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五月の雪は斯くて渡る 作者:饗庭璃奈子

第三章 罰の焔

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 休日の食堂は、いつもより長く開放されている。まだ頭も覚醒しきらないままに鹿蹄館の自室から起き出してきた苺火は、適当な席に腰を下ろし、一人遅い朝食を摂った。学寮での生活がはじまってからまだほんの数日しか経っていないというのに、こんなに遅い朝を迎えたのは随分と久しぶりのことのような気がした。
 良くも悪くも、充塞した数日間だった。ただでさえ、転校というのはちょっとした転機のイベントなのだ。それ以上に様々なものを、月舘に訪れてからというもの、苺火は見過ぎていた。
 廃屋から感じた粘性の眼差し。
 肌の下を這い回る冷たい、どす黒い津波。
 時計塔のふもとで暗澹たるマグマを噴き上げていた、幽鬼のような形相の少年。
 森の奥に息を潜めるユニコーン。
 閉ざされた魔性の薔薇園。
 そして時計塔の地下室の、後ろ暗い秘密。
 逃げ出してしまった自分──。
 外は快晴だった。翡翠に透ける植え込みや、ひらひらと舞うモンキチョウ、気ままな綿雲ののんびりと泳ぐ空を、ひと気のまばらな食堂から、苺火はひと目で見渡すことができた。食堂は開放感のある、天井まで硝子張りの一階建てで、三角形の屋根といい、どこか温室を思わせる造りをしていた。
 ──閉じ込められているのかもしれない。
 スクランブルド・エッグとベーコンの乗ったプレートを気もそぞろに突つきながら、苺火は思った。
 どんなに開放的な造りを装ったところで、温室の自分より、硝子の向こうの木々や昆虫や綿雲の方がよほど自由だ。分厚い壁によって外界から隔たれ、閉ざされたこの学園に、苺火は何者かの手によって知らず知らずのうちに(いざな)われ、囚われている。本来ならばここにいてはいけない、外を自由に舞っていたはずの蝶が、硝子瓶の中に閉じ込められるようにして。だからここに来てから、立て続けにおかしなことばかりが起こるのだ。
 日が経つに連れてだんだんと、苺火はそんなふうに考えるようになっていた。苺火の転入が特例だとか言っていた星野の言葉も、最初はそんなことあるはずがない、あってたまるものかと、まともに取り合うつもりもなかったのに、今は不本意ながら、苺火の身に降りかかる非現実的な出来事の全て、星野の言葉が最も堅実で、信憑性を持てるもののように思えるのだった。
 ──二階堂鶫美、だろうか?
 唯一、そんなことをしでかしそうな心当たりがあるとすれば、それはあの男だけだった。何しろ彼は転入初日、職員室前で真っ先に、苺火に声をかけてきている。しかも彼は苺火のことを〝待っていたよ〟と、そう言っていた。あれはまるで、苺火を待ち伏せでもしていたかのようなタイミングのよさだった。
 しかし、理由がわからない。苺火は転入するまで二階堂鶫美などという男のことは少しも知らなかったし、かつて月舘で事件があったというのも、星野の口から聞かされてはじめて知ったのだ。あの男に、わざわざ〝特例〟などという目立った形で監視下に置かれるような、縁もゆかりもないはずだ。地下室の少女ほどとまではいかずとも、壁の内側に軟禁されていると考えるにしても、目的が見えなかった。何といっても、苺火は男なのだ。そして二階堂に関しても、女性を手籠めにするところを、この目で目の当たりにしている。
 ──あの男の容姿からして、バイセクシュアル、という単語が全く頭を掠めなかったわけではなかったが、それは苺火としてはできれば考えたくない可能性だった。
 とにかく、常に陰からじっとりと誰かに監視されているような感覚は、決して気持ちのいいものではなかった。
 忍と晴は、今朝は早くに出ると言っていた。今頃、壁の内側を渡っているという清流に、辿り着いている頃だろうか。晴は混血で肌が白いから、日焼けをしてはいけないと、忍に無理矢理野球帽でも被らされているかもしれない。晴はこんなものは邪魔になるだけだから要らないと文句を垂れるけれど、あの性格だからそんなことなどすぐに忘れて、釣りに夢中になってしまうのだ。
 兄弟のような二人の姿は想像するに難くなく、微笑ましかった。でこぼこな二人の友人の存在は、きな臭い学園生活の中で、苺火にとってほとんど唯一の清涼剤と言えた。
