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五月の雪は斯くて渡る 作者:饗庭璃奈子

第二章 ドッペルゲンガー

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「ごめん、遅くなった!」
 二日目の朝は、最悪な気分のまま訪れた。
 転入してきた初日の昨日、早速親しくなった忍と晴とは、朝食の十分前に中等部寮二階の階段前で落ち合うことになっていたのだが、苺火はすっかり寝坊をしてしまったのだ。できればちょっと早起きをして、シャワーでも浴びさせて貰いたいところだったのだけれど、現実は何から何までそううまくは運ばない。苺火は心配して部屋まで呼びにきた二人の声で跳ね起き、超特急で支度を整える羽目となったのだった。
 結局、昨夜はろくに眠ることができなかった。泥のような疲れや冷たい汗が、未だ体中に纏わりついているような気がして、気持ちが悪い。
 部屋から飛び出してきた苺火の顔を見るなり、目を丸くしたのは晴だった。
「おいおい桐島君、顔中擦り傷だらけじゃん! どうしたの?」
「え? あー、うん。えーっと……」
 指摘されるところまでは想定していたものの、言い訳を考えることなど昨日のすったもんだで綺麗さっぱり失念していていた苺火は、どぎまぎと口籠った。
「──あー、そう! 今朝、早起きして外を散歩してたんだ。こういう自然いっぱいの中で迎える朝って、新鮮でさ。それで、物珍しくて前をよく見ないで歩いてたら、見事にすっ転んで顔面から茂みに突っ込んじゃって。そのあと二度寝して寝坊はするし、昨日も階段から落っこちかけたし、ほんと僕って鈍臭いよねー、アハハ……」
「ほんとだ。よく見りゃ、ほっぺた以外にも細かい傷がいっぱいあるな。こりゃ、相当酷いこけ方したな?」
 晴に言われてはじめて気づいたらしく、忍もまじまじと苺火を観察してくる。我ながら苦しい言い訳だったが、どうやら信じて貰えたらしい。しかし、そんなにじっと見つめてこられるとどこかしらにボロが出そうで、苺火はどうにも落ち着かない心地になった。
「アハ! そうだね! 桐島君どんくさーい!」
「晴……」
 その時、幸い晴がこの上なく空気の読めない発言をしてくれたおかげで、苺火は意図せず忍の視線から逃れることができた。常日頃、運動神経の悪いことをコンプレックスに感じている苺火にとっては、なかなかに心を抉られるひと言だったが、この時ばかりは晴に感謝しないわけにはいかなかった。何より、晴に全く悪気がないことは疑う余地もない。
「顔色もあんまりよくないみたいだな。大丈夫か?」
 忍のお咎めをまんまと煙に巻いた晴が、子供のようにキャッキャとはしゃぎながら階下に逃げていってしまうと、忍が心配そうに声をかけてきた。
「うん、大丈夫だよ」
 苺火はぎくりとしながら、なんとか笑顔を取り繕った。
 つくづく、忍も晴も目敏い。それぞれに異なった察しのよさだ。これは妙な素振りを見せないように気をつけなければなるまいと、そんな苺火の一抹の不安を払拭するかのように、朝食の時間はつつがなく過ぎていった。もっとも、昨日に続く苺火の食の細さが、忍と晴を多少なりとも心配させたことはいうまでもない。
 重大な問題が発生したのは、始業のチャイムが鳴り、クラスの全員が教室にて着席したあとのことだった。担任である木村が出席を取りはじめた直後、突如として、猛烈な眠気が苺火を襲ったのである。
「相田、青木、犬童、小野田、」
 人間の生理現象として、それは至極自然なことだった。何しろ苺火は昨日、ただでさえ転入やら妙な出来事の連続やらで疲れていたのに、ろくに眠ることができていない。それにしたってあまりにも突然に、異常なまでの強烈さで、睡魔は苺火の元に訪れた。木村が出席を取る声が、眠りを促す呪文のように、心地よく右から左へと流れていく。
「楢畑、野田、原、榛名、」
 自分の名前が呼ばれたのか、ちゃんと返事をしたのかどうかさえ、定かではなかった。けれど、隣の席の忍が何も言ってこないということは、きっと何も問題はないはずだ。
 ──そう、何も(・・)
 頭が重い。苺火は緩慢な動作で(こうべ)を垂れ、ゴツン、と鈍い音を立てて額を机の天板にぶつけた。そのまま、眠りへの率直な欲望に従って天板の上に頭を横たえると、出しっ放しになっていた本の背表紙が、おぼろげに目に映った。何度も何度も読み返した、古びた小さな本。結局家を出てから、少しも読み進めることができていない。
「丸山、百瀬、和田、渡部」
 五十音順の出席簿の終着点、ワタナベ(・・・・)という生徒の名が呼ばれるのが、厳粛な始業の儀式が幕を下ろす合図だった。
 同時に苺火の意識もふつりと途絶え、抗い難い眠りの海の底に、真っ直ぐに沈んだ。



 薔薇の花が咲いていた。
 小洒落た西洋東屋(ガゼボ)。ガーデンテーブルと、揃いの二つのチェア。
 時計塔の薔薇園と造りはよく似ていたけれど、そこが異なる場所だと苺火にはすぐにわかった。時計塔の薔薇は、樹形も色形も様々な花を取り揃えていたけれど、ここに咲くのは見渡す限り、紅い薔薇ばかりだったからだ。
