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五月の雪は斯くて渡る 作者:饗庭璃奈子

第二章 ドッペルゲンガー

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 一方苺火は、警戒しながらも昇降口前の古賀明日葉らしき少女に歩み寄り、前に立つと、おもむろに足を止めた。星野が追い続けている方の古賀明日葉とは違い、苺火の目前に佇む古賀明日葉は、逃げる素振りさえ見せようとはしなかった。強引に窓を飛び越えてショートカットしてしまえば、西棟の廊下から食堂前の昇降口まではすぐだった。
 苺火を前にしてもなお、微笑み続けるもう一人の古賀明日葉に、苺火は身構え、そして途方に暮れていた。
 ある人間にそっくりな、霊的な生き写しのことを、ドッペルゲンガーという。そして自分のドッペルゲンガーに遭遇した人間は、死んでしまうと言われている。だから苺火はその遭遇を阻止して、古賀明日葉を助けなければなければならない。
 ならないのだが──。
 ドッペルゲンガーは、どっちだ?
 今、目の前にいる古賀明日葉は、どこからどう見ても、血の通った、本物の、古賀明日葉だった。不自然な点があるとすれば、苺火を見上げたまま微動だにせず目を見開き、微笑み続けていることくらいで、それ以外に特におかしな点は見受けられない。
 それでは星野が追っている方の古賀明日葉はどうか? 決して振り返ったり、顔を見せたりしなかった点が多少不自然ではあるが、星野の追跡から逃げている真っ最中なのだし、その程度で偽物だと決めつけてしまうのも早計な気がする。
 どちらも適度に筋が通っていて、適度に不自然なのだ。
 それならば──どうすればいい?
「桐島、苺火君?」
 ずっと微笑み続けていた古賀明日葉らしき少女が、不意にコテン、と首を傾げたので、苺火はそのまま彼女の頭がゴロリと地面に転がり落ちてしまいそうな気がして、ぎょっとした。むろん、そんなことが現実に起こり得るはずもなく、古賀明日葉らしき少女はやはり目を見開いたまま、じっと苺火を見上げているのだった。
 今まさに、壁の内側において苺火が目の当たりにしてきたものの中でも、過去最高に──といっても、苺火が月舘に転入してきてから、まだまる二日も経ってはいないのだが──たちの悪い怪異に遭遇しているかもしれないというのに、それらしきものの前に立ってようやく、後手後手の対策を講じている。なんともまぬけな話だった。しかし、怪異の方もこれと言って大きな動きを見せないのだから、苺火は成すすべなく、彼女の前に立ち尽くすほかないのだった。
 ──こんな時だというのに、苺火はふと、授業をすっぽかして眠りこけているあいだに見た、夢のことを思い出した。
 確かに蜜蜂の手を掴んだと思ったのに、そのか細い腕の先にいたのは地下室にいたあの少女だった。時計塔の天辺から下界の薔薇園へ、今にも落下しようしていた少女。苺火を見上げる空っぽの、昏い二つの穴のような瞳。
 夢に見た漆黒の瞳と、目の前の古賀明日葉らしき少女の微動だにしない焦茶色の瞳が、苺火の内で重なった。
 その瞬間、苺火の中で何かが激しくスパークした。
 忘我と焦燥とが臨界点を突破して、一周して悟りの境地に達してしまったと言ってもいい。
 苺火は肝を据えて、目の前の古賀明日葉らしき少女と視線を合わせた。少女は不思議そうに首を傾げて、しかし決して微笑は絶やさぬまま、苺火を見上げ続けている。
 ──自分は何を、こんなに恐れているのだろう。
 過剰なまでに相手を警戒していた自分が、急に滑稽に思えた。
 桐島苺火が古賀明日葉のドッペルゲンガーと相まみえたところで、何も死ぬわけではないのだ。
 どっちがドッペルゲンガーか、わからないだって? 何を寝惚けたことを言っているんだ。自分の行動に、一人の人間の、それも昨日の一件での恩人である彗星の少女の命がかかっているのだ。ならば、今の自分にできる最良の策を尽くすしかないじゃないか。
 ようやく踏ん切りがついて、苺火は大きく息を吸うと、がむしゃらに声を張り上げた。
「古賀さん! ……かどうかわかんないけど、逃げて!」
「え?」
「いいから!」
 この際、どっちがドッペルゲンガーでもいい。兎にも角にも二人の遭遇を阻止すれば、ひとまず古賀さんを助けることができるのだ。
 古賀さんは、昨日見ず知らずの苺火を助けてくれた。例え目の前にいるのが古賀明日葉であろうと、古賀明日葉のドッペルゲンガーであろうと、苺火には彼女を助ける義務があるのだ。こうなってはもうあとに引くにも引けず、力ずくでも引っ張っていくつもりで、苺火は少女の華奢な手首をむんずと掴んだ。
「何? ……何なの!?」
 終始微笑を絶やさなかった彼女も、苺火の取った強硬手段にさすがに身の危険を感じはじめたらしかった。手荒な手段を取らざるを得ないことを心底申し訳なく思いつつも、苺火は必死だった。
「本当にごめん! でもドッペルゲンガーが! 出会ったら死んじゃう! 早く逃げないと!」
「はっ? えっ……ちょっと! 一体何の話!?」
 押し問答をしつつも、どうにか彼女を一歩踏み出させることに成功した苺火は、まだ来ないでくれよ、と祈るように顔を上げて、絶句した。そこには何とも奇妙な表情を浮かべた星野と、猟師に四肢を縛り上げられた兎のように腕を捻り上げられて無抵抗に捕まっている、もう一人の古賀明日葉の姿があったのだ。
 二人はすっかり放心した様子で、苺火と、苺火が腕を掴んでいる方の古賀明日葉とを凝視していた。当然ながら、星野に捕まっている方の古賀明日葉は間違いなく、昨日、苺火を助けてくれた、あの古賀明日葉の顔をしていた。
 しまった、遅かった……!
