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五月の雪は斯くて渡る 作者:饗庭璃奈子

第一章 時計塔の幽霊

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 その晩、苺火はなかなか寝つくことができなかった。どうにか気を紛らわせようと、幼い頃から数えきれないほど読み返してきた、そして今日、教室に辿り着くまでのあいだに幾度となくその角張った背を撫でた、古びた小さな本の黄ばんだページをめくってみても、ばらばらの文字が、思考の隙間からこぼれ落ちていくばかりだった。
 ケモノのように爛々と、昏く輝く二つの瞳。
 小さな体のありったけの全身から、噴き上がる暗澹たるマグマ。
 忍の口から鋭く突きつけられた〝刃物〟という言葉と、対照的に気の抜けるような〝全人類が自分の敵〟という晴の声。
 そんなものばかりが、頭の中をぐるぐると(めぐ)る。星野が苺火に対して言わんとしていたところの真相も、それはもちろん気にならないわけではなかったが、それよりも孤独なケモノのイメージが、どうにも苺火に纏わりついて離れないのだった。
 星野は人間か、鬼か、それともケモノか。
 本を読むことは諦めて電気を消し、ベッドに潜り込んでみても、睡魔は一向に訪れてはくれなかった。苺火は何度も寝返りを打ち、体の納まりがいいところを探したが、それもさほどの意味を持たないことだった。まっさらな、しみ一つないシーツの上をどんなに探ってみても、居心地の悪さばかりが際限なく増した。
 ふと、苺火は今朝、草木のざわめきやメジロのさえずり、辺り一面のあらゆるものから、自らの存在を責め立てられた時のことを思い出した。肌の下を掻き回される冷たい感触を、今になってまざまざと思い出してしまうのは、星野にあんなことを言われたせいだろうか。星野の言う通り、自分は本来、ここにいてはならない存在なのだろうか。
 ──ここはお前にいるべき場所ではない。
 ──出ていけ……出ていけ!
 今にして思えば、姿の見えない彼らは、口々にそんなことを叫んでいたようにも思える。
 列車で悪夢に目覚めてから、どうも何かがおかしいのだ。現実のたがが外れて、歯車が一つずれてしまったかのような、そんな埒の明かない違和感。
 しかしいくら考えたところで、自分の身に何が降りかかっているのかなど苺火にはさっぱりわからず、それらしき答えを一つも見出せないまま、長い長い夜は未来永劫、続くかのように思えた。
 そうして、どのくらいの時間が経っただろうか。
 いつの間にか、苺火はようやく微睡みのふちを彷徨い始めていた。夜半はとうに過ぎ、夜のスープはこっくりと煮つまって、その深みをとろりと増していた。
 不思議な、美しい音色に、鼓膜が翅のように震えたのは、そんな頃合いのことだった。常よりも研ぎ澄まされた聴覚は、瞬時にその音色を捕らえ、苺火の意識は瞬く間に心地のよい微睡みから浮上した。ベッドに横たわったまま、五感だけはくっきりと冴えて、苺火は耳をそばだてた。すると、再び同じ、美しい音色がした。音は外から聞こえてくるようだった。苺火は弾かれたように跳ね起き、鶯色のドビー織カーテンを一気に開け放った。
 苺火の部屋は、各三階建ての二棟から成る月舘の男子寮、鹿蹄館(ろくていかん)の、中等部寮二階に位置する。全寮制を採用し、生徒数も少ない月舘の寮は、全ての部屋が一人用の個室だ。
 その、二階の窓から見下ろした先に、ぼんやりと淡く光る塊があった。苺火は目を細め、光の塊の正体を見定めようと注意深く目を凝らした。
 それは白い馬の形をしているように見えた。紺碧の夜に紛れることなく、寧ろその内側を脈打ちながら(めぐ)る慎ましやかな光で、その輪郭を際立たせていた。額と思しき部分には、すらりと真っ直ぐな角がそびえていた。その角もまた、燐光の美しい彫刻のようだった。
 興奮に体が打ち震えた。
 心臓がどきどきと、胸を叩き破りそうに鳴った。
 いつか、本で読んだことがある。額に一角を持つ美しい馬の姿をした、処女の懐に抱かれてはじめて眠るという、伝説の生き物。
 ──ユニコーンだ。
 天上から差し込む一筋の光のような、あんな不思議な音色を(うつつ)に響き渡らせることができるのは、ユニコーンに違いないと、苺火はわけもなく確信していた。
 ユニコーンはもう、不思議な、美しい嘶きを発さなかった。二本の前足を丁寧に揃え、しなやかで力強い体を真っ直ぐこちらに向けていた。ふさ状の尾がゆらゆらと、退屈そうに揺れた。そうしてユニコーンは、じっと苺火を待って(・・・)いた。
 俄かには信じがたいはずの眼下の光景を、その時、苺火があっさり現実のものとして受け入れてしまったのは、ひとえに朝から続く奇天烈な出来事の数々に、現実と、そうでないものとを隔てる境界が、曖昧になってしまっていたからに他ならない。
 興奮醒めやらぬまま、苺火はドアの方へとこけつまろびつ駆けた。そっと手探りでドアを細く開け、息を殺して廊下の様子を窺う。明かりのない、がらんとした廊下は、しんと静まり返っている。大丈夫だ、誰もいない──。
 できる限り足音を忍ばせ、しかし迅速に、苺火は部屋を抜け出した。心臓は相変わらずばくばくと、早鐘のように脈打っている。部屋から抜け出すことに成功すると、苺火はもうあとを返り見もせず、古い真鍮製の手すりの感触だけを頼りに、二階から一階までの階段を一気に駆け下りた。見回りの教師にでも鉢合わせたらどうしようかと思ったが、寮の玄関灯も今は絶え、誰の姿も見当たらなかった。この時間ともなると、さすがに起きているのは当直の警備員くらいのものなのかもしれない。自分の下駄箱から運動靴を引っ掴むようにして取り出すと、三和土(たたき)に転がし、もどかしく思いながら突っかけた。