 芳醇な香りに、またしても酩酊とする意識を奮い立たせて、苺火は薔薇の木立の合間を縫うように進んだ。暫く行くと視界が拓け、そこには時計塔の代わりに大きな屋敷があった。苺火の知らない家だった。一階には陽当たりのいい出窓があり、窓は開いていた。窓辺には一人の少女が、抱えた膝の上に額を押し当てるようにしてうずくまっていた。
「蜜蜂……?」
 苺火は思わず、そう呼びかけていた。少女の肩が微かに揺れたかと思うと、彼女はおもむろに顔を上げた。
「──苺火?」
「蜜蜂!」
 苺火は急いで少女に駆け寄った。そこにいたのが、苺火の知っている彼女よりいくらか幼くはあったけれど、確かに苺火の姉であるところの蜜蜂で、そして彼女が酷く泣き腫らした瞼をしていたからだ。苺火は蜜蜂の肩を抱くようにして顔を覗き込んだ。
「蜜蜂、どうして泣いているの? 何か悲しいことでもあったの?」
 蜜蜂はいやいやをするようにしながら顔を背け、涙で濡れそぼった頬を白いブラウスの袖で拭った。
「違う──違うの。ちょっと寂しくなっちゃっただけ」
「僕も、お母さんもいないから?」
 蜜蜂は再び膝の上に顔を埋めて、こくんと頷いた。泣き顔を、見られたくないのかもしれない。蜜蜂は昔からそういう、ちょっと強がりなところのある女の子だった。
「そっか……そうだよね。僕たち、ずっと三人で一緒に暮らしてきたんだ。蜜蜂が寂しくなるのも無理ないよ。ごめんね、一人ぼっちにさせて。あとちょっとの辛抱だから、あとちょっとだけ我慢して。ごめんね、寂しいよね、蜜蜂……」
 苺火はそっと、顔を上げようとしない蜜蜂の頭を撫でた。さらりと指通りのいい柔らかな猫っ毛が、肌に心地よかった。
 ──と、泣いているものだとばかり思っていた蜜蜂が、突然ぷっと噴き出したので、苺火はぎくりとして、おそるおそる彼女の顔色を窺い見た。蜜蜂は悪戯っ子の顔をして、膝を抱えた腕の隙間から、可笑しくて堪らないといったふうに苺火を見上げていた。そこにいるのはもう、幼い少女の蜜蜂ではなくて、苺火の姉の蜜蜂だった。
「なあに、男の人みたいな顔してんのよ」
「なっ……ぼ、僕は男だもの」
 苺火は思わず顔を赤くした。
「あははっ、そうだね。苺火は男の子だ。確かにそうだ」
 蜜蜂は笑った。笑いながら、泣いていた。白い両の手が苺火に向かって伸びてきて、頬を包んだ。彼女の手は、か細い羽ばたきのように震えていた。
「苺火──本当に、苺火なんだね。ああ、私、夢にまで見るほど、苺火のこと……お母さん、」
「──蜜蜂?」
 蜜蜂が何を言っているのか、苺火にはさっぱりわからなかった。お母さん、と呼んだ声は、祈りにも似ていた。
 全てを甘受する顔をして、蜜蜂は立ち上がった。裸足の足の上には、ごく薄い貝殻のような、綺麗な爪が乗っていた。しっとりと冷たい花弁や葉が見る間に崩れ落ち、紅一色の薔薇園がゆっくりと闇に向かって崩壊をはじめていることに、苺火は気がついた。
「もう、夢はおしまいみたい。寂しいけど、お別れだね」
「蜜蜂!」
「さよなら、苺火」
 もはや視界一面を覆い尽くす紅に紛れて、今にも遠くへ行ってしまいそうになる蜜蜂に向かって、苺火は懸命に腕を伸ばした。間一髪のところでその手を掴んだ──と思った刹那、場面は切り変わり、苺火は色とりどりの薔薇園を遥かな高みから見下ろしていた。
 そこは時計塔の天辺だった。どうして自分がこんなところにいるのか、不思議だった。しかしとにかく、蜜蜂を捕まえることができたのだ──と、繋がった腕の先にある顔を見て、苺火は戦慄した。
 そこにいたのは蜜蜂ではなかった。時計塔の地下室に閉じ込められていたはずの、あの少女だった。少女の空っぽの瞳は、昏い二つの穴のように、じっと苺火を見つめていた。
 吸い込まれてしまいそうな瞳だった。
 そして──、
僕と(・・)ひとつになろうよ(・・・・・・・・)
 まるで、自分のものではなくなってしまったかのように、唇が勝手に動いて、言葉を紡いだ。



「いーちか、いちか! 起っきろー!」
 ゆさゆさと、誰かに強く体を揺さぶられている。耳元で、大きな声が苺火を呼んでいる。何だよ。そんなに大きな声出さなくても聞こえてるよ。もう少し寝かせておいてくれたっていいじゃないか。いつも本当に五月蝿いなあ、蜜蜂は。
 苺火は顔をしかめて身じろぎ、重たい瞼を持ち上げた。焦点の合わない視界に、ひょっこりと仔ギツネのような顔が現れた。
 ──あれ。蜜蜂じゃ、ない。
「あっ、起きた! おはよーさん!」
「お、やっと起きたか」
 ニコニコと笑っている晴の向こうで、忍が大きく伸びをしながら立ち上がるのが見えた。苺火はようやく、ここが家ではなく、私立月舘学園の、それも教室の中だということを思い出した。
「あれ、僕……」
 ごしごしと目を擦りながら体を起こした途端、背中をバスンと晴に(はた)かれて、苺火は再び机の上にノックダウンした。額がゴチンと嫌な音を立て、苺火は激しい痛みに身悶えた。当の晴はというと、苺火が本気で身悶えていることにはまるで気がついていない。