 つまり、今苺火が腕を掴んでいる方がドッペルゲンガーだったのだ──と、こわごわ顔色を窺えば、こちらもきょとんとした様子で、星野ともう一人の古賀明日葉の顔を交互に見交わしている。
 ──こっちもドッペルゲンガーじゃ、ない!?
 どういうことだ、と混乱する苺火にいい加減痺れを切らしたのか、星野が深いため息をついた。
「それしまえ、桜子(さくらこ)。別にこいつはお前に何も危害を加えたりなんざしねえよ。……ただちょっと、救いようもなく、阿呆なだけだ」
「さ、さくらこ?」
 覚えのない名前に反応を示したのは、苺火が腕を掴んでいた方の古賀明日葉だった。
「あれ? ──やだぁ、あたしったら! ごめんね、苺火君。つい癖でこんなもの出しちゃって。ちっちゃい頃から擦り込まれてると体が勝手に動いちゃって、嫌んなるよねえ。そんなつもりはなかったんだけど、ホント、悪気はないから許してね!」
 不吉な予感を覚えて目をやれば、いつの間に、どこから取り出したのか、苺火が掴んでいるのとは反対側の手に、黒の持ち手から銀色の棒が突き出た、長さ六〇センチメートルほどのバットのようなものがぎらついている。苺火は面食らって、弾かれたように少女の腕を振りほどいた。少女は相変わらず、如何にも人畜無害といった風情でニコニコと笑っている。こんな笑顔でなんてものを出してくるんだろうか、この子は。というか、こんな大きさのものを一体どこに隠し持っていたのだろう。それにやっぱりどこからどう見ても、古賀明日葉に生き写しだ。見れば見るほど、二人はそっくり同じ顔だった。
「あたしとははじめましてだね、苺火君!」
 掌で、〝バットのようなもの〟をくるりと弄んだかと思うと、それはもう僅か二〇センチメートルほどの黒い棒切れになっていた。手品でも見ているかのような鮮やかな手捌きだった。掌サイズになったそれを、少女は左太腿に取り付けた革製ホルダーにしまい込んだ。どうして女子中学生がこんな見るからに危なっかしい鈍器を持ち歩いているのかは不明だが、このホルダーからいつでも取り出して、さっきの〝バットのようなもの〟に変化(へんげ)するという仕掛けらしい。
 そんな常人離れしたことをいとも容易くやってのけながら、少女は実に親しげに苺火に声をかけてきた。
「へっ?」
 混乱してあたふたとする苺火に、星野に捕まっている方の古賀明日葉がさもおかしくて堪らないといったふうに笑った。
「桐島君、桐島君。あたしたち、双子なのよ。ほら、」
 そう言って、星野の拘束をすんなり解くと、明日葉は自分の額を指した。見れば確かに、二人の前髪の分け目は反対だし、前髪を押さえるためのざっくりとした髪留めも、揃いの色違いのものだ。
「あたしは二組の古賀桜子(こがさくらこ)! 夜鷹と同じクラスで双子の妹なの。どうぞよろしくね!」
 桜子は、〝バットのようなもの〟の出現ですっかり臆してしまった苺火の前に、再びずいと進み出てきて、元気いっぱいに自己紹介をした。顔は同じでも、性格までそっくりそのまま同じとはいかないようだ。姉の明日葉も随分快活な少女だとは思ったが、桜子はそれに輪をかけて人懐っこいようだった。それに、明るくはあっても理知的な明日葉に対して、桜子の言動の端々からは、些か幼い印象を受ける。
「こちらこそ、よろしく……」
 まだ動揺を隠しきれないまま、苺火はどうにかぎこちない笑顔を取り繕った。古賀さんに妹がいるという話は、昨日晴がちらりと口走っていたような気がするけれど、まさかその妹というのが双子だなんて、そんな話、これっぽっちも聞いていない。
 輪から外れ、黙って事のなりゆきを見守っていた星野は、会話にひと段落ついた頃合いを見計らって、呆れとほんの少しの哀れみを含んだなまあたたかい眼差しを苺火に向けてきた。
「ドッペルゲンガーって、お前さあ……一体どっからそういう突拍子もない発想が出てくるわけ?」
「し、仕方ないだろ! 昨日からお前とかユニコーンとか幽霊騒動とかで散々な目に遭ってたし、そのせいで夜も全然眠れなかったし、授業は四時間分まるごと寝潰しちゃうし、だからちょっと頭が変な方向に活性化してて──、」
「そうだ、明日葉。この阿呆が暴走してたせいで話がなあなあになってたが、お前、さっきの俺たちの話、聞いてたよな?」
「人の話聞けよ!」
 苺火の突っ込み虚しく、会話は淡々と進んでいく。星野に指摘されて、明日葉は気まずそうに目を逸らした。
「別に盗み聞きしようとか、そういうつもりじゃなかったのよ? ただ、夜鷹が桐島君呼び出してたから、こりゃまたカツアゲでもする気かなあと思ってつけてきてみたら、とんでもない話が聞こえてきちゃったってだけであって。いやあ、自分の地獄耳が憎いわあ」
「いや、カツアゲはしねえし、したこともねえよ!? 俺がカツアゲの常習犯みたいな言い方やめてくんない!?」
 星野のこういう突っ込みというのはちょっと新鮮だ。