 春の夜は肌寒かった。寝巻きのまま、上着も羽織らずに飛び出してきてしまった上に、学園の立地自体こんな丘陵地帯にあるのだから、それは当然のことだった。けれど今の苺火にとって、そんなことは些細な問題だった。息を荒げたまま、苺火は素早く辺りに視線を巡らせた。
 二階から見たその姿は、幻などではなかった。改めて、近くで目の当たりにするその猛々しさに、苺火は思わず息を飲んだほどだった。あらかじめ苺火が来ることをわかりきっていたかのように、ユニコーンは首を振り立てておもむろに向きを変え、悠然と歩きはじめた。苺火もそれに倣って駆け足をやめ、一定の距離を保ってそのあとを追った。ヒトならざるものの持つ気高さが、決して苺火をそのそばに寄せつけなかった。
 ユニコーンは躊躇なく、鹿蹄館の裏手の森の中へと踏み入っていく。足下はもはや完全に、太い木の根や無骨な岩が剥き出しの山道である。人目につきづらい道を、わざと選んでいるのかもしれない。突き出した枝が、時折苺火の衣服に引っかかっては、その懐に手招いた。急勾配の上り坂に、苺火とユニコーンとの距離は着実に開きつつあった。
 月が明るいのが幸いだった。そうでなければ苺火はとても、この暗く森閑とした道とも呼べぬ道を、高貴なケモノのあとを追って進んでいくことなど叶わなかっただろう。
 勾配にはカシやナラやクヌギの木々が鬱蒼と生い茂り、苺火が歩を進めるたびに、踏みしだかれた枝がパキパキと小気味のいい音を立てた。苺火は頭上にぽっかりと浮かぶ満月──空の地表に突き刺さる枝が、まるで乾いた大地のひび割れのようだ──を何気なく見上げ、それから遥か先を行くユニコーンに目をやった。二つの放つ輝きは、同じ光の粒子から成り立っているように見えた。白銀に光り輝くユニコーンの姿は、木々のあいだにしきりに見え隠れはしていたが、それでも決して苺火が見失うことのないように、配慮してくれているように思えた。
 朝に遭遇したいくつかの怪異よりも、明らかな超常現象に直面しているというのに、不思議と恐怖はなかった。ユニコーンが自分を導こうとしていることを、苺火は本能から来る直感として、正確に理解していた。そしてそれが、自分を苛む無数の疑問を解き明かす、足がかりとなるかもしれないということも。
 苺火を先導するユニコーンは、古い伝承に聞くような獰猛さは持ち合わせておらず──伝承の中に描かれるユニコーンというものはいつだって極めて獰猛で、処女の懐に抱かれてはじめておとなしくなる、というのが定説なのだ──母のように優しく、慈愛に満ち、そうしてまた、ヒトでないもの特有の気紛れな冷たさをも併せ持っていた。それまで膝の上で心地よさそうに喉を鳴らしていた猫が、不意にひらりと身をかわしてつれなくどこかへ行ってしまうような、そんな掴みどころのなさだった。
 ひと足先に勾配の終着点に辿り着いたらしく、不意にユニコーンの姿が苺火の視界から消えた。あの慈愛深きケモノが、こんな心細い、夜のうらぶれた森の中に自分を置き去りになどしないことを知りつつも、しるべを失くした苺火の足取りは知らず急いた。
 森を抜け、ようやく拓けた場所に出て、苺火は驚いた。そこが始業前、星野と出会った時計塔のふもとだったからだ。本来ならば鹿蹄館から森の周囲をぐるりと迂回してこなければならないところを、最短ルートで真っ直ぐに横断した、ということらしい。
 ユニコーンは時計塔の正門前に佇み、苺火を待っていた。苺火が息を切らしながら山道から這い登ってくるのを見届けると、最初に導きを示した時と同じように悠然と身を翻し、今度は夜の静寂(しじま)に溶けるようにして消えた。やはりあの美しいケモノは、月の眷属であったのかもしれない。火照った体を宥めすかしながら、苺火は思った。
 ユニコーンが苺火を連れてきたかったのは、どうやらこの時を止めた時計塔であったらしい。苺火は細心の注意を払って、時計塔に向かって一歩足を踏み出した。ユニコーンがわざわざ気高きその身をもってして苺火をここへ導いた以上、もはや何が起ころうが少しも不思議ではなく、注意を払っておくに越したことはないと思ったからだ。
 そびえ立つ時計塔は、日の光の下で見るよりもなおのことおどろおどろしかった。まるで学園を囲う壁のミニチュア版のような、それでも十二分に立派な青銅門と分厚い煉瓦塀に囲われて、外から中の様子を窺い知ることはできなかった。
 まずは正面切って青銅門から中に入ろうと試みて、しかし苺火はすぐに断念した。青銅門は頑丈な鎖と大きな南京錠で封鎖され、ご丁寧にも〝立入禁止〟と印字された黄色いテープまで張り巡らされているといった念の入りようだった。長年日の光に晒され続けたためか、テープは白っぽく色褪せ、薄汚れて、酷く傷んでいた。立入禁止の文字もほとんど掠れて読み取れなくなっている部分もあるところを見ると、時計塔が立入禁止となってからもう随分と歳月が経過していることは、想像するに難くなかった。
 しかし、苺火はここで諦めはしなかった。苺火が手も足も出せないようなところに、ユニコーンが導きを示すはずがないと、何の根拠もなしに確信していた。少なくとも何かしらの手がかりくらいは、この場所から得られるはずだ。
 注意深く観察しながら建物の横手に回り込むと、煉瓦塀の下方に、いくらか崩れ、穴が空いている箇所を見つけた。大人の体格ならば難しいかもしれないが、中学二年生の男子としては小柄な苺火であれば、無茶を承知で挑めばどうにか突っ切れるかもしれない。苺火はしゃがみ込み、煉瓦塀の向こう側を睨み据えた。こうして屈んでみると、予想以上の狭さだ。しかし今は、躊躇している場合ではない。苺火が逡巡しているあいだにも、巡回の教師か警備員辺りがそこらをうろついていて、苺火を見つけてしまうかもしれない。
