつけられた苺火は何だか気恥ずかしくなってしまい、それを誤摩化すために思わず漏れた、
「シスコン……」
 というぼやきを星野は耳聡く聞きつけていて、
「あァ!?」
 と吼えるように威嚇した。瞳だけじゃなくて、こんなところまで星野はケモノだ。
「よかった。桐島さんとお兄ちゃん、仲良くなったんですね」
 花魚子がにこにこと嬉しそうに言い、
「いや、仲良くはない」
 否定するその声まで綺麗に重なってしまったものだから、花魚子は一層くすくす笑いを深め、今度は苺火と星野と二人揃って気まずくなってしまい、互いにそっぽを向いたり、無闇やたらと頬や髪に手をやってみたりする羽目になった。二人の心中を知ってか知らずか、花魚子は相変わらずふうわりとした笑顔で笑っていた。本当に、兄とは対照的に随分おっとりした雰囲気の子だ。少し自分と似ているかもしれない、と思って、苺火は慌ててその考えを振り払った。それではまるで、自分がぼけっとした奴だと、認めてしまったも同然ではないか。こういうのは可愛い女の子だからこそ、許されるものなのだ。
「さあ、桐島さんもお兄ちゃんも、立ち話も何ですから適当にベッドにでもかけていて下さい。今、ジュースをお持ちしますね」
 そう言って花魚子はぱたぱたと、共用の冷蔵庫に駆けていってしまった。女の子の部屋に二人ぼっちで取り残されてしまった苺火と星野が、彼女が戻ってくるまでのあいだ、酷く気まずい思いをしたのは言うまでもない。
 その日は三人でたくさん、いろんな話をした。学校のことを話す時、花魚子はとても楽しげだった。寮での生活は、とても新鮮だということ。クラスで、友達ができたこと。自然がいっぱいのこの校舎を、とても気に入っているのだということ。
 苺火に姉がいるという話には、星野までもが随分興味を示した。
「桐島さんには、ご兄弟っていらっしゃるんですか?」
 発端は、花魚子の何気ないそんな問いかけだった。
「うん、まあ──姉が一人」
「へえ。いくつ離れてるんだ?」
 それまではほとんど会話に参加せず、花魚子のベッドの上に胡座を掻いて、話の合間に軽く相槌を打つ程度だった星野が、その時ばかりはずいと身を乗り出してそう問うてきた。花魚子は苺火にもベッドに座ることを勧めてきたのだが、さすがに兄弟でもない女の子のベッドに腰を下ろすのは気が引けたので、代わりに花魚子の勉強机の椅子を借りて、後ろ向きに座り、背もたれに腕をやってくつろいでいた。
「三つ違いだよ」
「お前に似てる?」
「いや、あんまり──かな」
「ふーん。いつか会ってみたいなあ」
 まるで友人と会話するかのような自然な調子で星野が言ったので、苺火はびっくりしてしまった。互いに互いの事情に干渉はしないと言ったばかりのはずの星野が、蜜蜂に会ってみたいと言い出すなんて、思いも寄らなかったからだ。苺火が花魚子に密かな親近感を覚えたように、星野もまた、二人兄弟の上である蜜蜂に、何かしら思いを馳せたのかもしれない。
 立入禁止区域の時計塔の裏に住んでいる先生がいるらしいということも花魚子は話したが、それを聞いても星野は眉一つ動かさず、あの晩見たことについても決して口にすることはなかった。だから苺火も、そうした話題が出てもなんとなく聞き流して、曖昧に笑っておいた。
 話半分に花魚子の言葉を聞き流しながら、苺火はちらりと星野の顔を伺った。
 星野が何らかの目的を持って月舘に潜入していることを、花魚子は知っているのだろうか。あどけなく笑う花魚子を見ていると何だか堪らなくなって、君のお兄さんはとんでもなく危ないことに首をつっこもうとしていて、明日にでもどこか遠いところに行ってしまうかもしれないんだよ、とぶちまけてしまいたくなった。もっとも、星野と協力関係を締結した今となっては、苺火とて立たされている状況は星野とそう変わらないのだった。