「熱くなると、夜鷹は我を忘れちゃうからね。カツアゲくらい気軽にやっちゃい兼ねないわ。お目付け役は、必要でしょ」
 明日葉は開き直って腰に手をやり、軽く星野を睨みつけた。
 星野はというと、明日葉を言いくるめることは早々に諦めると、深いため息をついた。
「安心しろ。お前の監視がなくても、もうこいつを問い詰めたりしねえよ。どうもこいつは本当に、少なくとも自覚している限りでは心当たりはないみたいだし……阿呆だし」
「誰が阿呆だ!」
「んー、いっちー(・・・・)、転校二日目にして、既にいい感じにキャラが定まってきてるみたいだねえ。よきかなよきかなー」
「うわっ!」
 出し抜けに、耳朶に息が吹きかかるくらいの至近距離で声がして、苺火は驚いて跳び退いた。さっきまですぐ目の前にいたはずの桜子が、今度は苺火の背中にぴったりとくっついていて、悪戯っぽく笑っている。いつの間に背後を取られていたのだろうか。桜子の行動には、さっきから意表を突かれてばかりだ。既に何だか〝いっちー〟だとかいう、妙なあだ名までつけられてしまっている。
 それに、と苺火はちらりと彼女の鈍器に目をやった。今も彼女の太腿にぶら下がっている、〝バットのようなもの〟──あれは明らかに、何かしらの武器だ。他人を攻撃する、そんな用途のために作られたものに違いない。ありふれた女子中学生のようにしか見えない彼女が、一体どうしてあんな危なっかしいものを持ち歩いているのか、苺火は訝しく思った。
「あの、古賀さん、」
 びくつきながらも呼びかけると、桜子はニコッと人好きのする笑顔を見せた。
「そんな他人行儀じゃなくて、下の名前でいいよ? その呼び方じゃお姉ちゃんと一緒だから、紛らわしくなっちゃうし」
「──じゃあ、桜子ちゃん。桜子ちゃんがさっき持ってたバットみたいなやつ、あれって何かの武器だよね? それに、ちっちゃい頃から擦り込まれてるとかも言ってたけど、何のこと? きみは何か、特殊な訓練でも受けていたの?」
 晴の話では、月舘には何か訳ありな生徒も多いという話だった。桜子もそうした生徒の一人なのかと、苺火は考えたのだ。
「うん。あたしはね、未来の婦警さんなんだー」
「……婦警さん?」
 ところが、返ってきた思いもよらぬ答えに、苺火は目をぱちくりとさせた。
 明日葉が、天真爛漫な妹に心底呆れ果てた様子でため息をつく。
「まだそうと決まったわけじゃないでしょ。それにその説明じゃ、桐島君に何にも伝わりやしないわよ」
「えー、そうかなあ。私はもう、すっかりその気でいるんだけどなあ。ねえ、いっちー?」
 桜子は不思議そうに首を傾げて姉を見やり、それから未だ何も状況をわかっていない苺火を見上げた。
 何が何やらさっぱり理解が追いつかず、途方に暮れて明日葉に助けを求める苺火の視線の意図に気づいて、明日葉は困ったように笑ってみせた。
「桜子の説明じゃわからないところも多い──というか、ほとんど何もわからないと思うから、補足するわね。あたしたちの家は父方の祖父の代から警察で、パパもママも刑事なの。で、あたしたちもその流れを汲んで、この国の治安を守るために一躍買うべきだっていうのがパパの意向。それであたしたちは、小さい頃からパパに基礎体力のトレーニングとか、体術の類だとかを散々叩き込まれてきた。……厳しい人なのよ、ママはもうちょっと柔らかい人なんだけどね。それとさっきの、桐島君がバットみたいなやつって言ってたあれは、バットじゃなくて特殊警棒っていってね。本来は護身用の武器なんだけど、桜子は小さい頃からあれを玩具替わりに育ってきたの。パパはそんなもの気軽に持っちゃいけないって言ってるのに、何もないように見えるところから急に取り出してお友達をびっくりさせて、パパにこっ酷く叱られたりなんかしょっちゅうでね。余程気に入っていたみたいで、月舘に入学するときにも、こっそり家から持ち出してきちゃったみたい。ほんとに、もう」
 当時のことを思い出したのか、明日葉は肩を落として、ちょうど傍らをぶらついている桜子を肘で小突いた。どうやら彼女も大した苦労人のようである。
「お? なんだなんだ?」
 対する桜子はというと、姉の話には早々に飽きて、その辺を無闇やたらと闊歩したり、小石を蹴ったり、爪先で地面に絵を描いたり、とにかくろくに話に耳を傾けていなかったので、どうして自分が小突かれたのかもよくわからず、きょとんと姉を見つめ返していた。
「まあ、でもって、この特殊警棒っていうのがどういう仕組みになっているか、桐島君さっきからずーっと気になっているでしょう」
「え。うん、まあ……」
 さっきからちらちらと桜子の太腿の鈍器に目をやっていることに、明日葉はしっかり気がついていたらしい。明日葉の声に可笑しそうな色が滲み、苺火は少し気恥ずかしく思いながらも、素直に興味本位を認めた。明日葉が、思わずと言った様子で声を転がして笑う。