 ふと、誰かの視線を感じた気がして、苺火は食堂の暗がりに何気なく目をやった。食堂の中で唯一、食器を下げるためのシンクが備えつけられた出入り口付近だけは、ひっそりと奥まっていて光が届かず、薄暗かった。
 星野だった。苺火のいる日なたから、くっきりと隔たれた暗がりの中から、ケモノのような瞳が爛々と、苺火を捕らえていた。
 一瞬、確かに視線がかち合ったと思ったのに、星野はすぐに何事もなかったかのように目を逸らし、食べ終えたあとの食器をシンクの方へ運んでいってしまった。そのあとを小走りに、心なしか不安げについていくのは、またしても人形のようなあの女の子だった。女の子の方は手に何も持っていないところを見ると、星野は二人分の食器を重ねて、一緒に片付けてやっているらしかった。
 ──何だよあいつ。女なんか連れてスケコマシやがって。
 何だか無性にむしゃくしゃして、苺火はスクランブルド・エッグを、フォークの背面でぐちゃりと潰し、柔らかな黄色の塊はプレートの上で無惨ななりを晒した。さっき窓の外を飛んでいたモンキチョウが、死骸になって(はらわた)を晒したらこんなふうになるのではないかと思われるような、醜悪な姿だった。先日の一件から、無視を決め込まれ続けていることは勿論だが、星野がいっぱしに女の子を連れ歩いていることも、苺火を苛立たせている一因であるのは確かだった。

 部屋に戻っても、あの、古びた小さな本を開く気にはなれなかった。相変わらず、心身ともに疲労困憊していたけれど、忍と晴と一緒に、釣りに出かけていればよかったかもしれないとさえ考えた。そうすれば、朝っぱらからにっくき星野夜鷹の姿を視界に捕らえて、あんな嫌な気持ちにさせられることだってなかったのだ。
 明かりも点けないままベッドにばすんと倒れ込んだ苺火は、しかしすぐさま、弾かれたように跳ね起きた。
 電灯を点けずにいると、小さな窓が一つしかない寮の個室は、昼間でもかなり薄暗い。その窓から、苺火は燦々と目映い外の景色を食い入るように見つめた。
 当然ながら窓は朝からずっとそこにあったし、温室のような食堂からも、外の晴れやかな様子は目の当たりにしていたはずなのに、今になってようやく、そこに明るい世界が広がっていることに気がついたかのような気がした。どうしてもっと早く思いつかなかったのか不思議に思えるくらい、それは簡単なことだった。
 ──一人だって、出かけてしまえばいいのだ。
 それはとても素敵な思いつきに思えた。外に出て、春の丘陵地帯のすがしい空気を吸えば、この湿気てじめじめとした気分も、少しは晴れてくれるかもしれない。
 そうと決まれば、苺火の行動は早かった。
 朝、起きた瞬間、全身に重くのしかかったあまりの気怠さに、着替えるのも億劫で、食堂へ行くのにも顔だけ洗って、気の抜けた部屋着姿のままだった。その気怠さもうそのように、苺火は素早くシャツを纏い、動きやすいスラックスに履き替えた。
 この壁の内側を、気の赴くままに散策してみようというのが、苺火の計画の全てだった。それは運動が苦手で、自他ともに認めるインドア派の苺火としては、大変に珍しい思いつきだった。考えてみれば、おもな行動範囲となるであろう西棟や鹿蹄館、食堂の周辺区域でさえ、苺火はまだ、ちゃんと把握しきれていないのだ。ここ数日、信じ難い出来事の数々に追われて、目先の現実的な問題にきちんと向き合う余裕など少しもなかった。
 もし、ここに忍と晴がいれば、きっと親切にも苺火の道案内を買って出てくれて、彼らの貴重な休日の時間を削ってしまうことになっていただろうし、自分のペースで好き勝手に学内を散策するには、今日という日はもってこいの日和に思えた。元来、一人で過ごすのは嫌いではないたちだ。
 それに、と苺火は言い訳がましく頭の中で付け加えた。
 何も、あいつ(・・・)の言うことを、はいそうですかと聞き入れる義理なんか、自分にはこれっぽっちもありはしないのだ。
 そう、例えば、あの時計塔のそばを通らなければならない時だって、苺火が月舘に在学している以上、これから先いくらでも機会としてあることだろう。何しろ時計塔は月舘のシンボルのように、壁の内側のどの場所からも見える高台に、厳かにそびえ立っているのだ。時計塔の周辺も、苺火は改めて見学してみるつもりでいた。