 苺火は小柄な体を更に小さく丸め、交差させた腕で顔だけは防御すると、ひと思いに煉瓦塀の穴に突入した。崩れた煉瓦塀の尖った切っ先が、肌を傷つけるのも厭わなかった。無我夢中で突っ切ったので、唐突に目の前が拓けた時には勢い余ってそのまま前方にすっ転び、顔面からまともに地面にダイブしてしまったほどだった。
 ──これじゃ、何のために顔を防御してたんだかわからないな。
 己の鈍臭さに、苺火は心底呆れ返った。今、鏡を見たら、さぞかし酷い顔になっていることだろう。忍と晴など、朝会ったらまず一番に、鼻の頭や頬の擦り傷のことを指摘してくるに違いない。
 顔に付着した土埃を手の甲で拭いながら体を起こすと、擦り剥けた頬や、体のあちこちに作った引っ掻き傷が、冷たい夜風にひりひりと痛んだ。それに伴ってどこからともなく鼻先へ運ばれてきた芳香を、不思議に思って顔を上げて、苺火は唖然とした。
 そこは辺り一面、見渡す限りの花の庭だったのだ。
 苺火の背丈どころか、大人をも優に超すであろう草木が、夜のさなかでもはっきりと見て取れるほどに青々と茂っている様は、壮観だった。頭上ばかりでなく、足元にも多種多様な草花がところ狭しと植えられ、あるいはその形も目に楽しいテラコッタの鉢植えが、煉瓦を敷き詰めた小道の脇に無造作に、しかし計算し尽くされたバランスを取って並べられている。煉瓦塀の抜け道の付近にも、艶めく緑の柊木犀(ひいらぎもくせい)の木立が植え込まれているのを見て、苺火はあの尖った枝葉の只中に顔面ダイブせずに済んだことに、内心ほっと安堵した。
 どこに目を向けても視界に飛び込んでくる、花、花、花。
 夢の中にいるような光景だった。
 森の奥に息を潜めるユニコーンよりも、閉ざされた秘密の花園の方が、よほど現実から隔たれ、隠蔽されるべき存在のように、苺火には思えた。
 庭のめぼしい植物の中でも特筆すべきは、みっしりと重たげにたくさんの花をこぼれ咲かせる、薔薇の木々だった。花の色や形、大きさ、木立性やつる性等の樹形、驚くほど様々な品種を取り揃えた薔薇たちを主賓に、他の草花がバランスよく彩りを添えるように構成された庭は、単に花園というよりは〝薔薇園〟と呼ぶのがふさわしいように思われた。
 苺火はこれまで、こんなに見事に作り込まれた庭を見たことがなかった。蒼白い月明かりが、芳醇な香りと相まって、薔薇園に更なる魔力を与えていた。これ以上進めば庭に取り込まれて、帰れなくなってしまいそうだ。咽せ返るような芳香に、眩暈がする。
 躊躇いを振り捨ててどうにか薔薇園の奥に踏み入っていくと、次第に庭の全貌が明らかになってきた。
 小洒落た西洋東屋(ガゼボ)。ホワイト・アイアンのガーデンテーブルと、揃いの二つのチェアのセット。ガーデニング用品や行き場をなくした鉢植えの置き場になっている、古ぼけた木のベンチ。
 かつては生徒たちの憩いの場であっただろう名残の数々が、つい今しがたまで使われていたかのような目新しさで、あちこちに放棄されている。
 ──いや、待てよ。
 そこまで考えて、苺火ははたと違和感を覚えた。
 立入禁止のテープの文字が、ほとんど退色してしまうほどの歳月が経過しているのだ。時計塔が封鎖されたのがここ一、二年の話とは思えない。しかしこの庭は、均整の取れた外観を保ち続けているし、鉢植えはどれも生き生きとして、枯れそうな気配すらない。何より、錆一つなく手入れの行き届いたガーデニング用品が、苺火の感じた違和感が紛うことなき真実であることを、ありありと物語っていた。
 この場所は放棄されてなどいない。今も誰かが出入りし、手を入れられ続けているのだ。
 そうとわかると、苺火は俄かに緊張した。辺りの空気までもが、苺火の気迫につられてぴりりと張り詰めたような気がした。壁の更なる内側でひっそりと手をかけられ、大事にあたためられ続けてきた誰かの秘密に、苺火は今、土足で足を踏み入れている。
 急に落ち着かない気分になった。時計塔の、古びた木の正面ドアは、すぐ目の前に迫っていた。レバー式の真鍮ノブに、苺火は思いきって手をかけた。鍵はかかっていなかった。ゆっくりと扉を押すと、古い蝶番は多少軋みを上げたが、思いもかけない軽さで開いた。まるで苺火を、その内に導き入れようとしているかのようだった。門の方はあれだけ厳重に封鎖されていたのに、肝心の時計塔にはこんなにも呆気なく入れてしまうのが、なおのこと不可解だった。
 中はとっぷりと暗かった。扉から差し込む月明かりが、石造りの床に濃い陰影を描いていた。そっと体を滑り込ませ、後ろ手に扉を閉めてしまうと、視界の頼りとなるのは小さな窓から射し込む薄明かりだけとなった。驚くほど夜目が利くようになっていることに、苺火は気づいた。ずっと暗い森の中を歩いてきたから、目が暗がりに慣れてしまったのかもしれない。或いはユニコーンが、あらかじめこうなることを予測して、何か魔法のようなものでもかけていってくれたのかも。何にせよ苺火は、この暗闇の中にあっても、時計塔の内部の様子をはっきりと目視することができた。
 一階はがらんとした講堂になっている。舞台の左右に、袖へと続く二つのドア。入り口のすぐ脇には上階への階段が壁伝いに、螺旋状に伸びている。螺旋階段は後から造り付けられたと思しき鉄格子で、門と同様封鎖されている。造りから察するに、かつてはここで集会や、部活動等も行われていたのかもしれなかった。
 不意にどこからか、か細い音が聞こえたような気がして、苺火ははっと身を固くした。はじめは古い建物を吹き抜ける、隙間風の音かと思った。けれど、違っていた。
 歌が、聞こえる──。
 耳を澄ませなければほとんど聞き取れない程度の微かなものでしかなかったけれど、それは女の歌声だった。それも間違いなく、時計塔の奥まった方から聞こえてくる。
 苺火はぞくりとした。
 封鎖されたはずの時計塔で、こんな真夜中に、一体誰が?