「あははっ、素直でよろしい。ほら桜子、さっきのやってみせてあげて」
「ん? これかい?」
 明日葉に首根っこを掴まれて捕獲された桜子は、ごそごそと太腿のホルダーをまさぐると、黒い棒切れを取り出し、持ち手に付いているボタンを親指でぐっと押し込んだ。すると、シャッと鋭い音と共に、銀色の棒部分が目にも留まらぬ速さで眼前に現れる。どうやら三段階の折り畳み式になっていて、ワンタッチでこの形状に変化、普段は黒い持ち手の部分に銀色の棒部分が収納されるようになっているらしい。
 桜子は、ふふーん、と得意げに、苺火の鼻先にバットのような形と化した特殊警棒を突きつけると、鮮やかな手際で再びそれを掌サイズに戻し、ホルダーに収納した。
「……ほーんと、大したものよねー」
 苺火と一緒になって、一連の流れるような無駄のない動作を眺めていた明日葉が、感嘆した様子で言った。
「古賀さ──、明日葉ちゃんはこれ、使わないの?」
 不思議に思って尋ねると、明日葉はまたも困ったような、あの曖昧な笑顔を見せた。この表情をされると、何だか自分が悪いことを尋ねてしまったような気がして、罰が悪くなる。
「あたしも昔、持ってみたことはあったのよ? でも、桜子は最初っから手品みたいにこれをうまく扱えたのに、あたしはそれこそ赤子が刃物を手にしたみたいなようなもんでね。全ッ然、駄目だった。でも、桜子は見ての通り自由自在に扱えるもんだから、ちょっとでも身の危険を感じると勝手に手が伸びちゃうみたいなのよね、困ったことに。……そうね、あたしはどっちかってと、的当てみたいなのの方が得意。縁日の射撃で狙いを外したことはないし、アーチェリーもやってるわ。あたしが桜子に適うのって、それくらいのものだから——結構重いのよ? 特殊警棒。桜子がどうしてこれをあんなに軽々と扱えるのか不思議なくらい。みんなびっくりしちゃうし、危ないから気軽に出すのはやめなさいって言ってるのに。しかも、まだそうと決まったわけでもないのに、〝未来の婦警さんですー〟とかあっちでもこっちでも言いふらしちゃうし」
 明日葉は、また恨みがましそうに桜子を小突く。
「いーじゃんいーじゃん! ありのままのあたしたちを知ってくれる相手が、また一人増えたんだからさあー」
「よくない! 少しは自分の日頃の行いを顧みろ!」
 明日葉に角を立てられると、桜子はぱっとその場から飛び退いて、子供のようにキャッキャと逃げ惑いはじめた。双子といえども、姉妹の力関係は割とはっきりしているらしい。それにしても桜子のこの騒ぎ方、どこかで覚えがあるような──。
「夜鷹も昔、パパに弟子入り志願したんだよねー。子供が生半可な気持ちで首を突っ込んでいいようなことじゃないって、バッサリ切り捨てられちゃってたけど」
 呆気ないほどあっさりと捕獲された桜子が、背中から明日葉にのしかかられるようにしながら言った。
「本気のド突きでね」
 明日葉がにやりと笑う。
「……五月蝿え」
 罰が悪そうに目を逸らす星野に、桜子はしたり顔だ。
「で、そのあとすぐにパパが〝優秀な部下〟とか言ってよその刑事さんの面倒を親身に見はじめちゃったもんだから、夜鷹、なんであたしもお姉ちゃんもその人もよくて、自分だけ駄目なんだって怒っちゃってさあ。しばらくは、パパと口も利かなかったんだよね」
「……ガキだったんだよ。刑事になるってのがどういうことか、昔はよくわかってなかったし」
 苺火の前で過去の赤っ恥を暴露されて、星野は居心地が悪そうだ。
「まあ、でも、夜鷹はそんなプロ仕込みのあたしたちと物心ついた頃からじゃれ合ってきてるから、自然と動作に体術の基礎を取り入れてるところは大いにあると思うわ」
 桜子が、星野に更なる追い打ちをかける一方で、明日葉は、立場のなくなってきた幼馴染みに同情しはじめたのか、今度は星野のフォローに回り出した。昨日といい今日といい、どうも彼女は非常に世話好きなたちらしい。
「桐島君もこいつの勝負強さ、もう話には聞いてるでしょ? 一応はその道のエキスパートについてたあたしたちと、日常的にやり合ってたわけだからね。パパも弟子入りは断っちゃったけど、なんだかんだ言って夜鷹には目をかけてたから──、」
「本当に、未来の婦警さんなんだね……」
 ぽつん、とこぼれた呟きに、その場にいた全員がきょとんと苺火を見た。明らかにずれた発言への、ある種一つの意思を持った沈黙。星野などあからさまに、〝今更そこかよ〟と内心で突っ込んでいるのが、ありありと顔に浮かんでいるのが見て取れる。
 最初は〝未来の婦警さん〟という言葉の突拍子のなさに、頭がさっぱりついていかなかったのだ。しかしよくよく考えてみれば、自分と同い年の、しかも一見すればどこにでもいるような女の子たちが、〝警察官になる〟という確固たる目標を持っていて、そのための訓練さえ既にプロに叩き込まれているだなんて、それはとてつもなく、すごいことなのではないだろうか?