 あれから数日が経ち、未だ苺火の頭の中を占め続けるのは、地下室の少女のことばかりだった。と同時に、〝近づくな〟と言った星野の言葉もどこか引っかかり続けていて、両者のあいだで苺火はちょっとした板挟み状態となっていたのである。
 一方的な絶交を言い渡され、わけもわからぬままに言葉を交わさなくなってからも、廊下や食堂で星野の姿を見かけるたび、苺火はむしゃくしゃしていた。それというのも、苺火とすれ違ったり偶然にも鉢合わせてしまったりすると、星野が決まって苺火をわざとらしく無視し、あるいはあからさまに目を逸らすからだった。
 忍と晴も両者の関係の異変にはすぐに気がついて、はじめこそ怪訝な顔をしていたが、とにかく星野がもう苺火に突っかかってはこないらしいことがわかると、二人ともまるで自分のことであるかのように喜んでくれた。しかし、星野と苺火は決して和解したわけではなく、それどころかあんな腑に落ちない言われようから今の絶交状態があるわけだから、苺火の中ではそう簡単に納得がいくような話ではないのだった。
 そんないきさつもあって、星野という個人について、苺火はこれまで以上に、心底気に食わないところばかりの人間だと思っていた。
 そうしてまた、気には食わないけれど、正直に言ってしまえば地下室の少女のことに関してだけは、星野と話し合いたくて仕方がないとも考えていた。例え反りが合わず、嫌われていたとしても、星野は苺火にとって唯一の、共通の秘密の目撃者なのである。それに、自分に降りかかる様々な出来事に関して、改めて星野を問い正してもみたかった。
 あれから星野は、何らかの対策を講じてくれただろうか。地下室の少女のことについて、何か少しでも進展はあっただろうか。そんなことばかりが気にかかって仕方がない。しかし、〝関わるな〟と言われてしまった手前、何食わぬ顔をして星野に話しかけるというのも、格好がつかないような気がしてならなかった。それ以前に、古賀姉妹の一件があって以来、星野は苺火を完全に無視し続けているのだ。今更声をかけてみたところで、あの星野のことだ、まともに取り合って貰えない可能性の方が高かった。
 あの時計塔に再び近づいて、何をどうする、という具体的なビジョンがあるわけではなかった。二階堂鶫美の領域に、もう一度侵入するような勇気が、今の自分に備わっているのかどうかも定かではない。
 それでも、湿っぽく薄暗い寮の自室に閉じ籠っているよりは、外を散策してみる方が数倍有益なことであるように思えたし、何よりこんな気候のいい春の休日を、星野などという奴のせいで憂鬱な気分のまま過ごすのも、まっぴらごめんだった。
 ユニコーンを追いかけた転校初日の晩のように、階段を全速力で駆け下りる必要はなかった。寧ろ、普段おっとりしている苺火が変に()いているところを見られて、クラスメイトたちに妙に思われても事だ。地下室の少女へと逸る気持ちをどうにか抑えて、ちょっとそこらに散歩にでも出かけるような軽い心地を心がけ、なるべくのんびりと苺火は歩いた。
 転入してきた当初こそ、星野とのひと悶着を知る一部の生徒から一躍注目を集めたものの、苺火が基本的にはおとなしく、温厚なたちの少年だとわかると、そんな好奇の視線も瞬く間に引いていった。その翌日の午後には、(くだん)の二人が早くも絶交状態になってしまっていたものだから、尚更だった。
 苺火は基本的に、目立ったり、注目されたりということを好まない人間だ。周囲の人々から注目されることは、苺火に一抹の居心地の悪ささえ覚えさせる。〝目立たない〟ということは苺火にとって非常に重要なファクターであり、心身の安寧を約束する居心地のいい繭だった。目立たずにいるためのありとあらゆる技術を、これまでの経験則から苺火は心得ていた。階段を下りきるまでに、何人か顔見知りともすれ違ったが、彼らのことも、苺火は何の問題もなくやり過ごすことができた。
 スニーカーに足を滑り込ませてしっかりと靴紐を結び、清新な気持ちで鹿蹄館の前に立つと、辺りの底抜けの明るさと相まって、あの晩時計塔で見た全てが幻だったかのように思われた。気高きユニコーンはもちろん、秘密の薔薇園も、地下室に幽閉された少女も、蒼褪めた星野の横顔も、全部。柊木犀の抜け道をくぐり抜けた際に負った傷さえ、ほんの僅かな痕跡だけを残して、今はほとんど癒えてしまっている。