「転入早々やるなあ、桐島君! 見直したぞ!」
「からかってやるなよ、晴。ほれ桐島、目ェ覚めたか? 飯行くぞ、飯」
「──へ? もうお昼!?」
 額の痛みも一気に吹き飛んで、苺火は跳ね起きた。言われてみれば確かに、もう教室には苺火たちの他に誰の姿もない。
「そうだよー。一時間目から四時間目まで、もう桐島君、爆睡。いっくら呼んでも起きないんだもんなー。俺、感心しちゃったよ!」
「うわあああ、やっちゃった……!」
 苺火はその文字の意味する通りに、頭を抱えた。元来、生真面目な性格の持ち主なのだ。学校や塾の授業をさぼったり、眠ったりなんてことは、これまで一度としてなかった。そんな苺火にとって、転入早々のこの事態は、悪魔の所業といっても過言ではないほどの大失態だったのである。
 見るからに大打撃を受け、再び机上に倒れ臥し兼ねない苺火を励ますように、忍が遠慮がちに肩にポンッと手を置いた。
「朝から顔色悪かったし、よっぽど疲れてたんだなあ。まあ、昨日はいろいろあったし、今日のは仕方ないと思うぜ。ノートならあとで写させてやるから、安心しろって。──あ、でも俺のより、晴のノート見せて貰った方がいいかな?」
「忍はバカだからなー」
「うるせー」
 初っ端からへまをかましてしまった苺火は、それはもうお通夜のような顔をして大層落ち込んでいたのだが、四時間分の授業を代償にたっぷりと休息を取ったおかげで、食欲は大分回復してきていた。晴にはからかわれ、忍には慰められつつ、それでも空っぽになっていた胃だけはしっかり満たしてしまえるのが哀しかった。
 ──地下室の少女は、ちゃんと食事を摂っているだろうか。
 無心に食事を口へと運びながら、苺火はぼんやりと考えた。
 おそらく二階堂鶫美は、あの少女を死なせるようなことはしないだろう。まるで籠の中の鳥のように、時計塔の地下で人知れず、人間の少女を飼って(・・・)いる。少女の肩や腕は確かに細かったけれど、極端に痩せぎすであるということもなかったから、せめて食べることくらいには不自由していなければいいのだけれど、と苺火は思った。一夜が明けてますます、己の無力さに、苺火は責任と使命感を覚えはじめていた。
「おい、転校生」
 物思いに耽っていると、出し抜けに、背後、それもかなりの至近距離で声がした。ああ、来たな、と苺火はさほどの感慨もなく思う。彼独自の呼び名と、ハスキーな声のトーンにも、いい加減慣れっこになってきてしまっている自分に、少し辟易した。
「星野、」
 振り向くと案の定、そこに立っていたのは星野だった。真下から見上げた星野は、顔に落ちる影と相まって、一層凶悪な人相に見えた。本当に、こいつの目つきの悪さは天下一品だ。
 うわっ、また星野かよ、と晴がひそひそと毒突いて忍に小突かれていたけれど、星野は聞こえないふりを決め込んでいるようだった。唐突な星野の出現によってざわつく周囲の生徒たちなど、まるではじめからそこにいないかのように、星野は苺火ただ一人を睨み下ろしていた。星野が誰彼構わず乱暴を働くほど傍若無人な奴ではないと頭ではわかってはいても、その眼光に真っ直ぐに射抜かれると、つい気後れを覚えてしまう。
「来い。話がある」
 それだけ言うと、星野は苺火の答えも待たず、さっさと先を歩き出してしまった。黙ってついて来い、ということらしい。苺火は素直に星野の言葉に従って、無言で席を立った。それに倣って、忍と晴が続けざまにガタガタと椅子を鳴らして腰を浮かせかけるのを、スッと腕を伸ばして制する。
「僕一人で行くよ」
「桐島……」
 忍は複雑そうな表情を浮かべた。昨日、力になれなかったことを、優しい忍はまだ気にしているのかもしれなかった。
「大丈夫だ。星野は僕に危害を加えたりはしないよ」
「そんなこと言ったって桐島君、昨日星野に妙な因縁吹っかけられたばっかりじゃん。二人きりになってあいつが何もしてこないとは、とても思えないんだけど」
 確かに、晴の言うことは正論だった。その物言いに、普段の茶化すような調子は微塵もなく、苺火の無謀さ、無防備さに対して、些か怒っているようにも見えた。
 思い返せば、昨日咄嗟の機転で古賀さんを呼びにいってくれたのは、晴なのだ。いつもニコニコとお気楽そうに笑ってはいるけれど、笑顔で本心を誤摩化すことに長けているだけで、昨日だって本当は、いろいろと思うところはあったのかもしれない。
「本当に、今日は大丈夫だよ。それに僕も、星野と二人だけで話したいことがあるんだ。信じて」
 昨日、あのあと、忍と晴の知らないところで星野との接触があったことを、暗に示しているようなものだった。だとしても、事の顛末を二人に話すわけにはいかなかった。星野との約束を度外視できなかったことはもちろん、二人の友人をこれ以上厄介事に巻き込みたくはなかった。それにもしものことがあれば、苺火のみならず地下室の少女までもを危険に晒してしまうかもしれない。それだけは、何としても回避したかった。
 苺火はこれ以上、何も言うつもりはなかった。伝えるべきことは伝えた。あとは彼らの判断に、全てを委ねるのみだ。