 ちらほらと聞こえてくる〝プロ〟や〝エキスパート〟という単語で、ようやくそのことに思い当たった苺火は、今になってようやく、胸の内に湧き起こりつつある感動に、包まれつつあった。まだ将来の自分の姿などこれっぽっちも思い描くことのできない苺火にしてみれば、既に自らの足でしっかりと目標に向かって歩みはじめている二人が、とてもとても、眩しく思えたのだった。
「だーからぁ、最初っからそうだって言ってるじゃん! いっちー、きみはさては天然なのかあ?」
 何ともいえない沈黙をあっけらかんと破って、一呼吸も二呼吸も遅れた苺火のテンポをからかうように、桜子が苺火を肘で小突いた。
「──すごい……! かっこいいね!」
 子供のようにはしゃぐ苺火に、明日葉もとうとう堪えきれずに噴き出した。
「別に、かっこよかないわよ。だってあたしたち、パパの敷いたレールに乗せられようとしているだけだもの。それに、あたしなんてまだ警察官になるってことに対して本当の意味での覚悟、全然決められてないし。それなのに、この子が余計なことばっかり言うから、もうすっかり周りからもそんな扱いでね。そりゃあもちろん、あたしだって警察官になるつもりではいるけど、やりづらいったらありゃしないわ」
 最後の方は桜子に向けて、刺々しさを含んだ口調で言う。
「えー? でも、あたしはもう覚悟決めてるしぃ。それにほらぁ、やっぱりあたしたち、かっこいいよね? いっちー」
「うん、すっごくかっこいい!」
「うんうん、だよねだよねー。もっと褒めろー」
 桜子は、苺火の返答にいたくご満悦らしく、ふふーん、と得意げに胸を反らした。
 明日葉があの場所から星野と苺火の話を聞き取ることができたのも、星野がその気配に気がつくことができたのも、どれもこれも〝プロ〟の所業が成せる技だったのだ。ようやく全てに合点がいって、苺火はすっきりとした気分になった。
「そういう問題じゃないっつうの!」
 苺火の感慨をよそに、明日葉が桜子の頭をポカン! と一発殴る。痛いよぉ、と桜子がうそ泣きをしはじめる。傍目に見ても、明日葉が本気で桜子を叩いていないのは明らかなので、これが二人なりの戯れなのだろう。苺火は、未来の警察官とはいっても年相応な振る舞いを見せる双子を微笑ましく見守っていたが、ふと、傍らの星野が険しい面持ちで何やら考え込んでいるのに気がついた。
「──星野?」
 まだ戯れている双子を傍目に、苺火は彼の顔色を窺った。
「明日葉。さっきの話は、聞かなかったことにしてくれ。あと、転校生。お前もだ」
「え、」
 思いがけない言葉に、苺火はびっくりして星野を見た。
「昨日のことは全部忘れろ。何もかもだ。昨日の夜、お前はずっと自分の部屋にいた。真夜中に寮を抜け出してなんかいないし、もちろん時計塔になんか近づいてすらいない。何もなかった(・・・・・・)。そういうことにするんだ」
「そんな……!」
「お前たちを巻き込むわけにはいかない」
 苺火は口を噤んだ。星野の語調からは、きっぱりと強い意志を感じ取ることができた。そう簡単に彼を説き伏せることができないことを、察することは容易だった。
「へー。苺火君、真夜中に寮を抜け出して、その上更に鶫美先生の時計塔にまで近づいちゃったのかあ。おとなしそうな顔して、意外とやるねえ」
 場違いな感想を述べる桜子に、苺火はちょっと嘆息する。この子は駄目だ。根本的に、人とはちょっと感覚がずれている。
 では、明日葉は? 彼女はどう出るだろうか。
 そうだ。幼馴染みで世話焼きで、しかも未来の警察官である明日葉であれば、あんなきな臭い話を聞かされて、はいそうですかと黙って身を引くはずがない。彼女の並々ならぬ正義感の強さは、既にこの目で確かめて、立証済みなのだ。苺火は喉元まで出かかっていた反論の言葉を飲み込み、ひとまず明日葉の出方を窺った。
「わかったわ」
 ところが、明日葉の返答は苺火の期待を大きく裏切るものだった。大して考えたり、悩んだりするふうもなく、明日葉はあっさりと、星野の要求を飲んでしまったのである。
「その代わり、あたしたちの力が必要になった時はいつでも言いなさいよ? あんたが喧嘩売ろうとしてる相手は、本当にとんでもない極悪人かもしれないんだから。でもって、あんまり危ないことになりそうだったら、すぐにうちのパパに連絡入れるように。いいわね?」
「あー、ハイハイ、わかってるよ。お前ら単体でも、俺が喧嘩で勝てたことねえもんな」
「え……?」
 何か、衝撃的な発言を聞いたような気がして、苺火は一瞬、星野に反論しなければならないことも忘れて、己の耳を疑った。
「──言っておくが、俺が弱いってわけじゃないぞ。こいつらの強さが規格外ってだけだ」
 苺火の心中を察したのか、星野がちょっとむきになって弁解してくる。明日葉が、そんな星野を鼻で笑った。
「女だからって、プロに仕込まれてきたあたしたちを舐めてもらっちゃあ困るわ。警察官としての心得だって、パパから耳にたこができるくらい言い聞かされてきてるんだから。確かに強いわよ、あたしたち。そこらの女の子たちとは比べ物にならないくらい、ずっとね。もちろんまだまだいろんなことを勉強中の身だし、今のあたしたちが安易な気持ちで事件や何かに首を突っ込んじゃいけないとは、散々言い含められてるけど。犯罪者を知ることは犯罪を知ることだって、パパの口癖なのよ。だからあたしたちにできることといえば、せいぜい暴走しがちな夜鷹のお目付け役ってところね」
「誰が暴走しがちだ」
「でも、ママはあたしたちよりもっと強いんだよー。パパはもっともっと、すごいけどね!」
 何だかとんでもない言葉を並べ立てられて、その上更に上には上がいるというのだから、苺火は改めて感動してしまった。未来の警察官って、本当にすごい。
「あっ、そうだ! よーたか、よたか!」
「ん?」
 何か思いついたのか、ふと、桜子が歌うように夜鷹を呼んだ。明日葉もそうだが、ありふれた女子生徒にしか見えない女の子たちが、こんなにも親しげに星野の名前を呼べることにはつくづく感心してしまう。それに星野も、双子に対しては自然体で接しているように見える。こうしていると本当に、どこにでもいるごく普通の中学生だ。
「ねえねえ、あたしもお姉ちゃんから、昨日何があったのか詳しく聞いてもいーい?」
 仔猫のようにうずうずしている桜子に、星野はため息をついた。
「駄目って言っても、どうせ力づくで説き伏せるんだろ。お前ら、二人で一人みたいなもんだもんな。わかったよ。くれぐれも、他の奴には聞かれるなよ」
「えへへー、ありがとー!」
「行こ行こ、桜子!」
 星野の返事を聞くや否や、双子は連れ立って、西棟の方角へ駆け出していった。星野があっさり桜子の申し出を承諾したことを、苺火は意外に思った。やはり双子は、星野からかなりの信頼を得ているらしい。そういえば、じきに昼休みも終わる時間だ。
「それじゃ、いっちー! まったねー!」
「夜鷹に変なことされそうになったら、いつでもあたしたちに言ってね。ぶちのめしてあげるから。それじゃ、また教室でね!」
「だから、しねえっつうの……」
 不服そうにぼやく星野と共に賑やかな双子を見送り、あとには苺火と星野だけが残された。
 気まずい沈黙が訪れた。星野は何も話そうとしなかったし、苺火は自分のスニーカーの爪先を見つめていた。昨日、新しく卸したばかりだったはずなのに、それはもう随分土埃にまみれて、汚れていた。昨夜、あれだけ体中泥んこの傷だらけになったのだから、それは無理もないことだった。
 まだ、ここを離れるわけにはいかなかった。未来の警察官である姉妹の登場で、危うくなあなあになるところだったが、昨夜あんな出来事があって、ついさっき星野にあんな話まで聞かされて、それなのに急に忘れろだなんて、納得できるはずがなかった。
 星野を、問い正さなければならない。
「星野──、」
「俺はお前が嫌いだ」
「は?」
 口を開きかけた時、間髪入れず星野に口を挟まれて、苺火は唖然とした。
 ──嫌い? 星野には似合わない、子供じみた言葉をぶつけられて、怒りというよりも寧ろ苺火は困惑した。一体何を言っているんだろう、こいつは?