 おそるおそる、下手の袖へと続くドアを開けた。舞台袖は明かりが入るような小窓もなく、一段と闇が深い。それでも夜目が利くようになっている苺火は、迷わずそれを見つけることができた。数段昇った先の床の一カ所に、一見すれば舞台装置の収納ユニットのような、正方形のくり抜き扉がある。歌声はさっきよりも、間違いなく近づいている。それどころか、苺火の立っている床板の、ちょうど真下から聞こえてくるようである。
 苺火はくり抜き扉の傍らに注意深く膝を突き、回転式の取っ手を手探りに探り当てて、指先に力を込めた。ガコン、と思いがけず大きな音がして床板が跳ね上がり、苺火は思わずその場で跳び上がりそうになった。急いで耳を澄ませてみるも、歌声は途切れることなく続いている。どうやら歌の主は、今の物音には気がつかなかったらしい。ひとまずほっと胸を撫で下ろし、苺火は上がりかけていた扉を、慎重に最後まで引き上げた。
 なまあたたかい風が、ぶわっと吹き上げてきた。人一人がようやく通れるほどの幅しかない隠し階段がぼんやりと浮かび上がり、苺火は息を飲んだ。
 暖色の仄かな明かりは、階段の下方から立ち昇ってくるようだった。歌の主がこの先にいることは、もはや明白だった。苺火はごくりと唾を飲んだ。そして、何かに取り憑かれたかのように、奈落の底へそろりと足を踏み下ろした。
 地下階段はさほど長くはなく、中腹にブリキのバケツと一緒に立てかけられた箒とデッキブラシ、その少し先に、舞台の両脇にあったのと同じようなドアがあるのが見えた。
 ドアは細く開いていた。
 歌声と明かりは、そこから細くあふれ、外へと漏れ出してくるのだった。注意深く息を殺し、絶妙なバランスを保って立てかけられている掃除用具には間違っても触れないように細心の注意を払って階段を下りきると、その僅かな隙間に、苺火はこわごわと顔を寄せた。
 そこにあったのは、灰色のコンクリートが剥き出しの、殺風景な部屋だった。部屋の簡素さとは裏腹な、ふかふかと寝心地のよさそうな天蓋付きベッドが一つ──女性らしい、淡い風合いのカバーがかけられている──その傍らに置かれたサイドテーブルのシェードランプが、部屋の内部を仄かに照らし出す光源であるらしかった。
 女が一人、ベッドの傍らに佇んでいた。
 こちらに背を向けているため、顔は見えない。顎の辺りで切り揃えられたウェーブのかかった髪は、見たこともないような純度の高い漆黒をしている。ゆったりと靡く純白のドレスの足元が、薄明かりに透けている。そうして女はか細い声で歌っている。
 その痩せた背中を見た瞬間、苺火ははっきりと感じ取ってしまった。
 虚無だ。何も、ない。
 女の中身は恐ろしいまでに空っぽだった。
 ──幽霊だ。
 体中から冷たい汗が噴き出した。弾かれたようにドアから跳び退いて、後ずさった。階段につまずいて転びかけたのを皮切りに、苺火は一目散にその場から逃げ出した。階段を駆け昇る際の足音を、気にしている余裕もなかった。
 ──何だ、あれは。一体何なのだ、あれは。
 ヒトの形は確かに見えているのに、あそこには何もなかった(・・・・・・)。果てのない虚無だけが、あの部屋には広がっていた。おぞましいほどの、白。
 元来た時と同様に、時計塔の正面ドアはあっさりと苺火の逃亡を許した。途端、強い芳香が鼻を突き、苺火の視界はぐらりと傾いだ。酩酊する意識を奮い立たせて薔薇園を抜け、柊木犀の木立を目印に煉瓦塀の抜け穴をどうにか探し当て、安全な外へと脇目も振らず飛び出そうとした刹那、──目の前に、履き潰された運動靴が見えた。
 やばい、と思った時には、何もかもが手遅れだった。
 何という間の悪さだろうか。煉瓦塀の外、それもちょうど崩れた穴を抜けた先に、人がいたのだ。苺火の反射神経がもう少しよければ状況はまだいくらかましになっていたかもしれないが、残念ながら苺火は運動の類はからきしである。咄嗟に踏み留まることもできず、半ば転がるようにして、そのまま誰かの足に激突していた。
「うお!?」
 こんな時間にこんな場所から人が飛び出してくるとは、相手も予想だにしていなかったのだろう。驚愕を滲ませた声が上がり、その一瞬にして、苺火は諦観の境地に達した。
 この際、見回りの教師だとか、警備員に見つかったのでもいい。多少の説教──転入早々法を破ってしまったのだから、多少、どころでは済まされないかもしれないが──だって、甘んじて受けよう。それより何より、苺火は閉ざされた時計塔の更に奥まった地下室で、幽霊を見たのだ。とにかく今は、己の見たものを一刻も早く誰かに伝えたいという気持ちが、苺火の中で他のどんな感情をも上回っていた。
「──転校生?」
 さてどこから話したものかと思いあぐねていると、頭上から覚えのある、意外そうな声が降ってきて、まさか、と苺火は顔を跳ね上げた。
「あ……、」
 いい加減、何やら喜ばしくない運命を感じずにはいられなかった。ぶつかった相手は、またしてもあの、にっくき星野夜鷹だったのである。
 しかし、これまでに遭遇したどの瞬間よりも、苺火はそこにいてくれたのが星野であったことに安堵していた。これでひとまず、呼び出し、説教、三者面談、停学や退学の類は免れたわけだし、得体の知れない時計塔の幽霊よりは、要注意人物ではあってもまだ人間である可能性を多分に残した星野のほうが、遥かにましな存在に思えたからだ。そばに人が、それも一応は顔見知りの人間がいるというだけで、例えそれが昼間自分に喧嘩を吹っかけてきた相手であったとしても、一気に心強さが増した。
 さて今度はどんな難癖をつけてくるのだろうか、と場違いな安寧に包まれながら、苺火はぼんやりと考えていたのだが──、
「どうしたんだ、お前。かすり傷だらけじゃないか」