 暫く、結託した忍と晴、そして苺火との、無言の競り合いが続いた。
「──わかったよ」
 先に根負けて、ドスンと腰を下ろしたのは忍だった。
「行かないの?」
 忍の判断が思いがけなかったのか、座ってもほとんど晴と目線の高さの変わらない忍を見やって、晴は目をぱちくりさせた。
「桐島がこう言ってるんだ。要するに、俺たちの出る幕じゃないってことなんだろ」
「……あっそ。へーへー、わかりましたよーだ」
 不服そうにむくれながら、晴も渋々といった様子で、ドスンと腰を元の位置に落ち着けた。股をおっ広げ腕組みをして、忍のポーズを真似ているつもりらしい。なんだかんだで晴がいつものふざけた調子を取り戻しつつあるのを見て、晴もまた、暗黙の内に了承の意思を示してくれたことを知り、苺火は密かに安堵した。一度言い出したら聞かなさそうなのは、どちらかといえば忍よりも、晴の方だと思っていたからだ。
「しっかし、変なのに目ェつけられちゃったなあ、桐島君。俺らで、何とかしてあげられればいいんだけど」
 頭の回転が速い分、そうと決めたら晴は切り替えも早い。むすくれていたのも一瞬のことで、転入早々にして星野から目をつけられてしまった苺火の身柄を、如何にその魔の手から死守するかということについて、今度は策を練り始めたようだった。
「それになんか星野の奴、桐島よりもこっ酷く傷だらけだったしな。ほんとにお前ら一体、あのあと何があったんだよ」
 忍に怪訝そうに言われて、苺火は狼狽えた。
「べ、別に何もないよ! あいつも、その──転んだんじゃないかな」
 星野が無様にすっ転ぶところというのは、ちょっと想像がつかないけれど。
「まあ、お前が言うならそういうことにしといてやるけど……」
 しどろもどろの言い訳を、今度ばかりは忍が信じてくれたようには思えなかったが、ひとまず目を瞑ってくれることにしたらしい。それよりも、早くしないと星野に置いていかれてしまう。
「気をつけてな。何かあったら、人を呼べよ」
 忍は相変わらず心配性だ。その横で、晴は既に、スプーンを咥えて上下させる謎の遊びに熱中していた。
「うん。ありがとう」
 二人に見送られて、苺火は光射す食堂から今にも出ていこうとする星野を急ぎ追った。追いついて、後ろに並ぶと、星野はすぐにこちらに気づいて話しかけてきた。
「ここじゃ人目につく。場所を変えよう。……あれっ? お前思ったほど、顔の傷目立ってないな」
 振り返って、苺火の傷が比較的浅いものばかりであることを意外に思ったのか、星野は目を見開き、まじまじとこちらを観察してきた。そういう顔をすると、星野は年相応に幼く見えた。昨日はこっ酷く転んだせいで土埃にまみれていたし、やはり余計に無様ななりに見えていたのかもしれない。そう言う星野は、改めて見ればどこもかしこも傷だらけの、見るも無惨な姿だった。昨晩の苺火はすっかりは平常心を失っていたから、星野の傷がこんなに酷いものであったことにも、まるで気づいていなかったのだ。
「──星野は酷い顔だね」
「全部、お前のせいだけどな」
 そう言うと、星野は些か機嫌を損ねてしまったようで、眉をひそめて前を向いた。それきり二人は押し黙ったまま、付かず離れずの距離を保って歩いた。
 星野の姿を見るのは、昨夜、半ば恐慌状態に陥ったまま別れて以来だった。何となく、互いに取り乱したところを見られてしまったという、妙な気まずさがある。沈黙も決して心地よいものではなく、どこかぎこちない。
 苺火は昨夜、怒りに蒼褪めていた星野の横顔を思い出した。
 まさかあの、横暴極まりない星野が、赤の他人のためにあんな顔を見せるなんて、思ってもみなかった。
 確かに星野はいけすかないし、苺火とは性格の相性が悪いことも間違いはない。しかし、噂に聞くほど極悪非道の悪魔のような奴でもないのではないかと、昨夜の一件で既に苺火は考えはじめていた。いい奴か、悪い奴かと問われれば、それはもちろん、まだはっきりとは白黒つけ難い。しかし、少なくとも何の理由もなしに他人を攻撃してくるような奴ではないということだけは、確信することができた。その一点においてのみ、苺火は確実に、星野夜鷹という人間を信頼しつつあった。
 同じように、星野にとっての苺火も、それがどういった類のものであるかはうまく説明がつかなかったけれど、変化の兆しを見せつつあるのは確かだった。その証拠に、苺火にかける言葉の調子が、昨日と今日とで段違いに柔らかなものとなっている。
 ただ、前を行く背中が、相も変わらず獰猛なケモノのように頑なに他を拒んでいるのは、同じだった。それは何も苺火に限ったことではなく、確かに晴の言った通り、〝全人類が自分の敵〟とでもいうふうに、星野は自ら進んで孤独を選び取っているようにも見えた。
 ふと、その背中に、場違いな既視感を覚えた。
 自分はずっと以前から、この背中を知っていたような気がする。
 これから先、幾度となく感じることになる、孤独なケモノのイメージ、その既視感のわけを苺火が知ることになるのは、もっとずっとあとになってからの話である。

 星野に従って連れてこられたのは、中等部の収容されている西棟の屋上だった。