 星野との繋がりも稀薄になってしまった今、あの晩起こった出来事を証明できるものは、確実に苺火の元から失われつつあった。だからこそ、もう一度確かめなければいけないという、焦りが生まれていたのかもしれない。
 さすがは全寮制の学園というべきか、休日であっても学内は賑やかだった。屋内外で部活に励んでいる生徒もいれば、空いているグラウンドで勝手気ままに遊んでいる生徒もいる。そんな楽しげな声のどれもが、今は遠く、よそよそしいものに思える。
 あの日、ユニコーンが導いた鹿蹄館の裏手の森だけが、光とは無縁に鬱々と生い茂り、そこだけが、苺火に親身な表情を見せているかのように思われた。とはいえ、むろん今日はそんな足場の悪い道をわざわざ選びはしない。雑木林とグラウンドの間を縫うように続く道を、のどかな春の丘陵地帯の景色を眺めながら、苺火は歩いた。
 広いグラウンドは、テニス、サッカー、野球、陸上などの競技を行えるようにいくつかのコートに仕切られており、その最北には西に図書館、東に小さなアトリエが、それぞれ佇んでいる。
 中でも図書館は、転入してきた当初から、苺火が行ってみたいと思っていた場所の一つだった。青銅の屋根を持つドーム状の美しい建造物は、三階建ての建物のまるまる一つが図書館となっている。貴重な文献も多く所蔵されているそうで、読書をこよなく愛する苺火には、それはもう喉から手が出るほどの宝の山、というわけである。そうでなくとも、レトロな風情あるその佇まいを、苺火はひと目で気に入った。もっとも、立て続けに起こる出来事の数々から、未だ一度も足を運ぶことはできていない。
「桐島──ッ!」
 遠い雑踏をつんざいて呼ぶ声に、苺火ははっと意識を引き戻された。見ると、一人の男子生徒がドッヂボールを片手に、広いグラウンドをこちらに向かってまっしぐらに駆けてくるところだった。
「茅崎君、」
 気は進まなかったが、さすがに足を止めざるを得なかった。
 茅崎は、苺火の一つ前の席の生徒だ。席が近いので必然的に言葉を交わすことも多く、クラスの中では忍と晴の次に親密な仲だった。明るく、ひょうきんな性格で、新学期がはじまって数日、早くもクラスのムードメーカー的な存在となっている。人を寄せつける力にも長けているようで、茅野はその日も数人の男子生徒を集め、グラウンドで遊んでいるらしかった。
「犬童と晴は? 今日は一緒じゃねえの?」
 グラウンドの金網に指を絡ませて、茅崎は気さくに声をかけてきた。
「今日は釣りに行くって」
「何、お前、居残り組?」
 茅崎の声にからかうような調子が滲む。
「そんなところかな」
 苺火は苦笑した。悪気はないのだろうが、茅崎は時折、人をむっとさせるような言葉選びをする。その言い方ではまるで、苺火が忍と晴から仲間外れにされて、取り残されてしまったかのようだ。
 もちろん、茅崎にはちょっとした悪ふざけ程度の意図しかなく、目新しい転入生にいつものお()り二人がくっついていないことを知るや否や、ぱっと嬉しそうな顔をした。
「じゃあさ、お前もドッヂやんねえ? あ、桐島は俺のチームな!」
 ずりいぞ、茅崎ー! と相手チームの囃し立てる声に、うるせー! と楽しげにやり返す茅崎をよそに、苺火の目の前は突如として、急速に暗くなっていた。理由は、知らない。陽光にさんざめくグラウンドの風景を眺めているうちに、立ち眩みにも似た何かが、避けがたく苺火を襲ったのだ。
 その一瞬、垣間見た恐ろしい光景に、苺火は声もなく金網に縋りついた。くずおれることだけは回避したものの、綿の詰まったようになった喉では助けを求めることもままならず、息苦しさばかりが増していく。それでもどうにか、懸命に喉を震わせ、苺火は言葉を絞り出した。
「ごめん、僕、運動ってあんまり得意じゃないし……釣りも、断ったんだ。なんか、疲れちゃって——」
 その言葉で、一瞬にして、茅崎にとって苺火がつまらない存在になり果てたのがわかった。
「そうなん? 何だ、つまんねえなあ」
 茅崎が良くも悪くも裏表のない少年で、おそらくは何の気なしに、感じたありのままの感想を述べてくれたことが、せめてもの救いだった。しかし、やんやと騒がしい外野から視線を戻して、何やら苺火の様子がおかしいことを見て取ると、気のいい茅崎はすぐさま真顔になって、金網越しに苺火の顔を心配そうに覗き込んだ。