 そのうち花魚子は棚の中からスナック菓子の袋や、どこからかシャンメリーまで持ち出してきて、部屋はさながら軽いパーティー会場のようになり、三人は昼食も摂らずに、だらだらとお菓子を摘まみながら、結局その日は一日中、花魚子の部屋に居座る羽目になってしまった。
 そろそろ戻ろうか、という頃には日もすっかり傾き、西日がありとあらゆるものの影を、黒々と濃く長く引き伸ばしていた。
「また、遊びにきて下さいね。桐島さん」
 再び窓から帰っていく二人を、花魚子は笑顔で送り出してくれた。君のお兄さんが許してくれたらね、と心の内だけで思いながら、苺火は笑顔で手を振り、花魚子に別れを告げた。
「なんかお前らふわふわしてて、気が合いそうだな」
 もはや花魚子には声も届かぬほどのところまで来ると、帰りもやはり急勾配の山道を下りながら、星野は言った。
「えっ、そうかな」
 さっき自分でそう思いかけて、慌てて否定しようとしていたことを思いがけず星野に指摘されて、苺火は少し複雑な気持ちになった。
「そうだよ。やっぱり、お前らちょっと似てる」
 不思議と確信を持った様子で、星野は言った。ああ、さっき星野が苺火のことを、〝誰かに似ている〟と言いかけて口を噤んだのは、花魚子のことだったのかと、苺火は不本意ながら納得せざるを得なかった。
 急な斜面の中でも、星野が選んで通っているのは比較的歩きやすい道だということに、苺火は今更になってようやく気がついた。辺りを見渡して、障害物の少ない一筋の道のりを、瞬時に判断している。本当にどこまでいっても、星野はケモノだった。
「いろいろと誤解を解いとくには、花魚子に直接会わせるのが一番手っ取り早いと思ったんだ。それにあいつ、学業に本格的に復帰したのは本当にここに入学してきてからだから、口には出さなくても実際はいろいろと不安なことも多いと思う。お前も転校してきたばかりだから、少しはあいつの気持ち、わかってやれるだろ? 勝手言って悪いけど、よかったら俺のこととは切り離して、花魚子とは仲良くしてやってくれ。特別に、お前一人でも花魚子の部屋へ入室することを許可する。合言葉を忘れるなよ。あれは花魚子にとって、大事なものなんだ。あと、くれぐれも手は出すんじゃねえぞ」
 意外な申し出に、正直なところ、苺火は驚いていた。もちろん、そんなことはおくびにも出さず、それどころか嫌味ったらしく肩をすくめてため息をつくというパフォーマンスまでしてみせた。苺火も今日一日で、大分星野という人間の扱い方を心得てきていたのだった。
「そもそも女子寮も侵入すること自体が法破りだろ……。花魚子ちゃんに手を出すつもりもないよ。間違っても、星野と義兄弟なんてことにはなりたくはないからね」
 強気な苺火の態度に、星野は些か気後れした様子だった。
「お前、そんな毒舌だったか……?」
「さあ、ねっ!」
「あっ、おい! ちゃんと足元見て歩かないと、転ぶぞ!」
 本当は、星野が自分にそんな申し出をしてくれたことが、すごくすごく嬉しかったのだ。だってそれは捻くれ者の星野がほんの少しだけ、自分に心を許してくれたという、不器用ながらも微かな合図であったから。
 もういくらもせずに勾配が終わる、というところで、苺火は一気に星野を追い越し、鹿蹄館に向かって駆け出した。星野もそのあとを追って、駆け出すのがわかる。気がかりなことは、まだたくさんある。小鳥の少女への使命感も、自分自身への捉え所のない猜疑も。しかし、雑木林が拓けて、そこにあった燃えるような夕暮れに、苺火は月舘に来てからはじめて、こんなにも清々しい気持ちで空を見上げたかもしれない、と思ったのだった。
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