 ただでさえ広い敷地だ。転入二日目では、学内の施設の全てを把握しきれているはずもなく、西棟にこんな場所があったことさえ、苺火はたった今はじめて知った。
 塗装の剥げかけた秘色(ひそく)の扉に、鍵はかかっていなかった。星野の手によって扉が開け放たれるのを背後から眺めているだけでも、それが非常に重たい造りになっていることは容易に計り知れた。扉が開くと、途端に強い風が屋内に吹き込んできた。
「──誰もいないね」
 強風から顔を庇いつつ、苺火は星野の肩越しに屋上の様子を窺った。まだまだ肌寒いこの時分に、わざわざ好き好んで殊更に冷え込む高所で休息を取ろうと考える物好きなど、そうそう居はしないのだろう。
「ここなら大丈夫だな」
 真っ向から吹き荒ぶ冷たい風にも、星野は一向に動じることなく、平然としていた。余裕綽々とした態度が、いちいち鼻につく。しかし、星野に続いて屋上に一歩足を踏み出したところで、そこから一望することのできる景色に、星野への微かな苛立ちも忘れて、苺火はすっかり目を奪われてしまっていた。
 壁に囲われた丘陵地帯は、この日もうっすらと霧がかっていた。淡い群青と、ほんの少しの琥珀を、ミルク・パンでとろかしたような複雑な色合いの雲間から、美しい光の放射が天から差し伸べられる梯子のように、翠緑の森林に落とし込まれていた。生い茂る萌え木と、歴史に置き去りにされたかのように厳かに佇む時計塔。自然の磊落(らいらく)な美と、人工の緻密な意匠のコントラスト。それはいっそ、神秘的ともいえる光景だった。
 昨夜、時計塔の内部には侵入したものの、その天辺をこんなに間近で見るのははじめてだった──それでも、苺火は首をうんと曲げて巨大な文字盤を見上げなければならなかったが──。既に時を止めた長針と短針に、葡萄唐草を思わせる優美な装飾が施されているのが、ここからだとはっきりと見て取れる。十二時四十二分。午前零時を示しているのか、正午を示しているのかは、やはりわからない。
 地下室に今なお閉ざされたうらぶれた秘密も、その一瞬だけは頭の中から吹き飛んでしまったほどに、私立月舘学園のシンボルともいえる時計塔の存在は圧倒的だった。
 一度屋上に出てしまうと、風は思ったほど強くはなかった。それでも星野の、ボタンを全て開け放したブレザーと、緩く結ばれた弁柄色のストライプのタイが、視界の隅ではたはたとはためき、今、この瞬間はそれすらも、眩しく思えるのだった。
「何ボサッとしてんだよ」
 振り向いた星野が、ぼんやりと立ち尽くしている苺火に、苛立った様子で声を張り上げる。風の吹き荒ぶ()に、声は淡く霞む。
「いや──すごく綺麗な眺めだなと、思って」
「ああ、ここもはじめてか、お前」
 さほど興味もなさそうに辺りの景色に目をやって、星野は手摺りに腕を突いた。星野はあまり、月舘(ここ)が好きではないのかもしれない──何となく、苺火はそう思った。
 手摺りに身を預けて物憂げな星野の隣には並ばず、苺火は彼の数歩後ろで足を止めた。友人である忍や晴ならまだしも、ひと気のない屋上で、よりにもよって星野と二人肩を並べているという絵面は、ちょっと滑稽で、気色が悪いもののように思えたからだ。
「お前、誰にも言ってないだろうな。あのでっかいのとか、ちっこいのとか」
 おもむろに、星野は話を切り出した。
「言わないよ」
「そうか」
 意外なほどすんなりと、星野は苺火の言葉を受け入れた。
「しかし、前々からヘンタイっぽいとは思ってたけど、学内で若い女を監禁するなんて、落ちるところまで落ちたな、二階堂も。今もまだ、ちょっと信じらんねえ」
 星野も二階堂のこと、ヘンタイっぽいとは思っていたのか、と苺火は少し感心した。確かにあの二階堂とかいう男の出で立ちは、教師としてはかなり異質だ。何しろあのピンク・ブラウンの長髪に長身、日頃から常時白衣を纏い、黙っていても人目を引く。
 ──とはいえ星野も、周りの生徒たちの大袈裟なまでの態度からして、生徒としては大いに問題ありの様子ではあるが。
「でも、いくらなんでも大胆過ぎやしない? 立入禁止っていったって、あんなところじゃいつ他の人に見つかってもおかしくないよ。現に僕たち、あっさりあの場所を見つけちゃったじゃないか」
 ひとまず星野の見解を探るべく、苺火はそう言ってみる。
「いや、他の奴があの部屋を見つける可能性は低いと思う。時計塔の講堂には俺も何度か忍び込んだことがあるけど、地下室や隠し階段なんてものは見つけられなかったしな。お前に見つけられたことの方が、あっちにとっちゃ想定外だろう」
 やはり星野もあんなことを言っておいて、法破りの常習犯なんじゃないか、と思うが、今は敢えて突っ込まないでおくことにする。我ながら懸命な判断だ。
「それにあそこは、完全に二階堂のテリトリーだから、俺たちみたいに忍び込んで、探りを入れてやろうと思う奴の方が奇特だ。あいつは教員寮じゃなくて、あそこで生活もしてるからな。忍び込むにはリスクが高すぎるんだよ」
「へ!? そうなの?」