「おい、桐島。お前、マジで顔色悪いな。大丈夫か? 養護の先生、呼んできてやろうか? 保健室、ここからだとちょっと遠いだろ」
「大丈夫。ありがとう」
 茅崎の気遣いはありがたかったが、それよりも一刻も早くこの場から離れたくて、苺火は金網を伝い、半ば体を引きずるようにしながら歩きはじめた。
「おい、どこ行くんだよ!?」
 焦ったような茅崎の声が、精神の均衡を失った苺火に追い打ちをかける。
「──散歩、」
 苺火はもう振り返らなかった。何だ何だと、外野にいた生徒たちもわらわらと、金網に張りつくようにして立つ茅崎の周囲に集まってきた。それほどまでに、誰の目から見ても、苺火の足取りはふらふらと、覚束ないものだった。
「おい茅崎、お前桐島に何言ったんだよ」
 一人の生徒が、強い語調で茅崎を咎めた。
「俺のせい──なのかな」
 遠ざかっていく苺火の背中を呆然と見送りながら、茅崎は誰へともなく呟いた。
「うーん、茅崎はちょっとデリカシーに欠けてるところ、あるからなあ。お前のせいかもよ。それにしてたって、なんか様子が変だったけど」
「やっぱり養護の先生、呼んできてやった方がよかったんじゃね?」
「どうしたんだよ、ふらふらじゃんか、あいつ」
 少年たちは暫く口々に囁き合い、ざわざわと落ち着きなく苺火を見送っていたが、もう呼び戻すことも叶わぬほどにその姿が遠ざかってしまうと、気を取り直すような誰かの高らかなひと声によって、中断されていた試合は再開された。一抹の不審など、少年たちはすぐに忘れ、グラウンドには再び、賑やかなはしゃぎ声が舞い戻ってきた。ただ一人、茅崎だけが、さっきまでの疎ましいくらいの元気をなくし、物思いに沈んで見えた。
 再開された賑わいを背後に聴いても、苺火の視界は暗く閉ざされたままだった。一歩一歩が鉛のように重く、呼吸はわけもなく乱れた。今、自分がどこを歩いているのかもわからない。指先に感じる冷ややかな金網の感触だけが、自身の存在を認識させてくれた。ポーカーフェイスには自信があったのに、茅崎たちをちゃんとやり過ごせた自信がなかった。
 果たしてあれは、光の加減だったのだろうか。目の前が暗く霞んだあの一瞬、グラウンドの端々に立つクラスメイトたちの姿が、苺火の目には亡霊のように映ったのだ。グラウンドに棒立ちに佇み、苺火の方を恨めしげに見つめていた、ぽっかりと昏いいくつもの瞳。
 古賀桜子の時と同じだ。彼らの瞳が、夢に見た地下室の少女の、昏い二つの穴のようなおぞましい瞳と重なったのだ。
 ──おかしな奴だと、思われたかもしれない。
 去り際に、クラスメイトたちの視線が痛いくらいに背中に突き刺さるのを感じた。何か、言い訳をするべきかもしれないとも考えた。それでも苺火は、どうしても振り返ることができなかった。
 怖かったのだ。教室のざわめきに紛れ込んでいられるあいだには決して感じたことのない恐怖を、見知ったはずのクラスメイトたちに対して、苺火は感じていた。
 どうしようもなく、一人になりたかった。何故だか急に、ベッドの上にあの古びた小さな本を投げ出してきてしまったことが悔やまれた。
 何も今、こんな不安定な心境で、本の続きを読みたいだとか、そういうわけではない。ただ、手に馴染む一冊の本と、懐かしい紙の匂いがここにあれば、乱れた心が少しは落ち着いてくれるような気がしたのだ。それが常軌を逸した異常な執着、願望であるとわかってはいても、頁の内に潜む〝孤独〟という名の深い安寧を求める気持ちは抑えられなかった。苺火の意思とは無関係に、足は何かに取り憑かれたように前へと進んだ。
 気がつくと、時計塔の前に立っていた。
 苺火はここに来てようやく、自分が一人、朗らかな春の陽気の中へと足を踏み出した当初の理由を思い出した。
 地下室の少女。彼女のことを知りたくて、助けたくて、自分は今、ここにいるのだ。グラウンドに立ち並ぶ亡霊の群衆を見てしまったショックで、思考は未だうまく働いてはいなかったが、今こそ彼女に今一度相まみえたいと、苺火は強く願った。
 それは不思議な感情だった。誰とも、例えそれが忍や晴といった気心の知れた相手であっても、今は、今だけは、顔も合わせたくなかったはずなのに、空っぽなあの少女であれば、わけのわからない、正体も知れないこのわだかまりも、砂地が水を吸い込むように、全て受け止めてくれるような気がした。