 一瞬、またからかわれているのかと思ったが、違っていた。星野は本気だった。それどころか、まるで親の仇でも見るような目つきで、苺火に冷ややかな一瞥をくれた。
「だからもう、金輪際俺に関わるな。時計塔にも近づくな。あの女のことなら俺が何とかしてみる。だけど、俺とお前はもうこれっきりだ。短い付き合いだったけど、お前、それなりに役には立ったよ。それじゃあな。もう行かないと、授業はじまるぜ」
「な、」
 取りつく島もなく矢継ぎ早にそれだけ言うと、星野は呆然とする苺火の脇を擦り抜け、颯爽と行ってしまった。
「何だよそれ!」
 苺火は体ごと星野の方に向き直り、叫んだ。しかし、星野はもう苺火の方には見向きもせず、その存在さえ眼中にないように見えた。結局言いたいことの半分も口にすることができないまま、星野は行ってしまった。
 追いかけることはできなかった。何故ならば、向けられた孤独なケモノの背中が、どうしようもなく苺火を拒絶していたからだ。

「──桜子、」
 足取りも軽やか西棟の教室に向かう桜子を、明日葉が背後から控えめに呼んだ。
「んー? なあに、お姉ちゃん」
 桜子は振り向かない。鼻歌でも歌い出しそうなステップで、上機嫌だ。一方の明日葉の顔色はというと、見るからに不安に翳り、優れなかった。
「桐島君のこと、どう思う?」
 ──桜子は、振り向かない。
「言ったでしょ? いっちーは大丈夫だって、野生の勘が言ってる」
 何の悩みもなさそうな明るい声音だけが返ってきて、明日葉はため息をついた。
「あのねえ、あんた。花の女子中学生が、せめて女の勘って言いなさいよ。そりゃ、あんたの天性の観察眼が当てを外したことなんてないのは知ってる。でも、本当の、本当に、大丈夫なの? あたし、今回ばっかりは、何だか心配で──、」
 何の前触れもなしに、桜子が踵を軸にくるりと体の向きを変え、額を突き合わせてきたので、明日葉は面食らって立ち止まった。鼻の頭が触れそうな距離で、桜子は相も変わらずニコニコと、気の抜けるような笑顔で笑っている。そっくり同じ、二つの顔。
「もーっ、お姉ちゃんはいっつも、本当に心配性なんだからあ。このあたしが言ってるんだから、大丈夫ったら大丈夫だよ」
「だって……」
 妹に嗜められては立場がないのか、明日葉は唸るように口籠った。
「──でも、そうだね。ちょっと興味は湧いたかも、桐島苺火君。面白いコだね、あの子。これからも、要チェック! ……かもね」
 明日葉の肩越しに、桜子の焦茶色の瞳は、既に随分遠ざかった苺火の姿を鋭く捕らえている。何やら星野と口論の末、置き去りにされようとしているらしい。その有り様に、桜子の唇が美しく歪む。妹の視線のありかに気づき、明日葉もはっと、幼馴染みと苺火とを見やる。
 明日葉の表情には明白な不安の色が浮かんでいる。桜子の小さな横顔には、〝未来の警察官〟の本性が、不敵な影をくっきりと際立たせている。

「おー! 桐島君、おっかえりー! ──はい、ウノ!」
「随分長いこと捕まってたな。無事で何よりだ。──くっそ、また負けた!」
「楽しそうだね……」
 教室に戻ると、忍と晴が苺火の机を占領して、カード・ゲームに興じているところだった。苺火は遠い目をして、自分の机の上に散らばるカラフルなカードを眺めた。別に心配されたかったわけではないけれど、あれだけ大袈裟に、まるで戦場にでも出向くかのような送り出され方をされた割に、こんな出迎え方をされてしまうと、ほんのちょっとの切なさは否めない。あまつさえもうすぐチャイムが鳴るというのに、苺火の机は忍の机とぴったりくっつけられて、とてもこれから授業を受けられるような状態ではなかった。
「はいっ、俺、あーがりっ!」
 我が物顔で苺火の椅子に腰かけている晴が、最後の一枚をポイッと投げ捨てた。黄色の九番のカード。
「──だーっ、もう! お前なんでそんなに強いんだよ。結局俺、この昼休みで一度もお前に勝てなかったぞ」
「忍は馬鹿だからなー」
「馬鹿は関係ないだろ。ウノは運だよ、運」
「いーや、関係あるね。つーわけで、忍はあとで俺と桐島君に、アイス奢りなー」
「あーあ、やってらんねー」
 忍は投げ遣りに、自分の手札を放った。かなりの差をつけられていたらしく、苺火の机はカードにまみれてほとんど天板が見えなくなってしまった。アイスを懸けたこの戦いに、どういうわけか知らないうちに苺火までもが巻き込まれていたらしい。
「いいから早く、カード片付けてよ! 僕が怒られちゃうじゃん!」
 真面目な苺火が机の上の惨状に悲鳴じみた声を上げるのを見て、忍は罰が悪そうに頭を掻いた。
「わりーわりー。すぐに片付けるし、そんなに心配しなくてもまだ時間あるから大丈夫だって。——で、どうだったよ? あとから古賀が行っただろ?」
「え、」
 カードを掻き集めながら、忍が急に声を潜めて囁きかけてきたので、苺火はその一瞬ですっかり毒気を抜かれてしまった。はっと気がついて、晴を見る。もしかして、苺火たちが食堂から出ていったあと、またも晴が機転を利かせて、明日葉に声をかけておいてくれたのだろうか。