 苺火は思わず、素っ頓狂な声を上げた。星野は五月蝿そうに苺火にひと睨み利かせて、押し黙らせる。苺火は星野には悟られぬように、そっと肩をすくめた。多少驚くことくらい、大目に見てくれたっていいのに。
「ああ。時計塔の講堂側や表の薔薇園は立入禁止区域だけど、裏門から回ればあいつのの居住スペースがあって、あいつがいる時は正々堂々立ち入っていいことになってる。まあ、あいつ専用の職員室みたいなもんだ。だから最初、お前が時計塔で女の幽霊を見たって言った時、俺は何も知らないお前が二階堂のことを見間違えたんだと思った。あいつ、髪長いからな。教師のくせにあんな派手な色に染めてるし、全く、どうかしてるぜ」
 最後の方のひとりごちるかのようなぼやきは、しかしもうほとんど苺火の耳に入ってはいなかった。とうに済んだことだというのに、今更のように背筋をひやりと冷たいものが走る。
 自分は知らず知らずのうちに、星野でさえも警戒する人物の、居住空間に立ち入っていたのだ。あの時、この目で見た二階堂は、間違いなく同じ建物の地下、それもほんの数メートル先にいた。苺火と星野は、いつ二階堂に取っ捕まっても決しておかしくはない状況下にいたのだ。もし見つかっていたら、果たして今頃、どんな仕打ちを受けていたのだろうか。退学どころの騒ぎでは済まされなかったかもしれない事実を今になって思い知り、苺火はぞっとした。
「二階堂先生は、どうしてあんなところで生活を?」
 こわごわと、苺火は尋ねた。
「あいつが時計塔に住むことを許可された建前上の理由は、立入禁止区域に不当に侵入する生徒が出ないよう、見張りの意味も兼ねて、ってことらしい」
「──建前上?」
「ああ。本当のところは、違うだろうな」
 星野は心底嫌悪感を露わにした様子で、顔をしかめた。
「教師陣の中でも、あいつは腫れ物に触るような扱いされてるっていうか、ちょっと特殊なんだよ。ある事件をきっかけに、みんなあいつがほんの少しだけ壊れちまったと思ってて、だから普通だったらまかり通らないようなことも、大目に見られちまってる節がある。実質的に学園内で一定の地位を保証されてるのと同じだ。それだけならまだしも、あいつ、厄介なことに、生徒からも絶大な支持を得ちまってるからな」
「そうなの?」
 意外だった。何しろ苺火は、職員室前で軽く言葉を交わしたのと、地下室で目の当たりにしたおぞましい後ろ姿でしか、二階堂という教師を知らない。
 星野は険しい表情で頷いた。
「元々、ふざけた性格だから、生徒からは好かれやすいたちだったんだ。今じゃそこに時計塔住みの変人っていうオプションまでついて、男子生徒からも面白がられてるし、あの顔立ちだから女子生徒からの人気も高い。まあ、奇抜な格好してるから保護者からは賛否両論あるみたいだが、三者面談やなんかで実際話してみると、信頼しちまう奴の方が割合としては多いらしいって噂は聞いてる。まあ、三者面談で来るのって大抵は母親の方だから、それも一因としてはあるかもな。その上更に事件の関係者だから下手に手も出せないってんで、周りもお手上げ状態なんだろう。あいつをクビになんぞしたら、各所から大ブーイング食らうのは目に見えてるからな。今のところ、生徒たちに実害を及ぼすような駄々も捏ねてないみたいだし、だから見逃されちまってるって部分は、大きいと思うぜ」
「へえー……」
 そんなものなんだろうか。昨日の今日で、二階堂が生徒に親しく囲まれている様子など、苺火にはとても想像がつかなかった。無垢な少女を夜な夜な底なしの絶望と恐怖の淵に引きずり込んできたであろう、白衣の悪魔。あの少女が、幽霊と見紛うほどに空っぽになってしまったのも、今にして思えばひとえにあの男のせいだったのかもしれない。どうすることもできずに逃げ出してしまった自分、その途方もない無力感を思い出して、苺火はきゅっと唇を引き結んだ。
「俺はあいつが壊れちまったとは思っていない。壊れたふりをして、自分に都合のいい状況を作り上げているだけだ。或いはそもそもの根本からして、あいつは狂っていたか、そのどっちかだよ」
 不意に厳しさを増した星野の声音(こわね)に、苺火は宙空を漂っていた意識を現実に引き戻された。さっきまで物憂げだった星野の目元が、今は鋭い光を帯びている。
「目的はわからないが、あいつは事件にかこつけてあの場所を手中に収めた。そして昨日のあれで、俺たちは図らずも二階堂の秘密の一端を垣間見ることができた。あいつの尻尾の先っちょくらいは、捕まえられたと思ってもいいかもしれないな」
「ふーん……」
 立て続けの気のない返事に、星野はむっとしたようだった。
「何だよ。不服そうだな」
 じとりと一瞥されて、苺火は急いで首を横に振った。
「別に、不服ってわけじゃないよ。いろいろ考えてただけ。何となく……本当に何となくだけど、僕たちの置かれてる状況はわかったよ」
「そうかよ」
 星野はふてくされたように前を向き、またしても押し黙ってしまった。本格的な怒りを買う前にどうにか宥めることはできたものの、相変わらず星野という少年は短気だ。