 星野は目敏く苺火の顔や腕の傷に気づき、訝しげに身を屈めてきた。苺火はぽかんと口を開け、星野の顔を穴が空くほどまじまじと見上げてしまったので、向こうからすれば大層まぬけな絵面に映っていたに違いない。当の星野はというとかなり困惑した様子で、地べたにへたり込んだままの苺火を見下ろしている。
 驚いたことに、昼間、公衆の面前で口論になった時よりも更に、星野は真っ当な人間になっていた。
 やはり星野は案外、皆が思うよりもずっと、普通の奴なんじゃないだろうか。それどころか、いい奴かもしれないという線まで出てきた。現にこうして苺火の異変にすぐさま気がつき、声までかけてきてくれている。危ない奴だとか何だとか言われているのだって、噂に尾ひれがついて、結果、そんなレッテルを貼られてしまっただけなのかもしれない。あんな因縁をつけられはしたが、それだって、もしも苺火が本当に特例なのだとしたら、星野が不可解に思うのも至極自然なことだ。もっとも、もう少し前置きというものが必要だったのではないか、という点において、やり方に多少難ありだったのは否めないが。
「──まさか、そこの穴から時計塔に入ったのか?」
 幽霊の存在さえも忘れて物思いに耽っていた苺火は、ワンテンポ遅れて状況を把握した星野の表情が次第に険しいものになってきていることにも、まるで気がついていなかった。硬質な声音に、はっと我に返る。見上げた先で、星野は明らかに怒っていた。
「お前、何してんだよ。この先は法によって定められた立ち入り禁止区域だぞ? 消灯時間だってとうに過ぎてる。今何時だと思ってんだ、転入早々問題起こすつもりかよ。わかったらさっさと寮に戻れ!」
 矢継ぎ早に、星野は苺火を叱責した。何故、星野がこんなにも怒っているのか、苺火にはさっぱりわからなかった。
 そして苺火はまたしても、星野の言動にかちんと来てしまったのだった。
 前言撤回。やはりこいつはいい奴なんかではない。短気だし、いつだって自分だけが唯一無二の正しい存在であるかのような顔をして、他人を見下した態度を取ってくる、筋金入りの嫌な奴だ。更に言ってしまえば、苺火との個人的相性は最悪だった。だからこそ、滅多に人と争うことなどない苺火の神経をこんなにも逆撫でして、温厚な苺火が常であれば決して表に出さない嫌な部分を、いとも容易く露呈させてしまうのだ。
 そう、星野夜鷹と桐島苺火は根本的に反りが合わない。苺火にとって星野はどこまでいってもいけすかない、嫌な奴なのだ。
 それは苺火の中で、星野夜鷹という人間のポジションが完全に決定した瞬間だった。
「──なんできみにそんなこと指図されなきゃならないんだ?」
 自分でも驚くほど低い声が、唇から漏れた。
「あ? 指図じゃねえ、俺は忠告してやってるんだ」
「余計なお世話だよ。大体、そう言うきみだってこんな時間に外をうろついてるじゃないか。何してるんだよ?」
「俺のことはどうでもいい。──そうか、お前そうやってまた誤摩化す気だな?」
 結局またこれか。星野の瞳にぎらついた光が宿るのを見て取って、苺火は呆れ果てた。同時にふつふつと、腹の底から怒りが煮えくり返ってきた。
「お前、何か隠してることがあるだろう。そうか、やっぱりこの時計塔に何か──、」
「しつっこいなあもう! いい加減にしろよ!」
 断定的な星野の言葉を、皆まで言わせずバッサリと切り捨てた。ここが深夜の時計塔前で、消灯後に寮を抜け出すことが法破りであることでさえ、もうどうでもよくなっていた。
「馬ッ鹿! 声がでけえ!」
 焦った星野が、素早く辺りに視線を巡らせつつ小声で叫んだが、すっかりいきり立った苺火には、そんな真っ当な言葉も届くことはなかった。
「僕はコネなんか使ってないし、トリノカイ(・・・・・)なんて怪しげな会、見たことも聞いたこともない! きみがなんで僕にそんな因縁吹っかけてくるのか知らないし興味もないけど、僕は、断じて、何の関係もない! わかったらきみの事情にこれ以上僕を巻き込むな!」
「わかった! わかったから声抑えろ、この馬鹿!」
「ああもう、そうじゃなくて!」
 苺火はぐしゃぐしゃと頭を掻き毟った。今はこんなことで星野とくだらない口論をしている場合ではないのだ。星野はというと、〝大丈夫かこいつ〟とでも言いたげななまぬるい目つきで、苺火の様子を見守っている。
「星野! この際お前でもいい!」
「な、何だよ」
 時と場合もわきまえずに喚き散らしたかと思えば、何やら内なる葛藤を終え、かと思えば今度は物凄い剣幕で迫ってくる苺火に、星野は完全に引いていた。
「幽霊を見たんだ」
「──は?」
「だから、幽霊だよ!」
 星野はまじまじと苺火の顔を見た。苺火も負けじと、星野の瞳を見返した。
 暫しの沈黙。ふっと、星野が苺火から目を逸らす。口元に手をやり、何事か思案しているらしい。そうしていると、星野の姿はなかなかに絵になった。目つきこそ悪いが、顔立ちは結構、整っているのだ。これで、〝全人類が自分の敵〟みたいな顔ばかりしていなければ、そこらの女子が彼を放っておかないだろうに。
 苺火がそんなことをぼんやり考えているうちに、ようやく再び、星野は苺火に視線を戻した。
「──うん。寝惚けてんだな?」
「寝惚けてなんかないよ!」
 苺火は憤慨した。星野の瞳に、はっきりと人を小馬鹿にしたような色が浮かんでいたからだ。思わせぶりな態度でてっきり何かあるのかと思えば、単におちょくられただけだったらしい。一体こいつは、どこまで人を侮辱すれば気が済むのか。
「で、何だって? 一応話は聞いてやるよ」
 星野はせせら笑った。苺火はいきり立ってこそいたが、とにかく今見たものが真実であることを誰かに信じて貰おうと必死だった。