 ところが、苺火の視線の意図に気づいた晴は、ぶんぶんと首を横に振った。
「今回は俺じゃないよー。星野と桐島君が出ていったあと、すぐに古賀さんが自分で気づいてあとを追いかけていったんだ」
「だから俺たちも、古賀が行ったんだったら大丈夫だろうと思ってさ。お前の身柄は古賀に預けて、安心してゲームに興じることができたってわけだ。おかげで俺は、お前ら二人にアイス奢りだけどな」
 最後の方は、唸るような険しい口調となる。
「楽しみにしてるぜいっ」
 反対に、晴は楽しそうにケラケラと笑っていて、勝者の余裕を見せていた。
「そうだったんだ……」
 げんなりしている忍と勝ち誇る晴をよそに、苺火は先に教室に戻っていた明日葉をぼんやりと眺めた。
 他の女子生徒たちとの団欒の中にいる明日葉は、本当にありふれた女子中学生そのものだ。その道のプロに仕込まれた体術の心得があり、星野までもを容易く丸め込んでしまう〝未来の警察官〟などというものにはとても見えない。
 そこまで考えて、苺火ははたと胸の片隅に引っかかっていたことを思い出した。
「──そういえば、晴?」
「うん?」
 苺火の机を元の位置に戻しながら、晴はきょとんと苺火を見上げた。苺火の視線に恨みがましい思惑が含まれていることには、全く気づいていない様子だ。
「僕、明日葉ちゃんの妹が双子だったなんて、全く、これっぽっちも、聞かされてなかったんだけど……」
「あ、さくちゃんに会ったの? はじめましてだね、ヒュー!」
「ヒュー、じゃない!」
 茶化す晴に、苺火はここぞとばかりに咬みついた。双子だとさえ知っていれば、苺火がドッペルゲンガーなどととんちんかんなことを言い出すこともなく、あんなふうに星野に呆れられてしまうこともなかったのだ。もしかしたら、星野が急に態度を一変させたのは、苺火の突拍子もないドッペルゲンガー発言で、愛想を尽かしてしまったせいかもしれない。
「そういえば晴、昨日はさくら(・・・)のこと〝妹〟としか言ってなかったもんなあ。俺も気になってたんだ、実は」
 忍も晴に倣って、自分の机を元の位置に戻しながら言った。
「いやー、双子だって言わないでおいた方が、面白い展開になるかと思ってさあ」
 晴はニッコリと、満面の笑顔だ。苺火は頭を抱えたくなった。
 ──やっぱりこいつ、確信犯だ……!
 キツネ顔だとは思っていたが、悪戯に人をたぶらかすところまでまさに仔ギツネそのものだ。
「おかげですっごく恥ずかしい思いしちゃったよ、もー!」
 苺火は顔を真っ赤にして憤慨した。
「一体何があったんだよ?」
 一人全く状況を飲み込めていないらしい忍と、自分の悪戯がもたらした成果を早く知りたくてうずうずしている晴のために、苺火はひと通り、事の顛末を説明した。二人の友人に対して申し訳なく思いながらも、星野との会話の内容の詳細を伏せさせて貰ったのは、むろん言うまでもない。
 話を聞き終えると、晴どころか忍までもが大爆笑だった。
「アハハ! ドッペルゲンガーかぁ! すっげー発想力だな、桐島君! ドンマイドンマイ!」
「晴にしてやられたな、桐島。いや、人間誰でも勘違いをしちまうことはあるもんだって。まあ、桐島の場合、ちょっとぶっ飛び過ぎだけどな。まさかドッペルゲンガーと来るとはなあ。──ックク、」
「勘弁してよ……」
 友人二人に腹を抱えて大笑いされてがっくりと項垂れながらも、苺火は自分の懐に再び元の日常が舞い戻ってくるのを感じて、人知れずほっとしていた。同じ教室の片隅から明日葉がそっと不安げに苺火を見つめていたことには、少しも気がついていなかった。

 そんなわけで、五、六時間目の授業は睡魔に襲われることもなく、苺火は月舘に来てようやく、まともに授業を受けることが叶ったのだった。教師陣も相当に強烈、と既に話には聞かされていたけれど、それは実際確かにその通りで、正確には、睡魔に襲われている間もなかった、と表現するのが正しい。実直で真面目な担任の木村のような教師の方が、月舘では寧ろ絶滅危惧種なのだと、苺火は改めて思い知らされることとなった。
 理科の教師が何故かギターを片手に教室に乗り込んできたり、現代文の女教師が漫画でしか見たことのないような見事なチョーク投げを披露したり、はちゃめちゃだ。
 教師が教師なら生徒も生徒で、授業の合間に搔き鳴らされるギターに拍手喝采を送ったり、真っ直ぐに飛んできたチョークを二本の指だけで受け止めて教室をどよめかせたり、苺火は様々な意味で新鮮な気持ちで、時計塔の秘密や星野とのわだかまりさえつかの間は忘れて、月舘でのはじめての授業を心ゆくまで楽しんだのだった。
「そうだ、桐島君! 昼休みに忍と話もしてたんだけどさ、週末、一緒に釣りしに行かない?」
「釣り?」
 アイスモナカを頬張りながら、苺火はきょとんと尋ね返した。