 何も星野の言うことを話半分に聞いていたとか、そういうわけではないのだ。こんな、ちょっと月舘にいればすぐにばれるようなうそを星野がつくとは思えないし、おそらく星野の言うことは全て真実、実際に起こった、ありのままの現実なのだろう。
 ただ一つ、気がかりな点があるとすれば、これだけ易々と自分の持ち得る情報を明かしてきたにも関わらず、繰り返し話に出てくる〝事件〟について、星野が一切詳細を語ろうとしないことだった。
 事件が、壁の内側で起こったものであろうことは、ほぼ間違いないと見ていい。死人が出ているということは、当時はそれなりにニュースにもなったことだろう。二階堂鶫美がどういった形で事件に関与していたのかはわからないが、星野の口振りからすると、二階堂が加害者側の人間である可能性がなきにしもあらず、といったふうだった。
 しかし、その二階堂が今も教師として、それも一定の地位を保証されて学園に君臨しているということは、事件は迷宮入りしたか、事故として片付けられたか、あるいは冤罪で捕まった者が他にいたか、苺火に考えられる可能性といえばそれくらいのものだった。
 苺火が何となく察しをつけてしまったのは、事件の詳細というよりも、寧ろ星野の事情に関してだった。
 もしかすると。本当にもしかすると、といった程度の淡い思いつきでしかなかったけれど、その事件で亡くなった人、もしくは犯してもいない罪で罰を受けることとなってしまった人は、星野の身内だったのではないだろうか。
 頭の隅を掠めたそんな考えが、苺火の口を重く閉ざした。
 星野にとってその事件が、本来ならば思い出したくもないような忌むべき過去である可能性を考えると、安易に事件の詳細を尋ねることなど、苺火には到底できはしなかった。
 未だ不明な点も多いが、星野がしきりに示唆しているのは、二階堂が事件の真犯人、あるいは真相を意図的に迷宮入りさせた人物である可能性だ。そして、その二階堂のテリトリーにあんな夜中に出入りしていたから、はじめは苺火の身を案じ、のちに疑ったのだ。昨夜の一件があったからこそ、苺火の動揺を目の当たりにした星野は、二人のあいだに何の繋がりもないことを確信し、おそらくは苺火を信用して、持ち得る情報を明かしてくれたのだ。仮に昨夜の動揺が全て芝居だったとすれば、苺火は大した大ペテン師になれることだろう。
 星野はさっきから押し黙ったきり、何も言わない。もしかすると、例の事件とやらのことを、思い返しているのかもしれない。
 言葉に詰まり、しかし重苦しい沈黙にも耐え兼ねた苺火は、何か話すべきことはないかと思考を巡らせ、そして咄嗟に思いついたことを口にしていた。
「そういえば、お前の方こそ、誰かに話したりとかしてないだろうな。昨日の、その——彼女とかにさ」
 唐突な話題の転換だ。そう自分でも思わないでもなかったが、あの女の子のことが気になっていたのも事実だった。星野との口論のあと、申し訳なさそうな会釈だけ残して行ってしまった、亜麻色の髪をくるくる、ふわふわと靡かせていた、まるで西洋の陶磁器人形(ポーセリン・ドール)のように可愛らしい女の子。どうして星野のような粗暴な奴にくっついて歩いているのか不思議に思えるくらい、容姿端麗で、どこか儚げな雰囲気を纏った女の子だった。
「彼女?」
 苺火の言葉に、星野は意表を突かれた様子できょとんとした。何のことかさっぱりわからないという顔だ。どうやらとぼけているといったふうでもない。
「昨日の昼、星野と一緒にいた子だよ。お前の後ろをくっついて歩いてた、すごく可愛い女の子……」
「ああ、あいつは——、」
 そこまで言って、星野ははたと口を噤んだ。双眸の眼光は一層鋭さを増して、苺火を通り越して二人の立っている背後を射抜き、それはやはりケモノじみた迫力だった。
 何やらただならぬ気配を察して、苺火は星野の視線の先にあるものを追った。そこには今さっき二人が通り抜けてきた、秘色の扉があるだけだった。重たい造りの扉だ。わざわざ手で閉めずとも、自重でしっかりと閉まるようになっている。どこも、おかしなところは見受けられない。
「どうしたの?」
 言い様のない不安に駆られて、苺火はおそるおそる尋ねた。
「──聞かれた!」
「へ?」
「くそっ、逃げたか……! おい転校生! 追っかけるぞ!」
「えっ、……あ、ちょっと!」
 わけもわからぬまま、苺火は脇目も振らずに走り出した星野を追った。頭の中を、様々な疑問が止めどなく巡る。
 聞かれた? 誰に? ──二階堂鶫美に?
 いや、だとしたら追いかけるよりも、逃げることの方が先決のはずだ。何しろ二階堂は、どういうわけかは知らないが、その気になれば容易に苺火たちを消せるほどの力の持ち主だというのだから。しかし、そもそもあんなに重たいドア越しに、あの程度の話し声が届くものなのだろうか。風だってびょおびょおと吹いていたのに?
 それをいうなら星野も星野だった。苺火はあの時、屋上で、自分たち以外の誰の気配も感じ取ることはできなかった。ドアの向こうで息を殺し、耳をそばだてていた誰かの気配を、星野はあの場所から察知したというのだろうか。もしもそうだとしたら、それは常人にはできるはずもない、離れ業と言えるのではないだろうか?