「時計塔の地下に隠し階段があったんだ。その先の部屋に、天蓋付きのおっきなベッドがあって、その横に白いドレスを着た女の人の幽霊が立ってて、足元が透けて──、」
「あー、うん、わかった。転校初日で疲れてんだな。だったらなおのこと、早く部屋に戻って寝た方がいいぜ。明日から平常授業だし? それじゃあな」
 話は聞いてやる、などとのたまったくせに、皆まで言わせずひらひらと手を振りながら行ってしまおうとする星野に、とうとう苺火の堪忍袋の尾が切れた。
 やっぱりこいつと自分とは、相性最悪だ。
「ええい、わからずや! いいから来い!」
「は!? ……おいお前、ふざけんな。ちょっと、おい!」
 颯爽と去りかけた星野の腕を、背後からむんずと鷲掴みにし、半ば引きずるようにして時計塔の入り口──正攻法ではないが──に戻る。急に進行方向とは真逆の方向に引っ張られたので、星野は暫く体勢を立て直すのに苦心していたようだが、思ったほど抵抗はされなかった。星野の方も、一見おとなしそうに見える苺火の思いがけない強硬手段に唖然としていたのかもしれない。苺火自身、自分がこんな行動に出たことに驚き、高揚しているのだから、星野が咄嗟に対処できなかったのも無理はないことだった。
 ともあれ、腕が振り払われないのをいいことに、苺火はそのまま柊木犀の抜け道に迷いなく突入した。
()てェ! こンの馬鹿野郎、何すんだ!」
 背後で星野の、実に痛そうな悲鳴が聞こえたが、無視だ。星野の腕を掴んだまま、苺火は一気に煉瓦塀の穴をくぐり抜けると、続く星野を乱暴に引っ張り出した勢いのままに、ぱっと腕を放した。むろん、わざとである。
「ちょっ、危ね!」
 棘だらけの柊木犀の茂みに顔面から突っ込みそうになった星野が、すんでのところでどうにか踏み留まることに成功したので、苺火は内心で舌打ちした。話に聞く運動神経はだてではないということらしい。そのまま茂みに突っ込んでしまえばよかったのに。
「お前ッ、殺す気か……!」
 星野は膝に手を突き、ぜえぜえと肩で息をしながら、苺火を睨んだ。もう少し正確に表現するのであれば、こいつ、狂ってやがる──と、信じ難いものでも目の当たりにしたような目つきで、さも恐ろしげに苺火を見た。
「この程度で死んだりしないよ」
 苺火はしれっと言い放った。三度目の出入りともなると、崩れた煉瓦塀の切っ先が肌を傷つけにくくする体勢を心得ていて、今度ばかりはほとんど無傷で煉瓦塀の内側への侵入に成功していた。
「お前のその傷はこういうわけかよ。しょうもねえ……」
 星野はまだぶつくさと文句を垂れていたが、苺火の強引さに負けてとうとう堪忍したようだった。もはや、逃げる素振りも見せない。
 よくよく見れば、星野の顔や手の甲、衣服に守られていなかったあらゆる部分は、苺火よりもこっ酷く傷だらけだった。こんな狭いところを力ずくで引きずっていかれたのだから、それは当然といえば当然のことだった。
 苺火は急に、星野に対して申し訳ない気持ちになった。いくら相手の態度にカッカしていたとはいえ、さすがにやり過ぎたのではないだろうか。確かに星野は嫌な奴だけれど、今のところじかに手を上げられるだとか、そういうことはされていない。こうもすぐに我を忘れてしまう自分の方が、よほどたちが悪いじゃないか──。
 ひと際荒っぽく引っ掻かれてしまったと思われる、星野の右手の甲の生々しい傷口に視線を落として、苺火は押し黙った。猛っていた心が、急速に萎んでいった。自分のせいで、他人に怪我をさせてしまったことを思うと、いたたまれなかった。
 苺火が急に静かになったことに、星野はすぐさま気がついた。苺火の視線が右手の傷に注がれているのを見て取ると、苺火には悟られない程度に、小さくため息をついた。
「おい、転校生。その隠し階段どうこうっていうのは、時計塔の中でいいのか?」
「あ、うん……」
 苺火が頷くのを認めるや否や、星野がずんずん先を行きはじめてしまったので、苺火は急いでそのあとを小走りに追いかけなければならなかった。星野の右手がさりげなく苺火の視線から遠ざけられたことには、まるで気がついていなかった。
 まやかしの薔薇園にも、星野は臆することなく突き進み、正面ドアに辿り着くと、一縷の迷いもなくドアノブに手をかけた。蝶番の軋みにも、動揺する素振りはない。星野は以前にも、時計塔に忍び込んだことがあるのかもしれない──何となく、苺火はそう思った。
 そういえば、さっきはお茶を濁されてしまったけれど、星野はどうしてこんな時間に寮を抜け出して外を出歩いていたのだろうか。講堂の暗闇に目を凝らす横顔を、そっと盗み見る。気にはなったが、とても尋ねられるような雰囲気ではなかった。
「暗いな」
「ん……」
 星野がぼそりと呟き、苺火は頷きながら耳を澄ませた。先ほどまで聞こえていたか細い歌声は止み、講堂はしんと静まり返っていた。つい今しがた、目の当たりにしてしまったもののせいだろうか。闇はますます深まり、不気味な空洞があたかも巨大な怪物のように、こちらに向かってぽっかりと口を開けているように思えた。
「で、どこなんだよ?」
 星野は疑わしげに、苺火をチラリと一瞥した。
「うん……こっちだ」
 苺火は慎重に、薄蒼い闇の中に足を踏み出した。一歩踏み違えば、暗闇から忍び寄る形のない腕によって、奈落の底に突き落とされてしまいそうな気がした。
 さっきは我を忘れて一目散に逃げ出してしまったので、地下階段を隠していた片開きの床板は、開け放たれたままだった。闇の中にぼうっと浮かび上がる階段と、下界から立ち昇る仄かな明かりを目の当たりにすると、さすがの星野の表情にも緊張が走った。二人は目配せをし、どちらともなく頷き合うと、苺火が先陣を切って階段を下りはじめた。