 苺火はふらつく足取りで、どうにか時計塔の脇に回り込んだ。周囲を警戒することも思考から抜け落ちていた苺火にとって、辺りにひと気がなかったのは幸いと言えた。柊木犀の抜け道をくぐり抜けると、やましいことなど何もないかのようにすまし返った薔薇園が、拒むことなく苺火を迎え入れた。咽せ返るような芳香だけがあの晩と変わらず、迷い込んだ者を今か今かと騙くらかそうとしているように思えて、苺火を辟易とさせた。
 真夜中に忍び込んだ時には気がつかなかったが、庭に植えられた薔薇は全て、ピンクや黄色や白など、淡い色合いで統一されていた。樹形や品種は様々なのに、一種妄念を感じさせる程に濃色の花は一切なく、隅々まで徹底して淡色の花で埋め尽くされていた。ことに紅い薔薇の花が一輪も咲いていないことは、先日見た紅い薔薇園の夢との奇妙な因果を感じさせて、苺火をぞくりとさせた。月明かりの魔力は白昼に薄れても、辺り一面に漂う薔薇園の色香に、苺火は忽ち呑み込まれてしまいそうだった。
 苺火は急いで時計塔の正面ドアに近づいた。正面ドアの鍵は、この日もやはりかかっていなかった。苺火はまだ見たことがないが、二階堂が居住しているのは、時計塔の裏手の側だと言う。とすると、こちら側のドアはいつも開放されているのだろうか。だとしたら、一人の少女を地下室に幽閉しているというのに、随分と不用心な話だ。正門が厳重に封鎖されているからと、油断しているのかもしれない。それともやはり時計塔は、いつだって苺火をその懐へ導き入れようと、誰の差し金かは知らないが、待ち構えているのかもしれない。
 できる限り蝶番が軋まぬように、注意深くドアを開けた。隙間から覗き込んだ講堂は、清浄な静けさを保っていた。高い場所に位置する窓から差し込むささやかな陽射しは、まるで異国の聖堂のような神秘的な面影を講堂に添えていた。まさかこの地下で、あんな不埒な行為が行われていようとは、誰も思わないことだろう。
 少女の歌声は、その日もか細く鳴っていた。けれど、出どころの知れている今は、苺火がその声に怯えることもなかった。歌声はまた、少女の所在を示す確かな証拠とさえなった。
 やはりあの少女はまだ、奈落の底にいるのだ。
 苺火は奇妙な安堵を覚え、先日はゆっくりと見渡すことも叶わなかった古い講堂の内部を観察しながら、下手の袖に続くドアに手をかけた。舞台袖は昼間であっても深い闇を湛えていたが、それでも真夜中に訪れた時よりいくらかましだった。
 少しでも明かりが入るようにとドアを開け放したまま階段をいくらか登ったところで、苺火はアッと声をあげそうになった。そこにある隠し階段のくり抜き扉が、ぽっかりと奈落への口を開けていたからだ。そういえばあの日、半ば星野に引きずられるようにして地下室をあとにしながら、隠し扉をきちんと元通りにしておく余裕はなかったような気がする。二人とも冷静さを失っていて、とてもそんなところにまで気が回らなかったのだ。
 これは大失態を冒してしまった、と苺火は思った。星野の奴もすました顔をして、あれで案外抜けている。
 隠し階段のくり抜き扉はあの日から誰にも気づかれず、開け放たれたままだったのだろうか。それとも二階堂鶫美は既に侵入者の存在に気づいていて、あの後ろ暗い地下室で、苺火たちの再来を今か今かと待ち侘びているのだろうか。
 いずれにせよ、自らの不注意によっていらぬ不慮の種を蒔いてしまったことに変わりはなかった。
 茅崎のことでぼやけていた思考が、俄かに色めき立った。
 これは、気を引き締めて挑まなければなるまい。
 苺火は息を潜め、一段一段慎重に足音を忍ばせ、これまでで一番時間をかけて地下階段を下りきった。
 そこまでは、よかった。
 問題が起こったのは、あの晩と同じように細く開いているドアの隙間に顔を寄せようとした、まさにその瞬間だった。突然、背後からけたたましい音がして、苺火は跳び上がらんばかりに驚き、同時に絶望していた。
 自分の背後で何が起こってしまったのかを、苺火は瞬時に悟っていた。階段の中腹に立てかけてあった掃除用具が、絶妙に保たれていたバランスをとうとう崩して、勢いよく転がり落ちたのだ。何度も人が行き来するうちに、箒やデッキブラシの位置が傍目にはわからないくらいに少しずつずれて、その均衡を崩してしまっていたのかもしれない。
 ──しまった……!