 放課後、忍は約束通り苺火と晴にアイスを奢ってくれた。苺火は遠慮しようとしたのだが、男に二言はないと言って忍が譲らなかったのだ。結局苺火が折れて、食堂前の自動販売機の横に並んで、男三人、アイスを頬張っている。
 ちなみに、他二名の選択したアイスはというと、忍は小豆と果物がたっぷりの練乳バー、晴はオーソドックスなバニラフレーバーのソフトクリームだ。
 自他共に認めるインドア派の苺火は、もちろんそれまで釣りなどというものは体験したことがなかったし、自分が釣りをやるだなんて、考えたこともなかった。それくらい、釣りというのは苺火にとって取っつきづらく、今からはじめるにしてもハードルの高いものだったのだ。専門的な知識も要求されそうだし、何だか難しそうだ。
「そ! でっかい川があってさ、魚がいっぱいいるんだ」
 それなのに、晴はまるでカラオケに誘うのと同じような気軽さで、苺火を釣りに誘ってきたのだった。
 忍はこれから部活を控えているため、既に練習用のユニフォームに着替えている。聞けば小学校の頃からずっと、野球をやっているらしい。実直な忍らしいスポーツだ。晴はちょくちょくいろんな部活に顔を出してはいるようだが、特定の部活に所属するといったことはしていないらしい。彼も彼とて、その落ち着きのなさが人柄をよく表している。そして転入してきたばかりの苺火はというと、部活に関してはまだ全くの白紙の状態だった。何かしらの部活に入部するか否か、それすらもまだ決めていない。仮に何かはじめるにしても、間違いなく文化系の部活になるだろう。
 体格に似合わず、栗鼠のように頬を膨らませながら、忍が晴の言葉に補足して説明した。
「川は壁の内側を通ってるから、外出許可を取らなくても大丈夫だし、釣り具の貸し出しも学園側でやってるんだ。ここさ、やたらめったら広いだろ? だからそういう遊べる場所が、壁の中だけでもいくつかあるんだよ。夏になったらみんなでバーベキューとかな。まあ、こういうところだから、都会っぽい遊びはちょっと電車に乗って足を伸ばさないとできないけど。どうだ? 日曜日、桐島も一緒に行かないか? 結構、楽しいと思うぜ」
 苺火は少し考えた。忍と晴と一緒に新しい遊びをすることができるなんて、楽しそうだ。けれど、転入して二日目。元々の体力のなさを差し引いても、この疲れ方は尋常ではなかった。
「──行きたい気持ちは山々なんだけど、実はちょっと、既に結構疲れちゃってて。今回は辞退しておこう、かな……」
「えー!? 桐島君来ないのかー!?」
 晴に非難めいた声を上げられて、苺火は曖昧に苦笑した。
「また誘ってよ。次こそ本当に、僕も行きたいからさ」
 苺火の心中を察してくれたのか、忍は心配そうな顔をした。
「大丈夫か? たった二日で、いろいろあったもんな。その……星野のこととか」
「うん。まあ……ね」
 慣れない寮生活や、昨夜の体を張った小さな冒険も、苺火の身体的疲労の一因ではあったが、それよりも心労の方が割合としては大きい。星野のことも、せっかく少しは距離を縮められたかと思ったのに、結局また元通り──いや、それ以上に突き放されて、余計にわけがわからなくなってしまったただけだ。
 ──嫌いだ。関わるな。
 一体星野は何を思って、急にあんなことを言い出したのだろうか。屋上に呼び出された時には、そんな素振りはなかったと思う。別段、相性最悪の星野に嫌われたところで屁でもなかったけれど、何となく、腑に落ちないことばかりだった。
「そりゃ、無理にとは言えないけどさあ。桐島君来れないのは、残念だなー。ちぇっ」
 いつのまに奪い取ったのか、忍の練乳バーの棒を咥えて弄びながら、晴が口を尖らせた。
「仕方ないだろ、晴。桐島はいろいろあって疲れてるんだから、察してやれよ。それじゃあとにかく、週末はゆっくり休めよな。俺たちも、また誘うようにするからさ」
「お大事にするんだぞー」
「うん、ありがとう。ごめんな」
 ちょうどその時、忍と同じ練習用ユニフォームの男子生徒が昇降口の前を通りかかった。苺火の知らない生徒だった。
「あれっ? 犬童、何してんだよ! もう部活始まるぞー!」
「おう、今行く!」
 それ、ちゃんとゴミ箱に捨てとけよ、とまだ練乳バーの棒を咥えている晴に声をかけて、青空の下へと駆けていく忍の広い背中を、苺火はぼんやり見送った。あとには練乳バーの棒を唇で器用に上下させて遊んでいる晴と、苺火だけが取り残された。
 春の日はそう長くはない。じきに燃えるような夕日が、古びた校舎と、運動部の生徒で賑わうグラウンドを照らすだろう。その、黄昏の訪れを微かに予感させる、高い日差しのせいだろうか。それとも転入早々、まるでわけのわからない状況に立たされている、心許なさのせいだろうか。苺火は自分の知らない場所へ、こちらを顧みもせずに駆けていく忍の背中に、何故か僅かばかりの寂しさと、物悲しさを覚えたのだった。
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