 西棟の階段を一気に駆け下りた。行き来する生徒たちはどよめいて道を開け、そうしてまた物珍しそうに、問題児と転校生という一風変わった取り合わせの二人組を見送った。姿どころか足音さえ聞こえはしないのに、星野の足取りには寸分の迷いも狂いもなかった。まるで星野にははっきりと、逃亡者の残した靴跡が見えているかのように。
 一階まで下りた先で星野は素早く辺りを見渡し、とうとう目標の姿を視界に捕らえたようだった。
「いた!」
 ぜえぜえと肩で息をしながらようやく追いついた苺火は、再びぱっと駆け出してしまった星野にまたしても距離を離され、げっそりとその行く手を見やった。そして、アッと声を上げそうになった。
 星野が駆けて行く長い廊下。その行く手に更に小さく見える、覚えのある伸びやかな四肢を持った後ろ姿。昨日苺火を助けてくれた、星野の幼馴染、彗星の少女。名前は確か、古賀明日葉(こがあしたば)。その彼女が、カモシカのように軽やかな足取りで、星野から逃げていく。
 体の限界を感じながらも、わけもわからぬ使命感に駆られて、苺火はへろへろの足取りのまま、古賀明日葉の──というよりは寧ろ星野の──追跡を再開した。
「お前ッ、足おせーな!」
 振り向きざまに星野が叫ぶ。既に声を張らなければ届かないくらい、距離を離されてしまっている。
「う、五月蝿いな! 僕はお前と違って運動全般駄目なんだよ!」
「ンなこと偉そうに言ってんじゃねーよ!」
 星野が短く舌打ちし、このまま苺火を放って明日葉を追うべきか、それとも苺火のペースに合わせるべきか、一瞬選択を迷うのがわかった。そんなの、伴う実益を考えれば考えるまでもないことだろうに、とどこか他人事のように苺火は思った。昨夜も法破りがどうの、などとのたまっていたし、自分のことは差し置いて、星野は変なところで妙に律儀だ。
 星野の見せた意外な逡巡に、火照っていた苺火の心身は少しだけ落ち着きを取り戻した。正直、このまま星野のあとを追って走り続けていても、自分が何の役にも立たないことは明白だった。そんな今の自分にも、何かできることはないかと、苺火は懸命に考えた。
 ──先回りして挟み撃ち、とか?
 でも、自分の脚力ではどのみちうまくはいかなさそうだ。何しろ古賀明日葉は口が達者なだけではなく、どうやらあの星野夜鷹と互角に渡り合えるだけの俊足までもを持っている。
 それならば、どうすればいい?
 そんなことを思いあぐねながら何気なく窓の窓の外に目をやって、そこにあった光景に、苺火の眼は釘付けになった。
 苺火たちが今いる西棟から、渡り廊下を渡った先。ついさっきまで忍や晴と談笑していた食堂前の、昇降口。
 そこに佇んでいたのは(・・・・・・・・・・)古賀明日葉だった(・・・・・・・・)
 今まさに、自分たちの先を走っているはずの古賀明日葉が、もう一人そこにいて、後ろ手に手を組み、こぼれそうに目を見開いたまま、苺火に向かってにっこりと、微笑みかけているのだった。苺火は呆然と、俄かには信じ難いその光景を見つめた。思考は停止したまま、苺火は再び前方に目をやった。苺火と星野の先を走っている方の古賀明日葉はというと、今にも食堂へと続く渡り廊下に差しかかろうかというところだった。
 ざわざわと、体中の血が波打っていた。
 早鐘のように鳴る心臓が、過度な運動によるものなのか、今見たもののせいなのかもわからなかった。
 〝ドッペルゲンガー〟という不吉な単語が、苺火の脳裏をよぎっていた。もはや月舘の壁の内側では、それが世間一般においては、非現実的だと一笑に付されてしまうようなことであろうと、何が起こっても少しも不思議ではないように思えた。
 このまま行けば、二人の明日葉が遭遇してしまう。
 すぐそこの窓が、開いている──。
「くそっ、先行くからな! ……っておい! どこ行く!?」
 ようやく決断を下した星野が背後に向かって叫んだまさにその刹那、苺火は自分でも信じ難い跳躍力で、開け放たれた窓のサッシュを飛び越えていた。常日頃の苺火であれば頭から無様に転がり落ちていそうな場面でありながら、火事場の馬鹿力とでもいうべきなのか、この時ばかりは見事に着地を成功させ、あとはもう無我夢中で、もう一人の古賀明日葉の方に向かって、苺火は駆け出した。体中が浮腫(むく)んで微熱を持ったかのような疲労や、足が重力に引きずられるような鈍い痛みも、一瞬にしてどこかへ吹き飛んでいた。
「ンの馬鹿ッ、何してんだ!」
 もう一人の古賀明日葉の存在に気がついていない星野にとって、苺火の行動は突拍子もなく、まるでちんぷんかんぷんなもののように思えた。しかし何にせよこれで、苺火を気にかけることなく全力疾走することができる。
 西棟の廊下を一直線に駆ける星野夜鷹のスピードが格段にアップしたのは、廊下を通りすがる誰の目にも明らかだった。つまり今の今まで、星野は苺火がついてこられる程度のペースを考慮して、少しも本気など出していなかったのである。
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