 そう思った時には、もう手遅れだった。
 歌声が、止んだ。
「だあれ?」
 かわりに涼やかな、雪解けの水のような声が、ドアの向こうで鳴った。

「わあっ!」
 声が思いのほか近くでしたのと、直後にドアがおもむろに開かれたのとで、苺火は慌ててその場から跳び退きながら足をもつれさせて尻餅をつき、実験台のカエルのような格好で、地面にひっくり返った。ガタガタと派手な音を立てて箒とデッキブラシが階下まで滑り落ち、ついでにひと足遅れて狭い通路を跳ね回りながら落ちてきたブリキのバケツは、苺火の頭に見事に嵌った。長らく使われていなかったのか、バケツの底には土埃が溜まっており、苺火はそれを頭からもろに被ることとなったが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。苺火は急いでバケツを引っ張り上げ、視界を確保した。
「──大きな音は、きらい」
 柔らかく滲む光を背にそこに立っていたのは、確かにあの少女だった。けれど、あの晩に見たしおらしい姿とは、随分様子が違っていた。少女は嫌悪感を露わにして、助け起こそうとするでもなく、ひっくり返った苺火を不遜な態度で見下ろしていた。無論、白いネグリジェの足元は透けてなどいない。
 彼女は、人間だった。
「ご、ごめんなさい。脅かすつもりはなかったんですけど」
 思いもかけないけたたましい物音への動揺と、少女の豹変ぶりに心臓をばくばくとさせながら、苺火はどうにか弁解した。
「こんにちは」
 不意に少女が、それまでの憮然とした態度がうそのようににっこりと笑ったので、苺火は面食らった。
「──こんにちは、」
「入る?」
 少女は笑顔のまま、苺火を導き入れるように体をずらした。
「じゃ、じゃあ……お邪魔します」
 未だ頭に引っかかったままだったバケツを外して傍らに置くと、苺火は立ち上がり、少女に(いざな)われるがままに地下室に足を踏み入れた。
 はじめて訪れた時にも感じたことだが、地下室は実に殺風景だった。天蓋付きベッドとサイドテーブル、布張りのシェードランプ以外に、家具らしい家具は何一つとして見当たらない。打ちつけられたそのまま、剥き出しのコンクリートは、床と天井、四方の壁にまで渡り、少女の生活がこの灰色の一室に凝縮されているのだとすれば、随分と酷な仕打ちを受けているものだと思った。遠目にはわからなかったが、近くで見る少女はちょうど蜜蜂と同じくらいの年頃に見えた。中学二年生の男子としては平均より些か小柄な苺火よりも、優に背は高い。クラスの女の子たちや、一緒に暮らしてきた蜜蜂の生活と、地下室の素っ気なさとの落差に、苺火は胸を痛めずにはいられなかった。
 先日、ドアの陰から覗き見た時には死角となっていた、二階堂が姿を現した側の壁には、今しがた苺火が通り抜けたのとは別にもう一つ、そっくり同じような扉があった。ちょうど時計塔の裏手に当たる方角だ。あそこから、教師の仮面を被った悪魔はこの部屋にやってきて、いたいけな少女を手籠めにしたのだ。もしかしたら今も、壁を一枚越えた向こう側には白衣を纏った悪魔がいて、時が来れば再び、少女をいいようにしてやろうと、待ち構えているのかもしれない。そう考えると、握り締めた拳、引きんだ唇には、知らず力が籠るのだった。
「いいお天気ね」
 少し離れた位置から、少女の声が響いた。少女の声は、剥き出しのコンクリートの部屋に淡い残響を残して、静謐な地底の空気にしっとりとよく馴染んだ。少女はベッドの向こう側に立ち、後ろ手にか細い指を組んで、天を仰いでいた。ゆったりと、肩の力を抜いた様子から察するに、今は二階堂は時計塔を留守にしているのかもしれない。そう考えると苺火もいくらか緊張がほぐれて、余裕が出てきた。
 少女の視線を追って見れば、壁の高い位置には一つだけ、鉄格子の嵌め込まれた窓があり、そこから朗らかな春の陽気や、自由に飛び回る小鳥たちの姿を、垣間見ることができるのだった。剥き出しのコンクリートの天井からは磨りガラスの吊り灯が頼りなく、埃を被ってぽつねんとぶら下がっていたが、今は灯されてはおらず、部屋全体を照らすにはそれが小さ過ぎることも明らかだった。先日時計塔のこの部屋を覗き込んだ時にも、あの電灯は点いていなかった気がする。今はもう、使われていないものなのかもしれない。
 まるで牢獄のようだ、と苺火は思った。この地下室に、少女の慰みとなるようなものは何一つない。唯一、外界との繋がりである窓は、あんなふうに少女の手の決して届かない高みに設けられ、鉄格子によって封鎖されている。