 地下階段の様子はさっきと変わりなかった。階段の中腹に立てかけられた掃除用具も、細く開いたドアの隙間も、そのままだった。あれだけけたたましく音を立てて逃げたのに、何事もなかったかのように全てがすまし返っていることが、却って苺火を警戒させた。苺火は一つ大きく息を吐いて呼吸を整えると、身を屈め、ドアの隙間からそっと中を覗き込んだ。星野もそれに倣い、苺火の頭上から部屋の様子を窺った。
「あっ、」
 苺火は小さく声を上げた。
 女はやはり、部屋の中にいた。しかし、先ほどまでとは些か様子が違っていた。
 女はベッドの上に腰を下ろして膝を抱え、物憂げに、壁の一点を見つめていた。意外にも年若く、少女と呼ぶのがふさわしいように見えた。遠目にも、とても綺麗な横顔をしているのがわかった。その体はどこも、透けてなどいなかった。
「──あれか。何だ、普通の人間じゃないか。おい、転校生。あれのどこが幽霊なんだよ」
 星野の言葉には相変わらず、人を小馬鹿にしたような調子があったが、その声にも心なしか安堵の色が滲んでいた。
 苺火は俄かに気恥ずかしくなった。昼間の出来事で頭の中がぐしゃぐしゃだったのと、夜の時計塔の佇まい、その内側に湛えられた静謐な空気に飲まれて、ろくに確かめもせずに、人間の女の子を幽霊だと早とちりしてしまった。空っぽだと感じたのだって、改めて考えてみれば、何だかよくわからない、根拠も何もない感覚だ。苺火を導いたユニコーンの存在さえ、寝ぼけ眼に見た幻だったのかもしれないと冷静になった今は思えるのだから、世話ない話だった。
「──さっきはドレスの裾が靡いてて、足元が透けてるように見えたんだよ」
 苺火はぶすっとして、小声でぼそぼそと言い訳をした。
「ドレスっていうか、ネグリジェって言わないか? あれは」
「ネグリジェ……聞いたことは、ある」
「女の着る寝巻きだ。ワンピースみたいなやつのことだろ。……たぶん」
「へえ、詳しいね、星野……」
 二人はひそひそと、何とも場違いな会話を交わした。男である星野が、どうして女の着るものについて苺火の知らないようなことを知っているのか疑問に思ったが──単に苺火が知らなさ過ぎるだけ、という可能性は多分にあったが──今、口にすべき内容でないことだけは確かだったので、胸の内だけに秘めて黙っておくことにした。
「だが、確かに妙だな。どうして立入禁止のはずの時計塔の地下室に、どこの誰とも知れない女がいるんだ?」
「でも、幽霊じゃなくてよかったよ。相手が人間だったら、会話も通じるかも──、」
「待て」
 不意に星野が、苺火の言葉を遮って、口元を掌でぺちんと覆った。
「他にも誰かいる」
 星野の言う通りだった。はじめから同じ部屋にいたのか、それとも二人のいる場所からは死角なだけで他にも扉があったのか、それは定かではなかったが、長髪を今は無造作に一つに纏めた細身の男が、ベッドの少女に近づいていくのが見えた。
 星野に口元を覆われていたので声こそ上げずに済んだが、苺火は目をまんまるく見開いた。
 あのピンク・ブラウンの長髪。黒のハイネックの上に重ねた白衣。
 間違いない。今朝、職員室前で苺火に声をかけてきたあの教師だ。
「高等部の化学教師の二階堂鶫美(にかいどうつぐみ)だ」
 苺火の心中を察したかのように、星野が小声で囁いた。
「気分はどう、さっちゃん」
 甘ったるい男の猫撫で声が、不愉快に鼓膜を撫でた。男の陰に隠されて、少女の表情は苺火たちのいる場所からは窺い知れなくなってしまった。
「暗いところはきらい」
 はじめて耳にする少女の話し声は、雪解けの水が織りなす小川のせせらぎのように、透明に澄み渡っていた。不自然に大人びているようでもあり、感情に任せて駄々を捏ねる子供のようでもある。相反する二つが、少女の声音には内包されている。
「ランプはついているでしょう。今はもう夜だよ」
「ねえ、外に出たいわ」
 少女は甘えた声で言った。
「駄目だよ」
 男はぴしゃりと言い放った。冷たく撥ねつけられて、少女の肩がびくりと震えるのがわかった。
「きみは決してここから出られないんだ」
 柔和な物腰とは裏腹な、それは容赦のない宣告だった。優しく、穏やかな口調が、言葉の示す意味にそぐわず、なおのこと不気味に部屋に(こだま)した。いやに爪の長い男の手が、少女の薄い、小さな肩に置かれるのが、虫酸が走るほど不快だった。
 同時に苺火は、男の不可解な言動に混乱していた。
 あの子は決してここから出られない。
 どうして? 苺火たちの背後の階段を登れば、外はもうすぐそこなのに。今だってこうして、柊木犀の抜け道を通って、薔薇園を横切り、講堂から隠し階段を下って、苺火と星野はここにいるのに。
「酷い。どうしてそんな意地悪をするの?」
 少女が泣きそうになっているのが、顔など見ずとも伝わってくる。
「きみが望んだことだよ」
「意地悪な人はきらい」
「何とでも」
 少女の上に覆い被さるようにして、男は身を屈めた。男の背中に遮られて、少女の姿は今度こそ完全に見えなくなった。
 そして、甲高い悲鳴が、ドアの陰で息を殺す二人の少年の耳をつんざいたのだった。
「いや、いやっ……いやあ──っ!」
 苺火は呆然と、細く空いたドアの向こう側で繰り広げられる光景を、食い入るように見つめていた。
 どうすることもできなかった。ただ、息を詰まらせ、目前で起こっている俄かには受け入れ難い現実をどうにか処理しようと、懸命に努めた。目と鼻の先で、一人の哀れな少女に不条理な運命が下されようとしているのに、まるで体が動かなかった。