 いっそ、あんな窓などない方がいいのに、と苺火は思った。そうすれば、少女が外に焦がれて、あんなにも首を曲げて天を仰ぐこともないのに。
「そうですね。外の薔薇園もとても綺麗で。ここにはたくさん咲いているんですね。あなたがそれをご存知かどうかはわかりませんし──紅い薔薇は、ないですけど」
「あなたはだあれ?」
 ベッドのふちに腰かけながら、少女は歌うように尋ねた。少女の話の脈絡のなさに、苺火は多少困惑したが、言われてみればもっともな問いかけだった。寧ろ、今の今まで少女が苺火という闖入者に興味を示さなかったことの方が、不思議に思えるくらいだった。
「桐島苺火。中等部の二年です」
「苺火君ね」
 再びにっこりと笑いかけられて、苺火はどきりとした。何しろ少女は大変に美しいのだ。こんなに純粋な漆黒の髪と瞳を、苺火は見たことがなかった。病的なまでの肌の白さに、少女の漆黒はなおのこと映えた。その素性の知れなさと相まって、浮世離れした美しさと言っても過言ではなかった。
 もしかしたら少女は、この片田舎の学園に、何らかの過ちを犯して堕とされた天女なのかもしれない。そうして誰にも知られずひっそりと、この時計塔に幽閉されているのかもしれない。彼女の美しさも、人とは思えぬような空っぽな感覚──やはりこの日も、苺火はそれを感じていた──も、少女が人ならざる者だからこそ持ち得るものなのだ。
 二階堂鶫美は、さながら美しい天女を閉じ込める牢獄の番人だ。天女の美しさを独り占めするために、人間の醜悪な欲望が、彼女をこの殺風景な牢獄に捕らえ続けている。それこそが、この学園に隠された、最大の秘密なのだ──。
「あなたは? この学園の生徒? どうしてこんなところにいるんですか?」
 ロマンチックな空想に浸っている場合ではなかった。二階堂のいないこの隙に、少女から少しでも、情報を引き出さなければならない。星野は、二階堂鶫美は一筋縄ではいかないと言っていた。今、少女を連れ出しても、同じ学園の中にいる以上、おそらく匿えない。とにかくまずは、少な過ぎる情報を少しでも充実させることが先決だった。
「ひとつになりたいの」
 ところが、またしても的を得ない、それどころか言葉の意味すらもあやふやになってきた返答に、苺火は眉を思わずひそめた。少女が相も変わらず、にこにこと気のよさそうな笑みを浮かべているのが、なおのこと不可解だった。
「え? 違います、僕が訊いてるのは、あなたの名前とか、そういうことで──、」
「あの人になりたいの」
「──あの人?」
 追い打ちのように仕掛けられた言葉に、苺火は観念して尋ね返した。しかし苺火は、もう何一つとして、少女と会話らしい会話を交わすことは叶わなかった。苺火が〝あの人〟と口にした途端、少女はからくり仕掛けの自動人形であるかのように、同じ二つの言葉だけを機械じみた正確さで繰り返しはじめたのだ。

 ひとつになりたいの。
 あの人になりたいの。
 ひとつになりたいの。
 あの人になりたいの。

 既に幾度となく、同じ音の羅列を紡ぎ続けてきたのであろう。少女の唇も、舌も、完璧な滑らかさでもって、二つの同じ言葉を繰り返した。咄嗟に少女の身に何が起こったのか理解できず、苺火はぞっとして、少女を凝視したままじりじりと後ずさった。そんな素振りを見せても、少女は依然としてにこにこと微笑み続け、ただただ同じ言葉だけを繰り返すのだった。

 ひとつになりたいの。
 あの人になりたいの。
 ひとつになりたいの。
 あの人になりたいの。
 ひとつになりたいの。
 あの人になりたいの。

 今にも叫び出しそうな恐怖のふちで、それでも少女の異常な言動を解き明かす糸口はないかと視線を巡らせた先で、苺火は気づいてしまった。気がつくと同時に、恐怖は苺火の中から跡形もなく立ち消え、強張っていた体中の力が抜け落ちた。苺火は沈痛な面持ちで、未だ完璧な発音を繰り返す少女を見つめた。
「──そうか。そういうことだったんだね」
 美しい黒曜石の瞳の底で、少女の心は時計塔と同様その(とき)を止め、混沌とした昏い渦を巻いていた。少女から感じる虚無と、言動の違和感の理由を、苺火はようやく、理解することができた。
 地下室の少女は、白痴だった。
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