 と、ずっと苺火の口元を押さえつけたままだった星野の手に、顎を上向かせられるような形で、強引に体を引っ張り上げられた。そのまま乱暴に立たされ、ようやくその手から解放されたかと思えば、今度は腕を掴まれて、星野はもう顧みることなく、苺火の先に立って猛然と階段を上り始めた。掴まれた腕に爪が食い込み、ギリギリと鈍い軋みを上げた。星野の爪はあの男のもののように長くはなく、丁寧に、丸く切り揃えられていた。垣間見えた横顔は不甲斐なさに歪み、歯はきつく食い縛られていた。
 それだけで、十分だった。苺火はおとなしく、星野の意思に従った。
 無言のまま暗い講堂を通り抜け、薔薇園に出たところで、星野はようやく立ち止まった。星野が力を緩めるのに伴って、苺火の腕は星野の手からするりと逃れ、そのまま崩れ落ちるように地面に膝を突いた。星野はかろうじて、その場に立ち尽くすに留まった。今見たばかりの光景が、頭の中で幾度となくフラッシュバックする。
 男の猫撫で声。覆い被さった背中。甲高い悲鳴。
 助けられず、逃げ出してしまった自分。哀れな少女を見捨てて逃げた自分。
 度し難い現実に、押し潰されてしまいそうだった。
「やばい」
 苺火は呆然と、誰へともなくぼやいた。
「あいつ、ヘンタイだ」
「おい」
 苺火が放心状態にあることに気づいた星野が、しゃがみ込んで苺火の肩を揺さぶった。
「落ち着けよ」
 そう言う星野の顔も蒼褪め、肩で息をしてはいたが、苺火よりはまだいくらか理性を保っているように見えた。
 幽霊どころの騒ぎではなかった。それよりももっととんでもないものを、自分たちは目の当たりにしてしまったのだ。おそらくあの少女は、立入禁止のはずの時計塔に監禁され、いいように扱われている。こともあろうか月舘の教師、二階堂鶫美の手によって。
「どうしよう、星野。あの女の子、助けないと」
 苺火は縋るように星野を見た。星野ならば、その手立てを知っているような気がした。救いを乞うてくる眼差しに耐え兼ねたように、星野は目を伏せた。
「──無理だ」
 苦虫を噛み潰したような表情だった。苺火は思わず星野に掴みかかった。
「どうして! だってあんなの、誰がどう見たっておかしいだろ! 犯罪だろ!? 僕たちが二人で告発すればすぐにだって──、」
「月舘は過去に死人を出している」
 それは唐突な告白だった。
 事の重大さを理解するのに、苺火は少々の時間を要した。
 言葉の意味するところを理解すると、呆然と星野の顔を見つめた。
 星野は真剣だった。脅しや冗談などの類ではない。苺火が〝幽霊を見た〟と訴えた時と同じくらい、星野は本気だった。星野が言っているのは、本当に、本当のことなのだ。そのことが、苺火には痛いくらいわかってしまった。
「二階堂鶫美はその事件の関係者だ。いや、もしかすると関係者どころじゃ済まないんじゃないかと、俺は踏んでる。もし、俺の考えが当たってるとすれば、あいつは警察の介入なんか容易にくぐり抜けて、俺たちを消せる(・・・)。そうなったら、地下室の女もただで済むかどうかわからない。だから、俺たちだけじゃ無理なんだ」
 星野は苦しそうに見えた。苺火はもう言葉もなく、星野の口から明かされた私立月舘学園の後ろ暗い秘密を、頭の中で反芻した。
 死人。事件。二階堂鶫美はその事件の関係者。身に危険が迫る。それらの言葉の羅列がどういったことを意味するのか、察することは容易だった。
 例えば苺火が、ただ言葉の上だけでこの話を聞かされたのならば、そう易々と星野の話を信じることもなかっただろう。けれど、今しがた目にしたばかりの光景が、言葉の真実味を増した。知ってか知らずか、苺火の肩を掴む星野の手に、力が籠った。
「いいか、転校生。このことは絶対、他の奴らに言うんじゃねえぞ。教師にも、警察にもだ。俺たちだけの、秘密にするんだ。とにかく、勝手なことだけはするな。わかったか?」
 しっかりと目線を合わせて顔を覗き込んでくる星野の瞳をぼんやりと見返して、声もなく、苺火は頷いた。
 何も考えられない。けれど、今は星野に従っておくのが正解であるような気がした。月舘に秘密があるのと同じように、おそらく星野にも何らかの事情がある。それがどんな事情であるのか、今の苺火には知る由もなかったけれど、転校してきたばかりの苺火よりは、星野の方が月舘の内情に精通していることだけは確かだった。
 茫然自失となりながらも、苺火がどうにか言葉を飲み下すのを見て取ると、星野は苺火の肩を離し、立ち上がった。
「とにかく今日はもう遅い。部屋に戻って寝ろ。俺もそうする。詳しい話は夜が明けてからだ。いいな?」
「──わかった」
 やっとのことで絞り出した声は、掠れていた。
 それからどうやって鹿蹄館の自室に戻ったのか、あまり覚えてはいない。気がついた時にはもう自分の部屋のドアの前に辿り着いていて、とにかく汚れきった身なりをどうにかしなければ、と半ば義務的な正確さで体が動いていた。
 大浴場はこの時間には開いていない。寮の各階にあるシャワールームは使おうと思えば使えるだろうが、何しろ消灯時間はとうに過ぎているのだ。誰かに見つかりでもしたら、事情を問い詰められるのは避けられない。苺火は仕方なく、そっと足を忍ばせて廊下に出て、洗面台でタオルをきつく絞り、再び音もなく部屋に戻ってくると、汚れた体をタオルで拭った。きんと冷たい温度が、乾ききらない傷口に沁みた。全てが済むと新しい寝巻きに着替え、ベッドに倒れ込んだ。鶯色のカーテンの向こうで、外は仄かに明るみはじめていた。
 泥のように疲れきっていた。思考が麻痺してしまったかのように、うまく働かなかった。或いは考えることを、無意識のうちに放棄していたのかもしれない。ただ一つ、はっきりしていることがある。それは転入して早々、自分が何やらとんでもないことに首を突っ込んでしまったという、容赦のない現実だけだった。
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